荻野洋一 映画等覚書ブログ

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ポケット版『木村伊兵衛のパリ』

2015-01-30 22:32:02 | アート
 銀座コアのブックファーストで、出たばかりの『木村伊兵衛のパリ ポケット版』(朝日新聞出版)を買った。1954年と55年の2度渡仏した木村伊兵衛が、アンリ=カルティエ・ブレッソンとロベール・ドアノーの助力を得て、パリの下町風景──映画『赤い風船』のロケ地メニルモンタン地区や、『北ホテル』のロケ地サン・マルタン運河の付近──を開発初期のフジカラーで撮影した写真集である。フジカラー独特の淡く繊細な色調が、パリの街頭にマッチして美しい。
 2006年初版のこの写真集を初めて欲しいと思ったのは、NHK『日曜美術館』番組ホストの千住明がパリに旅し、アレクサンドル3世橋あたりで女優の緒川たまきと出逢う、そんなキザな演出で始まった木村伊兵衛の撮影地の再訪企画を見たことによる。ふだんこの番組は、制作会社による定型的な作りに委ねられているが、その回にかぎり『大停電の夜に』(2005)などを監督した源孝志によるディレクションで、かなり凝った紀行ドキュメントになっていた。コンコルド広場の夕景を前に、緒川たまきたちがライカをうれしそうに構える、という番組のクライマックスがすばらしかった。
 2006年初版はその時点でとっくに売り切れていたが、番組の放送と前後して朝日新聞出版から再刷が出た。1万5000円という価格に私は二の足を踏み、ぐずぐずしているうちにこの再版も売り切れ、あっという間に古本屋でプレミアがついてしまった。
 しかたないかと思って数年が経過したいま、こんどはなんとポケット版が出た。たったの1600円。しかし、ペーパーバック的な手軽さがかえって快いゴンブリッチの『美術の物語』(ファイドン 刊)縮刷版とはちがって、あの『木村伊兵衛のパリ』の縮刷版を手にするというのはばつが悪いというか、「お前さんはせいぜいこのポケット版が身分相応だ」と背中から言われている気分である。
 今回出たポケット版の『木村伊兵衛のパリ』をパラパラめくりながら、「これはヌーヴェルヴァーグ以前の、詩的レアリスムのパリだ」と前々から勘づいていたことを改めて認識した。もちろんその認識がこの写真集の価値を減じさせるものではない。発売後1ヶ月の逡巡をへて、結局これを買うことにした。ミイラのごときミュージアムの展示品を指をくわえて眺めるしかない現実を、むしろ完全に甘受するためである。そしてそれが否定の身ぶりではなく、肯定の意志によるものであるという確信が、私にはある。

『ジミー、野を駆ける伝説』 ケン・ローチ

2015-01-27 23:48:25 | 映画
 ケン・ローチの映画の、私は良い観客ではない。見たり見ていなかったりである。なぜなのかを真剣に考えたことはないが、照れのようなものがある。私の周囲では、ケン・ローチに対して批判的な知人・友人も少なくない。シネフィル度の高い人ほど、不支持率が高まるように見受けられる。消極的ながら私自身がそんな手合いの一員と認めざるを得ないだろう。
 では、どんな点に不支持を決め込むのか? 『エリックを探して』(2009)がつまらなくて、それ見たことかと、その後の『ルート・アイリッシュ』(2010)『天使の分け前』(2012)の2本はパスした。そして、ほんの気まぐれで最新作『ジミー、野を駆ける伝説』を見に行ったら、なかなかいいと思った。しかし、この作品にも私がケン・ローチをなんとなく遠ざけてきた理由が隠れているとも。それが何なのかをはっきりさせたい。これほど弱者へのいたわりに満ち、公権力の理不尽に対する怒りに満ち、また民衆の生のおおらかさ、おかしみに満ちているのだから、文句はないではないか。ひょっとすると、そのこと自体に私は文句があるのかもしれない。このポピュリズム一歩手前の民衆主義は、なにかもっと大事なものを置き去りにするかもしれないという危惧である。
 ところが、その危惧を証拠立てるものが発覚しないのである。彼の映画は無防備だ。無防備なそのフィルモグラフィに私は警戒感を抱いた。私が初めて見たケン・ローチ作品である『リフ・ラフ』(1991)を当時の「カイエ・デュ・シネマ」が絶賛している記事を、一生懸命に読んだ記憶がある。だが私は、ほぼ同時期に製作されたイギリス映画、テレンス・デイヴィスの『The Long Day Closes』(1992 日本未公開)の方を支持した。テレンス・デイヴィスの前作『遠い声、静かな暮し』(1988)がシネセゾン配給で公開された時、イギリス映画の真の魂を見た思いがしたので、次作『The Long Day Closes』への賞讃の念が『リフ・ラフ』の価値を私の視界から隠してしまったのだ(テレンス・デイヴィスについては、いずれ書きたいと思っている)。
 今回の『ジミー、野を駆ける伝説』は1930年代、世界恐慌期のアイルランドの田舎町で公民館活動を通じて社会変革をめざした青年が、ファシズム勢力と手を組んだカトリック教会から弾圧を受けるという内容である。
 私がケン・ローチのフィルモグラフィで最も好きなカットは、彼らの狭いマイホームに警察や民生委員、保健所といった公権力がドヤドヤと侵入してきて、彼らに「不法移民」だの「秩序攪乱者」だの「育児不適格者」だの「アカ」だのという馬鹿げた罪状的レッテルを貼りつけ、有無を言わさず彼らの身柄を「しょっ引く」シーンや、彼らの愛児を取り上げるシーンで突然、画面内がインフレを起こし、フォーカスも何もへったくれもない状態で満杯となる、しかしながらレンズはそのインフレをしっかりと目撃するためか微動だにせずフィックスで留まる、あの重心低く被写界深度の浅い画面の数々である。
 今作でもそんなカットはちゃんとある。そして主人公の老母が息子の裏口からの逃亡を少しでもアシストするために、警官たちに tea を振る舞う。その tea の湯気にケン・ローチ映画のブリテン的な血気とおかしみ、悲しみが込められている。その血気に対して、私はいつまで警戒心を抱き続けるのか? それは分からないが、その警戒心は馬鹿げているのでないかと自戒したいとも思っている。


1/17(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町(東京・有楽町イトシア)ほか全国で順次公開
http://www.jimmy-densetsu.jp

『真夜中の五分前』 行定勲

2015-01-24 05:14:00 | 映画
 2010年代に入ってから、遅まきながら行定勲監督作品をまじめに全部見るようになった。なかんずく『今度は愛妻家』(2010)、『つやのよる ある愛にかかわった、女たちの物語』(2012)という、死んだ妻の残り香を嗅いで回る夫たちの体たらくを描いた2本には、いかんともしがたい魅力があった。喪失という名の煉獄を、絶妙な甘美さでもって見せているのである。
 新作『真夜中の五分前』は上記2作と比べると、ふわふわと輪郭の摑めないところがある。これほど輪郭の摑めない映画が普通に東映配給で公開されているというのは、ちょっと異常なことのように思える。おそらく作り手側は、ヒッチコックの『めまい』あたりを想起しながら撮り上げたのだろうと察せられるが、それにしてもこの曖昧模糊とした緩慢さにはびっくりした。決して成功した作品とは言えないが、妙に捨てがたい魅力を持っている。
 上海の街に、美しい双生児の姉妹がいる。劉詩詩(リウ・シーシー)が一人二役で演じている。良家出身のきまじめな姉妹だが、双生児であることを笠に着て、しょっちゅうたがいの存在を交換し、周囲の人々をあざむいて楽しむ。ストーリーといえばそれだけである。主人公は姉妹の片方と恋仲になる日本人青年(三浦春馬)だが、この主人公がまたひどく曖昧模糊とした存在なのである。彼はやむにやまれぬ事情(恋人が死んだとか、日本で生きていくのに疲れ果てたとか、そんな事情だったが、あまり丁寧には説明されない)によって上海に渡り、市内の時計修理店で修理工になったらしい。この時計修理店は、時が止まって浮世離れした幽霊的空間で、現代上海の店とはとうてい思えない。中華人民共和国の時計屋というより、清末民初の匂いがする。田壮壮プロデュースの『ジャスミンの花開く』(2004)で章子怡(チャン・ツィイー)が生まれ育ったブルジョワ写真館に酷似している。
 ジャンルとしてはミステリーとして作られたらしいが、舞台となる時空間、起こる事件、それらすべてが隔靴掻痒にして摑みどころがなく、登場人物たちはこぞって幽霊のように呆然として、心ここにあらずである。珍しい作品だ。


12/27より丸の内TOEI、新宿バルト9ほかで上映中
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『マッハ!無限大』 プラッチャヤー・ピンゲーオ

2015-01-19 23:59:01 | 映画
 タイのスター、トニー・ジャー主演のムエタイ活劇『トム・ヤン・クン!』(2005)の続編『マッハ!無限大』が、まもなく日本公開される。トニー・ジャーは往年のジャッキー・チェンのように小柄な体と親しみやすい顔を持ち、スタント抜きのアクションを持ち味とする。タイトルに「マッハ!」と入っているが、初期作品『マッハ!』(2003)とはストーリー上の関連はない。主演トニー・ジャー、監督プラッチャヤー・ピンゲーオ、アクション監督パンナー・リットグライのトリオによる同工異曲と言おうか、正直言って『トム・ヤン・クン!』を未見の私からすると、どれがどれであろうと何の問題もない。
 前作『トム・ヤン・クン!』も、主人公の可愛がっていた象が盗まれることからストーリーが始まるそうだが、今作でも再び、象が動物密輸組織の陰謀によって盗まれる。まずマフィアみたいな一行が、田舎に住む主人公(トニー・ジャー)のもとにやってきて、「大金を出すから、その象を譲ってくれないか」と迫る。主人公が断ると、一行はいったん引き下がるが、主人公が何かの用事で家を離れた隙に、かんたんに象を盗んでいくのである。
 まるで象という動物が映画においては盗まれるために存在しているかのごとく、とにかく盗まれる(主人公が何かの用事をおこなうのは、象を盗んでもらうためであるかのように)。そして、これでストーリーは終わりなのである。上映開始数分も経過していないだろう。主人公の愛象(?)が盗まれた。彼は象を取り返すための旅に出る。あとはもう、旅の先々で、動物密輸にからむ組織の戦闘員と肉弾アクションを展開するのみである。盗まれた象は、この無償のアクションの持続を作動させるための「百万両の壺」ということになるが、古今東西のすぐれた作品で扱われたマクガフィンのようにはうまく扱われていない。
 この安直さを補って余りある超絶的なアクションの連続に、私たち観客は立ち会う。主人公を伯父の仇と勘違いした可憐なムエタイ少女が戦いを挑んでくるが、いつの間にやら組織相手に共闘している。私のような門外漢的な観客からすれば、少女はもっとツンデレであってほしいし、トニー・ジャーとラヴシーンのひとつくらい披露してほしいと思ってしまうが、私の知らない原則によって、そんな甘っちょろいシーンは除外されていったのだと推測される。象を盗む組織、盗まれた象を取り返す青年、伯父の仇を討つ少女──彼らにはひとつずつの行動原理しか与えられない。


2/14(土)より新宿武蔵野館ほか全国で公開予定
http://mach-infinite.com

『ドラフト・デイ』 アイヴァン・ライトマン

2015-01-16 23:37:21 | 映画
 主演ケヴィン・コスナー、監督アイヴァン・ライトマンなどと聞くと、一昔二昔前の人名である。失礼ながら、ロートルの互助会みたいな映画を想像してしまう向きもあるかもしれない。
 ケヴィン・コスナーは『アンタッチャブル』『フィールド・オブ・ドリームス』『ダンス・ウィズ・ウルヴス』『ボディガード』など、ある時期まで「アメリカの男」をひとりで体現していた。一方アイヴァン・ライトマンも、『ゴーストバスターズ』『夜霧のマンハッタン』『ツインズ』などコメディやサスペンスを中心に良心的な娯楽作品を数多く提供して一時代を築いたが、チェコスロバキア出身という出自を反映し、ラズロ・コヴァックスやアンジェイ・バルトコヴィアクなど東欧出身の撮影監督を起用して、充実したナイトシーンを造りこんだりしていたものである。
 両者の全盛期は1980~90年代と重なっている。2000年代に入ってからめっきりと彼らの名を見ることが減っていった。何がどう問題があったのか事情は知らないが、過去の人の扱いになっている。
 そんな2人が組んでできあがったのが本作で、アメリカン・フットボールの新人ドラフト会議を舞台に、更迭寸前の落ち目GM(ケヴィン・コスナー)が失敗に失敗を重ねたあげく、最後に一発逆転の大博打をうつという内容である。落ち目の互助会というのはスタッフ・キャストだけでなく、下り坂の人間に対する叱咤激励というストーリー・テリングそのものが、送り手側の自己言及性をも包含しているのである。
 スリリングなドラフト会議の化かし合い、チームスタッフ間の対立だけでは物語の普遍性が乏しいと思ったか、いろいろなアメリカの物語がてんこ盛りである。NFLの古豪クリーヴランド・ブラウンズの名監督として慕われた亡父との相克、折り合いの悪い母親との関係修復、妊娠した女性スタッフの認知の問題──など公私の問題がいっぺんにケヴィン・コスナーを襲う。
 これら諸エピソードの膨張に、私はアイヴァン・ライトマンの防衛本能を見る。あれこれと攻勢をしかけているように見せかけて、その実、一本のサスペンスだけでは不安であるというリスク・マネージメントの意識が高くなっているわけである。このあたりの送り手側の心理面をも鑑みながら見ると、がぜん興味深さの増す作品と言える。


1/30(金)よりTOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほかで公開予定
http://draft-movie.com