荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『るろうに剣心 京都大火編』 大友啓史

2014-08-30 09:01:17 | 映画
 時代劇も幕末の剣客ものは数も多く、すぐれた作品も多いが、明治維新後となると激減するのは致し方ない。太平洋戦争中に公開された伊藤大輔監督、アラカン主演の『鞍馬天狗』(1942)が維新後の横浜を舞台として異彩を放ったが、これはたとえば浮世絵なんかにも言えることで、このあたりの数年であらゆることが文明開化の名のもとに変化し、逆に言うとあらゆることが不可能なものとなる。維新後でもちゃんと浮世絵はある。作品数も多い。しかし悲しいかな、あらゆる価値指数が変わってしまっているのである。
 名匠・中川信夫監督の『毒婦高橋お伝』(1958)における若杉嘉津子の仇っぽさが、数少ない明治時代劇の珠玉中の珠玉ではないか。市川準も三谷幸喜も私はまったくいいと思わないけれども、この2人が監督と脚本家として組むとなぜか毒×毒2倍で大丈夫なのか、『竜馬の妻とその夫と愛人』(2002)は意外と悪くないのである。坂本竜馬が暗殺され、維新の大事業がなって数年が経過し、すっかり零落した竜馬の妻・おりょうを演じた鈴木京香の仇っぽさは、かつての若杉嘉津子を再現したかのようだった。

 現在上映中の『るろうに剣心 京都大火編』。おととし公開された前作『るろうに剣心』(2012)が醸す、前述の『鞍馬天狗』と同種のエキゾチズムは、私に大いなる感興をもたらした。江戸が終わり、明治の東京が始まった、そういう端境期の胎動と無常観の両方を表現した美術に瞠目した。今回の第2作においても、東京・浅草六区のにぎわいや維新後の京都の町衆の生きざまを活写してすがすがしい。
 青二才ながらどこか馬齢を貪る気力を失ったかのようなニヒリズムを漂わせる剣客の生き残り・緋村剣心──幕末における “人斬り抜刀斎(ばっとうさい)”──を演じる佐藤健の苦み走った甘さが出色であり、さらに第1作でファム・ファタール風の女医として登場した高荷恵(蒼井優)が、かつてのお伝(若杉嘉津子)、おりょう(鈴木京香)の系譜に属し、失礼ながら初めて蒼井優という女優をいいと思ったほどである(今作では、物語に影響を与えぬ単なるレギュラー陣の一角に収まってしまったが)。今回の第2作も、こういう端境期の難しい時代の美術を、臆することなく作り込んでいる点がいい。人のやらないことをやる。有名漫画を米ワーナー・ブラザースが日本に乗りこんで映画化したと聞くと、なにやらビジネス臭が漂って人聞きが悪いが、スタッフの心意気は、少なくとも不肖わたくしには届いている。
 問題は『ダークナイト』2作と同じで、緋村剣心(=人斬り抜刀斎)はバットマンと同じく、体制維持派という点がどうにも鼻白む。消極的な客人としての体制派だから、よけいに歯切れが悪いのである。なぜ現代の映画の作り手は、ジョーカーやベインや志々雄真実(藤原竜也)に陳腐なファシストという役割しか与えないのだろう。人斬り抜刀斎もバットマンも敵方に参戦できるようなシナリオのもとで製作されたなら、さぞかしもっとすばらしい映画になったろうに。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映
http://wwws.warnerbros.co.jp/rurouni-kenshin/

『リア王』 ナショナル・シアター・ライヴ2014 @TOHOシネマズ日本橋

2014-08-27 03:13:09 | 演劇
 7月の『ザ・オーディエンス』(演出 スティーヴン・ダルトリー)に引き続き、《ナショナル・シアター・ライヴ2014》からシェイクスピア『リア王』舞台上演のパブリック・ビューイングが、日本橋、なんば、二条、川崎、府中などいくつかのTOHOシネマズでおこなわれている。演出は『アメリカン・ビューティー』『レボリューショナリー・ロード』『007 スカイフォール』のサム・メンデス。イギリス演劇の最高峰ロイヤル・ナショナル・シアター(ロンドン サウス・バンク)による『リア王』となれば、本流中の本流と言ってよく、この貴重な機会に、おのずとそれを見るこちらにも気合いが入る。
 日本でもさいたま芸術劇場をはじめとして、世界で夥しい数のシェイクスピア劇が今日も上演され、その分だけ斬新な意匠、演出法が存在する。そんな中、本家であるテムズ川南岸のロイヤル・ナショナル・シアターはいま、どのような演出を見せればいいのだろう?
 サム・メンデスが選んだのは、今世紀か前世紀における宮廷紛争、そして内戦下の状況である。ブリテン王リアを陥れた長女と次女に対し、勘当されてフランス王に嫁いだコーディリアが挑戦する。コーディリアの軍服姿は、葉巻でもくわえたらチェ・ゲバラのような出で立ちである。フランス王を後ろ盾にしたコーディリア軍による空爆が果てしなく続く。舞台上には不断に空爆の轟音がこだまする。コーンウォール公がワイン・オープナーのネジ巻き部分でグロウスター伯の両目玉をえぐり取るとき、そして、栄光の手前でリア王の長女ゴネリルがみずからのノドをナイフで掻き切るとき、さらに狂気と絶望に踊らされたリア王がそれまで可愛がっていた道化(Fool)をバスタブに沈めて、鉄パイプを何度も振り下ろして撲殺するとき、テムズ川の水が流血でどす黒く濁っていくかのようである。
 リア王役のサイモン・ラッセル・ピールの、医学的な最新調査結果(シェイクスピアの狂気描写を詳細に分析し、老人性認知症の一知見として同定した英国医学界の見解──そしておそらくシェイクスピアの近親者に同様の症状を呈した患者がいたはずという見解)に基づく演技には、すこし疑問を感じさせた。リア王の狂気を、悲劇への急転直下を、医学的に解明することが、はたして演劇のためになるのかどうか。精神の行方不明という壮大な悲劇性に、ひとつの住所を与えてよいのかどうか。その点は保留としたい。しかし、医学的な解釈によるサイモン・ラッセル・ピールのすり足の歩行演技が、偶然にもどこか『平家物語』の俊寛僧都のごとき凄惨な悲劇的フォルムを帯びてもいたことは、感覚的な情動を呼び起こした。


TOHOシネマズ日本橋(東京・三越前)ほか、全国各地で8/27(水)まで上映
http://www.ntlive.jp

『ホットロード』 三木孝浩

2014-08-24 10:53:59 | 映画
 最初のシーン、「夜明けの蒼い道 赤いテールランプ もう一度あの頃のあの子たちに 会いたい…」という主人公(能年玲奈)の物憂げなナレーションが、走るバイクからの見た目ショットにかぶさってくるとき、これから本作を見ようとしている観客の誰もが、本作が回想の映画であることを了解するだろう。主人公の語る「あの頃のあの子たち」とは、彼女が恋をする暴走族少年(登坂広臣)のことであり、少年の仲間たちであり、また「あの頃の」彼女自身をも指しているはずである。
 そして観客は、「あの頃」が1980年代を指していることを歓迎するだろう。この時代に支持された少女漫画を原作としている点だけでなく、能年玲奈が1980年代にオマージュを捧げるという光景は、観客にとってはなじみ深いものだからである。昨年のNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』においても、能年は母親(小泉今日子)の青春を遡行=追体験していた。この映画を見に来る観客のほとんどは原作のファンか『あまちゃん』のファンだから、装置としてはじつに穏便な作動ぶりを見せているわけである。

 「あの時代の暴走族やスケバンを美化し過ぎている」とか「さすがに20歳の能年玲奈に14歳の中学生を演らせるのはムリがある」とか「同棲して肉体関係がないのは不自然だ」とか「ストーリー展開が尻すぼみに過ぎる」とか、上映中、私の脳細胞は文句、苦情のシュプールを思い思いに描いていた。しかし、それはナンセンスなシュプールである。リアリティの見地から文句を言っても意味はない。いわばこれは、誰かのホラ話につき合ってやるのに近い体験なのである。
 原作漫画の最終決着がどうなるかは知らないが、主人公が冒頭一番「もう一度 あの頃のあの子たちに会いたい」と語り始める以上、少年少女たちの関係はその後は終わりを迎えたのだろうし、会うことはおろか、おそらく連絡を取り合うことさえなくなっているのだろう。みんな、関係のない異性とくっついて、おのおの「ドキュン家族」の第一世代を築いたのかもしれない。少なくとも、中年になったみんなの生きざまに主人公が失望して、この連中もあの時代はあんなに輝いていたのに、と天の邪鬼を気取っているというのではあるまい。
 しかし、問題はそういうことではない。最重要な問題は、ひとりのアイドル女優が朝ドラの一発ヒットで終わらず、おもしろい芸能人生を送ってほしいと案じてしまうという問題である。杉本哲太が『あまちゃん』の劇中、能年玲奈を可愛いと思うのは「チンパンジーの赤ちゃんが可愛いと思うのと同じ」というセリフを吐いていたが、私はこれに同感で、この女優を異性として見る向きは意外と少ないと思う。本作『ホットロード』は、その基準にあくまで従順だったように思える。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開
http://hotroad-movie.jp

『つぐない 新宿ゴールデン街の女』 いまおかしんじ

2014-08-19 02:55:47 | 映画
 この『つぐない 新宿ゴールデン街の女』を見ながら、私の目玉は一外国人のそれとなり、どこかの映画祭でこの日本映画をなんの予備知識もなく眺めている、という心理状態になっていった。“この映画に写っているものには、ゴールデン街という東京・新宿の特殊な飲み屋街をよく知る人々だけに通用する符牒が充満しており、一見の映画観客には「お呼びでない」感覚をもたらすのではないか” と。
 答えから先に言うと、その危惧は半分当たり、半分は杞憂である。ブコウスキー原作の映画でも、イギリスあたりのインディペンデント映画でもいいが、この手の、飲んだくれが朝までくだを巻く生態は映画の原風景のひとつであって、そこにはいかなる不思議もなく、万国共通の滑稽がある。ここに出てくる登場人物たちの自堕落さは、どこの国の観客が見ても、身に覚えのある有象無象である。その一方で、登場人物のひとりが「この街を火の海にしてやる」と息巻きつつガソリンを撒いてみせるなど、やはり街を特権的な文脈の中で扱っている箇所もないではない。
 「映画芸術」誌で本作のレビューを書いた中島雄人は、この街を描いた作品として、『新宿乱れ街 いくまで待って』(1977)と『縛られた女』(1981)の2本を挙げている。私は後者を未見だが、その『縛られた女』で主演した下元史朗が本作に登場して、30幾年のへだたりにエコーを響かせているらしいのである。「80年代初頭、同じ街で青春のしっぽをもてあましていた青年が30幾年ののち、先生と呼ばれる初老の男として、野坂昭如の短編『花園ラビリンス』の一節をカウンターで暗誦する。その昔、同じようにこの街で飲んだくれていた作家によって書かれたそれが、2014年のゴールデン街に無理なくおさまる。」(448号 97ページ)
 『新宿乱れ街 いくまで待って』のシナリオを書いた荒井晴彦が、本作で「脚本協力」としてクレジットされている。荒井晴彦はかつて「喜劇は嫌いだ」と発言しているが、今回のこの『つぐない~』は喜劇として眺めたときに最もしっくり来る映画だ。訳あり女が不思議の国に迷いこみ、出口を見失って滑稽に七転八倒し、憑き物が取れてかろうじて立ち去る。その後ろ姿を見つめる元恋人の主観ショットとおぼしきラストショットから人の影があっけなく消えて、横丁の鄙びた光景が残像となる。これはひとつの喜劇だと思う。
 そういえば、追悼の契機を逸してしまったが、『新宿乱れ街 いくまで待って』を撮影した日活ロマンポルノの名カメラマン・水野尾信正が、今年の3月22日に老衰で亡くなっている。ロマンポルノ以外にも、大森一樹の諸作、相米慎二のデビュー作『翔んだカップル』(1980)の撮影も担当している。私のキャリア初期に一度だけお仕事をご一緒させていただいたことがあるが、素晴らしい方だった。ここでは内容を明かさずにおくが、一生忘れないようなうれしい言葉も個人的にかけていただいた。合掌。


テアトル新宿で上映終了 シネ・ヌーヴォ(大阪・九条)にて9/6(土)より上映開始
http://www.tsugunai.jp

『限りなき追跡』 ラオール・ウォルシュ

2014-08-16 20:25:10 | 映画
 Apple TVにてラオール・ウォルシュ監督、ロック・ハドソン主演の西部劇『限りなき追跡』(Gun Fury 1953)を見て、いたく感銘を受けた。恥ずかしながら初見である。ロック・ハドソンが婚約者のドナ・リードと共にカリフォルニアの新居へむかう最中、駅馬車強盗に遭う。強盗一味は駅馬車で輸送中の金庫ばかりでなく、ついでに花嫁をも拉致して去っていく。
 追跡をはじめるロック・ハドソン。さらわれた花嫁なり妹なりを連れ戻すという旅は、これまで何度となく西部劇で見てきた光景だ。この追跡行為には、ある絶望感も滲み出る。ジョン・フォード『捜索者』で拉致されたナタリー・ウッドはコマンチ族に変相してしまっていたし、今回の『限りなき追跡』でもドナ・リードは結婚相手との初夜よりも先に、強盗団のリーダー、フィル・ケイリーに肉体を奪われてしまう。だが救いとなるのは、西部劇というジャンルそのものが、そのあたりの悲哀を「無かったことにする」ジャンル的精神みたいなものを強力に発揮してくれていることである。「それでも君は妻を許せるのか」などといったケチな葛藤は、少なくとも西部では無用なのである。

 いっぽう、大金を手にしたばかりか、好みのタイプの女をせしめたフィル・ケイリー。彼としては、ゲームを優位に進めているように見える。しかし、最もがんじがらめに囚われているのは、拉致された婚約者でも、追跡に執念を燃やすロック・ハドソンでもなくて、彼なのだ。『白熱』(1949)のジェームズ・キャグニーや『ハイ・シエラ』(1941)のハンフリー・ボガートのように。フィル・ケイリーがどんなに硬骨なタフガイを気取ってみせても、強盗団の部下たちはもう、リーダーの脳内が思春期の少年と化したことに呆れ果てている。かつて『ハイ・シエラ』のボギーもまた、強盗計画の当初こそアイダ・ルピノの帯同に反対したのに(プロのグループには女は無用だとかなんとかのたまって…)、最終的にはメロメロになってしまったのではなかったか(しかもボギーは、足の悪い少女との純愛エピソードの情けない結末をアイダ・ルピノに見られてしまうのだ)。
 ラオール・ウォルシュが仮にも「男性映画の巨匠」などと呼ばれることもあるのは、タフガイのヒロイズムのためではなくて、男たちが女と道行きを共にすることで思いもつかぬぬかるみにはまって破滅する一部始終を、臆面もなく描ききってみせるからではないか。フィル・ケイリーがドナ・リードの肉体に対して思いを遂げた翌日、追ってきたロック・ハドソン一派を相手にかんたんに退治されてしまう、その理由がなんだかわかるような気がする。