荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 ダグ・ライマン

2014-06-30 04:52:51 | 映画
 トム・クルーズ映画のハズレのなさ加減は異常なほどである。日本のラノベ原作だろうとなんだろうと、今回もしれっと料理しアクションの好篇に仕立てられているが、トム・クルーズは現代の奇跡なのではないか。先日の『X-MEN: フューチャー&パスト』評でも述べたが、この『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は、またしても地球文明の終焉を描くカタストロフの映画である。それはもはや現代映画が抱えるオプセッションであり、ループ現象と言っていい。本作において、異性からの物体との戦争に無理やり参加させられた主人公(トム・クルーズ)が戦死を遂げ、タイムループの中で戦死の前日にリセットされる。時をつかさどる能力をもつ敵の中心的存在をたまたまやっつけたことで、そうしたタイムループの能力を得てしまったとのこと。彼は戦死の前日と当日をなんどもやり直していくうちに、強大な敵と張り合うノウハウを徐々に身につけていく。
 スピルバーグの『プライベート・ライアン』(1998)の前半でくり広げられたノルマンディ上陸作戦がここで反復されている。そして、ちょっとした失敗がすぐにリセットを引き起こす。歴史はこのようにくり返すのだろうか? 人生はこのようにリセットされうるのだろうか? 観客はこの反復をクルーズと共に追体験しながら、自問自答するのである。ちょうど大島渚『帰ってきたヨッパライ』(1968)のごとく、砂浜で眠りから覚めて反復が開始され、青山真治『ユリイカ』(2000)のごとく、乗り物が一度目はカタストロフとして、くり返しとしては再生の契機として出現する。


7/4(金)より丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映予定
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『ぷくぷく、お肉』(おいしい文藝 第一弾)

2014-06-28 03:06:28 | 
 ウシ・ブタ・ニワトリが日本における3大食肉であるのは、ここ1世紀半くらい変わっていない。しかし必ずしもこれらが3トップとは限らず、日本で古くはイノシシ、ウマ、カモ、キジ、シギなどが先んじて食肉として愛されてきた。安藤広重の浮世絵なんかを見ると、「やまくじら」なる看板が描かれていたりするけれども、もちろん山にクジラが生息するはずはなく、シシ鍋など獣肉を喰わせる店が世間をはばかってそう自称したに過ぎない。室町時代の高名な禅僧に一休さんがいるが、アニメでは頓智に長けた坊主としか描かれていなかったものの、じっさいの一休さんは女を抱き放題、肉を食い放題だったという。人間が動物性タンパク質を欲するのはしごく自然なことなのである。
 これにウサギ、ハトや、シカなどのフランス系ジビエもふくめ、寒くなる季節にはなんとも悦楽への切符となる。わがエピキュリアン的欲望が満足されるのは、寒い季節にジビエ、そば屋でカモ、上野周辺でとんかつ、そして京割烹でスッポンにかぶりつく時だ。ステーキだけは難物で、これは一流の店で食べたことがなく、いまだいい思い出がない。自分で焼いたステーキのうまさ以上のものを、外で食べたことがないのである。はばかりながら、私は肉食系男子だ。きょうも朝からヒツジを野菜といっしょに炒めてガブガブ喰らった。朝食に肉、というのがわが一日のパターンだ。
 でも、私にとってのオプセッション的な肉といえば、ラムチョップである。「これを与えておけば、子どもも文句はないだろう」という心境で母が焼くのが、いつも仔羊の骨付き肉(ラムチョップ)だった。たしかにこれは普通のヒツジより癖がなくてうまいことはうまいが、ただいつも食べているとちょっと飽きるというか胸焼けするというか、いやそれはラムチョップのせいではなく、若き日の母が醸す罪滅ぼし的、取りなし的な気分が自分には重かったのだろうと思う。

 河出書房新社から今回出た『ぷくぷく、お肉』は、肉食に関する随筆をあつめたアンソロジー本である。赤瀬川原平、阿川弘之、池波正太郎、伊丹十三、色川武大、内田百ケン(ケンはモンガマエに耳)、開高健、邱永漢、檀一雄、古川緑波、向田邦子、山田太一、吉田健一、四方田犬彦など、私の大好きな書き手たちがこぞって肉を喰らうことの快楽を述べていて、本屋の新刊コーナーで立ち読みしていたら思わず買ってしまった。グルメガイド的な本を読むのは気恥ずかしい気分がある。映画監督の山本嘉次郎が書いた『たべあるき東京 横浜 鎌倉地図』(1972)のようなお墨付きのものなら大丈夫で、我ながらそういうところはなんとミーハーなのだろうと思う。
 本書を読んでいて意外の感も抱いたし、またうれしくも感じたのが、現代の書き手たちが上の先達たちに伍して健闘以上の文を見せてくれていることだ。角田光代、川上未映子、菊地成孔、久住昌之、島田雅彦、馳星周、平松洋子、町田康といった書き手たちである。とくに馳星周と角田光代の文には感銘を受けた。油断禁物なり。ところで私の早大の卒業アルバムには角田光代の角帽姿も出ている(早大は角帽なのである)が、ほとんど見た目は今と変わらない。

『アメリカの兵隊』@ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2014

2014-06-26 01:19:12 | 映画
 1階の「カフェ・テオ」でデア・レーヴェンブロイをたのんで、2階のオーディトリウム渋谷に上がる。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2014で『アメリカの兵隊』(1970)を見る。ファスビンダー主宰の劇団アンチテアーター総出の初期作品。今作は初見。ファスビンダーのファンを自称しておきながら、未見作品がちらほらある。
 ドイツ出身でアメリカに渡ったベトナム帰還兵リッキー(=リチャード ドイツ語発音でリヒャルト)が殺し屋稼業となり、ミュンヘン警察から受けたいくつかの極秘の依頼を淡々とこなしながら、安ホテルの一室や小汚いバーでバランタインを瓶ごとラッパ飲みするのが何度もくり返される。途中、ミュンヘン郊外の実家に立ち寄り、母親と弟に久しぶりに再会するシーンがあって、そこで母親がやっぱりバランタインをラッパ飲みするので、ああこれは遺伝なのだなと合点した。
 リッキーといい仲になる刑事の情婦ローザ・フォン・プラウンハイムを演じたエルガ・ゾルバスは、本作のあと『ニクラスハウゼンへの旅』(1970)、『リオ・ダス・モルテス』(1970)、『インゴルシュタットの工兵隊』(1971)、『四季を売る男』(1971)とつづく初期ファスビンダー映画の顔となる女優だが、少したるんだお腹、いかにもゲルマン的なブロンドヘアともども、なんともコケティッシュに写っている。また、去年『ハンナ・アーレント』で大いに株を上げた女性監督マルガレーテ・フォン・トロッタがホテルのメイド役で結構きれいなプロポーションを見せているほか、来月に同じくオーディトリウム渋谷で開催予定のダニエル・シュミット映画祭でたくさん拝むであろうイングリット・カーフェンがバーの女性歌手として出ている。
 そしてなんといっても、ペーア・ラーベンのサントラのすばらしさ。かつて中原昌也とペーア・ラーベンのすばらしさについて一晩中語り明かしたことがある。ラーベンの白々しくも慈しむべきメロディにギュンター・カウフマンの薄らざむい歌声(誰かの声に似ていると思うのだが、それが誰なのか、四半世紀くらい思い出せない)が乗っかってくると、これはもうトリップ的ファスビンダー的世界そのものである。
 主人公の “アメリカの兵隊” リッキーを演じたカール・シャイトをググったら、2009年4月に68歳で亡くなっていた。遅まきながら合掌。原題の『デア・アメリカーニッシェ・ゾルダート(Der Amerikanische Soldat)』は、今にしても思えば、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ(ジャーマン・ニュー・ウェイヴ)の盟友ヴィム・ヴェンダースの最良の作品『アメリカの友人(Der Amerikanische Freund デア・アメリカーニッシェ・フロイント)』(1977)によって後韻を踏まれただろう。主人公のニックネームが「ムルナウ」だったり、情報屋の女が「フラー」だったり、バーの店名が「ローラ・モンテス」だったりするのが、それを証明している。


ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2014がオーディトリウム渋谷(東京・渋谷円山町)で開催中
http://a-shibuya.jp/

『プロミスト・ランド』 ガス・ヴァン・サント

2014-06-24 06:29:08 | 映画
 ガス・ヴァン・サントの新作『プロミスト・ランド』を東銀座の松竹試写室で見る。ヴァン・サントは『永遠の僕たち』(2011)のような極甘の陶酔劇も、『ミルク』(2008)のような行動原理だけの禁欲的映画も撮れる。今回は後者。何をやっても中途半端だったスティーヴン・ソダーバーグ(嫌いじゃないけど)とは、器が違う気がする。今年はもう62歳になるというから、むかしならとっくに押しも押されもせぬ巨匠といっていいが、依然として若手の気風を残しているのがヴァン・サントらしい。彼と同世代のコーエン兄弟も同じようなものだ。
 シェールガス革命に一石を投じた社会派サスペンスと呼んでいいだろう今回の『プロミスト・ランド』を見ながら、なんとなく浮かんできたのがシドニー・ルメットの名だった。考えてみれば、たとえばシドニー・ルメット(1924-2011)が快作『セルピコ』(1973)を発表したのはまだ48歳の時であったし、その翌年から『オリエント急行殺人事件』(1974)、『狼たちの午後』(1975)、『ネットワーク』(1976)と続く。私がこれらルメット70年代の佳作群を見たのはテレビ放映だったが、じつにわくわくさせられる面白さだった(依然として『ウィズ』は未見)。そしてついに初めて劇場で見たルメット映画が『プリンス・オブ・シティ』(1981)である。ニューヨーク市警の麻薬捜査員たちにはびこる汚職を、地味にねちねち延々と3時間近く描くさまは、どうにも咀嚼困難なものを感じたものだ。うむこういうものもまたアメリカ映画である、と無理やり納得するほかはなかったことを憶えている。
 本作『プロミスト・ランド』をスモールタウンもの、あるいはジリジリとした一攫千金ものとしてとらえながら、アンソニー・マン監督『神の小さな土地(公開時邦題 真昼の欲情)』(1958)も思い出した。この作品はDVDリリース時(2006)に梅本洋一からDVDを借りてようやく見ることができた。いろいろと参照的に他作品を思い出してばかりで恐縮だが、社会派という点で『プリンス・オブ・シティ』が、スモールタウンものという点で『神の小さな土地』が出てくるというのも、この映画の醸す魅力だとのみ伝えておきたいと思う。
 マット・デイモンが『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)以来じつに15年ぶりに脚本・主演でヴァン・サント作品に参加している。


本年8月にTOHOシネマズシャンテ、新宿武蔵野館ほか全国で公開予定
http://www.promised-land.jp

『青天の霹靂』 劇団ひとり

2014-06-21 06:08:06 | 映画
 現在公開中の作品に『X-MEN: フューチャー&パスト』と並ぶタイムスリップものとして、劇団ひとりが監督・助演した『青天の霹靂』もある。『X-MEN: フューチャー&パスト』はいわばシリーズとしてのこれまでの物語全体を自己否定する動きを見せるという点でアクロバティックたりえているわけであるが、事実関係のつじつま合わせに終始しているだけということも言える。これに対して、『青天の霹靂』は完全にオーソドックスな自分探しの物語となっている。
 私はわがままな人間で、こういう「劇団ひとり」などという甘ったれた芸名じたい大嫌いなのだが、それでも作品は一応見る。マジシャンの主人公(大泉洋)が何ごともうまく行かずうだつの上がらぬ自分を呪っていると、稲妻が彼の体を撃ってくれて、生まれる直前の1973年にタイムスリップする。この1973年という年はなぜか『X-MEN: フューチャー&パスト』でウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)がタイムスリップする年と符合する。かつて、ヴェンダース、エリセ、シュミット、イーストウッドを顕揚するために蓮實重彦が特権化した年号だが、『X-MEN』も劇団ひとりももちろんそれは埒外である。そして自分を捨てて去ったと聞いていた母(柴咲コウ)とダメ親父(劇団ひとり)の愛の形を目の当たりにするという、メロドラマが展開される。パパ-ママ-ボクをめぐる関係修復のメロドラマとしてだけでなく、柴咲コウという女優の三十路に達した一番美しい季節を目に焼き付けるという楽しみを無駄にすべきではない。
 しかしこの映画の一番いい点は、演芸の街として機能し得た最後の時代の浅草を愛惜をこめて描いていることだ。荒川土手での死体発見というまがまがしい導入から始まって、浅草の人情味と非情さの両方が写し出されている。ひょっとして、浅草が映画の舞台になるのはこれが最後ではないか、という感慨を抱きながら本作を見た。


TOHOシネマズ日本橋ほか全国で上映中
http://www.seiten-movie.com