ゲイ・カップルが、親に見放されたダウン症児を引きとって幸福な家庭を築くが、世間の無理解に遭って法廷闘争に巻き込まれていく、という実話を元にしたストーリー。舞台は1979年、カリフォルニア州ウェスト・ハリウッド。70年代末という時代設定ゆえか、同性愛に対する無理解と偏見の描写は、失笑と義憤をもたらしてやまない。なおこの前年の78年には、同州のサン・フランシスコで、ゲイ運動の指導者ハーヴェイ・ミルク市議が暗殺されている。
最近も『アデル、ブルーは熱い色』を見て、フランスの作家映画においてさえ、ヒロインの女子高生がレズビアンであることが判明すると、級友たちから一斉に「エンガチョ」扱いされる描写があって、その未開性にびっくりさせられたのだが(欧米ではとっくに認知されたものだと考えていたから)、われわれ日本人がとりわけ未開であるだけでなく、『最強のふたり』の白人/黒人の描き分けの古色蒼然を見ても分かるように、世界全体は思ったより変わっていないし、進歩してくれてもいない。なにしろUEFAは依然として「Say No to Racism」をスローガンに掲げざるを得ないのである。
本作でダウン症児を育てようと奔走するゲイ・カップルのうち、片方はドラァグクイーンだからわかりやすい人物像だが、もう片方がカリフォルニア州の検察局に務める法律家である。彼はゲイであることが露見するとすぐに検察局から解雇されるが、さらに追い打ちをかけるように養育権取得法廷に対しておせっかいな横やりを入れてくる元上司が出てくる。この元上司を演じたクリス・マルケイという役者がなんとも、保守反動を絵に描いたようなツラ構えで、時代は遡るが、1940~50年代の赤狩り時代に告げ口した人間たちの末裔という匂いをプンプン漂わせるのだ。
このように本作は、1970年代末を描いた2010年代の映画だが、寒々しさ、暗さ、反動への憤怒、そして97分という上映時間、抒情性のなさ(主人公たちへの憐憫ゆえに、本作上映中の劇場内は観客のすすり泣きが響きわたるが、画面内の描写はさして湿り気を帯びていない)は、まるでフィフティーズの映画を見ている感触である。ただし、もう少しシネフィリックな手応えがあってもよかったし、その点はやや心残りである。
シネスイッチ銀座(東京・銀座四丁目)ほか全国順次公開
http://www.bitters.co.jp/choco/
最近も『アデル、ブルーは熱い色』を見て、フランスの作家映画においてさえ、ヒロインの女子高生がレズビアンであることが判明すると、級友たちから一斉に「エンガチョ」扱いされる描写があって、その未開性にびっくりさせられたのだが(欧米ではとっくに認知されたものだと考えていたから)、われわれ日本人がとりわけ未開であるだけでなく、『最強のふたり』の白人/黒人の描き分けの古色蒼然を見ても分かるように、世界全体は思ったより変わっていないし、進歩してくれてもいない。なにしろUEFAは依然として「Say No to Racism」をスローガンに掲げざるを得ないのである。
本作でダウン症児を育てようと奔走するゲイ・カップルのうち、片方はドラァグクイーンだからわかりやすい人物像だが、もう片方がカリフォルニア州の検察局に務める法律家である。彼はゲイであることが露見するとすぐに検察局から解雇されるが、さらに追い打ちをかけるように養育権取得法廷に対しておせっかいな横やりを入れてくる元上司が出てくる。この元上司を演じたクリス・マルケイという役者がなんとも、保守反動を絵に描いたようなツラ構えで、時代は遡るが、1940~50年代の赤狩り時代に告げ口した人間たちの末裔という匂いをプンプン漂わせるのだ。
このように本作は、1970年代末を描いた2010年代の映画だが、寒々しさ、暗さ、反動への憤怒、そして97分という上映時間、抒情性のなさ(主人公たちへの憐憫ゆえに、本作上映中の劇場内は観客のすすり泣きが響きわたるが、画面内の描写はさして湿り気を帯びていない)は、まるでフィフティーズの映画を見ている感触である。ただし、もう少しシネフィリックな手応えがあってもよかったし、その点はやや心残りである。
シネスイッチ銀座(東京・銀座四丁目)ほか全国順次公開
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