荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『チョコレートドーナツ』 トラヴィス・ファイン

2014-05-31 00:46:29 | 映画
 ゲイ・カップルが、親に見放されたダウン症児を引きとって幸福な家庭を築くが、世間の無理解に遭って法廷闘争に巻き込まれていく、という実話を元にしたストーリー。舞台は1979年、カリフォルニア州ウェスト・ハリウッド。70年代末という時代設定ゆえか、同性愛に対する無理解と偏見の描写は、失笑と義憤をもたらしてやまない。なおこの前年の78年には、同州のサン・フランシスコで、ゲイ運動の指導者ハーヴェイ・ミルク市議が暗殺されている。
 最近も『アデル、ブルーは熱い色』を見て、フランスの作家映画においてさえ、ヒロインの女子高生がレズビアンであることが判明すると、級友たちから一斉に「エンガチョ」扱いされる描写があって、その未開性にびっくりさせられたのだが(欧米ではとっくに認知されたものだと考えていたから)、われわれ日本人がとりわけ未開であるだけでなく、『最強のふたり』の白人/黒人の描き分けの古色蒼然を見ても分かるように、世界全体は思ったより変わっていないし、進歩してくれてもいない。なにしろUEFAは依然として「Say No to Racism」をスローガンに掲げざるを得ないのである。
 本作でダウン症児を育てようと奔走するゲイ・カップルのうち、片方はドラァグクイーンだからわかりやすい人物像だが、もう片方がカリフォルニア州の検察局に務める法律家である。彼はゲイであることが露見するとすぐに検察局から解雇されるが、さらに追い打ちをかけるように養育権取得法廷に対しておせっかいな横やりを入れてくる元上司が出てくる。この元上司を演じたクリス・マルケイという役者がなんとも、保守反動を絵に描いたようなツラ構えで、時代は遡るが、1940~50年代の赤狩り時代に告げ口した人間たちの末裔という匂いをプンプン漂わせるのだ。
 このように本作は、1970年代末を描いた2010年代の映画だが、寒々しさ、暗さ、反動への憤怒、そして97分という上映時間、抒情性のなさ(主人公たちへの憐憫ゆえに、本作上映中の劇場内は観客のすすり泣きが響きわたるが、画面内の描写はさして湿り気を帯びていない)は、まるでフィフティーズの映画を見ている感触である。ただし、もう少しシネフィリックな手応えがあってもよかったし、その点はやや心残りである。


シネスイッチ銀座(東京・銀座四丁目)ほか全国順次公開
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黒眼帯の人は誰?

2014-05-28 19:09:56 | 身辺雑記
 さっき、箱崎エアターミナル(東京・日本橋箱崎町)で、黒眼帯をつけた初老の男性とすれ違った。これが初めてではない。このあたりの夜道で何度となく出くわし、地下鉄丸ノ内線の車内でも見かけたこともあり、銀座の四丁目交差点でも会ったこともある。フォード、ウォルシュ、ニコラス・レイばりの黒眼帯を、コスプレ的にではなく日常的に利用している人は、この大東京でもめったに見ない。おそらく、本当に独眼なのだろう。
 しかし、そういう物珍しさもさることながら、ジャケット、シャツ、時には紐ネクタイなど、着こなしの洒落た感じが尋常ではなく、間違いなくただ者ではあるまい。と言っても、やくざというのではない。もっと、なんというか、ジャズ評論家か何かかしら?とも考えたりする。ジャズ評論家という人と親しく接していないので、勝手なイメージで言っているだけである。ただ、たいがいはディスク・ユニオンの例の黒地に赤文字のビニール袋(それも12インチのLPサイズの袋)を小脇に抱えている。そんな初老男性はただ者ではないだろう。
 この男性のことを、いくつかの場で話したことがある。私は交友には恵まれていて、何か疑問や不明点があっても、たいがいは誰かの知識なり調査なりのおかげで解決できてしまう。物知りの知人に囲まれた──まるで百科全書の森に抱かれて生きているかのような──果報者の人生を、一度きちんと感謝せねばならない。しかしながら、わが百科全書たる知人友人たちをもってしても、その黒眼帯の男が何者なのか、いまだ判明し得ていない。「こんど会ったら、挨拶しちゃえばいいじゃん」「え」「なんなら荻野さんの知り合いに加えちゃったらどう?」
 残念ながら先ほどの邂逅の際には、声をかける勇気が湧かなかった。エアターミナルの長い廊下で、私はまたしてもなすすべなく、その姿を目で追うことしかできずに終わった。先方もトイレに向かっていくようだったし、仕方あるまい。また次もあるだろう。こんなに何度も会ったのだから。

『そこのみにて光輝く』 呉美保

2014-05-26 03:34:40 | 映画
 函館という街の地図が、この映画によって更新されている。郊外のバラック小屋、陋巷の中の安アパート、昭和の特飲街にあったようなちょんの間etc. 北の町の冬ではなく、夏の海水浴を照らす鈍いきらめき。今まで函館を映した映画史におけるどの函館ともまったく異なる表情を、この映画の函館は見せている。
 とはいえ、あらゆる事象がリアリズムのもとで描かれているように見えて、しかしああいう底辺の環境というものが、どこかメルヘンとも取れてしまうのは否定しようもなかった。悲惨な境遇の女(池脇千鶴)と、仲間の死をトラウマとして抱える男(綾野剛)。一組の男女が宿命的に出会うための装置として、彼らの境遇がしつらえられている。この点はどうなのだろう? 脳梗塞で寝たきりの父や前科一犯の弟(菅田将暉)を抱え、困窮する一家を支えるために、池脇千鶴はちょんの間で1回8000円の売春婦として働き、妻子持ちの造園業者(高橋和也)の2号をつとめ、あまつさえ寝たきりの父の性欲処理まで買って出ている。一観客としては実生活でここまで困窮したこともないし、底辺で清濁併呑の暮らしにやつしたこともないから、もうひとつリアルさの程度をつかみかねた。
 しかし、設定描写への疑問とは関係なく、池脇千鶴と綾野剛の最初の出会いシーンで交わされる視線は、純粋にいいラブシーンになっている。これ見よがしの理由づけはないし、テレビ局映画のような視線の美学化もない。いったん視線が交わされ、そしてそのすぐあとは不機嫌さと視線の停滞がある。池脇千鶴のつくったひどく不味そうな炒飯をみんなで食べて(料理なんていっさいできない女という設定なのだろう。いやそれどころか、この映画には食べ物の味なんかに関心をもつ登場人物は、火野正平くらいしか出てこない)、そのあと綾野剛が(女の感情を試すかのように)庭に出て、植物なんかを眺めるフリをする。そうすると池脇千鶴が男の淡い期待に応えるでもなく家から出てきて、一緒にそぞろ歩いたりする。ラストでも反復されるこの海岸での緩慢な道行きが、この男女にとっての至福の時空間であることが、見る者にははっきりとわかるだろう。


テアトル新宿(東京・新宿伊勢丹裏)ほか全国で順次公開
http://hikarikagayaku.jp

『アメイジング・スパイダーマン2』 マーク・ウェブ

2014-05-23 07:34:12 | 映画
※本記事には、明瞭にではないにせよ、物語の核心に多少触れている点がありますのでご留意ください。
 スパイダーマンは多分にニューヨーク的な存在だろう。多少なりとも昆虫の能力を得て超人的に振る舞いつつも、スーパーマンのように大空を自由気ままに飛び回るというわけにはいかず、彼は手首から発射する蜘蛛の糸を命綱にしながら、重力という桎梏からヨーヨーの要領で限定的に離反していくのだ。彼はぶら下がり、張力と遠心力によってみずからの身体を中空に投げ出し、飛距離をダイナミックにゲインする。映画はそのゲインを画面に収めるかぎりにおいて、躍動感を維持することができる。
 スパイダーマンには、摩天楼のビルとビルの谷間がぜひとも必要である。彼は壁面に蜘蛛の糸を張りめぐらしながらジャンプ一番、飛び回り、ビルの窓を吸盤のような手の平で駆け上がってみせる。広大なオープンスペースほど、彼に似合わぬ場所はない。また、そうした場所に敵も存在しない。
 今回の作品に関して言うなら、敵はあくまでスパイダーマンをマン・ツー・マンでマークする者ばかりである。スパイダーマンが図らずも敵を作りだし、スパイダーマンの周囲でのみ敵が暴れてみせる。敵たちは悪さをする際でさえ、スパイダーマンによる承認が必要なのである。スパイダーマンは、彼ら敵を元来は敵だと思っておらず、できれば彼らの弱々しいメンタルを手助けしたいと思っているが、敵方の要請によって不承不承に敵として承認してやっているに過ぎない。したがって、この『アメイジング・スパイダーマン2』には、物語を推進するだけのモチベーションが欠けているのである。
 重力に対する抵抗。それだけが主人公の動力源である。そして、彼は最後の最後で、重力に敗れ去る。ヒッチコックの『めまい』か、ノートルダムのせむし男を下敷きにした、時計台のごとき細長い塔のセットイメージがしつらえられ、『めまい』のキム・ノヴァクのように、ブロンドの美女が落下していく。ジェームズ・スチュワートが見つめる下方の先には、虚無だけが、ガバリと口を開けているのみだ。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映
http://www.amazing-spiderman.jp/

『ウィズネイルと僕』 ブルース・ロビンソン @THE LAST BAUS

2014-05-20 00:26:07 | 映画
 わが偏愛の一作のリバイバル公開を、ひとり孤独に祝いたい。1988年のイギリス映画『ウィズネイルと僕』、俳優ブルース・ロビンソンの監督としての長編第1作である。しかし、祝う、と言ったら語弊があるかもしれない。本作は吉祥寺バウスシアターの閉館イベント《THE LAST BAUS》の一環として、爆音映画祭の裏でひそかに掉尾を飾っているからだ。思えば本作を23年前の5月に見たのも、どうやらバウスだったらしい。私は勝手に渋谷桜丘時代のユーロスペースだったと記憶していたが、それは勘違いのようである。クロージング興行の一環として本作をセレクトしたバウスのスタッフの鑑識眼にも、ブラボーの快哉を叫びたいと思う。そして、「そんな過大評価な」という外野の声を、私は完全に無視するだろう。
 ブルース・ロビンソンといえば、まず俳優として、フランソワ・トリュフォー監督『アデルの恋の物語』(1975)でヒロインのイザベル・アジャーニが一方的に片思いするイギリス軍中尉を演じたことで記憶される。『ウィズネイルと僕』はロビンソンの自伝的映画であり、1969年ころのロンドンのカムデン・タウン、売れない俳優として、ルームメイトのハンサム俳優といっしょにアルコールとドラッグに溺れた自堕落な生活を、愛惜をこめてカメラに収めている。ラストシーンで主人公「僕」はオーディションに受かり、ぼろアパートを出て行く。うぬぼれ屋でわがままだが憎めないルームメイトのウィズネイルを置いて…。そして主人公が去ったあと、ひとり取り残されたウィズネイルが、誰もいないリージェンツ・パークで朗誦してみせるシェイクスピアが泣けるんだよ。ようするに、主人公がトリュフォー映画でアジャーニの相手役を射止める、その5~6年前の物語ということになるのだろう。
 ブルース・ロビンソンにはじつは監督作として『ラム・ダイアリー』(2011)という新作もあって、しかもこれはジョニー・デップが主演であるにもかかわらず、ほとんど顧みられることなく公開を終えてしまった。この『ラム・ダイアリー』も内容的には『ウィズネイルと僕』とほとんど同じで、こちらは売れない俳優ではなく、デップ演じる売れないライターがプエルトリコに赴任してラム酒中毒になっていくというだけの物語である。もしあなたがブコウスキーの小説が好きなら、マルコ・フェッレーリ監督『ありきたりな狂気の物語』(1981)に登場するベン・ギャザラとオルネラ・ムーティが好きなら、『ラム・ダイアリー』もオススメしたい。
 ちなみに、『ウィズネイルと僕』はイギリスのハンドメイド・フィルムズ社の作品であり──つまり、故ジョージ・ハリソンのプロデュース作品である。だからこんな低予算の映画なのに、ザ・ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」が堂々とかかってしまう。イギリス映画に対するジョージ・ハリソンの貢献は、『モンティ・パイソン』『バンデットQ』を製作してテリー・ギリアムを見出したことや、『モナリザ』(1986)を製作してニール・ジョーダンを売り出したこと、あるいは『上海サプライズ』(1986)をプロデュースしてマドンナとショーン・ペンを出会わせたことに留まらないのである。
 『ウィズネイルと僕』という一篇のフィルムは、フランソワ・トリュフォー、ジョージ・ハリソンなどあらゆる固有名詞が跳梁跋扈する美しい星座のドまん中にある。


吉祥寺バウスシアター(東京・武蔵野市)にて5/31(土)まで
http://w-and-i.com