どうということもないアパレルの広告リフレットのあるページに目を止めて、安手のモデル女性のポーズ写真に、ふと惹かれることがある。完璧な美貌でなければいけないのに、なぜか太い二の腕であったり、どこかアンバランスであったり。とくに傾向というものはない。真剣に分析すれば、なにがしかの傾向が抽出されるだろうが、そんな分析結果には自分自身ですら興味がないのだから、誰の興味も呼ぶことはないだろう。
すぐれたアート作品、現代美術の議論必至の問題作とは別に、企業が発行する冊子の中のちょっとしたデザインの中に、あるいはダイレクトメールの中に、私は目を止めて心を沸き立たせるのである。今回かかげたのは、2、3日前にagnès b.から送られてきたハガキの裏側に印刷された図版である。春の新作アイテムの入荷を伝える文面で、この図版もそれを象徴的に表現したものと思われる。
このハガキを手に取って眺めるうちに、私はこの光と色彩のスペクトラムに引きこまれる自分を発見した。「なんと大袈裟な、どうということないじゃないか」という反応が大多数であることは分かっているのだが、ずっと昔に見た白日夢の一部分がデジャヴュとして回帰したような気もするし、来たるべき死の直前に朦朧たる意識の中で見る走馬燈の一部分だという予感のような気もする。いや、そのどちらでもあるのかもしれない、と合点しておけば簡単に片が付くのだろうが、私にはこの光と色の粒子が不断にじわじわと動いているように思えて、しかたがないのである。
見る者にそこまで考え込ませるとは、このダイレクトメールを作成したデザイナーの才能がすごいのだろうか? いや、このブログを仮にデザイナー氏本人が読んだとしても一笑に付すだろう。そうだ、これは客観的にすごいかどうか以前に、私自身に私の生と死の端境に意識を向けさせるシークレットメッセージを無意識的に孕んだに過ぎないのである。そして、そうしたたぐいのサインは至るところに、一瞬一瞬のうちに偏在し続けている。だが、それを知覚する準備が偶さかこちらでできてしまったとき、大きく口を開けてみせるだけのことである。
すぐれたアート作品、現代美術の議論必至の問題作とは別に、企業が発行する冊子の中のちょっとしたデザインの中に、あるいはダイレクトメールの中に、私は目を止めて心を沸き立たせるのである。今回かかげたのは、2、3日前にagnès b.から送られてきたハガキの裏側に印刷された図版である。春の新作アイテムの入荷を伝える文面で、この図版もそれを象徴的に表現したものと思われる。
このハガキを手に取って眺めるうちに、私はこの光と色彩のスペクトラムに引きこまれる自分を発見した。「なんと大袈裟な、どうということないじゃないか」という反応が大多数であることは分かっているのだが、ずっと昔に見た白日夢の一部分がデジャヴュとして回帰したような気もするし、来たるべき死の直前に朦朧たる意識の中で見る走馬燈の一部分だという予感のような気もする。いや、そのどちらでもあるのかもしれない、と合点しておけば簡単に片が付くのだろうが、私にはこの光と色の粒子が不断にじわじわと動いているように思えて、しかたがないのである。
見る者にそこまで考え込ませるとは、このダイレクトメールを作成したデザイナーの才能がすごいのだろうか? いや、このブログを仮にデザイナー氏本人が読んだとしても一笑に付すだろう。そうだ、これは客観的にすごいかどうか以前に、私自身に私の生と死の端境に意識を向けさせるシークレットメッセージを無意識的に孕んだに過ぎないのである。そして、そうしたたぐいのサインは至るところに、一瞬一瞬のうちに偏在し続けている。だが、それを知覚する準備が偶さかこちらでできてしまったとき、大きく口を開けてみせるだけのことである。