荻野洋一 映画等覚書ブログ

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光と色彩のスペクトラムに、生の端境を垣間見る

2014-02-26 02:14:15 | 身辺雑記
 どうということもないアパレルの広告リフレットのあるページに目を止めて、安手のモデル女性のポーズ写真に、ふと惹かれることがある。完璧な美貌でなければいけないのに、なぜか太い二の腕であったり、どこかアンバランスであったり。とくに傾向というものはない。真剣に分析すれば、なにがしかの傾向が抽出されるだろうが、そんな分析結果には自分自身ですら興味がないのだから、誰の興味も呼ぶことはないだろう。
 すぐれたアート作品、現代美術の議論必至の問題作とは別に、企業が発行する冊子の中のちょっとしたデザインの中に、あるいはダイレクトメールの中に、私は目を止めて心を沸き立たせるのである。今回かかげたのは、2、3日前にagnès b.から送られてきたハガキの裏側に印刷された図版である。春の新作アイテムの入荷を伝える文面で、この図版もそれを象徴的に表現したものと思われる。
 このハガキを手に取って眺めるうちに、私はこの光と色彩のスペクトラムに引きこまれる自分を発見した。「なんと大袈裟な、どうということないじゃないか」という反応が大多数であることは分かっているのだが、ずっと昔に見た白日夢の一部分がデジャヴュとして回帰したような気もするし、来たるべき死の直前に朦朧たる意識の中で見る走馬燈の一部分だという予感のような気もする。いや、そのどちらでもあるのかもしれない、と合点しておけば簡単に片が付くのだろうが、私にはこの光と色の粒子が不断にじわじわと動いているように思えて、しかたがないのである。
 見る者にそこまで考え込ませるとは、このダイレクトメールを作成したデザイナーの才能がすごいのだろうか? いや、このブログを仮にデザイナー氏本人が読んだとしても一笑に付すだろう。そうだ、これは客観的にすごいかどうか以前に、私自身に私の生と死の端境に意識を向けさせるシークレットメッセージを無意識的に孕んだに過ぎないのである。そして、そうしたたぐいのサインは至るところに、一瞬一瞬のうちに偏在し続けている。だが、それを知覚する準備が偶さかこちらでできてしまったとき、大きく口を開けてみせるだけのことである。

『坂本君は見た目だけが真面目』 大工原正樹 

2014-02-23 11:15:03 | 映画
 大工原正樹の新作『坂本君は見た目だけが真面目』は、2011年の『姉ちゃん、ホトホト様の蠱を使う』と同様、映画美学校の講師として製作した作品である。シナリオは同校の脚本家コースを履修中の女子生徒が書いた。タイトルの七・六・三というリズム感ゼロな語呂は正直パッとしないが、中身は意気軒昂である。
 映画序盤の熱血女教師(藤本泉)とサボり生徒の坂本君(伊藤凌)のトダバタ風の追っかけは、サイレント時代の学園ものナンセンス・コメディを彷彿とさせる。坂本君の自宅をアポなし訪問した女教師が、母親の「あの子は留守なんですから」という白々しい逃げ口上を一発で否定するために、半地下の窓に映る溶接作業の火花を指摘するだけでいい(坂本君は授業を休んで、日々ロボット製作に打ち込んでいる)などというあたりもサイレント的だ。

 そして、これは人生の設計でもある。男と女がまったく相容れない動物であるというアイロニカルな展望による設計図である。というのも、坂本君はロボット製作に必要な理数系の科目しか出席しようとしない一方、熱血女教師の英語授業も欠席したことがない。坂本君はおそらく女教師に恋しているが、オタクである彼にはなすすべはない。而して、痴話ゲンカじみた対立構図を際立たせるばかりで、それに真っ向から相対する女教師も、まだパンク少女(フォークギター少女?)のままなのである。坂本君はロボット製作といういわば〈男の仕事〉を全うするために、年上の恋人との心の交わりをないがしろにしている。愚かなる日本男児の正道を、彼は歩んでいるに過ぎない。


3月15日(土)よりオーディトリウム渋谷、映画美学校エクラン(ともに東京・渋谷円山町)でレイトショー予定
http://a-shibuya.jp/archives/9046

『ニシノユキヒコの恋と冒険』 井口奈己

2014-02-20 02:23:13 | 映画
 まさか冒頭でいきなり主人公ニシノユキヒコ(竹野内豊)がトラックに轢かれて死んでしまうとは、びっくりさせられた。原作を読んでおらず、あるドン・フアンの女性遍歴という事前知識しか持たずに見たため、最初は、交通事故にあって入院した先でナースとの恋愛でも始まるのだろうと予想したのだが、その安直なる予想は大きくはずれることになる。ある夏の午後、みごとにジャック・リヴェット的な疾風が吹いたのを合図に、ニシノユキヒコの亡霊が女子中学生(中村ゆりか)の前に忽然と出現するのである。清順タッチのリヴェット映画?
 翌日、江ノ電に乗った少女と亡霊が向かうのは、ニシノユキヒコ自身の葬儀会場である。真夏の白昼、黒い喪服を着て集まった大勢の女たち。おそらく全員、ニシノユキヒコと関係した女たちだ。こんどはトリュフォー? 葬儀会場で出会った和装の喪服を着た年配女性(阿川佐和子)が、少女にニシノユキヒコの恋愛遍歴を語って聴かせる。合図として阿川が少女に手渡すのは「カンロ飴」か味覚糖の「純露」か、ようするにありふれた琥珀色のあめ玉にしか見えないが、私の推定では、どうやらあれがあやしい。リヴェットの『セリーヌとジュリーは舟で行く』でトリップ用に使用されていた服用物を、映画ファンという設定の阿川佐和子が個人的に輸入していたとしか思えない。ところが回想的ナラタージュという話法に対して、監督が参考にしたのはサシャ・ギトリの『とらんぷ譚』だというから痛快である。じつは先週に六本木で本作を見たのだが、すぐに再見したくなり、今週は新宿で見てしまった。可愛らしくて可笑しくてせつない、そして残酷な映画。
 ファーストシーンの竹野内豊と麻生久美子のカフェテラスの長回し、あるいはニシノの事故を目撃した松葉杖の女(藤田陽子)の呆然とした顔のアップなど、最初のほうは正面ショットが少し生煮えで、スタンプ的ではないかという感想を持ったが、徐々に調子を上げる。横浜のシネマ・ジャック&ベティから出てくる客を正面からとらえたショット。それからニシノユキヒコの住む、どうやらお茶の水ニコライ堂あたりとおぼしきマンションの2台のエレベータを正面からとらえたショット。こういうのがすごくいい。ただ建物の出入り口を正面から漫然と撮っているだけに見えるのに、妙にいいのだ。たぶんそれらが、『リュミエール工場の出口』(1895)の原初的魔力からパワーを得ているからだろう。
 井口監督の前作『人のセックスを笑うな』(2008)が公開された少し後だったと記憶するが、東京日仏学院で井口監督とジャック・ドワイヨンのトークディスカッションがあった。ドワイヨンは「ファーストテイクなんぞ犬に喰わせろ」と怪気炎を上げていたが、井口監督はファーストテイクのみずみずしさは捨てがたいと主張していた。今回の『ニシノユキヒコの恋と冒険』がファーストテイク中心に作られた映画なのかどうかは分からない。でも、ドワイヨンや溝口のように偏執的にテイクを重ねて練り込んだものではないように思う。トリュフォー映画でさらっと歌われたジャンヌ・モローの「つむじ風」の歌声のように、ひょいひょいと積み上げられていったカットの集積なのではないか。つむじ風……そう、最も映画的な気象とは、第1に風、第2に木漏れ陽、3・4がなくて5に嵐である。

P.S.
 先述の日仏イベントの打ち上げ後の路上で、井口監督が「じつは私、荻野さんの映画を手伝ったことがあるんですよ」と打ち明けてくださった。まったくもって光栄なことであるが、むかし、拙作の音声ミキシング作業を鈴木昭彦さんのいたスタジオでやってもらった時、成人してまもない彼女は鈴木氏の助手だったのだそう(鈴木氏は『人のセックスを笑うな』『ニシノユキヒコの恋と冒険』で撮影を担当している)。知らぬ間に縁ができているものだ。あの仕上げの際はじかには会っていないと思う。知らぬ間の縁やすれちがい、出会い、別れなど、私たちの生も少しずつニシノユキヒコたちの生と似ている。


渋谷HUMAXシネマ(東京・渋谷公園通り)ほか全国で公開中
http://nishinoyukihiko.com

『ラッシュ プライドと友情』 ロン・ハワード

2014-02-17 23:33:58 | 映画
 私は、映画を愛する点についてはみずから疑念を抱いたことはなく(もちろんそれも傍目からはあくまで私の能力の範囲でしかないのだろうが)、いっぽうでスポーツ観戦も大好きな私もいる。そして、この2つは交わらないものであることを、私は人生を通して痛感してきた。スポーツと映画を結びつけようとする試み──それがいかなる才人によってなされようと──は無惨なものの歴史だ。
 私は、クリント・イーストウッドの『インビクタス』のファン、ブライアン・ヘルゲランドの『42』のファンでもあるが、だからといってこの2本の映画がラグビーの試合それじたい、野球の試合それじたいより優れているとは、どうしても思えないのである。かつて、サッカーの映画を作りたいと私に相談しに来てくれた人がいるが、失礼ながら言葉を尽くして私は猛反対した。
 プレーの一瞬一瞬はまさに「愛と偶然の戯れ」である。映画作家なりドラマ演出家なりが役者に芝居をつける要領でプレーを伝授したところで(またはCGで超人技を捏造してみせたところで)、そこには、神に挑戦しているのと同じような滑稽さだけが残る。私たちは、リオネル・メッシとクリスティアーノ・ロナウドという2人のスーパースターと同時代に生きていることを、ただ神に感謝すればよく、それ以外の何もすべきではない。

 上のような頑迷な基準によってわが思考が凝固してしまってもなお、ゲリラ的に「いいな」と思わせるものはなくはない。ロン・ハワードの新作『ラッシュ プライドと友情』の素晴らしさは、F1のレースを迫真的に再現し得ているかいないかではなく(いや、音響の凄味もふくめその点でも相当いい線を行っていると思うけれど)、F1のなかの部分的なものをすくいあげることによって映画をも讃美していることにあるように思う。
 イタリアの田舎道でとろとろ運転を決めこんだニキ・ラウダ(ダニエル・ブリュール)が、知り合ったばかりの女性──まだ彼が何者であるかをよく理解していない女性──そして将来の伴侶となる女性──(アレクサンドラ・マリア・ララ)の軽い出来ごころによる挑発に乗って、思う存分アクセルを踏み込んでみせるあの解放感、女性の(私たちの期待どおりの)驚きの反応、後部座席のイタリア男どもの歓声によるアシストなど、このアンサンブルが産みだす解放感、高揚感は、モータースポーツへのリスペクトであるだけでなく、ハリウッド映画の話法そのものへの讃歌となっているのだ。
 ディテールへの心配りと、大状況そのものを大摑みに把握するロン・ハワードの大小のダイナモ演出には、やはり舌を巻くしかあるまい。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開中
http://rush.gaga.ne.jp/

エドウィジュ・フイイェールについて

2014-02-14 03:49:10 | 映画
 先日、新宿シネマカリテでアナトール・リトヴァク『マイヤーリング』(1957)の蔵出し公開を見、ハプスブルク落日の残り香に陶然となったが、その時ふと思い出したのが、ジャン・コクトーのあの素晴らしい『双頭の鷲』(1947)のエドウィジュ・フイイェール扮する王妃の憂愁の面持ちだ。そしてエドウィジュ・フイイェールは、マックス・オフュルスの美しい『マイエルリンクからサラエヴォへ』(1939)のヒロインでもある。 『マイヤーリング』のオードリー・ヘプバーンも悪くはないが、フイイェールとは比べものにならぬ。
 Mayerling=マイヤーリング=マイエルリンク(オーストリアの村の名前。ハプスブルク皇室御用達の狩猟場があった)。(正)マイヤーリング (誤)マイエルリンク
 ドイツ語の語尾の「g」は濁らずに「ク」になると得てして思いがちだが(例 Hamburg=ハンブルク Brandenburg=ブランデンブルク)、Mayerlingのように末尾が「-ng」の場合は、有声化して「~ング」となる。