荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『おしん』 冨樫森

2013-10-28 11:56:59 | 映画
 『おしん』、このドラマをリメイクしようという製作者側の意図がどこにあるのか? イランはじめ世界各国でブームが何度も再燃するようだから、案外とビジネス的には好企画なのかもしれない。
 東北寒村における貧困が、娘を奉公に出すという人身売買の背景にあることは言うまでもない。実家の困窮の程度によって、娘の奉公先は名家や豪商になったり(おしんの場合はこれ)、悪いときは遊郭や女郎部屋ということになる。『おしん』だけでなく数々の日本映画を見るかぎり、この娘の奉公という事象は、日本文化の一端さえ担った側面もある。努力、忍耐、成功への道もあり、悲惨な末路だけではなく、近代日本産業社会の影の功労者としての側面が否定できないのである。
 今回の劇場版リメイク『おしん』は、奉公という試練と相対する少女時代だけに絞っている。最初の奉公先で失敗し、脱走兵との隠遁生活をへて、二度目の奉公で人生を好転させる。おしんの心性を見込んで教育を受けさせる「加賀屋の大奥様」の役に、朝ドラ版でおしんの母を演った泉ピン子が昇格した。朝ドラでおしんを演った小林綾子は加賀屋の嫁に昇格。「大奥様」をかつて演じたのは長岡輝子だ。成瀬巳喜男『山の音』(1954)で愚痴っぽい姑を演じた新劇界の名女優である。泉が長岡にどの程度拮抗し得たかは、じかに確認していただきたい。


全国東映系で公開
http://pr.livedoor.com/movie/oshin/

『天国の門』デジタル修復完全版 頌

2013-10-25 03:10:34 | 映画
 「サッシャ・ギトリをまともに見ることさえできないこの国で、サッシャ・ギトリの全作品レトロスペクティヴが実現される日まで、われわれに梅本洋一を追悼する資格などありはしない。」
 梅本の葬儀の日、蓮實重彦は弔辞において、厳しい口調で上のように語った。それを聴く参列者たち(私自身もふくめて)はその時「そんなのどうせ無理」と心中つぶやいたに違いなく、私は私のそういう愚劣な常識主義を呪わねばならない。
 でも、そういう愚劣な常識主義とは無縁な、非常識を平然と常識として行う才能が、私たちのすぐ至近距離に存在しているのである。樋口泰人は評論家としての理念を、事業主として具体的な実行に移すという規格外のことを行い続ける稀有なタレントである。伝説の対談本『ロスト・イン・アメリカ』(2000 デジタルハリウッド出版局)を読んだ人間なら誰もが、樋口泰人が『天国の門』を配給するという非常識の常識にいたることを簡単に理解するだろう。『天国の門』デジタル修復完全版が今回こうして上映されたことは、私たちに素晴らしい経験をもたらしたが、それは幸福なことがらであるというより、私たちの不幸をより明確にする。
 さらに、関連出版物として出た遠山純生編著による『マイケル・チミノ読本』(boid刊)。これは遠山純生が書いた本なのか、訳した本なのか、そのあたりがよくわからない不思議な本なのだが、これがすごぶるおもしろく、するすると読めてしまう摩訶不思議な文体である。チミノの本であると同時に、撮影界のスター、ヴィルモス・ジグモンドがもうひとりの主人公である。

『ハッピー・イヤーズ』 ダニエレ・ルケッティ@東京国際映画祭

2013-10-21 03:04:06 | 映画
 東京国際映画祭のコンペティション部門、ダニエレ・ルケッティの『ハッピー・イヤーズ』。作者の両親をもとに産みだされたカップル像──グイドとセレーナ──が、1970年代のローマという場所でいかにして愛しあい、傷つけあったか。祖母よりプレゼントされたキヤノン製スーパー8カメラを持った少年(作者の自画像)の視点から見えてくる男と女の容赦のない性的肖像といったところである。
 ミラノ在住の辛辣な美術評論家との確執と、ラスト近くの和解の経緯が非常にいい。『君の不在』と名づけられた、肥大化し、横たわり、絶え間なく涙のようなミストを浴び続ける粘土の像が、見る者の心に響く。夫としても、子どもの父親としても、ひとりの美術作家としても、いずれにおいても未熟なまま苦悶する夫(キム・ロッシ・スチュワート)は、いったいどこへ行くのか? 少年はおそらく、自分が父母の決定的別離を促す映像を撮ってしまい、それを家庭で試写することによって重大な局面を作り出したことに気づいてはいない。
 作者の師匠であるナンニ・モレッティのように、映画表現の限界を食い破るほどの過激さは持たないまでも、フィルム撮影への敬意──フィルムを回すことによって何かが撮れてしまうということへの恐れ──にどこまでも忠実たらんとするルケッティの姿勢に好感が持てる。

《上海博物館 中国絵画の至宝》@東博・東洋館

2013-10-18 02:23:01 | アート
 この感慨をどのように表現したものだろう?
 中国美術を愛することにかけては人後に落ちぬと威張るのは何だが、そういう私の胸中にぽっと温かい蝋燭の光を灯してくれたのが、今回の東京国立博物館(東京・上野公園)の東洋館リニューアルオープン記念特別展《上海博物館 中国絵画の至宝》である。東洋館の行き慣れた第8室。リニューアル後初めての訪問なり。耐震化工事だけでなく、展示会場の真ん中にエレベータが設えられて、心躍る。いつもの閑散とした第8室ではない。人垣ができている。嗚呼、領土問題や歴史認識問題でごちゃごちゃしていても、美を愛する人はまだこんなにいるのだなぁ。だから東京という街は大好きなのだ。
 眼福としか言いようのない絵が所狭しとビッチリと掛けられている。今展は前期と後期がまるで違う展示なので2度行かないと意味がない。スペイン滞在の前に前期が見られてラッキーだった。
 中で私がもっとも心を奪われた作品は、宋末元初の画家・銭選の『浮玉山居図巻』である。銭選は、いわゆる士大夫による南画の系譜に属し、2005年に台北で出版された『100位中國畫家及其作品』(中国の画家ベスト100)でももちろんランクインしている。南宋が滅亡した後も元の宮廷からの誘いを断り、故郷で隠棲したことも、「二君に仕えず」の典型的な人物像として人気の秘訣であろう。
 だがそれだけでなく、「清雅簡潔」の理想を地で行く画風もすばらしく、さらに後代の文人や皇帝たちが『浮玉山居図巻』の巻末に紙を継ぎ紙を継ぎしてオマージュを我も我もと書き連ねている。その各オマージュの筆致の美しい書面、文のこれ以上ないほど推敲された敬愛が、私の瞳をしたたかに撃ち、時間を止める。


東洋館リニューアルオープン記念特別展《上海博物館 中国絵画の至宝》
http://www.tnm.jp

『Miss ZOMBIE』 SABU

2013-10-15 00:40:18 | 映画
 ゾンビ(リヴィング・デッド)物というジャンルは、スタジオ・システム崩壊後の残骸から、アメリカ各地の大学の映像学科や映研サークルにおいて勃興したポスト・スタジオ・システム的な新ジャンルだろう。したがってそれはどこかニューシネマ的なカジュアル性を帯びて、大衆性とマニア嗜好性を両立させてきた。
 最近では、ニール・ブロムカンプ『第9地区』でグロテスクなゾンビとの遭遇ゆえに人間がアパルトヘイトを再び敷かざるを得ない状況を、乾いたカメラワークでユーモアたっぷりにとらえていた。いっぽう先日PFFで見た富樫渉の自主映画『Living with the Dead』は、ゾンビとの共生をかろうじて結ばんとするユニークな試みだった。
 SABUの新作『Miss ZOMBIE』はそういう意味では後者──ゾンビとの共生の試み──に属する。ある有産家庭に巨大な小包で届いた女ゾンビ。彼女をめぐる人間どもの喜怒哀楽、性的欲情その他。ポスト・スタジオ・システム的な新ジャンルであるゾンビ・ムーヴィーにゴシック・ホラーの表現主義を適用しようとする反時代的な試みである。露出過多ぎみのモノクロ映像で紡がれるゴシック・ホラーのゾンビ。ちょうどそれは、私たち生身の人間がかつて愛した人の追憶──それはもう新たな感情を創出することはない。彼(彼女)は微笑みもしないし、怒りもしない──が凍結したまま現前したという画面である。そしてそれは本質的に(ゾンビのホラーは感情的にはコメディのはずだが)悲劇的な様相を呈さずには済まないだろう。
 SABUの映画はこれまで見てきて、一本もいいと思ったことがない。近作『蟹工船』(2009)などは醜悪そのものだった。しかし今回は悪くない。


キネカ大森(東京・大田区)ほかで続映
http://www.miss-zombie.com