荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ローマでアモーレ』 ウディ・アレン

2013-06-26 00:00:21 | 映画
 ロンドンを起点にバルセロナ、パリ、そして今回はローマと、西欧の大都市を経巡りながらウディ・アレンは映画を撮り続ける。いわゆるニューヨーク派の代表的作家の身でありながら、ホームには拘泥せずにアウェーでの転戦に余念がない。これは、彼がもっとも忌み嫌うハリウッド、ロサンジェルスの街に対する包囲網を形成するための長征なのである。
 では彼は、スタジオ・システムのフォーマットに反旗を翻しているのだろうか? いや、そうではない。ロンドン(パインウッド)、ローマ(チネチッタ)とスタジオ・システムの土地を活用し、それをもって対ハリウッド戦略の塹壕を工作する。にもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、多くの識者がアレンを「最後の、あるいは唯一のアメリカ映画の作家」とさえ呼ぶ。アレンは、動揺を隠しきれぬといった表情を隠れ蓑に、クリシェと戯れてみせる。今作における失業中の女優(エレン・ペイジ)や『それでも恋するバルセロナ』のヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)のような軽薄なツーリスト像は、9.11以降に徐々にホームから離反していったアレンが散発的に放った、人を食った斥候なのである。そしてこの倒錯こそ、彼流の現代映画のせっぱつまった地図帳の凡例であると言っていいのではないか。
 マルコ・フェッレーリ後期の2作──『ありふれた狂気の物語』(1981)と『未来は女のものである』(1984)──のあのオルネラ・ムーティの姿をこの目に収める機会を得たのもありがたい。


新宿ピカデリー、Bunkamuraル・シネマ、品川プリンスシネマなど全国各地で順次公開
http://romadeamore.jp

古染付と祥瑞

2013-06-24 01:33:35 | アート
 長いあいだ諸外国には真似できない品質と精神性で圧倒的優位を誇った中国陶磁は、大きく分けて官窯と民窯のものとがある。まず官窯に目を投じると、宋代は青磁が最高を極めた時代、元代は西域からもたらされたコバルト顔料の普及によって青花白磁(日本で言う染付のこと)が天下を取った時代だった。明代となると御器としての青花は爛熟を極め、各皇帝の治世を青花白磁のできぐあいで推量できるほどである。
 徐々にこれらが景徳鎮の民窯でも焼かれるようになり、明代末期──日本では安土桃山から江戸初期──では皇室向けの御器は衰退し、親しみやすい絵柄、扱いやすいサイズと器形を揃えた民間向け白磁が全盛となる。そして日本人は、自分たちの好みや美意識に合致した青花を選んで大量に輸入し、時には好みに応じて特注製造させるまでになっていく。これらの民窯青花を私たちの祖先は、「古染付(こそめつけ)」と呼んで愛玩したのである。
 もうひとつ「祥瑞(しょんずい)」とは、これまで低品質なコバルト顔料で絵付けしてきた民窯磁器に、官窯に匹敵する高級顔料を用いたやきもので、ぐっと値打ちが高く、見た目も洗練されてくる。モチーフは民間好みだが、テクニックや材料は御器とくらべても遜色ないだろう。チラシ写真の前面に写っているのは祥瑞の「蜜柑水指」で、本願寺に伝世したもの。流麗な丸い器形が素晴らしく、藍色の染付の発色も申し分ない。
 緊張感のある美を尊ぶあまり、私などは南宋官窯や汝窯など、官窯の精緻なものばかり感激して見てきたのだが、こうして日本人がかつて、さして最高でもないもの、ひょっとすると失敗品、低級な俗悪品に対して、じつにオリジナリティ溢れる審美眼を向けてみせ、他国では思いもよらない価値観を創造してきたことを思うとき、民窯のやきものにも新たな興味が湧いてくる。いま、出光美術館に出揃った「古染付」も「祥瑞」も、私たちの視線を釘付けにし感激させるが、中国本国ではあくまで傍流扱いである。このあたりの審美眼の差異、価値観のずれこそ、もっとも興味深い事象である。私たちの時代にも、文化や芸術においてこんな差異やずれを生成できるなら、どんなに素晴らしいことだろうか。


出光美術館(東京・帝劇9階)で6月30日(日)まで
http://www.idemitsu.co.jp/museum/

『はじまりのみち』 原恵一

2013-06-22 08:14:04 | 映画
 戦意高揚映画、国策協力映画であるはずの『陸軍』(1944)のラストで、出征する息子に田中絹代が泣きながら追いすがる演出があまりにもウェットに過ぎるということで、軍部から批判された映画監督・木下惠介は、デビュー間もない32歳で沈黙を余儀なくされる。この期間の1945年6月、脳梗塞で闘病中の母親を疎開させるために、母親をリヤカーに乗せて60㎞の山道を引いて歩き通す。たったそれだけのエピソードだけで成り立つのが、今回の木下生誕100年記念映画『はじまりのみち』で、よくもまあこんな地味な企画が通ったものである。戦時における孝行息子の一昼夜におよぶ道行きという点では、主人公が木下惠介である必然性がないほどに抽象化された物語である。
 そこに戦意高揚への違和という、いわば現代に一脈通じそうな位置どりで、木下の庶民的エモーションを援用するあたりの製作側の政治的バランス感は非常にすばらしい。また、山間部の道行きを緩慢なトラヴェリングで撮らえ続けるという運動感覚は、木下的というよりよりは清水宏的と言ったほうがいいだろうが、これは広く「大船調」と見てよく、「大船調」がノスタルジックなホームドラマや軟弱なメロドラマだけに与えられた仇名でないことを改めて思い出させる。
 問題となった『陸軍』のラストシーンが途中で引用されるが、息子の姿を遮二無二追いかける母親(田中絹代)を撮らえる横移動ショットの凄味は、改めて見ても異様なほどで、このシーンはどれだけ苦労して撮ったのだろう? 『日本の悲劇』『太陽とバラ』『惜春鳥』の激烈な例を引くまでもなく、私たちは、木下惠介がトラヴェリングの名手であったことも思い出さなければならない。
 また、このわずかなオフ期間における諸事象が、その後の木下映画の予兆となっている演出も心憎い。母親を負ぶさって山を歩く体験から『楢山節考』(1958)を予期させ、川の向こう岸を児童に囲まれて歩く女教師(宮凬あおい)の浮かぬ表情を見て『二十四の瞳』(1954)を、戦時中に沈黙を余儀なくされる自身の心中に『少年期』(1951)の父親像(笠智衆)を、恋人たちを乗せた馬車に対する憧憬から『わが恋せし乙女』(1946)を、空腹時にいだくカレーライスへの欲望から『破れ太鼓』(1949)を、日の出に手を合わせて拝むというしぐさから『野菊の如き君なりき』(1955)を、作者ともども予期させていくイメージ的遊戯である(余談ですが私はやはり『野菊の如き君なりき』が木下では一番好きですね)。もちろん母親への包み隠すことなき思慕は、彼の全フィルモグラフィを貫通するものだろう。主人公(加瀬亮)の母親を演じた田中裕子は、今秋公開予定の青山真治『共喰い』ともども、今年の助演女優賞確定である。


東劇(東京・築地)ほか全国で公開
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『華麗なるギャツビー 3D』 バズ・ラーマン

2013-06-19 07:17:46 | 映画
 『華麗なるギャツビー』といっても、ロバート・レッドフォード主演の前回映画化(1974)はまったく参照するべくもない。同じフィッツジェラルド原作だが、前回と今回では内容も製作条件もあまりに乖離している。ようするに今回は完全にバズ・ラーマンの映画になっているためである。
 バズ・ラーマンの代表作『ムーラン・ルージュ』が公開された2001年、横浜国立大学での「映像論」の授業で、私はバズ・ラーマンを「現代映画で最も気の小さい監督」と紹介した記憶がある。『ムーラン・ルージュ』は1カットの長さが1秒以下しかない。取っ替え引っ替え次から次へとカット割りされて、忙しいことこの上ない。当時はこれが、相も変わらぬ「MTV感覚」の名のもとにハリウッド新時代のごとく見られたりもしたのだから、なんと牧歌的だったのだろう。カットを細かく刻みさえすれば「見る側が退屈しない」などという貧しい発想は、TVディレクターのなかでも最も単細胞な層だけが信じている邪教であって、こんな輩は「テンポの遅い映画は貧しい映画」と本当に信じ切っているのだから、笑止千万である。日本だとひな壇形式のバラエティがちょうどバズ・ラーマンのテンポに相通じる。
 それにしても気の小さい監督でも、ここまでできるのか! 今回版『華麗なるギャツビー 3D』が現出させる1920年代バーレスクのヒップホップ化は、バズ・ラーマンの功の部分である。才能のない監督のもとでも、巨額の予算とスタッフ、キャストの力でここまで見応えあるものができてしまうのである。
 ただし、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2003)以降のレオナルド・ディカプリオは、『ジャンゴ』『J・エドガー』『インセプション』『シャッター アイランド』『アビエイター』など、アイデンティティ危機を孕んだ謎の人物だの、権力者だのそんなのばかりを演じている。「現代のオーソン・ウェルズ」でも目指しているのだろうか、顔つきも心なしかそんな風になってきてしまった。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)ほか全国で公開
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『グランド・マスター』 王家衛

2013-06-17 00:17:04 | 映画
 ブルース・リーの詠春拳の師匠で本作の主人公である武術界の巨匠・葉問(イップ・マン 1893-1972)については、葉偉信監督と甄子丹(ドニー・イェン)のコンビですでに完成度の高いシリーズ2作が発表されているのだから、いまさら国際的巨匠である王家衛(ウォン・カーウァイ)がわざわざ立候補するまでもない題材であるように思える。また、梁朝偉(トニー・レオン)と章子怡(チャン・ツィイー)が束になってかかっても、ドニー・イェンのカンフー・アクションには敵わないというのもこれ必然である。
 しかして画面は、それがアクションであることをあえて台無しにするのように、『恋する惑星』の重慶マンションの場面と同様の〈間欠フリーズ〉が多用され、戦いはスローモーションによって引き延ばされる。王家衛のアクションに対する考え方は私たち常人の理解とはかけ離れたところにあるようで、そのひとつの解答が、7月公開予定となっている旧作『楽園の瑕』の「終極版」なる再編集バージョン(Blu-rayではリリース済み)を見ることで、もう少しははっきりするのではないか。
 第一線に立つこと能わず、時勢の変化に埋没してゆく武術の名家令嬢(章子怡)が、物語の後半で梁朝偉に対して述べる「悔いのない人生を、と人は言うけど、悔いのない人生なんて味気ないわ」というセリフが、この作品全体の気分を象徴的に示している。彼女は勝負に勝って、人生に敗れた。王家衛の映画にあって、人物の生は、没落貴族の令嬢のつく溜息のようなものでしかない。日中戦争、財産没収、国共内戦、香港封鎖とつづく試練をへて、かろうじて主人公は生き延びるが、彼の周囲の人物たちは空しく舞台から退場していく。『グランド・マスター』はカンフー映画を偽装しながら商いに勤しんでではいても、記念写真を多用し、バックミラーばかりを眺めるメランコリックな映画群に属している。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほか全国で上映
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