ロンドンを起点にバルセロナ、パリ、そして今回はローマと、西欧の大都市を経巡りながらウディ・アレンは映画を撮り続ける。いわゆるニューヨーク派の代表的作家の身でありながら、ホームには拘泥せずにアウェーでの転戦に余念がない。これは、彼がもっとも忌み嫌うハリウッド、ロサンジェルスの街に対する包囲網を形成するための長征なのである。
では彼は、スタジオ・システムのフォーマットに反旗を翻しているのだろうか? いや、そうではない。ロンドン(パインウッド)、ローマ(チネチッタ)とスタジオ・システムの土地を活用し、それをもって対ハリウッド戦略の塹壕を工作する。にもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、多くの識者がアレンを「最後の、あるいは唯一のアメリカ映画の作家」とさえ呼ぶ。アレンは、動揺を隠しきれぬといった表情を隠れ蓑に、クリシェと戯れてみせる。今作における失業中の女優(エレン・ペイジ)や『それでも恋するバルセロナ』のヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)のような軽薄なツーリスト像は、9.11以降に徐々にホームから離反していったアレンが散発的に放った、人を食った斥候なのである。そしてこの倒錯こそ、彼流の現代映画のせっぱつまった地図帳の凡例であると言っていいのではないか。
マルコ・フェッレーリ後期の2作──『ありふれた狂気の物語』(1981)と『未来は女のものである』(1984)──のあのオルネラ・ムーティの姿をこの目に収める機会を得たのもありがたい。
新宿ピカデリー、Bunkamuraル・シネマ、品川プリンスシネマなど全国各地で順次公開
http://romadeamore.jp
では彼は、スタジオ・システムのフォーマットに反旗を翻しているのだろうか? いや、そうではない。ロンドン(パインウッド)、ローマ(チネチッタ)とスタジオ・システムの土地を活用し、それをもって対ハリウッド戦略の塹壕を工作する。にもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、多くの識者がアレンを「最後の、あるいは唯一のアメリカ映画の作家」とさえ呼ぶ。アレンは、動揺を隠しきれぬといった表情を隠れ蓑に、クリシェと戯れてみせる。今作における失業中の女優(エレン・ペイジ)や『それでも恋するバルセロナ』のヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)のような軽薄なツーリスト像は、9.11以降に徐々にホームから離反していったアレンが散発的に放った、人を食った斥候なのである。そしてこの倒錯こそ、彼流の現代映画のせっぱつまった地図帳の凡例であると言っていいのではないか。
マルコ・フェッレーリ後期の2作──『ありふれた狂気の物語』(1981)と『未来は女のものである』(1984)──のあのオルネラ・ムーティの姿をこの目に収める機会を得たのもありがたい。
新宿ピカデリー、Bunkamuraル・シネマ、品川プリンスシネマなど全国各地で順次公開
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