雑誌における映画レビューの連載というと、私はなぜか途端に不寛容なる頑固老人χと化して、書店で立ち読みしながら心の中で毒づいているのが常である。「どうしてこの書き手は少なからぬ(?)ギャランティをもらって、この程度のことしか書けないのか?」などと、おのれの不明を省みずに無言で毒づくのである。「キネマ旬報」誌における浦崎浩實の連載「映画人、逝く」のような例外は、過去にも決して数多くはない。
私自身、一度だけ連載をもったことがある。1990年代後半から2000年代前半の「図書新聞」紙における「映画の現在」なるものがそれで、何を書いたか今ではまるで覚えていないけれども、わがAlter egoたる頑固老人χの毒づきを免れ得るかといえば、そうでもあるまい。
たとえば津村記久子の「en-taxi」誌における連載「えいがてくてく」などは、客観的にみれば脱力系映画評論としては悪くない連載なのかもしれないが、これは頑固老人χの醸す不寛容の典型的な被害者となっている。じっさい、この小説家の物言いはなぜ毎度こうでしかないのだろう?と不思議でしかたがないのだ。津村本人からすれば、本職でもない雑文でごちゃごちゃと姑じみた小言を言われるのは、まことに余計なお世話であろうが。
そこへ行くと、劇作家・演出家の本谷有希子の「日経エンタテインメント!」誌における聞き書きの連載をまとめた最新刊『本谷有希子の この映画すき、あの映画きらい』(日経BP社)は、その見解がことごとく頑固老人χのそれと異にし、またその異なり方が〈書き手-受け手〉のがっぷり四つの感覚を限界なく高めてくれ、これはこれで頑固老人χの出動のし甲斐があるというものである。
なにしろ、クリント・イーストウッドのあの素晴らしい『チェンジリング』(2008)が彼女にかかると、述べるべき感想によほど難渋したのか、すさまじくデカイ文字でたった8行をもって済まされ、「本当の事件がベースだから変に演出しなくても充分におもしろいことはできる、ということなんだろうな」とあっさりと締めくくられてしまう。文中の「変に演出しなくても」というところに多大なる含蓄があるのかもしれないが、頑固老人χにとってイーストウッドは(たとえキャストには何の指示も出さないとしても)ただただ偉大なる「演出」の人なのであって、「演出しなくても充分におもしろい」などと無手勝流に放言されるスジアイはないのだ、というふうに、あらぬ興奮を掻き立ててくれる。
その他つれづれに列挙すると、「人間を描けるダニー・ボイルですらそうなんだ」(『スラムドッグ$ミリオネア』)…へえ、ダニー・ボイルは人間を描ける人でしたか。「見終わったあと30分くらいしたら何が描かれていたか忘れちゃう」(『それでも恋するバルセロナ』)…どうぞ心置きなくお忘れください、頑固老人χが記憶力を代行します。「アニメを真似したアニメに見えてしまった」(『サマー・ウォーズ』)…ああそうですか、貴女は演劇を真似した演劇を作ったことは一度もないですか。「今はまだ “すごいもの生まれろ!” という監督の願いを一緒に見ているよう」(『しんぼる』)…お付きあいを大事になさいますね。
以上、この人の投球は頑固老人χにとって、すべて打ち返しやすいコース。もちろん、わが意を得た完全同意の作品評も数多くあったが、それは挙げてもつまらないだろう。この本から繰り出される投球はキャッチャーとしてでなく、バッターとして付き合ったほうが元気よく読める。
私自身、一度だけ連載をもったことがある。1990年代後半から2000年代前半の「図書新聞」紙における「映画の現在」なるものがそれで、何を書いたか今ではまるで覚えていないけれども、わがAlter egoたる頑固老人χの毒づきを免れ得るかといえば、そうでもあるまい。
たとえば津村記久子の「en-taxi」誌における連載「えいがてくてく」などは、客観的にみれば脱力系映画評論としては悪くない連載なのかもしれないが、これは頑固老人χの醸す不寛容の典型的な被害者となっている。じっさい、この小説家の物言いはなぜ毎度こうでしかないのだろう?と不思議でしかたがないのだ。津村本人からすれば、本職でもない雑文でごちゃごちゃと姑じみた小言を言われるのは、まことに余計なお世話であろうが。
そこへ行くと、劇作家・演出家の本谷有希子の「日経エンタテインメント!」誌における聞き書きの連載をまとめた最新刊『本谷有希子の この映画すき、あの映画きらい』(日経BP社)は、その見解がことごとく頑固老人χのそれと異にし、またその異なり方が〈書き手-受け手〉のがっぷり四つの感覚を限界なく高めてくれ、これはこれで頑固老人χの出動のし甲斐があるというものである。
なにしろ、クリント・イーストウッドのあの素晴らしい『チェンジリング』(2008)が彼女にかかると、述べるべき感想によほど難渋したのか、すさまじくデカイ文字でたった8行をもって済まされ、「本当の事件がベースだから変に演出しなくても充分におもしろいことはできる、ということなんだろうな」とあっさりと締めくくられてしまう。文中の「変に演出しなくても」というところに多大なる含蓄があるのかもしれないが、頑固老人χにとってイーストウッドは(たとえキャストには何の指示も出さないとしても)ただただ偉大なる「演出」の人なのであって、「演出しなくても充分におもしろい」などと無手勝流に放言されるスジアイはないのだ、というふうに、あらぬ興奮を掻き立ててくれる。
その他つれづれに列挙すると、「人間を描けるダニー・ボイルですらそうなんだ」(『スラムドッグ$ミリオネア』)…へえ、ダニー・ボイルは人間を描ける人でしたか。「見終わったあと30分くらいしたら何が描かれていたか忘れちゃう」(『それでも恋するバルセロナ』)…どうぞ心置きなくお忘れください、頑固老人χが記憶力を代行します。「アニメを真似したアニメに見えてしまった」(『サマー・ウォーズ』)…ああそうですか、貴女は演劇を真似した演劇を作ったことは一度もないですか。「今はまだ “すごいもの生まれろ!” という監督の願いを一緒に見ているよう」(『しんぼる』)…お付きあいを大事になさいますね。
以上、この人の投球は頑固老人χにとって、すべて打ち返しやすいコース。もちろん、わが意を得た完全同意の作品評も数多くあったが、それは挙げてもつまらないだろう。この本から繰り出される投球はキャッチャーとしてでなく、バッターとして付き合ったほうが元気よく読める。