荻野洋一 映画等覚書ブログ

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梅雨時の鱧

2012-06-30 14:11:47 | 味覚
 私的近況也、請御了承。
 ここ1ヶ月の忙殺が一段落し、きょうは久しぶりにゆっくりと過ごしました。近所の日本橋界隈にて何か旨いものをと思い巡らし、人形町の「K」に初入店。ここはフグを喰わせる一軒ですが、いまの時期は鱧と鮎が旬です。ジュンサイと胡麻豆腐を突出しに、好物の鮒寿司、それから鱧の湯引きと焼霜造り、太田川の天然鮎塩焼き、賀茂茄子の炊合せを平らげつつ、「玉の光」(伏見)を二合…。鱧といえば、『秋刀魚の味』で東野英治郎が箸で空気を切りながら漏らす台詞「サカナヘンにユタカと書いて鱧か」をどうしても思い出します。生きた心地となりました。
 会計後は赤ら顔を晒しつつスターバックスへ。ダークモカチップ・ノンホイップ・フラペチーノ+エスプレッソ追加。これは「nobody」HPの「2011ベスト」でも触れましたが、昨夏以来のお気に入りです。なんとも簡単な脳味噌を持った輩の自助努力よ。

『道 白磁の人』 高橋伴明

2012-06-26 16:59:17 | 映画
 高橋伴明の新作『道 白磁の人』は、日韓併合期の京城(現・ソウル)で朝鮮の民芸研究に没頭し、柳宗悦に李朝白磁の美しさを教えた人物として知られる林業試験士・浅川巧(1891-1931)の短くも濃密な生涯を描いた伝記映画。雑なカット割りもあり、予算不足の感は否めない(三・一独立運動の描写などは甚だ薄っぺらい作りになってしまっている)ものの、時に滋味あふれる瞬間が通り過ぎ、作品中3度登場する葬列シーン(京城で2度、山梨で1度)の醸す悲哀は、あまりにも美しい。
 柳宗悦が浅川に朝鮮白磁を見せてもらって、その美に取り憑かれていくのは、千葉県我孫子の柳の邸宅に浅川がふらりと現れて李朝白磁の壺を置いていってから、と私は記憶していたのだが、この映画の中では柳が京城の浅川伯教・巧兄弟の家をみずから訪問し、その白磁コレクションにショックを受ける、という描写になっていた。たしかに本作における浅川巧(吉沢悠)は、壺を手みやげに高名な美術評論家の邸宅を訪れるような優雅な人物ではない。もっとせこせことあたりを駆けずり回り、進んで泥にまみれる。人物のとらえ方が温かい。その点で高橋伴明のヒットである。
 本作を私にメールで勧めてくれた友人Hは、「このように異文化に対してどっぷり帰依してしまう日本人というのは、本当に日本人の美点なのではないか。勿論、聖書のアイヌ語訳をおこなったバチェラーとか、そういう人はいろいろいるんでしょうが」と書いてくれている。これは誠に言うとおりで、異文化にかぶれることに警戒感や侮蔑を表明すること(フランス文化を妙に遠ざける傾向とか)が聡明さの証明であると考える向きもあるが、近代における狂い方として、他者にかぶれる(=歌舞レル)ことは現状突破の最も優れた方法である。そういえば私の学生時代、四方田犬彦の『われらが〈他者〉なる韓国』なる名著があったっけ。
 「韓国の山と芸術を愛した日本人、ここに韓国の土となる」という浅川の墓標(ソウル東大門区)は有名である。孫文を援助した梅屋庄吉などと並んで、アジア近代史において無条件に慕われる本当に数少ない日本人のひとりだろう。ここまで狂ってはじめて、隣人にも敵にも一目置かれるのである。
 韓国映画の巨匠イム・グォンテク(林権澤)の『族譜』(1978)あるいは『酔画仙』(2002)で登場する、朝鮮文化に理解を示す日本人像があまりにもあざやかな印象をもたらすため、これらの作品は抗日映画としては過剰にアンビバレントなものたらざるを得なかったが、併合期に少年時代を送ったイム・グォンテクの、浅川兄弟への絶ちがたき敬慕の念が、心ならずもファインダを覗く彼の目に湿り気を帯びさせたもの、と私は信ずる。そんな都合のいい証拠はないが。

P.S.
 先日までNHKで放送されていた韓流ドラマ『トンイ』でヒロインの後見人役だったペ・スビンが、本作で浅川巧の親友を演じている。同ドラマでは随分と大根に思えたが、本作ではすばらしい。


新宿パルト9、有楽町スバル座他にて全国公開
http://hakujinohito.com/

渡辺淳 著『喜劇とは何か』

2012-06-23 13:15:50 | 
 『零度のエクリチュール』の邦訳などで知られ、今年はめでたく卒寿を迎える評論家・渡辺淳の新著は、世界最高の座を二分する喜劇作家であるモリエール、そしてチェーホフの現代における存在意義を説いた『喜劇とは何か』(未知谷 刊)である。
 たとえばパリを訪れた旅行者は、キオスクで情報誌『パリスコープ』を買って見たい作品を物色すると、誌面上では、喜劇に限らず劇映画のすべてに「コメディ・ドラマティーク」なる不可思議な分類がなされていることに気づくだろう。日本ではよく「ヒューマン」と分類されるものが、これにあたるように思われる。こうした分類法の根源的意味を知りたいと考えたことのある方なら、ぜひ本書を手に取ることをお薦めするものである。

 金融恐慌、政界汚職、結婚詐欺にまみれる現代は、モリエールの時代に劣らずまさに喜劇の宝庫と言えるが、果たして現代作家がその好機を十全に利用していると言えるのか、という問題提起によって上記の有名すぎる2人の大家が召喚される。手垢にまみれた大家を論じることは、つねに書き手に多大な緊張と危機感をもたらすものだが、渡辺の筆致は、老大家ならではの怖いもの知らずの爽快さだ。
 いかなる笑劇(ファルス)の契機が、いかなる喜劇(コメディ)の具が、苛酷な現代を生きる私たちにもたらされるのか。著者は問う。現東京都知事・石原慎太郎の東日本大震災に際しての「天罰」発言、これを喜劇の具たりえるのかと。
 著者の答えは簡単で、これらは、喜劇はおろか笑劇の題材にさえならぬ単なる愚行に過ぎず、英BBCが広島と長崎の両都市でダブル被爆した日本人を「世界一運の悪い男」としてお笑い番組の「ネタ」に使用したエピソードと同根のものであるということである。ここに喜劇の契機となる諷刺を探すならば、「こうした扱いこそが逆に、笑劇を超えて喜劇創出の必要性を反面教師として示唆してもいるのではないだろうか」ということになる。
 では、離婚を決意した夫人に「原発事故の後、夫は東北の地元慰問を拒むどころか、自分の食器をミネラルウォーターで洗わせた男であり、その存在は日本のためにならない」などと弾劾せしめた小沢一郎という陰気な権力者の閨房を、一篇のトラジ・コメディ(悲喜劇)に仕立てることはできるのだろうか。これは喜劇だろう。黒澤なら大仰な黙示録にしてしまうところだろうが、増村保造あたりなら、小沢の胆力の欠如を嗤うと同時に、「日本のためにならない」などといったセリフをどこのメディアがたくみに利用するかという地点で陰惨きわまりない喜劇をでっち上げることだろう。
 考えてみれば、原発事故が起きたとき、「洗髪も食器洗いもヴィッテルやエヴィアンでおこなったほうがいいのか?」などとうろたえることじたいは悪徳ではあるまい。単に保守政治家としての沽券にかかわるといった程度の事情にすぎないのだ。夫人の告発を国内の大新聞がまるで報じないことに外国メディアが気づいて騒ぎ出したころ、告発から一週間も経過した6月22日、読売新聞HPが突如としてトップ級の扱いでこの件を報じたのだから、与党分裂騒動の折、裏側ではなにがしかの喜劇的な申し合わせが存在することだろう。

P.S.
 本書のもっとも「喜劇的な」瞬間は巻末の「あとがき」にやってくる。まずこの書物を「戦後長年連れ添い、またひととき演劇にも係わった亡き妻トヨ子(2007年癌で急逝)に手向けることを申し添えておきたい」と述べて、読者の読後感をいったん静かな良心で満たしたすぐあとに、「本書の作成に手を貸してくれた、もと大学の教え子で、このたび再婚した妻で助手の美智子に感謝」と90歳の老人は言い放ってはばからない。これぞ、愉悦満ちたる人間喜劇であろう。
 日本最大の喜劇作家・小津安二郎が寂寥と福々しさを極上の配分で調合した畢生のコメディ・ドラマティーク『秋刀魚の味』(1962)において、大学教授役の北竜二が前々作『秋日和』(1960)での屈辱を晴らすかのように助手の女性を「若い細君」とし、親友どうしの酒席もそこそこに、なにやら強壮剤らしき錠剤を友の前で服用しようとするシーンの、申し分のない喜劇的瞬間を思い出す。そして、ラスト近くで中村伸郎が一同をからかうように言う「きれい好き、夜はすこぶる汚な好き、てね…」のセリフはまさに、モリエール的と言えないだろうか。

auoneブログの旧記事、復刻のお知らせ

2012-06-19 16:17:46 | 記録・連絡・消息
 じつに久しぶりとなる恒例の〈auoneブログ旧記事・復刻プロジェクト〉。きょうは、2009年3月分を復刻いたしました。お時間ある時にでも、ご一読いただければ幸いです。

 この月に登場する人名は、クリント・イーストウッド、濱口竜介、デヴィッド・クローネンバーグ、三浦大輔、荒木一郎、アンドレイ・アルシャヴィン、ローラント・シンメルプフェニヒ、倉持裕、内田吐夢、小杉勇、小野比呂志、中原昌也、篠原悦子、矢部真弓、瀬田なつき、トム・クルーズ、ブライアン・シンガー、亀田鵬斎(かめだぼうさい)、佐原鞠塢(さはらきくう)、ロドリゴ・ガルシア、ヴァディム・パールマン、アン・ハサウェイ、ユマ・サーマン、エヴァン・レイチェル・ウッド、松林宗恵、香川京子、中村伸郎…といった人々です。

見てじつに愉しいスペインの0トップ、そしてイタリアの3バック

2012-06-17 15:31:12 | サッカー
 UEFA EURO 2012のグループC第1戦、スペインvsイタリアは1-1の引き分けだったが、話題を呼んだのは、スペインのノートップ(FWなしの4-6-0フォーメーション)とイタリアの3バックの変則布陣の対決だった。
 もっともスペイン代表監督ビセンテ・デル・ボスケは今年初めの時点で「(昨年10月の)スコットランド戦では前線に起点を置かない戦い方をした。それはわれわれが持っているオプションであり、活用すべきものだ。非常に有益なもので、自分たちの特徴に合っている」と述べており、中盤を分厚くしたノートップは、すでにこの時点で予告されていたと言っていい(このあたりの詳細は「Number PLUS」所収の拙稿「デル・ボスケ侯爵の憂鬱」を請参照。同記事は現在 NumberWebにも転載 されている)。
 左SBのジョルディ・アルバも含めると、MFを本職とするメンバーがフィールドプレーヤー10名中7名を占めている(ピケが以前ピボーテだったことを考慮するなら8名)。これは私の推測では、ビジャの骨折欠場、フェルナンド・トーレスの所属クラブでの長引く不振を受けたデル・ボスケが編みだした苦肉の戦法であろう。不調トーレスの代わりに、ジョレンテ(アスレティック・ビルバオ)もしくはネグレド(セビージャ)両FWを使いたかったのは山々であったものの、彼らをもしスターターとして使った場合、「繊細な神経のフェルナンド・トーレスはきっと腐るだろう」と分析したデル・ボスケ監督が、それならいっそ、かねてからペップ・グアルディオラのバルサで試行されていた、メッシを「偽の9番」に据えた事実上のノートップのひそみに倣い、4-6-0で本大会の初戦に臨んだものと思われる。ベンチワーク以上にロッカールームでのメンタルワークを重視するデル・ボスケならではのやり方である。

 いっぽうイタリアは、そのスペイン以上に興味深い。従来のイタリアの4-3-1-2ではなく、ASローマMFのデ・ロッシが3バックの真ん中をつとめるというかなり変則的な布陣。スペインの0トップも視野に入れたかのような3バックもさることながら、スイーパーの位置に予知能力に優れるデ・ロッシを置くことで、デ・ロッシとピルロの距離がぐっと近くなるという副産物をも生み出して、ゲームメイクにきわめて有効だった。
 イタリアはグループリーグ2戦を終えて、いまだ勝ち星なしの2引き分けに終わっている。バロテッリ、カッサーノ両FWの決定力不足ゆえ結果から見れば芳しくないが、2006年ワールドカップで優勝したときより遙かに魅惑的なチェーザレ・プランデッリ監督の頭脳的布陣は、グループリーグだけで見終えるのは、あまりに惜しい。実際、少なくとも過去20年間の中で、ロベルト・バッジョの存在をのぞけば最も魅惑的なイタリアではないか。ぜひグループリーグを突破してほしいと思う。