荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ニューイヤーズ・イブ』 ゲイリー・マーシャル

2011-12-31 23:25:57 | 映画
 『ニューイヤーズ・イブ』は大晦日のニューヨークを舞台に、複数のカップルのこの日一日の思い思いの過ごし方を絡みあわせた群像型のロマンティック・コメディで、『プリティ・ウーマン』のベテラン、ゲイリー・マーシャルの新作。前作『バレンタインデー』(2010)は未見なのだが、どうやら同工の企画であるようだ。大向こうを狙うというようなことはせず、大晦日という一日の中で起こりうる小さな事柄、大晦日という日の特殊性の中でこそ浮かび上がってくる人々の生き方、悔悛、やり直しなどが、ずらずらと並べられていく。
 物語のちょうど中間点ぐらいのところで、カウントダウン用の機材が故障し、これをカバーするために苦しまぎれにおこなったヒラリー・スワンクの時間かせぎ演説が、テレビやラジオを通じて全米に思わぬ感動を呼び起こすあたりは、非常によくできている。そして、故障したエレベータに閉じ込められたバックコーラスの女(リー・ミッシェル)が、タイムズ・スクエアのショーに出演中のボン・ジョヴィのヴォーカルに空間を飛び越えて呼応しつつ歌い上げる、などという馬鹿馬鹿しいカットバックも照れもなくやってみせる。
 この作品では自動車も、それが自分の役割だと主張せんばかりに、あっさり故障する。カウントダウン用の機材が故障し、エレベータが停止するのもすべて喜劇上の約束事として起こるのだ。何かが故障すると、その故障をカバーするために誰かが何かに努力をしなければならないし、故障を修理するためのおもしろい人物を召喚することもできる。『ニューイヤーズ・イブ』の画面は、そのような論理で繋がっているようだ。

*          *          *

 さて、今年もあとおよそ30分を残すのみとなりました。皆様にとりましては、どのような1年だったのでございましょうか。今年は、取り返しのつかない惨事が起きてしまったので、難しい年でしたし、これはもうなかったことにすることはできませんが、それでも来年という年が、皆様にとりましてよりよき1年、実り多き1年となることを祈念しつゝ、ご挨拶申し上げます。有難うございました。


『ニューイヤーズ・イブ』は、12月23日(金)より丸の内ピカデリーほか全国で上映中
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拝むという行為について

2011-12-28 20:21:17 | 身辺雑記
 いろいろと動き回った台北だったが、きのう午後のエバー航空機で帰国した。最終日の朝、宿近くにある行天宮という関羽を祀る廟に散歩がてら訪れた。冬の雨に打たれるのもかまわず、無我夢中で拝んでいる人々。台湾人は現世利益を拝むとよく言われるけれど、いったい何が拝まれているのだろうか。私には、それが拝むというそれ自体の行為以外にないのではと思えたが。
 線香を捧げ持つ男性の前には、立派な青銅器の鼎がある。黒々としてはいるが、やはり青銅であろう。鼎(三足分立の器)というのは人類が生んだ最もすばらしいフォルムのひとつだと思う。

 帰国の前の晩に食べた杭州料理店があんまり旨いので、最終日の昼食もそこに予約を入れて、あまり時間はなかったが再び舌鼓を打ち、帰国の便に乗った。

台北に滞在す

2011-12-26 03:30:35 | 身辺雑記
 土曜の午後から台北に滞在している。成田→桃園という共に都心から遠距離の国際空港ではなく、羽田→台北松山という去年から就航開始した、都心から近い旧空港のコースを使ってみたが、俄然、足回りが迅速になった。

 当地の旨いものに相変わらず目がないが、食べるだけではない。地下鉄の士林駅からバス「紅30」で行く國立故宮博物院(左写真)は、もうかれこれ4度目の訪問だが、ここは文字どおり珠玉の美の殿堂だ。玉器、青銅器などは質量ともに当地でしか見られない充実ぶりだし、私の大好きな定窯の白磁、汝窯の青磁、あるいは山水など、7時間も滞在してへとへとになるまで見て回っても全部はムリという壮大な規模である。これまでの訪問ではなかった同館4階の茶館「三希堂」でいただく文山包種茶は最高の味だった。
 第二展示場でおこなわれている特別展《清・康煕帝と、フランス太陽王ルイ14世の交流》展は、地元民の動員で大混雑しているので、すばやく流して見終えたが、今回はこれまでよりも玉器と山水の展示が増大していて、見応えがあった。

池大雅について

2011-12-23 17:56:02 | アート
 秋も深まった先月の末、私は泉州への小さな旅をした。大阪府南部から和歌山県あたりに隠れている美のありかを探り当てるかたわら、日没後は、浪花の味覚を愉しむという時間だった。この旅に私を駆り立てたものについても、書いておきたいと思う。

 池大雅(いけのたいが 1723-76)という画家・書家がいる。日本美術の偉人のひとりで、南画(文人画)の大成者とされる人であり、たとえば木村蒹葭堂などは彼の弟子である。そしてこの池大雅の晩年の代表作に『洞庭赤壁図巻』(1771 重文)というすばらしい大作があって、2007年から続けられてきたその修復作業の完成を記念し、10月から11月にかけて、ニューオータニ美術館(東京・紀尾井町)で作品展がおこなわれた。たったの13点のみの展示ながら、これは今年のベスト1に推したいほどすばらしいイベントだった。

 鎖国下の近世日本で、洞庭湖や瀟湘、赤壁といった中国の名勝の山水を、明るいタッチで描き継いでいくスタイルは爽やかそのものである。もちろん彼自身、一度も中国など行ったことがないわけで、渡来の画譜類、そしてヨーロッパ絵画の手法も参考にしつつ、彼独自の「胸中山水」を拡大していったが、私は彼の本質はロード・ムービーだと思う。旅を愛し、登山を愛しつつ、彼の筆は横へ、横へと広がっていき、長大なる横長のスクリーンが現出していったのだ。いくら日本国内を歩き回ってスケッチをくり返したところで、本場中国の山水画に近づくことは幻想に過ぎないことは、百も承知だっただろう。それでも彼は、胸中をネガ紙として山水を現像し続け、その筆致は歩行のリズムを正確に刻んだ。
 その池大雅が画家としてデビューしてまもない26才の時(1750)に紀州・和歌山を訪ね、リスペクトの意を捧げにいったのが、すでに75才となり、翌年には亡くなる文人画の先駆者・祇園南海(ぎおんなんかい)である。池大雅は出来たての新作『楽志論図巻』(1750)を、私淑する南海に見せ、巨匠は若き才能が遠路はるばる訪ねてきたことに謝意を示し、この新作に跋を寄せた。祇園南海については、こちらの拙文を請参照。

 ニューオータニの壁ポスターを見て、南海のまとまった数の作品を見られる稀なる機会が、和歌山市立博物館にあることを知り、居ても立ってもいられなくなり、気づいたら新幹線に乗り、泉州・紀州の旅に出たのである。

森田芳光と、それにまつわる幾つかについての覚書

2011-12-22 00:10:00 | 映画
 死去した森田芳光のフィルモグラフィを、改めてウェブ上で眺めてみた。1990年代後半ぐらいから未見作品がぽつぽつ出ている。たとえば『39 刑法三十九条』『海猫』『サウスバウンド』あたりが未見となった。
 『(ハル)』(1996)以前のものは、自主映画時代をのぞけば全部見ているはずである。『の・ようなもの』(1981)は『家族ゲーム』(1983)の公開後に、後追いで見た。非常に刺激を受けたが、徐々にこの人の作品への関心を失いはじめ、やがて鬱陶しく感じさえした。なぜなのか、そのことを深く考えたことがない。考える時が来るだろうか?
 10代のころは樋口可南子の大ファンだったから、『ときめきに死す』(1984)は初日に見に行ったと思う。池袋東急だったか。矢作俊彦の日活アクションへのオマージュ映画『AGAIN』と併映だった。沢田研二と樋口可南子が、家具のない空漠たる部屋で、キャンディの入った透明なガラス瓶をごろごろと転がし合うカットが大好きで、脳裏で長く反芻したものだ。樋口可南子がすごく綺麗だった。そういえば、この作品で無意識下のメフィストフェレスのような役を演じたのが、今年亡くなった杉浦直樹である。

 わが祖父が宮仕えを退官後、新宿戸山町の家を引き払い、西武線・田無の平凡な住宅街でたばこ屋兼菓子店を始めたのは、私が小学校1年生ぐらいの時だったか。そのころはもう、新宿で騒乱らしい騒乱も起きなくなっていたし、交番が焼き討ちに遭うということもなくなっていた。新宿の騒ぎは、幼き身にも心ときめくものがあったが、どっちにしろ田無ではもう、そういうものとは無縁となる。目の前に栗畑の広がる田無で、菓子店のケースの上に乗ったキャンディ入りのガラス瓶が、まぶしくもあり、と同時になにやら寂寥たる気配も抱いたものだ。それから十余年後、透徹した作品『ときめきに死す』を見ながら、私は祖父の店のガラス瓶を思い出していた。いや、思い出すというのは正確ではない。その時にはまだ、そのたばこ屋兼菓子店は営業されていた。
 それから数年経った1990年代の初頭、そのころ知り合った篠原哲雄氏と飲んでいた際、「『ときめきに死す』で衝撃を受けたのが、映画界に入ったきっかけなんだ」と語るのを聞いて、嫌な気持ちがした。その後は大活躍することになる篠原監督には悪かったけれど、自分の中で何かがすうっと冷めていくのを、止めることができなかった。それからまた数年経った1995年の秋、祖父は死んだ。


P.S.
 森田芳光監督は日大芸術学部出身であるが、私の出身サークルである「早大シネマ研究会」に、早川光らと共に所属していたと、キネ旬の旧・監督事典に書いてある。山川直人、室井滋、石井めぐみ等によって当研究会が勃興するよりも以前のことだから、誰に聞いてもそのころのことは「わからない」と言っていた。どなたか、そのような太古の物語を教えてほしいものである。イメージフォーラムの池田裕之氏あたりに聞けば、ご存じなのだろうか?