荻野洋一 映画等覚書ブログ

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北岡正三郎 著『物語 食の文化』

2011-08-30 09:40:23 | 
 右の絵は、1930年にフランスで出版された『パリのレストラン』内の挿絵で、19世紀初頭のパリでもっとも繁盛したプロヴァンス兄弟の店を描いたもの。フランス革命の結果として、ディナーというものが宮廷や城館を飛び出して、街角に進出するようになった時代の図である。画面上手にはシャンパングラスをもったブルジョワ紳士が、テーブルの下で足を組んでいる。そしてこの、椅子に座って足を組むという行為にも歴史があるのである。
 ところで、私が学生時代に習ったヨーロッパ出身のとある女性語学教師は、映画の趣味ではカイエ派だったようだが、食事マナーではひどく厳格な印象を受けた。彼女は、食事中に足を組むクセをもつ日本女性の多いことに、ずいぶんとおかんむりであった。「足を組んで食べるのは、ヨーロッパでは売春婦だけです」と先生はため息をついたものだ。
 そして今日の東京。ランチをとりにレストランやビストロを訪れると、べつだん見るでもなく目に入ってしまうだけだが、女性客のほぼ全員が足を組んで食事をしている。白人女教師の憤りもむなしく、足を組んで食べものを頬ばることはもはや、日本女性のデファクト・スタンダードとなった感がある。とはいえ語学教師の憤りに同感を表明することは、全日本女性を敵にまわすことになるだろうから、丁重に辞退しておこう。
 おそらくデファクト・スタンダード化の原因のひとつは、ミュールの流行であろう。ヒールが高いうえに、かかとと外側にホールド感のないミュールという履き物は、椅子に腰かけた際、両足と床との接点に安定性を欠くため、いっそのこと王貞治のようにフラミンゴの要領で一本足となった方が、逆に重心を保てるわけである。ただし、ヨーロッパ諸都市の状況を眺めてみるならば、語学教師の憤りのほうに分があるように見えるのだが。

 マナーの話は私も他人をあまり笑えないので、足組みの話はこれくらいにする。とにかく「食」というものはタテヨコの拡がりをもっている。地域的な拡がり、歴史的な拡がりである。それは、万巻の書によっても書ききれぬ厚みを有する。
 ところが、新書というもっともお手軽な形式でそれをやってしまった無謀な書が出たのだ。御年86才を迎える京都大学出身の農学者・北岡正三郎の著した『物語 食の文化』(中公新書)である。これは奇跡の本であり、有袋動物のようなおそるべき巾着のような拡がりをもつ。かつて拙ブログにて、〈小百科〉というジャンルへの愛を表明したことがある。上に例を挙げたような「女が足を組んで物を食べること」というような事象に興味が湧いた場合、小粒な文字がびっしりとつまった『物語 食の文化』という〈小百科〉は、凡百のグルメガイドが到底達することのできない知恵を読み手に授けてくれるのである。

 この偉大な新書に対し、ひとつだけ重大な不満を述べなければならない。2011年6月25日付で発行された本なのに、大震災についてまったく言及がないのは、いくら関西の老人が書いた本だとはいえ、決定的な欠陥である。もし第2版が出るならば、最終章は書き換えられるべきである。レベル7の原発事故の起きてしまった国土における食のあり方(もしくは、食の不可能性)を、電源権益にあずかる勢力の強弁的な世論工作から引き剥がすことが、こうした本の著者の責任と考えられないだろうか。
 保守派マスコミは依然として電源権益の片棒を担いでいる。「風評被害」などという陳腐な語は、せいぜいFUJIYA事件や毒入りギョーザ事件程度に使われるべきものであって、原発のメルトダウンが発生した今となっては、単なる死語だろう。もっとも、読売の軍門に下った中央公論の出す新書に、そこまでの見識を求める私のほうが愚かなのかもしれない。

『監督失格』 平野勝之

2011-08-27 06:55:50 | 映画
 『監督失格』には、女優・林由美香と監督の平野勝之とのあいだで起こった出会い、恋愛、撮影旅行、破局、そして死別が写っている。林由美香は、おもにAVそしてピンク映画で活躍した女優で、2005年に34才で急逝した。
 すでに話題を振りまいているように、本作の終盤では、平野が林由美香の遺体を発見してしまうという、たいそう悲惨な現場がワンカット長回しで撮影されており、不謹慎ながら、これが最大の注目点となっている。そもそもこのフッテージは、弁護士立ち会いのもと、平野と由美香の母との合意によって、封印されていた。しかし、ここへきて母親の態度が軟化し、封印は解かれたのだ。
 このあたりの事情は、私が推測するに、由美香の死後に松江哲明が作った追悼ドキュメント『あんにょん由美香』(2009)が大ヒットしたことがきっかけとなっているのではないか。伝聞によれば、映画美学校でおこなわれた試写で『あんにょん由美香』を見終えた平野は、激しい怒りを隠そうとしなかったという。「真に由美香の死に水を取るのは、松江のような若造ではなく、この俺でなければならない」という、正統性への執着心がなかったとは言えまい。

 遺体発見現場という決定的なショットが撮れてしまった。そしてそれを撮らせるよう仕向けたのは、林由美香その人である。彼女は自分と恋人である平野とのケンカを平野がカメラに収めていないことに失望し、「君は監督失格だね」とことあるごとに言っていた。だから平野は、彼女との破局後もその言葉に忠実たろうとし、あの忌まわしい夜にもかろうじてRECボタンは押されたのである(ただし押したのは平野ではなく、平野のアシスタントであり、なおかつ、由美香の遺体は写っていないか、もしくは写った場面は使用されていない)。
 この作品に通底する忠実さ、いや、むしろこれは手続きの律儀さというべきもので、過激な無頼派とも評されてきた平野勝之の隠れた本質は、ワルぶった印象とは裏腹にどこか優等生的な律儀さであり、正解にむけて手続きをすすめる几帳面さなのではないか。

 有名ラーメン店チェーンの総帥である由美香の母親が、平野の戦友のような顔つきでインタビューに答えている。字幕スーパーでも記されていたが、「オッサンみたいな」この人の風貌、声の野太さが、結局のところ、本作の中でもっとも説得力のある部分である。この映画の主人公は母親だよ、と平野自身もそう言うかもしれない。


9月3日(土)より、TOHOシネマズ六本木ヒルズで先行公開
http://k-shikkaku.com/

橋爪節也 編著『大大阪イメージ 増殖するマンモス/モダン都市の幻像』

2011-08-24 00:14:21 | 
 両親共に東京出身の私としては、子ども時代より上方への憧れのようなものをそこはかとなく熟成させてきた。したがって大学に入ると、関西から来た友人が増え、大阪出身の友人と話すことは大いなる喜びとなった。
 私と大阪の出会いはおそらく、子どもの頃に放送されていた花登筐『銭の花』のテレビドラマ化『細うで繁盛記』であるとか『あかんたれ』といった船場のあきんどのど根性ものにおいてであった。陰険きわまりない『細うで繁盛記』における新珠三千代は、思慕に値するイメージであり、か弱いものへの憐憫を初めて感じた体験であった。
 しかしたいがいの大阪人は、こういう陰険な船場の世界を非常に嫌がる。ああいうものに関わるぐらいなら、《吉本・粉もん・タイガース》の紋切型のほうがまだしっくりくると主張する人が多い。一方で、生来の資質で《吉本・粉もん・タイガース》にどうしても親しめない人間(とくにたこ焼きやお好み焼きは、味、匂い共に苦手)としては、大阪人の生活上の実感とは無縁な幻想の中の大阪にどうも耽溺してしまうのである。織田作の描く法善寺横丁、あるいは八住利雄のシナリオが冴えわたる『大阪の宿』(1954 五所平之助)で活写される中之島の南岸のたたずまい、そして人間模様である。これらは大阪への愛を語りながら、どこか突き放したところがある。冷徹なる距離感がいっそう、イメージに明証的な輪郭を与えている。

 ひとり旅でふらりと大阪を訪れるたび、法善寺横丁の割烹「H」で、淡口のしっとりとした正統的な上方料理をたらふく堪能したあと、宗右衛門町あたりのショットバーでナイトキャップをやっていると、「人生というものは、生きるに値する」などと思えてくる。ところが、割烹の主人に言わせれば、「織田作や『ぼんち』の豪気な遊びの世界は、もう現在の大阪にはない、大阪人が本当の遊びをするためには、東京か京都に行くしかない、料理を盛る器をさがすにしても大阪ではまったくお話にならない」というのである。どう反応してよいやらむずかしいところだ。
 私のごとき田舎者の感傷的な疑念に、じゅうぶんに応えてくれている大著が、心斎橋出身の美術史家・橋爪節也編著による『大大阪イメージ 増殖するマンモス/モダン都市の幻像』である。《好きやねん大阪》などといったえげつないスローガンとは根本的に異なる大阪についての、考古学的または考現学的な詳細報告である。「金勘定ばかりで、文化が育たない」という大阪の紋切型イメージが、本書によってすこしでも払拭されるのではないか。こんなことを言うと、「金勘定のどこが悪いん?」と友人からは押し返されそうであるが。

『夏の終止符』 アレクセイ・ポポグレブスキー

2011-08-22 03:09:53 | 映画
 『夏の終止符』などというタイトルを聞いたら、エリック・ロメールのバカンス映画を頭に描く人も多いだろう。しかしそうではない。ロシア北極圏、シベリア沖の無人島にある気象観測所だけがこの作品の舞台だ。荒涼とした風景ショットは気味が悪いほど美しい。モスフィルムの新鋭アレクセイ・ポポグレブスキーはよくもまあ、こんな土地でロケを敢行したものである。ベルリンの銀熊賞(男優賞と芸術貢献賞)を受賞しているが、それはロケそれじたいが生み出す「極北の怪異」に対してのものだろう。撮影機材は、さぞかし故障の連続だったと想像する。
 主人公である観測所の若い職員(グリゴリー・ドブルィギン)が、丘上にある放射線の噴出口付近で1人たたずみ、ヘッドフォンで音楽を聴いているところから映画が始まる。ラスト近くでは、上司(セルゲイ・プスケパリス)が釣ってきたマスの干物をこの放射線の噴出口にたっぷりと晒して、ひそかに食品棚に入れるシーンがある。その上司がマスを食べた後に、主人公は「僕は食べない。放射線でたっぷり汚染しておいたから」と白状するのだから、冗談にならぬ悪戯だ。

 それにしても、この噴出口はいったい何なのだろう? 映画では説明がなく、主人公たちはただ、放射線の測定値を観測本部に無線でレポートし続けるのみである。自然界の放射線の値は北極と南極ではきわめて高いというから、それを監視・記録しているのか。
 それとも旧ソビエトは、老朽化した原子炉を北極海に投棄し、放射性廃棄物も海洋に大量投棄したことが発覚しているから、そのあたりの事後調査を、主人公たちが延々と続けているという設定なのだろうか。この点を理解するには、私は知識不足だった。
 いずれにせよ、現在のわれわれ日本列島の民にとっては、酷寒の大自然描写以上にさむざむしいものを感じさせるのが、放射線の噴射口から吐き出される蒸気をふくませたマスの干物の、とくに何も様子の変わらない姿である。


ヒューマントラストシネマ渋谷ほか、全国順次上映
http://sandaifestival.jp/

ラウール・ルイス死去

2011-08-20 15:01:56 | 映画
 カテリーナ・ゴルベワの早すぎる訃報に続き、チリ/フランスの映画作家ラウール・ルイスの病死も伝えられた。70歳。
 ラウール・ルイスという作家と日本の映画市場は、あまりにも特異な作風ゆえかずっと相性が悪く、『ロック公国 ジャゾンIII世』(1984)がアップリンク配給で公開(撮影は『トラス・オス・モンテス』のアカシオ・デ・アルメイダ)されたのちも、作品の公開は続かなかった。見ることのできた作品はじつに少ないが、シャンテシネで劇場公開された『見出された時 「失われた時を求めて」より』(1999)と、WOWOWで放送された『三つの人生と一つの死』(1996)はすばらしかった。
 個人的には、現在の多忙から解放されたら、ぜひ『三つの人生と一つの死』の録画ビデオを見直そうと思う。VHSテープの再生なんてしばらくしていないが。

 将来、ラウール・ルイスの日本における不在は、すこしは是正されるのだろうか。ピノチェト・クーデタ以前のチリ時代の活動こそが重要だが、現在の日本の映画状況から見て、私たちにはハードルが高すぎる。
 ラウール・ルイスの遺体はなんと、彼自身の遺志によってチリに送られ、火葬されるとのことだ。