荻野洋一 映画等覚書ブログ

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さよなら2010

2010-12-31 23:29:02 | 記録・連絡・消息

 1年の最後に、不世出の大女優の訃報が入ってしまいました。高峰秀子(1924-2010)出演作は巨大な名作・傑作の山。真に永遠の命というものです。私たちは、これからも彼女の姿を画面の中に、それが映画史にとってなくてはならぬものであることを一瞬一瞬追認しつつ、見つめ続けるのは間違いありません。
 貴方なら、まず最初に見直したいデコちゃん映画は何ですか? 私としては、難しいところですが、訃報を聞いて、意外と最初に思い出したのが、『カルメン故郷に帰る』(1951)でした。ラスト、帰京の途上、小林トシ子と一緒に「嗚呼! 早く東京に帰ってワンタン食べたい!」というあれですね。感動的なラストシーンです。


  今年ももう、残り20分あまりを残すのみとなりました。皆様にとりまして、どのような1年だったのでございましょうか。来年という年がよりよき1年、実り多き1年となることを祈念しつゝ、ご挨拶申し上げます。有難うございました。



荻野洋一


リーディング劇『アメリカン・ラプソディ』

2010-12-28 03:11:14 | 演劇
 見てからだいぶ日数が経過してしまったが、東京・杉並の座・高円寺1で上演されたリーディング劇『アメリカン・ラプソディ』がおもしろかった。作・斎藤憐、演出・佐藤信の元・自由劇場コンビ。出演は高橋長英、関谷春子、ピアノ演奏に佐藤允彦。
 ジョージ・ガーシュインが、ニューヨークの下町にロシア系ユダヤ移民の子として生まれ、独学で音楽を学び、21歳の時に『スワニー』でメジャーデビュー、38歳で急死するまでの短い生涯を、同じくロシア系ユダヤ人だったヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツ(高橋長英)と、ガーシュインの公私にわたるパートナーだった女性作曲家ケイ・スウィフト(関谷春子)のあいだで取り交わされた往復書簡で間接的に語られてゆく。ガーシュイン本人は登場しない。ただ、彼の楽曲が書簡朗読のあいまにインサートされるばかりだ。そして彼と関係するラベル、ドビュッシー、シェーンベルクの楽曲も少しばかり。アメリカの音楽が発生してゆく現場を、近くの者が記録する。天才は、あっという間に駆け抜けてゆく。この朗読劇は残酷でありつつ、音楽の喜ばしさと共にある。
 高橋長英は、ベニサン・ピットの閉館ラストステージ『かもめ来るころ』(作・演出 ふたくちつよし)、新国立劇場『エネミイ』(作・蓬莱竜太、演出・鈴木裕美)、映画『ねこタクシー』(監督 亀井亨)と、ここ1~2年でいい作品とめぐり逢えている感じがする。

auoneブログの旧記事、復刻のお知らせ

2010-12-27 01:13:16 | 記録・連絡・消息
 恒例の〈auoneブログ旧記事・復刻プロジェクト〉。きょうは、2008年7月分を復刻いたしました。お時間ある時にでも、ご一読いただければ幸いです。

 この月に登場する人名は、フェルナンド・トーレス、ヨアヒム・レーウ、レーモン・ドメネク、如月小春、中村伸郎、中大兄皇子、秋史(金正喜)、フランシス・F・コッポラ、梅本洋一、衣笠貞之助、ミロス・フォアマン、ナタリー・ポートマン、美島菊名、リチャード・アッテンボロー、パウエル=プレスバーガー、橋口亮輔、王羲之、太宗(李世民)、原田眞人、舟越桂、ウォシャウスキー兄弟、ポール・バーテル、ユーセフ・シャヒーン、廣木隆一…といった人々です。
 この月は、韓国旅行に行き、ソウル市内の、今は再開発されて存在しない地区ピマッコルでヘジャンククを啜ったり、東大門市場で臭い臭いエイの刺身を食べたりした月でした。ヘジャンククを啜った老舗「清進屋(チョンジノク)」は現在、再開発ビルの中に入って、営業を再開しているそうです。

アンドレ・ケルテス写真集『On Reading』

2010-12-26 01:18:17 | アート
 〈読む〉という行為によって、人は沈黙を完成させる。漠然とではあるけれど、私は都市生活の中で、地下鉄車内やカフェ、劇場の開演前など、多くの〈読む〉人を眺めたりしつつ、ついそんな風に考える。もっと大袈裟に言うと、人は死なないために本を〈読む〉とも言える。「死なないために」とは荒川修作の著作名だが、実際、人は真に何かを〈読む〉とき、文字の氾濫を目に許しているとき、自ら命を絶つことはできない。では、自らの死によって〈読む〉ことが中断されることに耐えられないほどに、次ページへの好奇心を高ぶらせておけばよい、ということになるのだろうか。

 ハンガリー出身で、おもにフランスと米国で活躍した写真家アンドレ・ケルテス(1894-1985)が、1920年から1970年まで撮り続け、1971年に刊行した写真集『On Reading』(米W. W. Norton & Company 刊)が最近リイシューされ、入手しやすくなっている(以前はマガジンハウス社から日本語版も出ていた)。NY、ワシントン、パリ、ル・アーヴル、ヴェネツィア、ブエノスアイレス、東京、マニラ、京都、ニューオーリンズ。各都市、各時代、各シチュエーションで写された、群衆の中の〈読む〉人々。彼らの生の時間は周囲の時間の進行から遊離し、パラレルな別の時間が流れる。たとえ紛争中の国境地帯で出撃を待つ兵士でさえ、この時間の流れを享受するだろう。
 唐突だが、〈読む〉ことと〈茶を飲む〉ことの類似性を、『On Reading』をめくりながら考えた。そういえば、ルイ・マル『鬼火』(1963)の主人公(モーリス・ロネ)が、ピストル自殺の直前まで読みかけの本を読了しようと努めていた光景も、ふと思い出した。あんなこともあるのかね、と今さらながらに思うが。

 このリイシューのことを港の人のtwitterで知った。その中では、広尾の流水書房の閉店のことが記されていた。青山ブックセンター広尾店が潰れて以来、不安定な書店運営が続いた広尾ガーデン2階だが、潰れた流水書房に代わって、10月から文教堂が入ったようだ(流水書房跡ではなく、文具の伊東屋跡?)。私はもう、すっかり広尾に寄りつかなくなった。本屋も次々にダメとなり、レンタルビデオ店もCD店もこの街からは消滅してしまった。

『ノルウェイの森』 トラン・アン・ユン

2010-12-23 04:04:06 | 映画
 20年以上前に読んだ原作ではたしか、中年になった主人公が、着陸態勢の旅客機の中でビートルズの『ノルウェーの森』がかかるのを耳にした瞬間、学生時代の追憶へと沈潜していく、という設定だったと記憶している。しかし監督のトラン・アン・ユン(陳英雄)は、そうした団塊の世代特有の郷愁には、まったく目もくれない。それが、この映画版が正視に耐える第一の要因だろう。
 最近ビートルズの楽曲使用を許されたのは、この映画と、アップル社のiTunes Storeだけだから、てっきりそういうもののタイアップ的仕掛けみたいなことになっているのか、と早合点していた。ところが実際に見てみると、これはビートルズそのものというより、むしろ西ドイツのロックバンド、CANへの崇拝を語る映画だった。思えば、フランス育ちのベトナム系移民トラン・アン・ユンからすれば、1960年代末の日本をイメージしうるものとして、せいぜい大島渚の映画と、単身デュッセルドルフに移住して、ヴォーカリストとしてCANの全盛期を支えた元・新宿最年少のフーテン、ダモ鈴木の存在くらいしか思いつかなかったのではあるまいか。自分の手の届く範囲で参照物を見つくろったトランの判断は、妥当なものだ。CANの呪詛的なサウンドを通じて本作は、イェジー・スコリモフスキ『早春』(1971)や、ヴィム・ヴェンダース『都市の夏』(1970)とも親しく接しあうだろう。
 大島映画の残り香も、『日本春歌考』『儀式』『愛のコリーダ』の記憶によってちょっとずつ呼び覚まされるように思えるのは、気のせいか。『ノルウェイの森』の早大生(松山ケンイチ)はひょっとすると入学前に、例の “一人娘とやる時にゃ、ホイ、親の許しを得にゃならぬ、ホイホイ” という春歌を延々とくり返し口ずさみながら、「入試番号469番」の女子受験生(田島和子)を空想の中で犯した一味の中にいたのではあるまいか。1967という年号は、『日本春歌考』の年号なのだから。しんしんと降る雪が、それを証拠立てているように感じる。


TOHOシネマズスカラ座(東京・日比谷)ほか、全国で公開中
http://www.norway-mori.com/