荻野洋一 映画等覚書ブログ

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クラシコは、日本時間の火曜早朝

2010-11-27 05:28:31 | サッカー
 クラシコ(バルセロナvsレアル・マドリーの対戦の別称)が、日本時間の30日(火曜)未明の4:45から放送がある。今回の会場は、バルサのホーム、カム・ノウ。平日の早朝ということで、視聴率的にやや不安がある。本来なら日曜夜のはずだったが、この日はカタルーニャ自治州の州議会選挙の開票があるため、こういう変則開催となった。

 両者とも、チャンピオンズリーグはなんの苦もなく首位突破を果たしたが、問題は現代を代表する知将の対決だろう。グアルディオラとモウリーニョ、共にバルサのDNAをルーツにもつ2人だが(モウリーニョはバルサのアシスタント兼通訳からキャリアを始めた)、ついに2本の道がクラシコという舞台で交錯する。
 両チームのスーパースター、メッシとクリスティアーノ・ロナウドは、今シーズン序盤から飛ばしている。ワールドカップが不完全燃焼だっただけに、集中力がすごい。第12節しか消化していないのに、すでに前者は13ゴール、後者はなんと15ゴールもマークしている。このペースはちょっと常軌を逸していて、この2人のどちらかが、来春にゴールデン・シューを受賞するだろう。しかし、私としては個人的には、試合のキーを握るのは、それぞれのプレーメーカーではないかと。バルサならチャビとイニエスタ。マドリーならエジルとシャビ・アロンソ。当たり前の見解だけれど。

 今回は私は現地には行かず、東京で留守番である。オープニングのアバンタイトルを作ったり、先ほどバルセロナ市内で行われた岡田武史とヨハン・クライフのディスカッションの映像伝送を受けてまとめたりと、現地班以上に忙しい。それでも、東京フィルメックスは、3本ほど見ることができた。『The Depths』以外の2本(『トーマス、マオ』『ビー・デビル』)は、ほとんど引っかかるものなし。アピチャッポン、賈樟柯、王兵、キアロスタミ、ギタイ、イ・チャンドンなど有名監督の作品は、残念ながら行けず。

『The Depths』 濱口竜介(@東京フィルメックス)

2010-11-25 01:15:45 | 映画
 濱口竜介の最新作のワールドプレミアが、きょうの午後、東京フィルメックスで行われた。東京藝術大学と韓国国立映画アカデミーの合作であるこの『The Depths』については、語るべきことがもろもろあるだろうが、ともかくこの作品を規定している最大の固有性は、韓国人キャストと日本人キャストの圧倒的な体格差にあると私は思う。
 キム・ミンジュンをはじめとする韓国人俳優たちは、背がとても高く、貴族のように優雅に歩き、野太くセクシーな声を発するばかりか、芸術への野心と才能に満ちている役がふられている。一方、少年のようにナイーヴで小鳥のように小さく、ジャリ餓鬼のような男娼を演じる石田法嗣(あの塩田『カナリア』のヘッドギアをした少年だ)、そして彼のボスであるヒステリックなやくざの兄貴分・村上淳というふうに、日本人俳優たちはことごとくこぢんまりと肉体を縮こまらせて、右往左往している。感情表現も前者たちには正当性が感じられるが、後者のそれは薄っぺらで、意味が相手にほとんど伝わらず、突発的になにか乱暴なことをしでかす。
 おそらく本作は、日本映画史上で初めて、朝鮮半島から来た隣人を差別意識ではなく、さらに被害者への謝罪意識でもなく、ましてやアイドル的な偶像崇拝でもない、日本人の道徳的な堕落に大きな手を差しのべる庇護者として描いた作品であろう。おまけに経済的にも、つねに前者が恵み与え、後者がおこぼれに預かるという極端な構図が反復される。
 では、石田も村上も、手をこまねいて肉体的、精神的未熟さを晒すほかはないのか、というと、それはまったく違うのである。貧弱であること、道徳的に墜ちていくこと、滅びようとしていること、つまり(映画マニアたちがやたらと嫌っていることになっている)詠嘆こそが、彼らの武器だ。おのれの死に場所を探すための右往左往。それが生そのものであるという。その現場を韓国人が目撃し、瞠目する。フォトグラファーである韓国人主人公は、なんとか理解に努め、その瞬間にレンズを向ける。だが、はたしてその移ろいゆく詠嘆的存在を、フレームにおさめることができたのだろうか。


本作は、有楽町朝日ホールなどで開催中の〈第11回東京フィルメックス〉で、特別招待作品として上映
http://filmex.net/2010/

『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』 石井隆

2010-11-22 21:41:27 | 映画
 石井隆の映画を見たのは、申し訳ないけれど、『フリーズ・ミー』(2000)以来10年ぶりのことになる。新作のタイトルは、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』。全盛期の第4作『ヌードの夜』(1993)の主人公 “代行屋” 紅次郎(竹中直人)の後日譚という形式を取る。そのあいだ、映画を取り巻く状況は一変し、石井隆のプレゼンスは、著しく低下した。1990年代の石井隆は、北野武、相米慎二、中原俊らと、日本映画の覇権を競うほどの勢いをもっていたが、過去≠現在のあいだにいかなる差異が生じてしまったのか、あるいは生じていないのか。必然的に、このたび劇場に足を運んだ私の眼は、検証の眼とならざるを得ない。
 形骸化? そうかもしれない。なにも変わっていないそのヌメッとした感触は、形骸化の一歩手前のような腐臭が漂う。しかし、腐りかけの一歩手前の果実が、濃厚すぎる芳香を放つように、本作で惜しげなく初ヌード&からみに挑んだグラビアアイドル佐藤寛子が、なにかに取り憑かれたように、激しながら演じ続けている。そして、この絶望の中の真空的な興奮状態の持続こそ、当然のことながら石井映画の本領であった。
 第5作『夜がまた来る』(1994)の哀れなヒロイン(夏川結衣)が、秋風蕭殺の廃人状態から、あるかないかのほんの小さな火種を再び燃やしはじめ、騒がしい不死鳥のごとく再生していったことを、私は覚えている。石井隆の映画そのものも、そのヒロインたちのごとく、突如として甦る日が来るかもしれない。

 事件の捜査を進める女刑事を演っている東風真智子という女優は、どこかで見たことのある顔だと思っていたら、なんと真中瞳だった。この人には『ココニイルコト』(2001)という主演作もあったりするが、これは私が契約しているプロダクションの作品である。基本的には、テレ朝『ニュースステーション』のスポーツ担当キャスターとして知られている人で、その後は思うような活躍ができず、タレント業を廃業したという噂をすこし前に聞いていたので、芸名を替えての今回の出演に虚を突かれた格好だ。かくのごとき、忘れた頃の蘇生劇というのも、多分に石井隆的ではある。


銀座シネパトス(三原橋)ほか、全国で公開中
http://www.nude-ai.com/

中村泰介 写真集『妻を撮ること』

2010-11-21 00:27:13 | アート
 「まず買わない」という商品は、世の中に溢れかえっている。私からすれば、この中村泰介という新人によるデビュー写真集『妻を撮ること』(2009 雷鳥社)も、そうした「買うことはまずない」だろう数ある商品のひとつに過ぎなかった。妻自慢なんてアラーキーのナイーヴな模倣か、というところである。とはいえ、なにか気になる点もあって、たまに書店で立ち読みしてきたが、今回はじめて買うことに決めた。まったく、我ながらいい加減なものである。
 広告代理店を脱サラし、フォトグラファー宣言をした20代の男が、極貧生活も顧みず、バッグ1個で上京した田舎の美人と結ばれ、三畳一間で新婚生活をはじめる。そして若妻のスナップを撮り貯めて、自身のデビュー作とする。こうした行為ほど手前味噌な行為もないし、通常なら興味の対象になりそうもないが、しかしながら、ちょっといいのである、この若奥さんの在り方が。
 これからこの中村泰介という若者が、いかなる活躍をするのか、私には見当もつかない。だが、この極私的なスナップ作品集『妻を撮ること』は、最初に残されるに値するオブジェであると思える。