荻野洋一 映画等覚書ブログ

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三好十郎 作『峯の雪』

2010-06-29 21:29:39 | 演劇
 三好十郎の生前には発表されなかった幻の戯曲『峯の雪』が、劇団民藝によって、東京・南新宿の紀伊國屋サザンシアターで上演されている(演出 兒玉庸策)。初日(6月22日)の舞台を見終えて1週間たったいま、私としては釈然としないものが依然として残ってしまっている。といっても、上演じたいが拙かったのではない。それどころか、主人公の陶芸名人・治平を演った老優・内藤安彦などは、最上級のメモリアルな名演だろう。

 では、何に釈然としなかったのかというと、終演直後に起きた万雷の拍手に対してなのである。サザンシアターを訪れる観客というのは、非常に熱意のある演劇客であるし、出来のいい芝居には遠慮なく拍手を送ろう、ということだろうとは思う。
 しかし中には、私のように躊躇する観客もいたはずだ。というのも、本作は三好十郎が太平洋戦争開戦当初に書いた作品で、登場人物たちはおのれの身の上を、さざんかの一種である〈峯の雪〉というきわめて日本的な花になぞらえつつ、最終的には国策協力、侵略戦争への加担へと傾斜していくことを肯定しているのである。
 三好は戦後、みずからの戦中の姿勢を終生許すことがなかった。この問題の多い戯曲を、現在に採り上げることの是非をめぐり、上演者側はそうとう苦悩しただろうと思う。だから私としては、この作品のカーテンコールにふさわしいリアクションは、万雷の拍手を演者たちに送ることではないはずだ、と考えたのである。まさかブーイングするわけにもいくまいから、少なくとも、(決してネガティヴな感慨を示さない程度の)深い沈黙と嘆息で終演を迎えるべきだったのではないか。

 長い逡巡の末、軍事用の絶縁体を焼くことを決心せざるを得ない治平は、まだいい。この物語の推進役となっている治平の次女・みき(新澤泉)が茶の湯の席で見せる毅然とした無私の境地を、私は正視することができなかったことを、どうか許してもらいたい。
 映画通の中にはよく、黒澤明の最高傑作は『一番美しく』だ、などと大声で主張する人が結構いる。しかし、皆さんご存じのように『一番美しく』(1944)は、ああいう内容の映画ではないか。こういう人々のニヒリスティックな映画至上主義に、私はどうも馴染めないのである。


東京・南新宿の紀伊國屋サザンシアターにて、7月4日(日)まで上演中
http://www.kinokuniya.co.jp/

『アイアンマン2』 ジョン・ファヴロー

2010-06-27 01:16:13 | 映画
 第1作もなかなかの快作だったけれども、続編である本作もかなりいい。ロバート・ダウニーJr.といえば、薬物およびアルコール依存というイメージが付きまとうが、作者たちは、この主演俳優のスキャンダラスな逮捕歴を逆手にとって、じつに人間味溢れるヒーロー像をつくり上げたものである。思えばかつて、ルーカス組の連中による試作品みたいな『ロケッティア』(1991)という映画があったが、あれもひょっとすると、こういうことがやりたかったのかなと。
 前作で素描され、今回も引き継がれてゆく、亡き父への愛憎は、まるでブッシュ父子を見るかのような生々しさであるが、そもそもダウニーJr.が薬物依存となったきっかけは、彼が8歳当時、なんと父親から与えられたマリファナを常用したことだというのだ……。

 また全編のモットーとして、死の商人が跳梁跋扈する軍需産業大国アメリカという国家そのものを笑いの種としつつ、今回はさらに、アメリカの企業トップがよくやる、エクスポ会場での派手なプレゼンテーションという慣習をも笑いものとする。このシリーズはこれまでのところ、諷刺喜劇としてもわりに健康に機能していると思えた。


6月11日(金)より、TOHOシネマズ スカラ座ほか、全国で上映中
http://www.ironman2.jp/

『ある結婚の風景』 イングマール・ベルイマン

2010-06-24 01:25:42 | 映画
 イングマール・ベルイマン『ある結婚の風景』(1973)のオリジナル全長版が、NHK-BSにて3夜連続で放送された。これは、非常に有難かった。映画版に先だって製作されたテレビ用の連続ドラマで、全6話を合計すると約5時間におよぶ。
 少しの例外をのぞいたほとんど全シーンが、リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソンのダイアローグのみで成り立っており、結婚10年目を迎えたおしどり夫婦が、どのように関係をこじらせ、別離に至るか、ということだけがネチネチとカメラでおさめられている。
 しかしながら、長丁場を乗りきるために、さしたる忍耐も努力も必要としない。苦悶する主人公夫婦には申し訳ないが、透明人間になりきっている私たち視聴者にとっては、あまりのおもしろさのために、片時も目が離せないからである。「さて、今夜はどんな始まりかたをするのかしら」と導入部の確認だけをしようと思って、就寝前に録画をちょっと再生すると、ズルズルとエンディングまで見てしまう結果となる。そして次回が待ち遠しくなり、寝付けなくなってしまうのだ。

 最終話では、離婚が成立して数年が経過し、おのおの別の家庭を築いた元夫婦が、久しぶりに再会し、友人の別荘で「再-不倫」に興じるが、この奇妙な平穏さは、「ヨリを戻した元夫婦」ごっこを演じているに過ぎないゆえの平穏さである。高慢、不誠実、エゴイズム、ニヒリズム、被害者意識、愛の持続の不可能性などが、ベルイマン的としか言いようのない執拗さでえぐるように語られた後にぽっと出てくる、悲しく滑稽な戯画。
 このオリジナル全長版を見たあとに、2人の老後の再会をHDカメラでおさめた半-続編『サラバンド』(2003)をすぐに見直すと、感慨もひとしおとなる。

泉屋博古館の青銅器

2010-06-21 02:02:59 | アート
 初夏の京都を短時間訪れて、左京区の泉屋博古館で青銅器をたっぷり見てきた。
 住友財閥のコレクションを中心に展示する泉屋博古館は、六本木一丁目にも美しい建物の東京分館が存在するが、規模が小さい。また、青銅器に関して言うと、あまり人気がないのか、それとも京都が片時も放してくれないのか、何年待ってもいっこうに来ない。しかたがないから新幹線で見に行った次第である。

 卣(ゆう)、尊(そん)、鼓(こ)、簋(き)、壺(こ)、鐘(しょう)、炉(ろ)、鼎(てい)、爵(しゃく)などと、漢字1文字を無造作に並べ立てられても、興味がない人には、なんのことやらといった感じだが、これらはすべて青銅器の器形の名前で、つまり形象は、この字そのものを凝視すれば見えてくる。ようするに、これらの文字の元になったものであって、青銅器の器形を参考に、これらの文字が作られていったのである。
 「鼎」と「爵」は比較的よく知られた形で、「鼎」は3本足のナベのことだし(左の写真をご参照ください)、「爵」は銅製のグラスである。中国歴史ドラマの中で、諸侯がよく「爵」でブドウ酒を飲んでいる。手柄を立て、王からご褒美に「爵」をもらった人、ここから転じて「爵位」という語が生まれ、日本など近隣国でも通じる単語となっていったのだ。
 
 青銅器は、その爬虫類のようにグロテスクな姿態からは想像もつかないが、玉(ぎょく)と並んで、中国美術の理想であり、粋であり、永遠の参照項である。紀元前の黄河文明は、純粋にアートという概念が発生した最初の文明であるから、つまり青銅器は人類最初のアートである。泉屋博古館で出会える青銅器は、質量共に台北の「故宮」などとは比べものにならないけれども、中には「虎卣(こゆう)」のように、ぴりりとスパイスの利いたすばらしいものがある。
 一度でいいから、「虎卣」で温めた燗酒を「爵」に注いでガブ飲みしてみたい。もちろん、「故宮」のミュージアムショップには著名作品の精巧なレプリカが売られているし、インターネットで中国のオークションサイトに飛べば、いくらでも錆びた三流品を購入できる。明代や清代にはすでに、そういう私のようなバカな物好きのために、三流品を土に埋めて酸化させ、本物っぽくしたまがい物が出回っていたらしい。これこそまさに、「捏造」という語の元祖である。


〈中国青銅器の時代〉は、泉屋博古館(京都・左京区)で6月27日(日)まで開催中
http://www.sen-oku.or.jp/kyoto/

『あの夏の子供たち』 ミア・ハンセン=ラブ

2010-06-18 00:53:39 | 映画
 この『あの夏の子供たち』を見る前に、梅本洋一の批評を読んだ。そこでは、「事件以後のそれぞれの人々の人生を等価に、そして同じ重さで見せてくれる様はまるでチェーホフのようだ」と書かれていた。こうした評価によって、ミア・ハンセン=ラブという、デンマークに出自を持つであろう響きの名を名乗るこの映画作家が、どのような方向を向きながら作品を提示しようとしているかが、おおむね判断できるであろう。
 オリヴィエ・アサイヤスの『八月の終わり、九月の初め』(1999)、『感傷的な運命』(2000)に女優として出演しつつ、「カイエ・デュ・シネマ」誌に批評も書いていた、というキャリアはそれだけで、ある種の色がまず見えてしまう。しかし、もっとも重要なのは、デビュー作として上々の出来だった前作『すべてが許される』(2007)から、本作が大きく飛躍しているという事実──チェーホフであり、またジャン・ルノワールでもあるような、生へのまなざしをカメラに置換するタイプの映画作家として飛躍しているという事実──だろう。本作では、映画製作プロダクションの社長をつとめる一家の父親が自殺してしまうことで、残された家族や同僚たちがどのような状況に置かれてゆくか、という悲劇的な物語を語っているにもかかわらず、全体としては、ひとつの人間喜劇として開かれている。
 そしてそれだからこそ、結論じみたものを描くことはいっさいなく、人生讃歌にも映画讃歌にもならない。たとえば、ジョージ・キューカーの『スタア誕生』(1954)のラストでは、やはり自死をえらんだ夫(ジェームズ・メイソン)の生に対して、妻(ジュディ・ガーランド)の舞台上の姿を通じてオマージュが捧げられていた。しかし、『あの夏の子供たち』では、そのような情動へと見る者を誘いこみうる箇所が何度もありながら、そういう地雷を周到に回避してみせている。
 資料やPCなどが夫の生前のまま放置されている製作プロダクションの事務所。妻の故郷イタリアへ移住するために空港に向かう直前、最後に訪問した妻と娘たちが、あるじ不在の事務所でしばしの時を過ごす。ノスタルジアに耽りつつもそこから離反していく、そういう不可逆的な移りゆきを、カメラは静かにとらえようとしている。


5/29(土)より、恵比寿ガーデンシネマにて上映中
http://www.anonatsu.jp/