荻野洋一 映画等覚書ブログ

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デニス・ホッパー死す

2010-05-30 05:27:08 | 映画
 gooの速報によれば、前立腺ガンで余命わずかであると報じられていたデニス・ホッパーが、ついに29日午前8時ごろに自宅で亡くなってしまった。享年74。
 デニス・ホッパーの出演作はこのところまったく追っておらず、私が最後に見た映画となると、なんと1997年のアベル・フェラーラ監督『ブラックアウト』まで遡ってしまう。これはいい映画だったが。
 74といえば、亡父と同じ享年である。今はとにかく、合掌。

サマセット・モーム作『2人の夫とわたしの事情』

2010-05-29 04:30:55 | 演劇
 1919年にロンドンで初演されたサマセット・モームの戯曲『夫が多すぎて(原題 Home and Beauty)』の日本初演が、渋谷のシアターコクーンで行われた(演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ)。
 この戯曲は、『カッスル夫妻』のヘンリー・C・ポッター監督によって、1954年にハリウッドで映画化されている(邦題『私の夫(ハズ)は二人いる』)のだが、これは私は未見。ためしにモーム原作の映画をIMDbで検索したところ、数多いリストの中に見ているものはほとんどなく、例外は、ヒッチコック『間諜最後の日』(1936)、ウィリアム・ワイラー『月光の女』(1940)などごくわずか。しかし、なんと言っても大好きなのが、ルイス・マイルストン監督の『雨』(1932)。以前にビデオで鑑賞したのみだが、主演のジョーン・クロフォードが、非常によかった。お薦めのクラシックスである。

 敬愛する過去の作家を翻案したり引用したりしながら、自家薬籠中のものとするのが得意技であるケラ(去年に紀伊國屋ホールで川島雄三『しとやかな獣』を翻案し、それが縁で、ヒロインの緒川たまきと入籍したばかり)が、今回モームをどう料理するかに一番興味があったのだが、イギリス上流社会のくだらなさを辛辣に風刺した、いわゆる「ディヴォース・コメディ」として、ケラケラ笑いながら見ることができた。ようするに、正統的な演出だったということだろう。
 第1次世界大戦に従軍した夫の死亡通知を受けた妻が、夫の親友と再婚したものの、そこへ死んだはずの夫が生還してくる、というよくある物語。近年アテネ・フランセで初見できたものの、カラーフィルムがひどく退色していたプドフキンの遺作『ワシーリー・ボルトニコフの帰還』(1952)も、これに当たる。この手の物語が、たいがいは自己犠牲的、運命論的であるのに対して、『2人の夫とわたしの事情』はとにかく辛辣で明るい点がいい。
 終戦直後で石炭の配給が少ないため、ヒロインの寝室でしか暖房が焚かれていない。だから屋敷を訪れた者たちはみんな、ここに通されることになる。珍事/椿事がもっぱら、上流夫人の寝室で起こるよう取り計られた、喜劇ならではの味な手法である。

 複数の男たちのあいだで右往左往する浮気な人妻ヴィクトリアを、松たか子が演じた。彼女は昨秋もシャーロット・ブロンテの大作『ジェーン・エア』に主演したばかりで、これはたいへんな力演だったが、このところイギリス物が続いた格好だ。

『コロンブス 永遠の海』 マノエル・ド・オリヴェイラ

2010-05-26 14:57:20 | 映画
 あっけないほどに軽やかな手つきで撮られてしまっているとはいえ、マノエル・ド・オリヴェイラの新作・近作のたぐいを、街の普通の映画館で切符を買って鑑賞してしまうという、これまで何度も経験した行為は、私たち現代人には、なにやら過ぎた僥倖だという気がする。この『コロンブス 永遠の海』(2007)は、今年なんと102歳を迎えるポルトガルの巨匠オリヴェイラが98歳の時に監督、そして主演までしてしまった作品で、わがままな人生を送ってきた放蕩老人による、夫人への罪滅ぼし、謝罪のような作品ともとれる。そしてそれはユーモアでもある。夫の情熱に適度につきあいながら、聡明にいなす夫人の人生をもあぶり出してゆくユーモアである。
 月並みな感想だが、本作のスクリーンに映っているものは、ほとばしる若々しさそのものだ。その半分以下の50歳、40歳で、いや35歳で老衰を隠せない映画作家が世界中にはごろごろしているというのに、これは例外だ。事件だ。それを、私たちは普通に見てしまう。なんということだろう。

 また私たちは、何かというと「上映時間90分」の倫理を振りまわしがちである。出来の悪い長尺のハリウッド超大作なり、日本の冗漫な若手作品なりをくさす時などに、しきりに使ったりする。その論拠を間違っているとは思って使っていないが、だからといって、いくらなんでも本作の75分、前作『夜顔』(2006)の70分という上映時間は、どうしたものだろう。『わが幼少時代のポルト』(2001)の61分の場合は、自伝的 “ポエム” だからいいだろう、などと勝手に納得したふりをするしかないが、しかしこれとて、どこぞの著名監督が幼少時代を懐古したら、3時間、4時間のものを発表して平然としているはずである。
 いや、むしろ私は潜在的にオリヴェイラの映画を、もっと長く見ていたいのだろう。『コロンブス 永遠の海』を見終えて座席から立ち上がった時、私が最初に考えたのは、劇場窓口に戻って新しい切符を購入し、恭しくあたまから本作を見直したいという抑えがたい欲望の自覚であった。珍しくパンフレットを買って、採録シナリオを読み返したりした。

 まあいい。今年はまだある。先ごろ閉幕したばかりのカンヌ映画祭では、出来たての『O Estranho Caso de Angélica』(2010)がプレミア上映されたとのことだが、日本ではとりあえず、そのひとつ前の新作『ブロンド少女は過激に美しく(仮題)』(2009)の公開が、今年に控えているらしいのである。冗談ではなく、翁の爪の垢を煎じて飲みたいものである。


岩波ホール(東京・神田神保町)ほか、全国順次公開
http://www.alcine-terran.com/umi/

池波正太郎 著『江戸の味を食べたくなって』

2010-05-23 06:30:07 | 
 最近出たばかりの池波正太郎『江戸の味を食べたくなって』(新潮文庫)は、すでに他のさまざまな単行本に収められた文のうち、味覚にかかわるものを拾いなおしたフロリレージュ。池波ファンには「いまさら」な内容だろうが、万人が感動を共有できる好企画である。
 第1章は、旬の食材についての滋味あふれる〈味の歳時記〉、続いて第2章は、すし、天ぷらといった東京の味覚や故郷・浅草の風物をめぐり、職人や作家との3篇の対談。そして、本書のメインディッシュである〈パリで見つけた江戸の味〉で最終章を飾る。これは、デュヴィヴィエなどフランス映画の旧作をたどる本作りのために、取材旅行をしたとき以来の副産物である。

 まだセーヌ右岸にフォーラム・デ・アールが完成する以前の、工事現場の仕切り壁が長々と続く旧中央市場(レ・アール)界隈で作者が見つけた、時代錯誤の酒場「B.O.F.」。この「B.O.F.」とは、「Bonne Oubliée France(=古き良き、忘れられしフランス)」を短縮したイニシャルで、18世紀創業の老舗酒場だそうである。最終章〈パリで見つけた江戸の味〉において作者は、ここの主人であるセトル・ジャン&ポーレット夫婦とのあいだに結んだ静かな友情を、愛惜をこめて書きつける。
 そして作者は書く。「ジャンの酒場でペルノーをのんでいると、まるで、江戸時代の深川か浅草の居酒屋にでもいるような気がしてくる。私が[B.O.F.]にこころひかれたのは、時代小説を書いている所為かもしれなかった。」

 しかし、変貌の時が迫っている。
 作者一行はパリに旅行するたびに、この「B.O.F.」に通いつめる。そして、この店の最期を看取ることになるのである。最初は驚きと落胆と共に。2度目は予感を伴った達観と共に。3度目は永遠の心の刻みとして。
 ポンピドゥー時代、ジスカール=デスタン時代と、レ・アールの再開発がゆっくりながら進み、廃業に追い込まれてゆく「B.O.F.」。そして、老夫婦からこの店を買収して、よき伝統を守ろうとした好青年ネストルの試みは、わずか3年ほどで挫折した模様である。こうした推移を見つめる作者の目は、だんだんと冷めていく。暗闇となった店の窓中を覗きこむと、テーブルに埃がかぶり、カウンターには、頑固主人セトル・ジャン愛用のエプロンが置かれたままとなっている光景がひろがる。そして跡地ではやがて、巨大な赤い看板をあしらったアメリカのハンバーガー屋が繁盛することになる。

 私がこの界隈を初めて訪れた1992年、もちろんそこはすでにフォーラム・デ・アールとなっていた。この地下モールの中にあるホールで、私はジャック・リヴェットの傑作『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)を初めて見た。192分の長尺作品だが、客は何人かをのぞいてほとんどが、次々に途中退席してしまった。この前日、モンパルナスのある名画座では、溝口健二のごく平均的な作品『武蔵野夫人』(1951)が上映され、観客たちはあれほどまでに感動を隠さなかったのに。世の不条理を感じた、と言ったら、すこし大袈裟に過ぎるであろうか。

地下鉄駅名三題  (3)蛎殻箱崎ではなく、水天宮前

2010-05-20 01:20:56 | 身辺雑記
 前回の〈地下鉄駅名三題〉では、「三越前」など「~前」という接尾辞が付く駅名が、その街の息吹や匂いを雄弁に語っていて、好ましいものなのではないか、などと愚にも付かぬことをクドクドと書いた。ところで、そういう名前のなかでも私が一番気に入っているのは、「水天宮前」である。その理由は、私自身が「水天宮前」駅の日々の利用客であるからというばかりでなく、駅名決定までの経緯が、お白州の沙汰のようで、ちょっとばかり印象深いからでもある。

 そもそも「水天宮前」は、掘削工事中の仮称は「蛎殻町(かきがらちょう)」であった。ところがこれに、箱崎町の住民たちが噛みついた。駅敷地の半分が箱崎町に架かっている(といっても地面の下であるが)、というのである。正式駅称を「蛎殻町」にするか、はたまた「箱崎町」にするか、地元は揉めに揉めた。それはそうだろう、本駅乗降客の多くが箱崎エアターミナルを使って空の便を利用する客となることが予想されるなか、箱崎町の人からすれば、譲歩しがたい事態である。
 苦慮した営団側は、都電時代の旧停車場名「水天宮前」を復活採用することを提案した。そしてこの提案が、クリーンヒットとなったのである。なにごとも復古的なものに弱い江戸っ子たちのこと、蛎殻町民も箱崎町民も、あのなつかしき都電の停車場の思わぬ復活に快哉を叫んだ、という次第である。

 この「水天宮前」、地元の古老によると、一時期は「蛎殻箱崎」という苦しまぎれの駅名も検討されていたらしい。この嘆かわしい事態はかろうじて回避されたけれども、じつはこうした苦しまぎれの合体型は近年、どんどん蔓延している。「馬喰横山」あたりから始まり、「白金高輪」「若松河田」「清澄白河」「溜池山王」「上野御徒町」などはいずれも、2つの町名のどちらも選択できないまま、しかたなく合体させて誕生した駅名である。「落合南長崎」などと、方角を示す「南」が語の途中に入ってしまうこと自体、固有名詞としておかしいし、言語感覚の乱れそのものだろう。そこには、地域住民や町内会、商店会など関係者どうしの醜いエゴのぶつかり合いみたいなものが透けて見えて、じつに不快なものを感じる。

 さりとて、こうした合体型も、まだマシなのかもしれない。JRが付けた「浦和」「北浦和」「西浦和」「東浦和」「南浦和」「中浦和」「武蔵浦和」と続く、安直な接頭辞によるネーミングのはてしなき増殖には不甲斐なさばかりが露呈しており、これには同情さえ抱いてしまう。浦和という街は元来、品格ある文教都市なのだが、駅名の悪名高き無味乾燥ぶりがそれを台無しにしてしまっている。
 合併して新都市となってから数年が経つのだから、今後はもう少し固有名詞としてふさわしい駅名への改称が、検討されていいのではないか。