最近出たばかりの池波正太郎『江戸の味を食べたくなって』(新潮文庫)は、すでに他のさまざまな単行本に収められた文のうち、味覚にかかわるものを拾いなおしたフロリレージュ。池波ファンには「いまさら」な内容だろうが、万人が感動を共有できる好企画である。
第1章は、旬の食材についての滋味あふれる〈味の歳時記〉、続いて第2章は、すし、天ぷらといった東京の味覚や故郷・浅草の風物をめぐり、職人や作家との3篇の対談。そして、本書のメインディッシュである〈パリで見つけた江戸の味〉で最終章を飾る。これは、デュヴィヴィエなどフランス映画の旧作をたどる本作りのために、取材旅行をしたとき以来の副産物である。
まだセーヌ右岸にフォーラム・デ・アールが完成する以前の、工事現場の仕切り壁が長々と続く旧中央市場(レ・アール)界隈で作者が見つけた、時代錯誤の酒場「B.O.F.」。この「B.O.F.」とは、「Bonne Oubliée France(=古き良き、忘れられしフランス)」を短縮したイニシャルで、18世紀創業の老舗酒場だそうである。最終章〈パリで見つけた江戸の味〉において作者は、ここの主人であるセトル・ジャン&ポーレット夫婦とのあいだに結んだ静かな友情を、愛惜をこめて書きつける。
そして作者は書く。「ジャンの酒場でペルノーをのんでいると、まるで、江戸時代の深川か浅草の居酒屋にでもいるような気がしてくる。私が[B.O.F.]にこころひかれたのは、時代小説を書いている所為かもしれなかった。」
しかし、変貌の時が迫っている。
作者一行はパリに旅行するたびに、この「B.O.F.」に通いつめる。そして、この店の最期を看取ることになるのである。最初は驚きと落胆と共に。2度目は予感を伴った達観と共に。3度目は永遠の心の刻みとして。
ポンピドゥー時代、ジスカール=デスタン時代と、レ・アールの再開発がゆっくりながら進み、廃業に追い込まれてゆく「B.O.F.」。そして、老夫婦からこの店を買収して、よき伝統を守ろうとした好青年ネストルの試みは、わずか3年ほどで挫折した模様である。こうした推移を見つめる作者の目は、だんだんと冷めていく。暗闇となった店の窓中を覗きこむと、テーブルに埃がかぶり、カウンターには、頑固主人セトル・ジャン愛用のエプロンが置かれたままとなっている光景がひろがる。そして跡地ではやがて、巨大な赤い看板をあしらったアメリカのハンバーガー屋が繁盛することになる。
私がこの界隈を初めて訪れた1992年、もちろんそこはすでにフォーラム・デ・アールとなっていた。この地下モールの中にあるホールで、私はジャック・リヴェットの傑作『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)を初めて見た。192分の長尺作品だが、客は何人かをのぞいてほとんどが、次々に途中退席してしまった。この前日、モンパルナスのある名画座では、溝口健二のごく平均的な作品『武蔵野夫人』(1951)が上映され、観客たちはあれほどまでに感動を隠さなかったのに。世の不条理を感じた、と言ったら、すこし大袈裟に過ぎるであろうか。