荻野洋一 映画等覚書ブログ

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井上ひさし作『〈東京裁判三部作〉第一部 夢の裂け目』

2010-04-29 01:28:43 | 演劇
 先日訃報を聞いた井上ひさしの戯曲を栗山民也が演出した〈東京裁判三部作〉の第一部『夢の裂け目』を、新国立劇場にて見る。切符を入手した際には、これが追悼公演のプラチナチケットとなるとは、つゆ知らずであった。

 東京・根津を本拠地とする紙芝居の貸元(角野卓造)を中心に繰り広げられる、大文字の歴史のミクロ的解釈。二・二六事件以前のある日、この貸元がひとつの紙芝居を創る。それは、戦前の子どもたちにとっては忘れることのできぬ名作として語り継がれてきたが、これがじつは、戦後に開かれることになる極東軍事裁判を遙かに予告するものであったというのである。
 「捨小就大(小を捨てて大に就く)」とは昔の中国の格言であるが、東条を抹殺する供儀によって、真の戦争犯罪者が千代に八千代に生き延びる、と主張する神話的劇構造が、タヌキの合戦物としてあらかじめ暗喩的に語られていた。戦前は「四谷の小さな大学」の国際法学者だったというヤミ屋の男(石井一孝)が途中から物語に介入して、この劇構造を徹底的に解明するべきだと主張するが、その紙芝居の原作者たる貸元は、GHQからの召喚を受け、この物語をもう二度と上演しない旨、署名をするのである。

 ミュージカルでもあるこの物語はそして、「湯豆腐に生姜と茗荷をのせて食べる自分たち〈普通人〉、刺身を山葵醤油に付けて食べる自分たち〈普通人〉は、責任をまっとうする必要がないのよ♪」などと、根津町内の庶民たちによってクルト・ヴァイルのメロディ(ブレヒト『マハゴニー市の興亡』、いわゆるドアーズ「アラバマ・ソング」のメロディ)に乗せて楽天的かつモノフォリックに唱和され、3時間に及ぶ大作は、あっという間に大団円を迎えてしまう。こうして主体性、責任所在の不確定ぶりが、寒々しい楽天性の中で放置される。
 紙芝居屋は、ワイプという映画的技法を用いて物語を更新するだろう。1枚の画用紙をゆっくりと抜き取ると、背後から新たな物語が現れてくる。この際限なき物語の無責任な語り手である貸元は、「エンマ・ボヴァリーは私だ」という認識と同様、私たちそのものなのであろう。

「シネ砦」第3号届く

2010-04-28 01:40:33 | 
 映画美学校の封書にて、「シネ砦」の第3号が自宅のポストに届いた。「シネ砦」とは、同校研究科・安井豊ゼミの機関紙。前2号の日本映画レビューからうって変わり、今回はインタビュー特集となっている。取材されているのは、廣瀬純君と渥美喜子さん。

 前者は私にとって、季刊「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌の編集委員時代の同僚という間柄となる。彼の渡仏以来もう10年くらいは会っていないと思うが、鋭利なる近著『シネキャピタル』(洛北出版)を出すなど、活躍の様子は何よりの便りである。彼の今回の言葉から、「カイエ」編集会議のあの席上で彼がやっぱりそんなことを考えていたのだなあ、と改めて思った。私は常に、アンチテーゼを提示する側でなく、アンチテーゼを咀嚼する側にいたから。ちなみに偶然ながら、彼とは高校も大学も共に同窓である。
 後者は、女性による映画ブログとして代表的な存在である「gojo」の作者・運営者である方で、2年ほど前に、青山真治、中原昌也に連れられていった安井ゼミの忘年会で紹介されたことがあるが、とても素敵な女性である。これまで謎につつまれていた「gojo」女史の正体がこのたび、とうとう白日の下に晒されており、そういう点でもきわめて意義深い号となっているだろう。

 同紙は、ミニシアター都内各劇場、アテネ・フランセ文化センターなどで配布されているのだという。

第3回爆音映画祭

2010-04-27 00:00:10 | 映画
 来月5月28日から東京・武蔵野市のバウスシアターで、第3回爆音映画祭が開催される。もらったばかりの見開きチラシを眺めていると、むずむずとなってきて、「これも、これも」と幼児のように食指が伸びてくるのである。『爆裂都市』『ポーラX』『鉄男』を爆音で再見するというのは、きっと新たなる聴覚体験となるだろうし、大音量の『ラスト・ワルツ』なんていうのも、相当感動してしまうかもしれない。友人Hから借りっぱなしになっているDVDで見ただけの『彼方からの手紙』も、爆音で見直したらどうなるか。そして、ゴダール『JLG/自画像』、ストローブ=ユイレのコンビ最終作『ジャン・ブリカールの道程』も当たり前のごとく入っている。だが、これだって、決して当たり前のものではないのだ。

 既知の作品を未知の体験に読み替えるばかりが、爆音上映ではない。わが怠惰のせいで逸してしまった作品との初めての遭遇、たとえば『SR サイタマノラッパー』『TOCHIKA』『Furusato 2009』あたりは私個人にとっては、爆音でなくても、単に以前から見たかった未見作品である。
 そしてなんといっても、私がまだ見たことのない、この1本。深作欣二の『暴走パニック 大激突』(1976)。中原昌也が本作について、「革命の代償行為としての暴走! 老若男女問わないアナーキーの祭典! これを爆音で観ずに何を観る?」と書いている。…身震いするほど楽しみな1本である。


第3回爆音映画祭 5/28(金)~6/12(土)
主催/boid 吉祥寺バウスシアター  後援/武蔵野市
http://www.bakuon-bb.net

『密約 外務省機密漏洩事件』 千野皓司

2010-04-24 01:55:01 | 映画
 政権交代後、沖縄基地移転問題が改めてクロースアップされているが、この問題のそもそもの原因である、アメリカ・日本政府間でひそかに交わされた、沖縄返還にまつわる1971年の密約をめぐって、テレビ朝日が、事件から7年後の1978年に1篇のドラマを制作している。澤地久枝の同名ノンフィクションをもとに、タブーを扱ったこのドラマは放送当時、大きな反響を呼んだらしいが、その後は闇に葬られた。また、監督をつとめた日活出身の千野皓司も、これ以後は映像業界で干されるという無言の圧力を受けている。
 そういういわくつきの作品『密約 外務省機密漏洩事件』(1978)がいま、劇場でタイムリーなリバイバル公開を果たしている。当初から劇場公開も企図されていたのだろう、テレビドラマでありながら、35mmフィルムで撮影されたのである。しかし、製作から30年以上経過して眺めてみるならば、社会派の告発映画であるはずが、どうもその生硬な演出も含めて、珍品扱いしたくなってしまうのも事実なのであるが、それは単に反動的なふるまいというものであろうか。

 日米密約をスクープした新聞記者と、その記者に密約の証拠書類を提供した外務省女性事務官がラブホテルで密会していた、という週刊誌的な下半身問題へと、裁判の焦点がすり替えられることによって、暴露された密約という本質そのものは、巧妙にもみ消され、稀薄化してゆく。

 ブンヤとねんごろになった外務事務官を、今年1月、紀伊國屋ホールの『アプサンス ある不在』をもって舞台から引退した吉行和子が、きわめて生々しく演じている。松本清張のヒロインなどと違って、女から獣にドラマティックな豹変を遂げるわけでは決してない。しかし、いまなお現在進行形でこの国を揺るがしている外交上のスキャンダルと、たったひとりの女の性とが、短い1本の線であっさりと結ばれてしまう。そしてその線を、吉行和子の思いつめた視線が紡ぎ出している。
 時に、これは大島渚の『愛の亡霊』と同じ年の吉行和子である。


銀座シネパトス、新宿武蔵野館他、全国で順次公開
http://www.mitsuyaku.jp/

『脱獄囚』 鈴木英夫レトロスペクティヴ

2010-04-21 03:39:30 | 映画
 『脱獄囚』は鈴木英夫1957年の作品。今回初めて見ることができたが、シャープにしてドライな演出で唸らせる鈴木としては、典型的な1本といえるのではないか。若夫婦が「たまたま」凶悪犯による特定攻撃の対象となり、恐怖を味わう、そういう悪夢的な一夜をじわじわと扱っているという点では、前年の『彼奴を逃すな』(1956)に連なるスリラーである。なお、そのむかし『彼奴を逃すな』を、今はなき大井武蔵野館で見た時の爽やかな感動は忘れられない。玉井正夫、三浦光雄といったスタジオ・システム全盛期に活躍した名カメラマンたちのあざやかな上にもあざやかなるカメラワークを、改めてこれらの作品で見直すのもいいと思う。

 昨年公開されたイェジー・スコリモフスキの『アンナと過ごした4日間』(2008)において、主人公と女性看護士の家が目と鼻の先に向かい合わせで建っていること自体が、重要なサスペンスの源泉になっていたのと同様、この『脱獄囚』においても、主人公の刑事夫婦(池部良・草笛光子)の一軒家と、脱獄死刑囚(佐藤允)が立てこもる中北千枝子の一軒家は、双眼鏡がなくてもお互いの様子を窺い知ることのできる抜群の距離にある。しかも互いが互いを監視しているという事実を知られまいとするために、こちら側が「無警戒」であることを必死に取り繕うのである。
 蒸し蒸しする初夏の東京郊外では、夜でも窓という窓は開け放たれる。そこに、私たち観客は「大丈夫なのか」という緊張感を否応にも増していくが、作品はヒンヤリとした即物的な、交わらぬ視線の劇が、完璧なコンティニュイティとして構築されていくばかりである。

 『脱獄囚』と前年の『彼奴を逃すな』の共通点は、私としてはじつはもうひとつある。それは、恐怖を味わう主人公夫婦のうち、夫役は私好みの男優が演じており(前者は池部良、後者は木村功)、妻役は私好みではない女優が演じている(前者は草笛光子、後者では津島恵子)という点である。ただし、手厳しい鈴木演出のたまものであろうか、草笛も津島も、この2本の和製フィルム・ノワールにおいて、じつにすばらしい。
 もっとも、最高傑作のうちの1つ『その場所に女ありて』(1962)における、司葉子、水野久美ら女優陣の尋常ではない輝き方、そしてラストにおけるアフターファイブの銀座街頭の生々しさは、さすがにここには求められないのだが。


東京・渋谷円山町のシネマヴェーラにて、〈映画作家・鈴木英夫のすべて〉を開催中
http://www.cinemavera.com/