荻野洋一 映画等覚書ブログ

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御殿山がけ下日記(3) 町が消えた

2012-05-14 06:27:55 | 御殿山がけ下日記
 大震災が起こり、家電をはじめとする主要産業が軒並み国際間競争から脱落し、日本という国は急激に衰退して行っているが、土木業界による「再開発」なるジャンルは、滑稽なほどに昔と変わらぬ工事風景を現出させる(人口も減っているし、ほんとうに再開発なんてする必要あるのかしら…)。現在、JR大崎駅から五反田駅にまたがる目黒川左岸の広大な地域(町名でいうと北品川と東五反田)が、大規模再開発まっただ中である。
 私が出入りするプロダクションの分室が北品川にあるため、この工事に散々付き合わされて辟易としている。懇意にしていた編集・MAのポスプロが立ち退きとなり、付近にはコンビニが消え、事務所内は工事のために、つねに震度2くらい揺れている。ここ数日は連日泊まり込みで仕事の追い込みをかけているところだが、騒音と揺れ、それから町全体が埃っぽくてかなわない。ちなみに、前田司郎の「五反田団(アトリエ・ヘリコプター)」はかろうじてギリギリ健在である。
 写真はほんの3、4ヶ月前の解体風景だが、いまはもうすっかり広大な更地となっていて、すでに完成した高層ビル群が向こう側にそびえる光景は、あたかも湾か河口を挟んだ水際のように見える。
 品川はさらに北側の田町駅との中間に、JR山手線の駅を1つ増やし、大規模再開発が始まるようである。場所的にはおそらく山手線新駅の名前は「高輪(たかなわ)」となるだろう、と勝手に予想している。

P.S.
 「御殿山がけ下日記」なるカテゴリーを拙ブログ内に増設しました。どうも鬱陶しいカテゴライズではありますが、どうぞご勘弁とご愛顧を。

御殿山がけ下日記(2) ジャン=ミシェル・オトニエル《マイ ウェイ》 @原美術館

2012-02-14 18:35:18 | 御殿山がけ下日記
 フランス・サンテティエンヌ出身の美術作家ジャン=ミシェル・オトニエルの日本における最初の個展《マイ ウェイ》が、原美術館(東京・北品川)で開催されている。硫黄、蜜蝋を主材料とする初期作品から、イタリア・ヴェネツィアで産出され、素晴らしい発色を誇るムラーノガラスを素材とした近年の大型作品までがいろいろと見られ、かつ写真撮影も許可されていることから、カメラを持った男女で賑わいを見せている。
 周知のとおり、第一京浜から旧・岩崎男爵別邸(三菱開東閣)を通り過ぎた、御殿山の高級住宅街のど真ん中に建つ原美術館は、1938年完成の旧・原男爵邸を改造したモダニズム建築であり、かつては現実の家屋でもあった。この生活空間が現在の使い手の意図どおりに歪曲し、ひたすら美にのみ奉仕する空間となっていることから、美術であると同時に肥大化したジュエリーのお化けでもあるという両義性をもつオトニエル作品と、あやしくシンクロしている。オトニエル自身も、若手時代から同館を知っており、「このエレガントな空間でいつか個展を開くのが夢だった」と述べている。
 ここに展示されたムラーノガラスや鏡面ガラスの作品群は、透き通って清純で、曇りがなく滑らかでありながら、引き千切られ、無残に取り出された臓物でもある。オトニエルはこれを「可変性」と言っている。『私のベッド(Mon lit)』は彼の代表的な作品。男と女が寝台でセックスをし、そこから新たな生が形成され、やがてその生は寝台の上で円環を閉じる。生と死の裏返し(エロス/タナトス)を「可変性」に富んだガラスに託したものである。


原美術館(東京・北品川)にて3月11日(日)まで開催
http://www.haramuseum.or.jp/

御殿山がけ下日記 (1)おとこもすなるにきといふものを

2011-08-14 01:49:42 | 御殿山がけ下日記
 私が出入りしているプロダクションが広尾の事務所を引き払い、原宿と北品川に事務所を構え、早1年以上が過ぎた。私のグループは北品川組となり、週に平均3~4日ほどはそこに詰めている。
 かつての私たちの根城だった広尾は、おととし逝った会長の故・安田匡裕の好みだった(彼は夜な夜な女優やタレントを誘って、どこか旨いもの屋で会食するのを日課にしていた)わけだが、私個人はあまり広尾を好んではいなかった。しかしフランス、ドイツというヨーロッパ2大国の大使館を持ち、東京の他の街──たとえば近隣にある渋谷、恵比寿、六本木といった喧噪、腐敗の街──にくらべると、格段に品位ある静謐さをたたえていたことは間違いない。

 北品川に本拠を移して以来、私は広尾がいかにいい街だったかを思い知らされた。風景には味も素っ気もなく、寄り道できる店や溜まり場もなく、旨いものを食わせる店もない。しかたなく店屋ものをいろいろと試したが、配達員どもが運んでくる代物は、どれもじつにひどいものだった。この街の人々は、いったい何を食べて生きているのか? それがどうしてもわからない。

 北品川という街はわりに広く、大きく3つに分けることができる。
 1つめは、川島雄三の北品川。遊郭街として栄えた地区で、『幕末太陽伝』(1957)の冒頭で二谷英明、小林旭ら長州藩士が焼き討ちにおよんだ初代イギリス大使館もあった。京浜急行「北品川」駅から天王洲アイルにかけて、運河がめぐっている。
 2つめは、日本最高の高級住宅街ともいわれる北品川。つまり「御殿山」である。古くは徳川将軍家の花見御休憩所があり、維新後は華族の邸宅が集合した小高い丘で、現在、原男爵家をリノヴェートした「原美術館」がある一帯だ。いかにも高級住宅街らしく、上野毛や田園調布でも見られる1人交番(警官詰め所)が点在する一方、コンビニひとつない鬱蒼たる屋敷町である。
 私が巣喰う北品川は、1つめでも2つめでない、もうひとつの北品川である。ソニー揺籃の地であり、電子部品や工作機械の町工場が軒をつらね、労働者が半田ごてや電ノコ、旋盤相手に格闘する街。それは「御殿山」のがけ下にひろがり、がけの上と下とでは、あたかも黒澤明の『天国と地獄』(1963)のごとく明確なる身分差、所得差が視覚化されているのだった。町工場のぼんぼんである「五反田団」の前田司郎は、そういう場所から生まれた才能である。

 私はなんとか努力して、この「がけ下」を好きになろうと努めてきた。そしていま、「がけ下」は姿を消そうとしている。再開発にともなう解体工事がまもなく始まろうとしており、「がけ下」全体が蜃気楼のようになくなろうとしている。前田司郎の本拠地「アトリエ・ヘリコプター」もやがて、その波に呑み込まれるだろう。そして「御殿山」の華族さまたちは、そうした下界の変化を丘の上から見下ろすことだろう。
 始めようとしている日記が『ヴァンダの部屋』のようにおもしろいものになる自信は、正直言ってまるでないが、それでも土地の存在の記録として、そしてわがちっぽけな生の一部として、今後、この界隈の破壊、消滅、そしてだらしのない懐旧までふくめて、《御殿山がけ下日記》の名のもとに不定期連載しようと(ほぼ1年くらい前から構想していたのだが)思っている。つまらないディテールの集積に終始するかもしれないが、お付きあいいただければ幸いです。