荻野洋一 映画等覚書ブログ

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三分割される『異邦人』 ──カミュによる、ヴィスコンティによる、そしてアラブ側による

2021-04-28 22:39:03 | 
 今春にルキーノ・ヴィスコンティ監督の1968年作品『異邦人』がデジタルリマスター版として公開された。私は今回この作品を初めて見たのだが、有名な増村保造監督による初公開時(1968年9月)における雑誌『映画芸術』での酷評をはじめ、本作の評価が芳しくないことは、かねてから知っていた。
 ヴィスコンティ自身はアルベール・カミュのこの「世界一有名な小説のひとつ」(1942刊)の映画化に長年の夢を悲愴なまでに抱いていたらしく、それにしてはずいぶんと軽い風刺悲喜劇の域を出ていないようには思え、と同時に、ヴィスコンティらしからぬB級精神がかえって好ましさを覚えたことをここに告白しておこう。殊にアンナ・カリーナの哀願するような表情は印象的で、ゴダール映画の不敵ともリヴェット映画の嗜虐ともまったく様相を異にした彼女の貴重な姿を見ることができる。

 「世界一有名な小説のひとつ」の主人公ムルソーによる世界一有名なセリフのひとつ、殺人の動機を検事に訊かれて「太陽がまぶしかったから」はよく分かるし、難解でもなんでもないけれども、イタリアのスーパースター、マルチェロ・マストロヤンニが演じたムルソーが太陽のまぶしさに目の眩んだ拍子に、救いようのないそそっかしさでピストルの引き金を引いてしまう瞬間が、私の網膜の裏側で何度もくりかえし再映写されるのだ。なぜあのアルジェリア人青年は銃口を向けられても無表情なのか? そしてなぜ白人をナイフでケガさせたのに逮捕を逃れるためにずらかろうともせずに、トラブル現場の海岸で暢気に寝そべっていたのだろうか? 彼は白人に殺してもらうためにそこにいたのだろうか? このアルジェリア人青年はいったい誰なのか? ムルソーの親友がもてあそんだ売春婦の兄ということらしいが、本当だろうか? そもそも、このアルジェリア人青年の名前は? マストロヤンニを裁く裁判シーンはやたらと長いが、なぜ被害者の名前がいちども言及されないのか?

 本作は、カミュの、そしてヴィスコンティの自己への実存主義的な死刑宣告、近代精神批判があまりに雄弁に語られる一方で、アルジェリア人青年には名前もイニシャルもまったく言及されないという、考えようによってはひどく人種差別的な作品と言えるだろう。この被害者は主人公ムルソーに射殺される以前に、まずカミュによって、次にヴィスコンティによって抹殺されたのだ。

 そうした思考の延長として、あるアルジェリア人作家による、『異邦人』の捏造された続編を読み終えたばかりである。カメル・ダーウド著『もうひとつの『異邦人』 ムルソー再捜査』(邦訳2019年 水声社刊)。ゴンクール新人賞を受賞している。太陽がまぶしいせいで殺害されたアルジェリア人青年の弟を名乗る男が、『異邦人』ファンの現地探訪ツーリストらしき人間をつかまえて、飲み屋のカウンターで毎日、兄の死後、自分と母親がいかに苛酷な運命を辿ったかを激白し続ける。
 弟を名乗る主人公が、殺害された兄の名を「ムーサー」だと教えてくれる。冷血なフランス人によって血を流した「ムーサー」は民族の英雄として、アルジェの貧民街で数ヶ月くらいのあいだは祭り上げられ、弟と母親は英雄の遺族として遇された。しかし、当局は遺族に対しなんの情報も提供しなかったし、兄の亡骸も引き渡されなかった。遺族年金も受け取れず、兄の死は無に等しかった。代わりに、加害者の裁判と死刑宣告ばかりがレトリカルにショーと化した。「ムーサー」は何重にもわたり抹殺されたのだ。

『小村雪岱随筆集』について

2018-07-12 15:40:21 | 
 いま金沢の泉鏡花記念館で、特別展《日本橋──鏡花、雪岱、千章館》というのをやっている。今年の夏はぜひ金沢を訪れ、ついでに当地の味覚も味わえたらなどと考えていた。ところが5月に母方の伯母が、7月に父方の叔母が相次いで逝き、さらに今月は祖母の三回忌法要も控えているという事情も鑑み、北陸行きを断念した。

 その代わりに、今年2月に幻戯書房から刊行された真田幸治編『小村雪岱随筆集』を大いに堪能したところである。小村雪岱(こむら・せったい 1887-1940)は装幀家として、また挿絵画家、舞台装置家、さらには資生堂意匠部デザイナーとして、大正から昭和初期にかけて活躍した。泉鏡花の花柳小説『日本橋』(1914)の美装によって評価を高め、以降、ほとんどの鏡花の著作は雪岱が装幀をおこなった。その『日本橋』まわり一切を今回の金沢行きで見ておきたかったが、しかたがない。『日本橋』は溝口健二監督によって1929年に、市川崑監督によって1956年に、2度映画化されているが(溝口版は消失)、もはや現代ではこの花柳小説を映画にできる監督はいないだろう。花柳界のこと、芸のこと、衣裳のこと、江戸言葉、セット、もろもろを体得した監督なんてもういるわけがない。体得していなくても、優秀なスタッフを付ければできるのかもしれないが、そんな『日本橋』なんて見る気がしない。
 今回の『小村雪岱随筆集』は、すでに中公文庫などで出回っている雪岱随筆集『日本橋檜物町』に未収録だった文があらたに収録され、あまつさえ『日本橋檜物町』収録分も編者の真田幸治氏が初出の掲載誌にあたり、同書刊行時(1942)の書き写し間違いを初出誌のとおりに直している。解題も簡潔にして詳細、じつに気持ちよい本だ。ご自身装幀家でもある真田幸治氏のような在野の研究者によるこういう気の利いた仕事ぶりに接すると、私は大舟に乗ったような安らかな気持ち、あこがれの気持ちをもって本の中で遊泳できる。
 あくまで個人的な好みの話だが、学術的な論文を読むのは好きではない。必要な際には読まないではないが、原注と訳注が別々のページにあったり、図版説明がさらに別のページ、そして索引と、栞が何枚あっても足りないような、著者側・編者側の思惑によってあっちこっちに引き回されるような読まされ方は、ああいうのも必要なのは分かっていても、わがままな読者である私には合うものではない。『小村雪岱随筆集』のようなスタンスが私には最も快適な読書を約束してくれる。

 雪岱は映画美術の分野でも活躍している。溝口健二『狂恋の女師匠』(1926)の美術考証ほか、島津保次郎『春琴抄 お琴と佐助』(1935)、『白鷺』(1941)、山本嘉次郎『藤十郎の恋』(1938)などで美術監督や考証、装置を担当している。本書のなかでは島津の『春琴抄 お琴と佐助』について、大阪・船場の古い商家のしつらえなど、ロケハンで丹念に調べあげたことなど、映画ファンなら垂涎のエッセーだと思う。

ウンベルト・エーコ著『ヌメロ・ゼロ』

2017-08-10 03:58:36 | 
 ウンベルト・エーコの最後の小説『ヌメロ・ゼロ』(河出書房新社)がイタリア本国で刊行されたのは、2015年1月。翌2016年2月にエーコは永眠している。ミラノで「ドマーニ」(明日)なる新聞が創刊準備を始める。しかしこれは、政財界に脅しをかけるための陰謀的な「商材」にすぎない。創刊準備号、つまりヌメロ・ゼロ(零号)の製作のために数人の経験者が雇われる。「ドマーニ」が永遠に創刊されることはないことを、彼らは知らない。
 「ドマーニ」は腐敗したジャーナリズムを地で行く。毎日ヘドが出るような編集会議が催され、編集者たちは3流出版物の作業で養った3流の経験をもとに創刊準備号を構想していく。構想の中で、ある男がしつこく調査していたムッソリーニ戦後生存説が、「ドマーニ」関係者の運命を暗転させていく。

 陰謀、陰謀また陰謀。低予算のフィルムノワールのような簡潔さで陰謀が語られ、エーコ作品としてはめずらしく、たった200ページで終わってしまう。一昨年に邦訳が出た前作『プラハの墓地』(原著は2010)の補遺のように思える。『プラハの墓地』はトリノ〜パリへと主人公を追いかけながら、近現代ヨーロッパの暗部を丸ごとつかみ取っていく大作業だった。『ヌメロ・ゼロ』の舞台はトリノではなくミラノだが、『プラハの墓地』はユダヤ人虐殺の理論的根拠の捏造をあつかい、『ヌメロ・ゼロ』はムッソリーニの保護生存をあつかう。ファシズムの擁護機能を取り出してみせた点で共通点が多い。また今回は、ミラノの古い街並み、犯罪通りが活写される。古くて物騒なミラノ旧市街について語るエーコがじつに楽しげだ。

 現代日本にこそ、ウンベルト・エーコの再来を願わずにおれない。史上最低の政権、安倍政権の支持率がついに低下し、どうやら終焉に近づいているようだ。ただし支持を失ったのは1強ゆえのおごり、ゆるみのためであり、〝お友だち〟優遇による歪み、腐敗のためだとの論調が支配的となっている。この政権がなぜ最低なのか。それは腐敗のためではない。日本的ファシズムの再生装置としての安倍政権のあり方そのものを根底から検証すべき段階にきているところを、単におごり、腐敗の名において批判することは、むしろ擁護にすら近い。エーコがえぐり取った陰謀とは、この無意識のことである。
 最近になって安倍を批判するようになった層は、容易に安倍擁護に転じる予備軍、第2の安倍誕生プログラムに寄与する予備軍だろう。ファシズムの温存になにかと寄与してはばからない巨大な塊を、エーコは鋭い筆致と博物誌的な情報量で描いた。小説などというジャンルは一部をのぞいてほぼ無視を決めこむ私が、エーコのそれは読むようにしている理由がそれである。イタリア同様にファシズムが潜在的に根付いている日本でこそ、ウンベルトEが復活する必要がある。

スーザン・ソンタグ 著『イン・アメリカ』

2017-01-01 01:43:31 | 
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、全米の劇壇で活躍したシェイクスピア悲劇の伝説的な女優ヘレナ・モジェスカ(1840-1909)の生涯にインスピレーションを受け、モジェスカと同じポーランドに一族の出自をもつスーザン・ソンタグが小説にしている(邦訳 河出書房新社)。
 1861年、ポーランドで劇壇デビューして以来、母国ポーランドの劇作家による戯曲はもちろん、ドイツ語、フランス語、英語を駆使し、あっという間に地元のクラクフとワルシャワでトップ女優に上りつめたが、ワルシャワ帝国劇場の終身契約をあっさり破棄し、1876年、アメリカへの移民を決意する。当初は、天候のいいカリフォルニア州アナハイムで、夫のフワポフスキ伯爵と共にワイン農場の経営にがんばるが、貴族経営の限界で、すぐに失敗。翌1877年、みずからの宿命にもはや観念したのか、西部第一との誉れ高いサンフランシスコのカリフォルニア劇場で、エルネスト・ルグヴェのフランス悲劇『アドリエンヌ・ルクヴレール』で主演デビュー。たちまち全米一の女優となり、シェイクスピア、イプセンなどを演じつづける。
 ソンタグは彼女の生涯を換骨奪胎し、一篇の大ロマネスクに仕上げることに成功している。史実とフィクションを上手に混ぜ合わせ、と同時に、のちに『クォ・ヴァディス』(1895年刊)で世界的文豪に上りつめ、その10年後にノーベル文学賞を受賞することになるヘンリク・シェンキェヴィチを、リシャルト(米国名ではリチャード)の仮名で捏造的に登場させ、ヒロインに恋する年下のツバメをやらせている。このロマネスク的捏造によって生み出されるパッションを、元来は批評家肌のソンタグが体得しているというのは、驚くべきことだ。ユージーン・オニールによってアメリカ近代演劇が始動する前夜の、まどろみのような劇壇における生き生きとした、一女優の冒険と苦闘が、まさに小説そのものとして浮かび上がる。

原田マハ 著『暗幕のゲルニカ』

2016-10-13 01:44:23 | 
 原田マハの新作『暗幕のゲルニカ』(新潮社)は帯文に「圧巻の国際謀略アートサスペンス」とある。たしかに、ピカソを専門領域とするキュレーターとしてMoMA(ニューヨーク近代美術館)に勤務する日本人女性の主人公・瑤子を中心に、MoMA、レイナ・ソフィア芸術センター(マドリード)、グッゲンハイム・ビルバオ美術館、国連、ETA(バスク過激派)などが地球規模でからんで権謀術数をめぐらすばかりか、スペイン内戦期の1937年から第二次世界大戦終戦直後の1945年にいたるパリ、オーギュスタン通りのアパルトマン4階(そう、ピカソのアトリエがあった場所であり、ここで大作『ゲルニカ』が描かれた)およびカフェ・ドゥ・マゴ、パリ万博会場といった過去の時空がパラレルに織り込まれていく。そして、大戦期のもうひとりの主人公はピカソの愛人ドラ・マールで、ドラと瑤子が合わせ鏡のような時間構造のなかで気丈に立ち回る。
 まるで映画を見るようなシークエンス処理——「映画を見るような」という紋切り型表現を使ってしまったが、これは2001年の9.11テロの時にさんざ使われた表現だ——は、主人公・瑤子がアメリカ人の夫をワールド・トレード・センターで喪ったことを契機として始動する。そして、著者がWebサイト「shincho LIVE!」のインタビューで語っているように、この小説を書いたきっかけは、次のようなものだという。

「〈ゲルニカ〉には、油彩と同じモチーフ、同じ大きさのタペストリーが世界に3点だけ存在します。ピカソ本人が指示して作らせたもので、このうち1点はもともとニューヨークの国連本部の会見場に飾られていました(ちなみに1点はフランスの美術館に、もう1点は高崎の群馬県立近代美術館に入っています)。しかし事件は二〇〇三年二月に起こります。イラク空爆前夜、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルが記者会見を行った際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたのです。私はそれを、テレビのニュースで知りました。」

 主人公・瑤子がMoMAの前にレイナ・ソフィア芸術センターに勤務していたという設定のせいか、それとも『ゲルニカ』が、40年間にもおよぶフランコ総統によるファシスト独裁時代はアメリカのMoMAに避難していた、その「亡命」に寄与したスペイン青年貴族パルド・イグナシオ(架空の人物)に作者が肩入れし過ぎたためなのかは分からないが、本全体として、完全にではないにせよ、ややマドリード寄りに描かれているように思えた。現在ではカタルーニャ語表記が一般化しているジョアン・ミロを「ホアン・ミロ」と古色蒼然たる表記で登場させるあたり、作者の心情を物語っているように思う。だたし、ピカソの『鳩』の絵の真筆がなぜバスクの女テロリストの手元にあるのか、そのからくりは見事と言うほかはなかった。