ゆのひらんおばちゃん Part3

創業70年の土産屋を 2023年3月末で閉めました。『夫婦で余生を どう生きるか』を模索していきます。

納骨堂参りと道の駅めぐり

2024-06-05 | 思い出
半月前 母の命日を迎えました。丸7年です。

その日は 阿蘇にある納骨堂に参る予定でした。あいにく雨が降り 急坂を登った丘の上にあるので延期していました。

今日は天気が良いので、半月遅れのお参りとなりました。

丘の上にある納骨堂までの道は うねうねと急勾配で、まるで『ぽつんと一軒家』の道のようです。軽トラで行くべき道でした。

『ぽつんと納骨堂』で維持管理が難しいせいか 草が伸び 鎌を持っていけば良かったと反省しました。


夫が父に加えて母の事を書いてくれた過去帳を納め(今頃)手作りの飾りを置き お参りを済ませ 肩の荷が降りた気がします。気は心です。



たくさんの兄弟親戚が一緒に祀られています。兄弟達は生きているうちに いなくなった自分達の住む場所を考えて築いていたのです。

父の左には すぐ上の長兄、右には すぐ下の弟(存命)の名前があり 右に次々に兄弟の枠が続き、いとこも二人(存命)ありました。

お参りを済ませた後は いとこの長男の店の山水亭へ。


昼過ぎに寄ったら 車とバイクで満員で 名前を記入して並んで待っています。田舎なのに超人気店のようです。

時間潰しに先にある『池山水源』に向かいました。途中『花の温泉館』は閉店していました。



昔は たいそう賑わっていましたが、今は 静かで無人販売には野菜も無く『ヒゴタイ』の苗があるだけでした。


店舗の片隅でコーヒーを出す店も暇そうにしていました。

人がいない池山水源は おかげでと言っては申し訳ないですが、より神秘的で幻想的でした。

奥と水の中に水神様が見えます。








スマホが古くて うまく きれいに写せないのが残念です。

熊本県の池山水源は球磨川水系かと思っていましたが なんと 大分県の大野川水系で別府湾に注いでいるそうです。

時間を潰し 山水亭に戻ると 車の列は無く 入店し すぐ運ばれました。今回は『牛肉カレーオムライス』
ダブルの 美味しさです。


テイクアウトも夕食用に注文しました。

今回は納骨堂のお参りだけで、親戚宅にも寄らず、おみやげも用意していません。いとこの奥さんがいなかったら 名も名乗らず帰るはずでしたが、ひょんなことで バレてしまいました。

そこから 帰りに竹田の『道の駅 すごう(菅生)』に寄り



『スイートコーンソフトクリーム』を食べ お野菜を買って帰りました。



竹田は盆地の印象がありましたが、町村合併で荻町なども含まれたので 広々とした野菜畑の光景にも出会えました。

帰りついた時

山の中の谷のような立地にある自宅が眼下に見え よくぞまあ 昔の人は こんな場所に温泉場を作ったなぁ…と 変な感心をしてしまいました。


夕食はテイクアウトの夕食で ゆっくり運転の疲れを取りました。膝は悪くても運転は大丈夫です。

はあ~ 文が長かった😞💦













道の駅巡り

2024-04-19 | 思い出
昨年4月に店を閉め、引っ越して10ヶ月経ちました。

自由な生活になり 当初の希望は『道の駅めぐり』でした。小さな夢です。

一年間で行ったのは2ヵ所だけでした。

①道の駅 ゆふいん
一番身近な『道の駅 ゆふいん』には2回行きました。近すぎて『道の駅』っていう気がしません。

土産屋をやっていたのに 今はよそで土産を買うのは妙な感じです。

『あら こんな新しい土産物がある』
『これは 高くなったね』
『販売員が 「いらっしゃいませ」って言わないね』など言いながら買い物をします。

②『ながゆ温泉市場』
閑散期に行ったせいか 商品が少なく隙間があり、土地の特産物や野菜も少なく寂しい訪問でした。道の駅というより スーパー的な感じです。


さて、閉店から一年が過ぎた先日、出かけたのは

③『道の駅 あさじ』です。


野菜や加工品が多く並び、のっけから野菜やおかずを買いました。

外に出れば 川あり、石橋あり、広場ありで楽しめました。






④『道の駅 原尻の滝』は
チューリップの盛りは過ぎていましたが、まだまだ楽しめました。


そばには 東洋のナイアガラと呼ばれる『原尻の滝』があります。



インバウンドの客が闊歩していました。シャッターポイントの場所に立ち続けて撮影をし合う姿には反省を求めますが 注意をするわけにもいきません。

道の駅内のレストランでの昼食は『チキン南蛮冷やしうどん』でした。つけめんのつゆとタルタルソースがまざって おいしかったです。

注文は すべてタブレットで、老人が困っていました。

そばには「野菜の販売所」や「喫茶店」や「ソーメン流しの店」や「ジェラートの店」があり、風情ある水車が回っています。広い空間が癒してくれます。


⑤竹田道の駅
野菜や加工品もあり、どこよりイチゴが一番安かったです。



こちらのコーナーは定休日でした。



暑さもありイチゴソフトクリームをほおばりました。食べかけです😅



その後 竹田市内に移動し『但馬屋老舗』に向かいました。右半分は茶房『だんだん』です。



道路には人は見えませんが、中は和菓子を求める奥様方や地方発送をお願いする方で賑わっていました。

店内は風格あるしつらえです。

さすが創業1804年 大分県下で一番古い和菓子舗です。初代が但馬の国の出身で現在は六代目です。

裏には『種田山頭火 版画館』があるのですが、休館中で残念でした。

店主と夫は昔から知り合いなのですが、忙しい方で不在で残念でした。

荒城の月と 上生菓子を求め帰途につきました。

運転大好きな私は 夫のカーナビと車のカーナビを聴きながらの運転です。山道が得意で 街中の運転は苦手です。

一気に3ヵ所の道の駅の訪問で満足した一日でした。楽しいことは疲れません。

覚えているうちに ブログを書こうと 頑張りました。なにせ日記代わりのブログですから。




昭和の遺物⑤扇子

2024-04-05 | 思い出
倉庫の中から出てくるわ 出てくるわ 古い扇子。



おじさんが多い中、おばさんが一人いて そのおばさんが若い頃から縫い物や華道や日舞をやっていたとか。

祖父母は女の子がうれしくて『蝶よ花よ』と育てたのかもしれない。早くに亡くなったので 私は会ったことがありません。

家紋(剣方喰=けんかたばみ)入りの扇子や




エジプトの古代絵のような柄の扇子の端っこには 電話番号が記されているが、北九州時代の古い電話番号だろう。湯平の番号ではない。




この2本だけ残し あとは捨てました。昔に思いをはせながら 捨てる作業が続いています。

義父さん 義母さんがするべき断捨離を息子夫婦が今やっています。

あの世から『それは捨てるな』と言っているかもしれない。








昭和の遺物④

2024-03-31 | 思い出
画像がアップできなくなって しばらくなります。

いろんな方、お会いしたこともない方からも ご心配いただき ありがとうございます。

パソコンから書けば大丈夫でしょう。店を閉めて丸一年 パソコンを離れているので 大丈夫でしょうか?

日記がわりのブログですが、写真が無いと書いても楽しくありません。

五つの文よりも 一枚の写真の方が表現力があります。文だけで面白いなら 小説家になれますけど、そんな力はありません。

以前 下書きしたものをアップします。昭和の『しょうけ』です。


楕円形と丸形の『しょうけ』

片方に穴が空いた『かたくち』



両親は若い頃 一時 隣町の庄内町の上淵(かんぶち)で農業もしていたということでしたから その名残りでしょうか。

夫と 夫の兄も幼少時には歩いて上淵に付いて行き、久大線を走る蒸気機関車を見るのが楽しみだったとか。

両親は戦争を経験し 移住、農業、商売と苦労しながら 私たちにバトンを渡してくれたのです。



マロニエ物語

2024-03-09 | 思い出
昔 たしか三十年くらい前の話です。

夫の兄が美大を出て留学先のパリから『マロニエの実』を持ち帰りました。兄は帰国後 奈良に住んで 庭にマロニエの種を植えました。

1メートルくらいに育てた苗を『母校に植えて欲しい』と我が家に送ってきました。

当時の校長先生は 故 上田千代吉先生でした。入学式で手品をして子供たちを喜ばしてくれた校長先生です。

私が若い頃 由布院中学校に教育実習に行った時 担当したクラスの担任が上田先生でした。

そんな関わりがあったので マロニエの苗と兄の手紙を持って校長先生にお願いしに行きました。

良い時代でした。校長先生は すぐ玄関前に 自ら お手植え下さいました。

マロニエはパリの街路樹としても有名です。成長も早く 数年後には枝を伸ばし、葉を繁らせ 玄関前に日陰を作りました。職員室の日射しを和らげていました。

夏は青々として、秋には落葉して 実をつけるのを楽しみにしていました。成長した様子を退職された 上田先生に写真を添えてお便りしたら お返事が来て 今も残してあります。達筆です。



実がなったら自分の庭にも植えたいと思っていましたが・・・

ある日 突然伐られていました。

植えた時の いきさつを知らない人にとっては邪魔な木になっていたのでしょう。

ここに植えていました。



先日 久しぶりに小学校に行き、そんなことを思い出しながら シャッターを押しました。

時代が流れ 良い時代が終わり、マロニエも無くなり、上田千代吉先生も兄も亡くなり、小学校も閉校となり、プールも壊され グラウンドも 近いうちに半分になります。

昭和 平成 令和と時代は流れ いろんなものが無くなってしまいました。

卒業生がパリのマロニエを植えたことも、それが成長したことも、切り倒されたことも 覚えている人は 夫と私だけになりました。

『マロニエの跡形もなき その場所に

立ちて思うは 過去の良き日々』