徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

六月朔日詣り

2024-06-01 19:42:29 | 日本文化
 今日は藤崎八旛宮へ六月の朔日詣りに行った。いつもの朔日より駐車や参詣者が多いなと思ったら、六月一日恒例の「開運長寿祭」だった。熊本では「6.1」にちなんで、この日に今年還暦を迎える人を祝う風習がある。
 今日も拝殿でお参りした後、境内の各末社もお詣りして回った。そして清原元輔の歌碑
 「藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代か 子(ね)の日過ぐさむ」
をあらためて読んだ。この歌は、藤崎宮が今の藤崎台にあった頃、元輔が「子の日の松」の行事を行ったときに詠んだものと伝えられる。古より不老長寿の象徴とされてきた「松」のめでたさを詠んだ歌。今日という日にはピッタリだなと思う。
 一方、娘の清少納言は「枕草子」の「めでたきもの」の條には
 「色あひふかく花房ながく咲きたる藤の花の松にかかりたる」
という一節がある。「藤の花」はたおやかな女性のイメージ。そして「藤の花」がよりかかる「松」はたくましい男性のイメージ。「めでたきもの」とは素晴しいもの、見事なもの、りっぱなものを表す言葉。「めでたきもの」としての「松」のイメージは、元輔も清少納言も同じだな、などと思いながら藤崎宮を後にした。


今日の藤崎八旛宮


清原元輔の歌碑「藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代か子の日過ぐさむ」


   「枕草子」の「めでたきもの」の一節をモチーフにした(?)「藤音頭」

旧坪井川河道の跡

2024-05-31 21:49:53 | 歴史
 壺川小学校裏の民家(下の地図の〇)が解体され更地になっていた。この家は旧坪井川河道(地図の黒いライン)が湾曲している場所にあたる。既に整地が始まっていたのでわからないが、旧河道の土手の痕跡があったのではないかと思う。10年ほど前、黒ラインの上端辺りの家の長老に会ってお話を聴いた時、家の裏に古い土手の跡があるとおっしゃっていた。普通の民家なので調査などは行わずに工事を行ったものだろうが、坪井川の歴史を確かめるいい機会ではなかったかとちょっと残念な気がした。


解体前の民家(正面突き当り)


家の位置と旧坪井川河道


解体され整地が進む更地

郷土芸能の伝承に励む高校生にエール!

2024-05-30 18:05:18 | 音楽芸能
 天草伝統の唄と踊り「牛深ハイヤ」を守る牛深高校郷土芸能部は、全国高校総文祭に25回出場し、日本一に輝いたこともある名門。しかし、少子化の影響で生徒数が減少、2年前の春には3年生が卒業し部員ゼロという存続の危機に立たされたこともあったという。その年の熊本県高校総文祭パレードでは郷土芸能部門の常連である牛深高が数名の部員で参加し、とても寂しかったことを覚えている。
 去年の3月だったか、NHK九州・沖縄で放送された「キミだけ応援団」や今年の5月に放送されたNHKの「ひむバス!」などでその活動が紹介され、復活の兆しを感じてはいたが、今日、今年の熊本県高校総文祭パレードをナマで見ることができ、踊り手、地方ともに10名以上のメンバーが揃っていることを確認して安心した。郷土芸能は伝統を繋いでいくことが大変だと聞く。何とか頑張ってまた次の世代に繋いでいってほしい。郷土芸能の伝承に励む各学校の生徒たちを応援しなければという気持がより強くなった。


大相撲と熊本

2024-05-29 15:05:16 | 歴史
 大相撲五月場所は、初土俵から7場所目という、まだ大銀杏も結えない大の里の優勝で幕を閉じた。評論家が口を揃えて「横綱の器」だという大の里はおそらく大関昇進までそれほど時間はかからないだろう。最近、やたらと多い短命大関にならないことを願うばかりだ。

 かつて熊本は相撲の聖地だった。それは相撲の宗家である吉田司家があったからである。僕らが子どもだった頃、新横綱が誕生すると藤崎八旛宮の参道沿いにあった吉田司家で免許状の授与が行われていた。吉田司家はもともと越前国の武家。後鳥羽天皇(平安末期-鎌倉初期)の時代、初代の吉田家次が節会相撲の行司官に任ぜられ、以後、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗った。肥後細川3代の細川綱利公の時、招かれて熊本藩に仕えた。寛政元年(1789)19代吉田追風が「横綱」を考案し、谷風梶之助と小野川喜三郎に横綱を免許した。これが、現在に至る横綱制度の始まりである。この免許を与えるに当たって、熊本城内で審議会が行われ、肥後熊本藩8代藩主細川斉茲公が事実上の審議委員長を務めたと伝えられる。以来、第40代横綱の東富士欽壹が昇進した昭和24年(1949)まで、代々の横綱に吉田司家が免許を与えた。横綱への免許授与は第4代横綱の谷風梶之助から第40代東富士欽壱までの160年間、37人にのぼる。 
 熊本市内の光琳寺通りから下通りを横切って東の方に進む界隈は、かつて「相撲町」と呼ばれていた。細川綱利公は越前より招いた吉田司家の屋敷をここに構えさせた。以降、この界隈に力士など相撲関係者が多く住むようになったことによりこの名がついた。
 しかし、時代が下って吉田司家24代追風・長善の時、吉田司家の内紛がもとで日本相撲協会とは徐々に疎遠になり、現在では事実上断絶した形となったことは残念だ。
 実はこの24代当主・吉田長善氏は僕の高校の大先輩、小堀流踏水術の練達だったこともあり、わが済々黌水球部の初代部長として選手たちを物心両面から支え、後に済々黌水球部を高校水球のトップレベルに押し上げる基礎を築いた。その功績は大きいだけに吉田司家のその後を思うと残念でならない。

▼関取と少年
 吉田司家から400㍍余り南の白川公園で毎年行なわれる熊本巡業は県内外から見物に来る大勢の人たちで賑わった。僕が初めて熊本巡業を見に行ったのは小学4年(昭和30年)だったと記憶している。小学校の同級生数人で見に行った。当時、日下開山は吉田司家の手を経ずして推挙された初めての横綱千代の山。その熊本場所の入場門で見た光景が未だに忘れられない。終戦後まだ10年経っておらず、繁華街などでは孤児と思しき子どもの姿をよく見かけた。この時も入場門の近くに一人の少年が佇んで入場する人々を眺めていた。すると幕内力士の嶋錦が場所入りでやって来た。嶋錦はその少年に目をやると立ち止まり、少年を手招きした。けげんな顔をして立ち尽くしている少年に「一緒においで」と声をかけた。少年が近づくとやさしく肩を抱き一緒に入場して行った。嶋錦は大阪の出身できっぷのいい力士として結構人気のある関取だった。中アンコ型の嶋錦と少年の姿を見送りながらほっこりする気分になった。この出来事はその少年のその後にどんな影響を与えただろうか。


藤崎八旛宮表参道


表参道沿いにかつてあった吉田司家


現在は跡地の記念プレートだけが残る


1982年、吉田司家で行われた初代吉田追風の追悼750年祭で、第58代横綱・千代の富士が奉納土俵入り

ジェット・ストリーム(再編集版)

2024-05-27 17:49:19 | 
 20代の頃、会社の担当者会議でよく東京に出張した。1日で会議が終わる時は熊本ー東京間を飛行機で日帰りした。
 ある時の出張の帰り、熊本へ向かうJAL最終便の離陸を待つ機内でラジオを聴いていた。少し遅れて搭乗してきたダンディな紳士が隣りに座った。この紳士、他の乗客と様子が違っていた。離陸する時、頭を傾げてじっと聞き耳を立てていた。僕は気にしない素振りをしていた。飛行機が上空に上がって安定飛行に入った時、その紳士が突然話しかけてきた。「いや、私もね、この飛行機を操縦するもんですからね、離陸と着陸は気になるんですよ」。そうですかと答えた僕に「今日の機長は上手いですよ」と続けた。それからしばらく、お互いの身の上などを語り合った。紳士が「どこにお住まいですか」とたずねたので、「京町です」と答えた。すると紳士は「それじゃ森さんはご存じですか」という。僕は「米屋の?もちろん知っていますよ」と答えた。それは僕の家近くの森さんという老舗のお米屋さんだった。ちょっとコワモテのご主人は僕より10歳ばかり歳上の高校の先輩だった。高校卒業後、防衛大に進み、航空自衛隊に入ったらしいとは聞いていた。僕が大学を卒業し、熊本に帰ってきた時、森さんは既に自衛隊は退職し、家業の米屋の主人におさまっていた。実はその紳士の航空自衛隊時代の操縦訓練の教官が森さんだったらしい。紳士は「森さんは私にとって神様のような方です!」と言った。そして「森さんは凄い腕を持ったパイロットでした!」。
 飛行機が熊本空港に近づき、着陸態勢に入ると紳士は再び聞き耳を立てた。着陸した時、「ほら、上手いでしょ」と言った。空港での別れ際、紳士は「森さんにくれぐれもよろしく!」と言い残して颯爽と去って行った。実は僕がそのことを森さんに話したのは何年もたってからだった。森さんは「アイツか」と言って何ともいえない笑みを浮かべた。
 聞くところによるとその紳士はJALのB777の機長として名を馳せ、パイロット引退後はJALの重役になったらしい。

「光る君へ」と藤原保昌

2024-05-26 19:13:22 | 歴史
 大河ドラマ「光る君へ」には肥後国司を務めた清原元輔(清少納言の父)が登場しましたが、もう一人、同じく肥後国司を務めた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)は武勇の誉れ高く「道長四天王」の一人とも呼ばれた人物ですので登場してもおかしくありません。
 熊本県観光連盟のウェブサイト「ふるさと寺子屋」には肥後の名国司の一人として保昌のことが次のように紹介されています。

▼強盗の親玉も恐れる国司 藤原保昌(ふじわらのやすまさ)
 昭和の初めまで藤原保昌が肥後の国司であったことは、伝承でしかありませんでしたが、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』と称される藤原道長の日記に「藤原保昌を肥後守にした」と記されてあります。保昌は有名な武士で、強盗の親玉が恐れる程の人物でした。寛弘二年(1005)に肥後の国司が殺される事件があり、強剛な保昌が任命されたのです。
 また熊本の各地に「ほうしょうという国司があちこち神社を修繕した」という言い伝えがあり、それは保昌(ほうしょう)のことのようです。保昌の妻が歌人の和泉式部です。

 また、熊本の北岡神社のサイトには
「平安時代中期。今からおよそ1100年前の承平四年(934)年、時の肥後国司・藤原保昌が、疫病と兇徒の乱に見舞われていた肥後の国を鎮めるため、京都の八坂神社のご分霊を迎え創健されたのが北岡神社のはじまりと伝えられています。」
と書かれています。

 「光る君へ」に登場し、非業の最期を遂げた散楽一座の一員で盗賊の直秀というオリジナルキャラクターのモデルは、藤原保昌の弟・藤原保輔だという話もあります。


北岡神社


北岡神社の例大祭・祇園まつり


祇園まつりの御神幸

 京都の八坂神社から勧請され今の北岡神社が創建された時、京都から供奉した楽人の末裔の一つが、能楽の友枝家です。


2021年3月9日、水前寺成趣園能楽殿での「翁プロジェクト熊本公演」で「翁」を演じる人間国宝・友枝昭世師

VRおじさんの初恋

2024-05-25 19:20:07 | ドラマ
 最近はテレビドラマといえば、大河や朝ドラをつまみ食い的に見るくらいだが、1回15分という気楽さもあって、珍しくズーっと見たのが「VRおじさんの初恋」(NHK)。最初はVR(バーチャル・リアリティ)の中の物語というので、ちょっとメンドくさいドラマかなと半歩ほど引き気味に見ていた。しかし、見始めると妙に心に響くものがあった。
 ドラマの中のVRはおそらく近未来のものと思われるのだが、そこに描かれているのは時代を問わない人間臭いドラマ。80の坂が見えて来た僕にとって、人生を振り返り、自分を見つめ直すこともあり、そこには「生き直し願望」のようなものが生まれる。仮想空間上のアバターに託して別の世界を生きてみたいという主人公たちの願望が痛いほどわかる。そしてアバターが自分自身のリアルワールドにおけるふるまいにも影響を与え始めるという「プロテウス効果」に、なるほどと思ってしまうのである。ちなみに、主人公の直樹がタイヤメーカーに勤めるさえない中年会社員という設定にも共感を抱いた。

ホナミとナオキ

まぼろしの銘菓「さおしか」(その後)

2024-05-24 22:24:29 | 日本文化
 先日、25回忌を営んだ亡父が幼い頃(大正時代初期)日参した泰勝寺の長岡家でふるまわれた銘菓「さおしか」。その「さおしか」を製造販売していた老舗菓子舗・福栄堂さんが、味噌天神近くで火曜日だけ営業しているという「肥後ジャーナル」の記事を発見し、直接福栄堂さんに電話をかけて確かめたのが昨年11月のことだった。わが父の思い出の菓子だったことや今でもどこかで作っていないか探していたことなどを女将さんに説明した。その折、今は「さおしか」は作っていないが、復刻を検討していることや合志市須屋の大盛堂さんが同じような作り方で「さおしか」を作っておられることをご紹介いただいた。しかし、ひょっとして25回忌までに福栄堂さんが「さおしか」を復刻されるかもしれないという微かな期待があり、大盛堂さんを訪れることはなかった。
 その後の経過も知りたくて、今日、福栄堂さんのインスタグラムにメッセージを入れてみた。女将さんから懇切丁寧なお返事をいただき、その中に「さおしか」の特長である「皮むき餡」(小豆の芯の部分だけを使った餡)の入手が困難であるが、何とか入手にメドがつきそうなので、近々試作をしてみたい、六間町に店を構えていた頃とは設備も違うので昔と同じようなものができるかどうかわからないが尽力してみます。というようなことが書かれていた。父が幼い頃に味わった「さおしか」が再現されるのかどうか大いに楽しみである。

高瀬裏川花しょうぶ

2024-05-23 20:46:43 | 熊本
 今日は所用で玉名に行ったついでに高瀬裏川の花しょうぶを見に行った。思えば玉名に初めて勤務した昭和46年(1971)裏川沿いの、かつて米問屋だった町家を工場立上げ要員の仮住まいとして借りていた頃から53年という歳月が流れた。
 高瀬裏川というのは、現在の玉名市中心部が肥後高瀬藩だった頃、菊池川流域でとれた米を積んだ平田舟が行き交った運河で、河岸には町屋や蔵が軒を連ねていた。今も往時の風情を感じる町屋が残っている。
 肥後米の積出し港として栄えた高瀬町は、菊池川とその支流の繁根木川の中州にできた商業の町。古代から菊池川河口に開けた港町でもあった。古くから関西、関門、博多方面と交流があったと伝えられる。江戸時代には高瀬藩の御蔵が置かれ、肥後米最大の積出し港となっていた。この港から積み出し大坂堂島へ運ばれた米は「高瀬米」と呼ばれた。
 今ではその役割を終えた運河に花しょうぶが栽培され、毎年5・6月には「高瀬裏川花しょうぶまつり」が行われている。


今年も花しょうぶが綺麗に咲きそろいました


結婚式の前撮りも行われていました


かつての裏川はこんな風景だった?(彦根在住の頃よく訪れた近江八幡市の八幡堀)


帰りに通った田んぼ道はまさに「麦秋」でした

肥後の俵積出し唄

伊勢へ七度 熊野へ三度(考察)

2024-05-22 19:37:22 | 日本文化
「伊勢へ七度 熊野へ三度」という俚諺がある。
 国語辞書には
「伊勢神宮や熊野三社へたびたび参ること。信心の深いこと、また、信心はどんなに深くしても限りはないことのたとえ。」
とある。
 そして、多くの場合、あとに、「愛宕様(山)へは月参り」と続けていう。
 いったいいつ頃からいわれ始めたのだろうかと調べてみると、コトバンクに「伊勢へ七度 熊野へ三度」の初出の実例として「浮世草子・風流比翼鳥(1707)」が挙げられていた。江戸中期ということになる。
 しかし、それよりさかのぼること100年、江戸初期の阿國歌舞伎歌の中に「茶屋のおかかに末代添はば 伊勢へ七度 熊野へ十三度 愛宕様へは月参り」という詞章が既にある。阿國歌舞伎は中世から近世にかけて流行した小歌などを取り込んでいるそうなので、この詞章も巷で歌われていたと考えられる。
 そこでオヤ?と思うのは「熊野へ十三度」がなぜ「熊野へ三度」に変わったのか。いろんな史料を見て行くと必ずしも「熊野へ三度」だけではなく「熊野へ四度」や「熊野へ八度」などというのも出てきた。そもそも「伊勢へ七度 熊野へ十三度 愛宕様へは月参り」のように段々度数が増えていく展開になっていたのではないか。それがある時点から「熊野へ三度」に収まっていったのは、江戸後期に大成する都々逸のように「七・七・七・五」の音数律が人気を得て主流になったからではないか。つまりこの音数律に従えば「熊野へ三度」が収まりがいいということになる。
 その他もう一点は最後の「七・五」の「愛宕様へは月参り」の部分だが、この俚諺が生まれたのは上方らしいので、この愛宕様は京都の愛宕神社(総本社)を指していたと思われるが、愛宕神社は全国各地にあり、この俚諺が全国に広まるにつれ、人々は月参りしやすい地元の愛宕神社を想定するようになったと思われる。特にお伊勢参りが多かった江戸は「愛宕様へは月参り」の部分を「芝の愛宕は月参り」とも言っていたらしい。
 かつて僕が住んでいた近江地方には多賀大社というイザナギ・イザナミを祭神とした近江随一の大社があり、「伊勢に七度、熊野へ三度、お多賀様へは月参り」と言い換えられていた。そして「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢 お多賀の子でござる」と続く。天照大神はイザナギ・イザナミの子であるというわけ。お国自慢の一つでもあったのだろう。


多賀大社

阿国歌舞伎の歌舞伎踊「茶屋遊び」の詞章(一部)

阿國歌舞伎歌を長唄化、スタイリッシュな創作舞踊となった「阿国歌舞伎夢華」