長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

桜井発13時36分、四条畷行き。

2020年05月27日 15時33分25秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 もう先週の月曜日のことになってしまうが、令和2年5月18日の朝、私は「テッペンカケタカ…」という鳥の声で目が覚めた。
 おお、なんと!! ホトトギスである。杜鵑が啼く季節が到来したのである。
   ♪頃は皐月の末つ方…(ころは さつきの すえつかンた~~~)
 こうなると、長唄「楠公(なんこう)」の話をせずばなるまい。
 断捨離作業に精を出していると、限りなく世を捨てた隠居の心境になって後ろ向きになるかと言うと然(さ)にあらず。当時の写真まで発掘して、忘れ去られた時を求めるライフワーク熱が翩翻とひるがえる。機は熟せり。

 …とはいえ、楠木正成、大楠公のお話をするのは難しい。
 私の父方の祖母は、明治43年生まれで西暦2000年に90歳で天寿を全うしたが、彼女の口から楠公の話を聞いたことはなかった。
 長男だった父は、祖父宅の離れに新所帯を構えたが、私が幼稚園年長組の時、祖父が十二指腸潰瘍の術後経過悪しく急逝したので、母屋に入り、私は高校を卒業するまで三世帯住宅で育った。独立する前の叔母、叔父も同居していたので、私の雑多な記憶、知識はそれらの集積である。
 祖母の世代の価値観を測るに適した論評の端々(つまり、何気ない日常会話)は、テレビを見ながら茶の間で聞いていたが(私が昭和の一時期のソープオペラに詳しいのは祖母のおかげである)、ことに映画や講談の、立川文庫(たつかわぶんこ)由来の昔の話を聞くのが好きで、二階の一番日当たりのいい彼女の隠居部屋に時々押しかけ、寝しなに十八番の一つ話を聞いた。
 祖母のレパートリーは「岩見重太郎のヒヒ退治」である。
 なんど聞いても面白いので、ずいぶんリクエストしたものだ。
 そんな祖母の口からも、戦争体験の重さによるものか、戦前教育における固有名詞のキーワードは、昭和40年代の小学生の耳に入ってくることはなかった。

 考えあぐねているところへ…実は平成時代、ビジネス書籍版元の月刊誌に歴史紀行文を連載させて頂いていたことがあり、桜井の駅の別れに思い馳せ、四条畷方面へ取材に出かけたことがあった。この度の大掃除で思いがけなくその雑誌が出てきたので、ここに再掲させて頂こうかと思う。
 平成初年の当時と今と、三十年の隔たりや如何ばかり…二十代の小娘の小賢しい歴レポを、話ついでにお聞きくださいまし。

          *   *   *

   『ニッポン漂泊』桜井の梢葉 (1993年記事)



 己(おの)が長年のあいだ温めていた、まだ見ぬ宿意の土地というものを、期せずして訪う(おとなう)こととなった。『瞼の母』にならなければよいが…いつにない思案顔で鈍色(にびいろ)の舗装路を歩いた。
 工業用トラックも広い路肩に呑気に停まっている、三島郡島本町、大阪府郊外の近代産業地域である。
 Sウイスキー、U繊維、S化学の大工場を抱えているためか、畑地に新旧の住宅地、社員寮などが点在し、今となっては最早夢のような、昭和の高度成長期の面影を持つ町である。
 空が開けた丁の字の辻に来ると、右手遠方、バイパス線の高架の背は天王山。突き当りの民家の屋根越しに、こんもりと繁った青葉蔭が見える。あれが、西国街道は桜井の駅・阯(あと)か。

 建武三年(1336)、湊川の合戦で賢才武略の勇士・楠木正成を失った後醍醐帝は足利尊氏に屈し、建武政府は崩壊。
 しかし、同年暮れに幽閉された京都の花山院を脱出し、吉野へ逃れ朝廷を開いた。明徳三年(1392)北朝に吸収されるまでの57年間の、南北朝時代の始まりである。

 そもそもの南北両朝迭立(てつりつ)の因縁は、後醍醐天皇を遡ること八代前、後嵯峨天皇の御代である。
 承久の役(1221)以降、天皇家の謀(はかりごと)を恐れた北条氏は、皇位継承に悉く(ことごとく)干渉するようになった。
 後嵯峨帝は、病弱な嫡流の皇子(後の後深草天皇)ではなく、英邁な第二皇子の亀山天皇に譲位することを望んだ。

 そこで、幕府の計らいによって、亀山帝(大覚寺統)と、後深草帝(持明院統)の子孫が交互に即位することになったのである。
 これに不満をもって倒幕を謀ったのが、のちの世の大覚寺統の後醍醐天皇であった。

 さて、欝蒼とした木立に囲まれて、案に反して、桜井の駅は温存されていた。
 妙に広い空間の中に、墓標を思わせる巨大な石碑が二基鎮座し、傍らには「滅私奉公」と刻まれた台座の上に、楠公父子訣別の像が置かれている。史跡名勝天然記念物保護法による指定を、大正10年に受けているのだ。
 梢の葉陰の隙間から、隣のゲートボール場の人影が見え隠れする。静かな静かな、平日の陽未だ(いまだ)高き野辺の公園である。
 この広場もかつては、出征兵士を送る日章旗の波の、狂騒に沸き返ったことがあったのだろうか。



 命運尽きた北条氏が新田義貞に滅ぼされた後の、帝の親政による建武の中興に失望した足利尊氏は、後醍醐帝に反旗を翻す。
 前身は河内の土豪であった帝の股肱の臣・楠木正成は、西国から京都に攻め入らんとする尊氏・直義連合軍を迎え撃つべく、摂津の湊川(今の神戸市湊川公園)に赴こうと、桜井の駅まで来た。
 これより西に行けば兵庫、南下し淀川を渡れば、四条畷を経て河内に至る分岐点である。

 死を覚悟した正成は、自分亡き後の皇家の守護と身の処し方を諭し、十一歳の長子・正行(まさつら)を河内へ帰らせる。





 小津安二郎の『彼岸花』だったか、戦前の教育を受けた昭和のお父さんたちは、同窓会で「青葉繁れる桜井の」を歌うのである。
 大政奉還、王政復古により、士農工商の“士”が廃れ、国民の義務として「徴兵制」が布かれたのは明治五年。
 同年に学制も発布され、唱歌が誕生した。
 当初は外国の民謡曲に歌詞をはめ込んだものだったが、日本人の作詞作曲による唱歌が生まれたのが、明治も三十年代、つまり20世紀に入ってからである。『夏は来ぬ』、ジンタでお馴染みの『美しき天然』、そして、国文学者・落合直文の作詞、師範学校教諭・奥山朝恭の作曲による〈大楠公〉『青葉繁れる桜井の』が愛唱された。

 現在、歴史の教科書は、明治以降の実証主義に立脚した、南北両朝併立論が主流であるが、欧米思想と国粋思想が対立し、思想的混乱による政治暴動が相次いだ明治末期、南朝を正統とし、北朝を教科書から削除するという事態が起こった。
 明治43年(1910)に生じた、南北朝正閏論である。
 権力が教育に介入し、「富国強兵」政策の下(もと)、日本は国家主義の道を突っ走ることとなる。

 桜井の駅を後にして、阪急京都線・水無瀬駅から高槻へ移動、枚方駅行きのバスに乗った。
 丁寧に探せば別のルートもあったかもしれない。
 ただ、風まかせながらも、淀川を渡って南下し、四条畷に行きたかったのである。
 私市(きさいち)線、片町線を乗り継いで、丘陵に広がる河内の学園都市群を眺めながら、四条畷駅に着いた。







 1348年(正平三、貞和四)、成人した正行は、父の遺志を違える(たがえる)こと無く、後村上天皇を守らんと、北朝の高師直(こうもろのう)軍と戦い、討ち死にした。四条畷の合戦である。
 時に正行二十三歳。思いつめた子供というものは、いつの世も痛ましい。
 南朝は吉野を捨て、更に草深い賀名生(あのう)へと、追い詰められていく。

   青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
   木(こ)の下蔭に(したかげ)に 駒とめて
   世の行く末を つくづくと
   忍ぶ鎧の袖の上(え)に
   散るは涙か はた露か


















四条畷神社のある、飯盛山から俯瞰した四条畷市街。


※写真はすべて1992年秋に撮影したものです。
 四条畷駅コンコースに在った黒岩淡哉作・小楠公の銅像は、2000年前後に再訪した折には見つけられませんでした。
 
        *   *   *

 さて長唄の楠公は、明治35年、榎本虎彦作詞、13代目杵屋六左衛門作曲により生まれました。名曲です。
 テーマの好き嫌いが、現代では、あるかも知れませんが、私は大好きな曲です。
 前半と後半の二段に分かれています。
 上の巻は、桜井の別れを二上りでしみじみと描いたもので、唄方の聞かせどころ。うっかりすると泣いてしまいます。
 下の巻が湊川の合戦を描いた、本調子の大薩摩を聞かせる、三味線方の腕の見せどころです。
 詳しくはお稽古の時にお話しいたしましょう。

 追記:演奏曲なので、舞踊は後に作られたものです。
   あれはいつだったでしょう、大阪へ文楽のオッカケに行ってた時分、大阪の宿で偶々テレビをつけたらNHK芸能花舞台で、亡くなった大和屋の「楠公」の素踊の放送でした。
   八十助時代から人懐っこい笑顔が忘れられない三津五郎丈、今となってはもう見られないのが残念です。
   
 
 
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断捨離のワルツ

2020年05月10日 11時30分00秒 | 近況
 平成三十年に心不全で急逝した父の遺品整理の凄まじさを知っているので、この機を天佑と捉え、断捨離作業に没頭しようかと思ったが、なかなか捗らない。
 本、CD類(レコードは10年前に殆ど処分してしまった。手許に残ったのは、処分するに足る物ではないと特に大切にしていなかったものが、偶々適当な場所に置いてあったので、一括大処断の網を逃れ、何の未練も無いものだったりするのが忌々しい)などを、処分するために分類する作業で(つまりお料理のまだまだ下ごしらえの段階なんですけれどもね…)、茫然としてやる気をなくした。
 つまり、山頭火風に言えば……分け入っても分け入っても、断捨離の山。

 …そうだ、管理会社から毎月配布されるリビング誌に、片付け(大掃除)の極意特集があったのを取っておいたのだった。
(実を言えばその雑誌を取っておいたことすら忘れていて、今回の断捨離作業着手の途中で、書類の山から発掘したのである)

 心得特集の、箇条書き心得その1、片付けるものの中身を見ない…そうか! そうだそうだ、それでいつも片づけ転じて回想の…追憶の時間になってしまったのだ、クワバラクワバラ。
 しかし、職業上の必要性から、古典籍・歴史資料や音楽関連を分別せずして捨てるわけにもいかない。
 更衣えの時季でもあったので、そうだ、洋服を片付けよう、と気がついた。

 この三十数年来捨てられない、日本が世界に冠たる経済大国だったあの昭和の終わり頃の、オーダーメイドでない、単なるレディメイドの吊るし、出来合いの服であるのに、生地がしっかりしていて、仕立ても丁寧だし、裏地だって…昔、お裁縫の時間で習ったように、三つ折りで、きちんとまつり縫いしてある。ミシンの糸だってほつれないように、きちんと片側に出して始末している。
  すべからく丁寧で完璧だ。
 20世紀の我々は世界で一番ハイレベルな基準値…鑑識眼、審美眼、自らの仕事に対する責任感と誇りを持っていたんだと思う。
 縫製技術もそうだが、まず、品質が違う。生地を組織する繊維自体が、今市場に流通しているペナペナで1シーズン着用するとへたれてしまう軟弱な素材とは、次元を異にする手触りと張りのある強靭さがあった。


*愛機リッカーマイティで縫製途中のまま放ったらかしにされた、ワンピースの切れ端まで発掘…
生地の耳に“カネボウ print 1981”とある

 今はとんと見かけないが、1970年代から80年代半ばにかけて、オシャレのかなめはトラッドだった。私が大学生になったあたりから、ニュートラとかハマトラとか、バリエーションが進化し、やがてイタリアブランドのスーツがバブル期を席捲するようになるのだが、トラッドといえばブリティシュで決まりだった。19世紀末のイギリス紳士の格好をしたくて、憧れが高じた挙句、私は男に生まれなかったことを酷く悔やんだ。
 …某ブランドの、茶の杉綾ツイードの共布カフス付のワンピース(これは前世紀に懇意にして下さったが今は泉下にいらっしゃる菊五郎劇団音楽部の唄方の先生と銀座で忘年会をしたとき着ていたもの)とか、コロニアル調ジャングル味シダ植物柄のベスト&スカート(これは道路拡張工事による立ち退きで最後となった、浅草にあった旧友のご実家のビル屋上での隅田川花火大会鑑賞会に着て行ったもの)とか、テーラード衿にステッチを入れた茶の細身のパンツスーツ(20世紀の終わりに池袋演芸場の二階の喫茶店でとある噺家さんと待ち合わせをしたときの出立ち)とか…

 もう絶対着ない、物理的理由からも着られない青春の脱け殻を、何度ため息混じりに箪笥から出し入れして来たことだろう。
 一般庶民が高品質の衣料を、日常的に手にすることができた時代への追慕、そして、時と場所を共有した方々との想い出。二度と手にすることがかなわぬ品物も惜しいが、付随する記憶が捨てられないのである。



  片付けの心得何か条かの一、過去の自分に対する執着を棄てよ。

 金曜日は古着を出す日である。思い立ったが吉日、捨てるのだ、捨ててしまうのだ!
  映画「ゴッドファーザー」の愛のテーマじゃない方の、♪ターリラリ…ターリララ…というもの悲しいメロディが脳内に流れていた。

 ところが、どうしたことでしょう、私は妙にウキウキして、心が軽くなった。
 腹に一物、手に荷物。財布も軽いが、心が軽いという、この解放感。
 もう本当に、落語のあたま山で言えば、百年ぶりに散髪したようにさっぱりした心持ちがして、そうだ!街に出られないのだから、本を捨て、抜け殻を捨てるべく家にいよう‼…という新たなスローガンが胸に去来するに至った。

 それからだいぶ落ち着いて、着手しつつあるCDの断捨離を進めるべく、これまた前世紀ぶりにチャイコフスキーのバイオリン協奏曲(ダイナミックなのに繊細で、まったくもって、なんという名曲なのでしょう! ヤッシャ・ハイフェッツの躍動する弓が目に浮かぶ‼ 録音されたのはもう60年以前だというのに…)をヘビロテしながら、スケジュール帖の空白を埋めるに余りある、今日も今日とて断捨離作業にいそしむのだ。


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誰が為にか春なる

2020年05月03日 23時25分23秒 | やたらと映画
 

 令和年間最初の4月27日、アスパラガスが緑色のロウソクになって…



 三日後、果敢にも家族会議に参加。
 かたや、松王丸から新たな芽が伸び、小太郎かと。

 アニバーサリーを覚えるのが苦手で、祖母の命日さえ忘却してしまう不心得者であるのだが、22歳の憲法記念日に、深夜放送で市川雷蔵主演、市川崑監督の映画『破戒』を見たことは忘れられない。
 昭和時代も終盤に近付き、世はバブル期を迎えつつあったが、テレビ局の番組編成担当者にも、憲法記念日に見るべき映画を忘れずに用意する気概というものがあった。

 その時の私は、市川雷蔵のことをよく知らなくて、その半年ほど前だったろうか、やはりテレビの午後のロードショーというような東京12チャンネルの番組で小国英雄脚本の『影を斬る』でそのキュートさ、チャーミングさに打たれ、母に、市川雷蔵ってどうしたんだっけ?と訊いたりして、改めて知りたい気になっていたのだった。

 思えば大友柳太朗が亡くなる前年であったから、かつての時代劇に代表される価値観を破却して、日本という国が、それまでの日本という国の形骸を脱ぎ捨てて自分自身に訣別して、まったく新しいものに生まれ変わったように錯覚していた頃であった。
 であるから、島崎藤村の夜明け前の日本の暗い時代を殊更知りたいつもりはなく、市川雷蔵が主演であるというその一点だけで、もし詰まらなかったら寝よう…ぐらいに思って見始めたのだったが…

 初夏のしんと更けた夜の空気の匂いと、胸の痛みをいまでも覚えている。
 泣いて頭がぼうっする一方で、冷たく醒めてもいた。

 ラストシーン、誰にも見送られることなく雷蔵as丑松が旅立つ。一人だけこっそりと、教え子の女の子がホームにやって来て、食べてください、と餞別に紙袋を手渡す。
 動き出す汽車…丑松への心尽しは、ゆで卵だった。
 彼の口の中で、ゆで卵はどんな味がしたのだろうか。

 憲法記念日が制定されたのは1948年、前年の昭和22年5月3日に日本国憲法が施行されたことによる。
 享受することが当たり前のように思っている権利と自由は、容易く手に出来たものではなかったことを、忘れずにいたいと思う。
 
 

 
 
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