長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

空 うそ吹いて

2020年04月30日 23時55分55秒 | お稽古
  ほー……ほー……ほぉぉ……
 という野鳥の啼き声で目が覚めたのが、令和2年4月29日、昭和でいえば天皇誕生日の朝だった。
 おお、こ、これは………!!
  ほーほけきょ…
 まごうかたなき鶯の啼き声ではないか…!

 東京都心で、ウグイスの初鳴きの統計が取れなくなって20年余りも経つ、というショッキングな情報をもたらしたのは、つい2,3週間前のテレビ番組の天気予報士のお兄さんであった。
 
 そう言われてみると、最後にウグイスの声を聴いたのはいつだったろうか、心もとない気がしてきた。
 房総半島の親類の家の裏の藪で、谷渡りに至る稽古中のウグイスの囀りは、寒い時季によく聞いた。
 都内だって、シジュウカラはよく囀っているのだ。人けのなくなったゴールデンウィークに、よく、お隣のアンテナのてっぺんで鳴いていた。
 すぴすぴすぴ…と、初夏の青天をつつくように、潔く、ともすると攻撃的に、啼いていたのだった。
 それすらもう、十数年前のことになるのだ、五日市街道は松庵稲荷の傍らに、棲んでいた時分のことであるから。

 さてさてまあ、諸鳥の囀りへの追憶はさておき、21世紀には稀少なものとなってしまったらしい、ウグイスの初鳴きを、東京都下とはいえ、環八の外側の…武蔵野の面影が残っているような気もする…我がいおで観測したのである。
 はい、こちらですょ、こちらで鶯が鳴いておりますょ…

 何かしら誇らしげな心地さえして、かくも奥ゆかしく伸びやかなホーホケキョを聞いたからには(季が違うこと甚だしいのだけれども)、私の大好きな長唄『娘七種(むすめななくさ)』のご紹介をせずにはいられない。

 江戸の歌舞伎で初春狂言に曽我物をかけるという習慣があるのは、皆さまご存知よりのことと思う。
 (初耳だわ…とお感じの方は、当ブログ中、過去の記事をご笑覧くださりませ)
 タイトルからして、きれいなお姉さんがお正月の七草がゆのお支度をする、しかも曽我物なので仇討のお話ももれなく付いております…という晴れやかで朗らかで愉しい曲なのだ。魔除けだったりもする。
 この曲を思い描くとき、なぜだか亡くなった紀伊國屋、九代目の澤村宗十郎丈を想い出す。紀伊國屋は今ではもう継承されていないのかもしれない、江戸和事を得意とした役者だった。春風駘蕩、おおどかで伸びやかで、古雅でさっぱりとしながらも滴るような色気もあって、私が歌舞伎に青春を傾けるきっかけとなった、大好きな役者であった。

 …そんな雰囲気の曲なのだ。
  冒頭、「神と君との道直ぐに…治まる国ぞ 久しき」…と、謡いがかりで改まって始まるのだが、続いて唄の、
  ♪若菜摘むとて 袖引き連れて 思う友どち…と、二上りらしい、至極明るく朗らかな曲調に惹き込まれ、浮き浮きしてしまう。
   …袖引きひくな若き人 あら大胆なひとぢゃぇ…(おや、どういう展開に…と思っていると…)
 ここで、唄方の聞かせどころの、鼓唄となる。
  ♪春は梢も一様に 梅が花咲く殿造り…
 そこへ、
  ホー ホー ホー  ホーホケキョ、と、江戸家猫八先生の芸風とはまた別の、邦楽の独特な表現法をお聞き頂きたい。

 そして、♪初若水の若菜のご祝儀…から、これまた何とも言えぬ、のどかで初々しく華やかなメロディが展開するのだ。
  ♪やまと仮名ぶみ いつ書き習い 誓文(せいもん)一筆(ひとふで)参らせそろべく
    かしくと 留め袖 問うに落ちいで語るに落ちる…
  (日本語ってなんてステキなんでしょう…)

 さて、そろそろ、春の七種の出番。言立てが苦手な方は、この曲を覚えれば難なく言えるようになる優れもの。
  ♪夜の鼓の拍子を揃えて 七種ナズナ ゴギョウ 田平子 仏の座 スズナ スズシロ 芹 ナズナ
  ♪七種揃えて 恵方へきっと 直って
   しったん しったん どんがらり どんがらり どんどんがらり どんがらり
 昭和のお母さん方の、七草をまな板で叩くときの御約束の御まじない…
  ♪唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に……

 というところで、お待たせいたしました。三味線方の聞かせどころ、七草の合方。
 本手と替手とが紡ぎだす、リズミカルで愉しく、聞いていると体が思わずswingしてしまうほど。
 (実は、この曲は邦楽には珍しく、表間できっちり作られている作品なのです。二拍の休符の掛け声を聞くと違いが判ると思いますが、洋楽式なので行進曲っぽい感じもあります。管弦楽曲「タイプライター」にも似ているかもしれない…演奏する側の好き嫌いが分かれる曲でもあります)

 ひとしきり盛り上がって
  ♪怨敵退散 国土安穏…天長地久
 (コロナ禍よ、終息せよ…との願いを込めつつ…)
   打ち納めたる 今日の七種 で、終曲。

 …そんなわけで、今朝も聞けるかな…とドキドキしておりましたが、往来が静かだったのは旗日のせいだったのでしょうか、疾風怒濤のごとく走りゆく車の音で目が覚めました。
 鳥の声はというと、鴉ばかり……。
 
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鉢木

2020年04月27日 18時14分44秒 | お稽古
 遠隔稽古の流行がここへきて始まっているらしい。
 早くも、うちの孫は200メートルで学校の授業を受けているんじゃよ…という落とし噺までできているとのこと。
 わが杵徳会では、昭和のころから遠隔お稽古というシステムがあり、カセットテープの音のやり取りで、お稽古に来られない方のフォローをしていたと師匠に伺ったことがある。

 もう10年以前になるが、このブログ開設のきっかけともなった不肖・私の愛弟子に、ご主人のお仕事の都合でドイツに赴任することになった方があった。
 当初スカイプを考えていたが、時差の煩わしさを勘案し、そのお弟子さんが、ピカサ・ウェブアルバム、というシステム導入を教えてくれた。
 自分のページに動画をアップすると、全世界に発信することもできるのだが、合鍵を持っている者だけが見られるという仕組みにもなっている。私がお手本を撮影し動画をアップする、それを彼女が見ながら弾く、また一人で弾く動画を撮影して、その場所にまたアップしておく…というやり取りで、1年ほどそのスタイルの遠隔稽古が続いた。
 彼女の長唄、三味線への情熱が、極々アナログな師匠である私を、新システム稽古に導き、新世界への扉を開いたのである。
 負うた子に教えられ浅瀬を渡る…インターネットを渡る…と申しましょうか、有難いことであった。

 会議やコミュニケーションなど、言葉のやり取りだけなら単純なツールで済むと思うが、音質や間合いなどが重要な要素である音楽には、zoomは適さないように感じる。
 機を見るに敏な方々のご尽力で、また新たなる道具が開発されることでありましょう。



 さて、令和2年4月22日、可愛や千松、一番先に芽吹いたのに、ついに鶴千代に背丈を越えられてしまった。
 そしてまた、昨夏植え替えたスズランは二株だったので、やっぱり新芽は二つしか出ないのかなぁ…と思っていたところ、何と…!
 第三の新芽が出てきた。



 めきめきと育ち、三日見ぬ間にアスパラガスかな……



 そうなると、政岡と命名するわけにもいかず…あらたに、梅王丸、松王丸、桜丸と名付けることに。
 サマセット・モームの『九月姫とウグイス』という童話に、タイの王様にお二人のお姫様が生まれ、夜と昼と名付けたが、その後お姫様がまた誕生なさって四人姉妹になったので春、夏、秋、冬と名前を変えた、しかし、またまた妹姫が増えたので一月、二月、三月姫…と改名し、何度も名前が変わった上のお姉さま方はすっかりひねくれてしまいました…というようなお話があったことを想い出しつつ……



 謡曲「鉢木(はちのき)」の話をするなら、12月が本来である。
 表題写真は、もう数年前の晩秋、新名取の名披露目を兼ねた一門会の折、結婚してのちご実家のある地方都市に住まいして子育てに専念しているお弟子さんが、手土産に下さった、銘菓・鉢の木の折りの包み紙である。
 先輩の名取として、いざ鎌倉…と、わざわざ演奏会へ顔を見せてくださったのだ。取立て師匠である私は、彼女の気持ちが、とてもとてもうれしかった。

 お能の鉢木は、昭和40年頃はとても有名な曲で、しょっちゅう上演されていたことは、小学生の私でも知っていた。
 思えば、太平洋戦争で焦土と化してから僅か20年余りしか経っていない。
 鉢木は、零落してしまった主人公が、その心根の健気さによって、再び旧領を安堵され、返り咲く話である。
 戦争で総てを失ってしまい、失意の底から生きてきた当時の日本国民には、とても身につまされつつも、明るい未来を予見させるハッピーエンドが待っているところが、人気の作品だったのかもしれない。

 究極のおもてなし伝説…と安直に譬えるのは気がひけるが…大雪で難儀している雲水に一夜の宿を提供することになった、上野国佐野の常世(つねよ)は、貧しさのあまりろくに持て成すことができなかったので、せめて暖を取ってもらおうと、大切に育てていた盆栽の梅、桜、松を、薪にして供応するのである。

 歌舞伎、文楽好きな方はピンと来るでありましょう、そう、たぶん、菅原伝授手習鑑の三つ子の兄弟、梅王丸、松王丸、桜丸は、この「鉢木」も元ネタとして仕込まれているに違いない、と、私は思っている。



 いま、銀座sixに移転した観世能楽堂が松濤にあったとき、忘れられない「鉢木」を、私は見た。

 常世が、源頼政の「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ かなしかりける」という辞世の句を引きながら、手すさびに育てた鉢の木を、旅の僧のために焚くなら、
  …これぞ真(まこと)に難行の 法(のり)のたきぎとおぼし召せ…
 諸行無常の世の供養となりましょう、焚き木にせんと、一鉢ずつ、手にかけてゆくシーン。

 まず、寒い冬、雪に閉じ込められても健気に咲く花の先がけである、梅の木から切ろう…
  …人こそ憂けれ山里の 折りかけ垣の梅をだに 情けなしと惜しみしに
      今更たきぎになすべしと かねて思いきや…

 次は、桜の鉢を
  …桜を見れば春ごとに 花少し遅ければ この木や侘ぶると 心を尽くし育てしに…
  …切りくべて 緋桜になすぞ 悲しき…

 そして盆栽らしく枝をためて剪定して育てた松をも、
  …松は もとより煙にて 薪となるも理(ことわり)や
     切りくべて 今ぞ御垣守(みかきもり) 
     衛士の焚く火は お為なり……

 幼少から話を聞き、何度か見て知っている鉢木であったのに、私はもう切なくて、この上もなく胸が締め付けられ、泣いてしまった。
 その時のおシテ方は、観世宗家の弟君の芳伸先生で、その舞台を観るまでは、お若い時からとても美しく違いの分かる男で(!…(。-人-。) )花があってお話が面白いご宗家と、別家を継がれた双子のお兄様の、華々しいお二方にくらべて控えめな印象だったので、とてもビックリした。そして、とても感動したのだった。

 この公演ではないが、千駄ヶ谷の国立能楽堂で、おシテ方はどなたか忘れてしまったが、間狂言(あいきょうげん)を東次郎さんがなさって、とても面白かったのを覚えている。
 前場がしんみりして悲しいので、心得た達者な狂言方だと、ぐんと鉢木という物語の面白みが増すのである。
 同じ番組でも、演者の違いで作品の出来不出来が違いすぎるのが、古典作品のつらい定めだったりもする。



 そういえば、井伊家の14男だった直弼が部屋住みだった頃、自分が棲む屋敷を“埋木舎”と名付けて風流の道に励んだ話も、昭和のころはよく知られたエピソードだった。
 舟橋聖一原作「花の生涯」は、忘れ得ぬ名優・紀尾井町(先々代尾上松緑)で、大河ドラマにもなった。共演した淡島千景の座長だったかで、平成時代も明治座で上演していたのが、ついこの間のことのような気もする。



 この2月に予定されていた横浜能楽堂での、横浜開港160年記念の、井伊直弼が作った能の特別公演も残念ながら中止になってしまった。
 横浜能楽堂は、井伊大老の銅像が立つ掃部山公園の裏手にある。
 3.11の前まで、地下の能舞台へ、私の大切な憧れの、能楽の先生のお稽古に通っていた。
 そしてまた、平成10年ごろまで、横浜能楽堂に至る紅葉坂の途中に、梅の木書房という古書店があり、歴史や時代関連、演劇関係書をたくさん用立てて頂いた。まだ東横線の桜木町駅があった頃だった。

  世の中を よそに見つつも 埋れ木の
    埋もれてをらむ 心なき身は

 …と、若き日の井伊直弼は詠んだという。
 そして、埋木舎に植えて愛でたのは、風に柳の…柳の木だったらしい。

 むかし読んだ吉川英治のエッセイに、掃部山に井伊大老の銅像が建って除幕式の数日後、銅像の頭部が失くなった、という騒動があった、と言及したものがあった。
 当時の横浜の新聞にも「掃部頭(かもんのかみ)の首が二度取られた」と書かれたそうである。
 2019年は、井伊掃部頭銅像建立110年の記念の年でもあったそうな。



 井伊掃部頭の銅像の眼差しは、開港した横浜港を向いている、と聞いたことがあった。
 令和元年12月の掃部頭の眼差しの先を追った先は…
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花がるた 二月竹に福来雀

2020年04月18日 18時08分20秒 | きもの歳時記


 籠城してはや幾日…曜日の感覚が最早なく、日々の天候で日にちを計る、東京都下郊外の陸の孤島に住まいする、令和ロビンソンクルーソーの物語。
 4月2日、鈴蘭の新芽によろこぶ。地球温暖化の賜物か、成長が早く、



 4月15日、慌てて写真を撮る。早くも鈴蘭らしく葉が巻いている。
 新芽の時は、左側が早く出ていたのに、右側の成長著しく、



 4月18日、先に芽生えたものを凌駕しつつある自然界の不思議な法則。
 ふと思いつきで、左を千松、右を鶴千代、と名付ける。



 関東好み、というものがあって、20世紀の着物界のブランドで、私が常々憧れていたのは、竺仙、そして矢代仁だった。
 1990年代の忘年某日、とある百貨店の売出しで廻り合ってしまったのが、竹に、ふくら雀のこの縮緬(ちりめん)の染め名古屋帯である。見るなりガビーーーーンと、赤塚不二夫の漫画の描き文字様の衝撃が心の臓に走った。

 昭和のころ、吉祥寺の近鉄百貨店の呉服売り場で、参考商品として展示されていた帯の柄に瓜二つ…!! だったからである。
 とてもとても好きだったので、売り場に行くたび、穴の開くほど見つめていたのだ。値段が提示されてなかったところから類推するに、江戸時代の型染の復刻版だったのかもしれない。
 地に格子柄が方眼状に入り、さらによく見ると、竹の菅が、心持ち、立涌(たてわく)状の縞に配されている。
 垂れと手が、太鼓と別の色取りになっていて、その意匠も気に入った。



 塩沢絣地(しおざわがすりじ)に、紫濃淡の滝縞(たきじま)が後染め(あとぞめ)になっている着物に合わせて、いつだったか…2月の文楽公演、伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)に出掛けた。帯揚げは、ペルシャ風の更紗(さらさ)柄が地紋で織り出された、香色と空色が、白い一本のよろけ線で染め分けになっている、オールラウンダー。



 竹に雀は、皆様ご存知、言わずと知れた仙台藩54万石、伊達家の家紋である。
 伊達騒動を題材にした先代萩ものは、歌舞伎の悪役・仁木弾正を新解釈で描いた、山本周五郎原作で、映画では長谷川一夫主演『青葉城の鬼』、NHK大河ドラマ『樅の木は残った』のほうが、後期昭和生まれには刷り込みが早い。

 1980~1990年代の歌舞伎界は、いま思うと、各家の女形の大全盛期だったので、御殿勤めの、絢爛豪華たる武家の妻女たちが総出演する御殿の場の面白かったこと(憎まれ役の迫力の女性を立役の役者が演じる、そのギャップもまた可笑しすぎたりもして)、手に汗握る熱演の凄まじかったこと…手に取るように目に浮かぶ。
 そしてまた、立ち廻りの緊迫感が手に汗握る、対決・刃傷の怖かったこと…
 なんと言っても、毒殺の恐れがある若君のために、乳母(めのと)が御膳に手を付けさせず、茶釜でご飯を炊く、まま炊きの場の、千松と鶴千代君のいじらしかったこと。



 先代萩は、あまりにも面白く見どころ満載の芝居なので、通し上演されることも多く、また、女形の活躍どころである、先代萩や加賀見山は、藪入りのお休みの日に御殿勤めのお女中たちが観劇のお目当てにした番組だそうだから、3月にかかるのが習わしだったそうで、縮緬の帯は冬に着なきゃ…と思っている自分は、先代萩に当てて歌舞伎座へ締めて行ったことはあまりなかった。
 神谷町びいきの私は、成駒屋三代揃い踏みの先代萩が観たかった。
 福良雀は児太郎丈の紋でもあったのだ。



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平家蟹

2020年04月16日 02時11分00秒 | 歌舞伎三昧
 月暦で今日は、令和二年三月廿四日。
 旧暦の寿永4年(西暦だと1185年にあたる)3月24日は、壇ノ浦の合戦で平家が滅んだ日であるから、我が国のもののあはれの根幹をなす母胎ともなった一族を悼みたい。

 1991年、平成3年3月の歌舞伎座。
 昼の部、相生獅子で、当代時蔵と福助(まだ児太郎時代)の時分の華の競演に圧倒され、次の幕で九代目宗十郎、紀伊國屋の女鳴神に魂をむんずと掴まれるという、その後の人生を左右される芝居に廻り合った、忘れ得ぬターニングポイントの観劇月。

 その夜の部に、神谷町・七代目の芝翫が、平家の官女の生き残り・玉蟲を演じたのが、岡本綺堂作『平家蟹(へいけがに)』であった。六世歌右衛門、大成駒の演出だった。
 戯曲自体は大正時代のもので、昭和になってからも何度か舞台にかけられていたらしいが、私は初見。
 戦に敗れ、零落した女たちの、♪星の流れに身を占って…こんな女に誰がしたんだ、してくれちゃったんだよう…!という恨み節の物語であり、怨念に支配された陰鬱な芝居であるが、ある意味、成駒屋の本領発揮、ともいえる世界である。

 なんといっても度肝を抜かれたのが、大道具…今では舞台装置というのでしょうけれども…の、舞台一面をおおう海底の暗がりの中でうごめく複数の、大ぶりの平家蟹たちであった。
 カニ自体の造形も物凄く、音もない闇の世界でガサゴソと犇めきながら脚を揺らめき動かす、この世のものとは到底思えない大掛かりゆえの労苦、くふうを伴う作業であろう大道具の職人さんの働き…その、あまりにも怪異な綺堂ワールドを現出する蠢きようたるや……筆舌にとてものことでは尽くせない凄絶な世界に、すっかりシビレた。

 小学生低学年のころ、テレビアニメに『妖怪人間ベム』という番組があり、異次元空間へと誘う笛の調べとともに始まるナレーション「…それはいつのことか誰も知らない…」、薄暗い理科の実験室のような場所の、机の上のビーカーが割れて、溢れた流動体がむくむくと闇の中で蠢き、個体となって姿を現す、そのオープニングのあまりの怖さに直視することができず、いつも茶の間の奥の客間の襖に隠れて顔半分だけ出して、「終わった? 終わったら教えてね」「はいはい」…と家族のものに合図してもらって、タイトルが出たあとからの、本編を見る。
 そんなに怖けりゃ見なきゃいいものを、どうしても見ずにはいられないほど、醜怪な現実の人間よりも、仁義礼智信という点ではるかに人間らしく正義感に満ちた、妖怪人間ベム・ベラ・ベロの物語が好きだったのである。

 その、闇の中に蠢くよく分からない生命体。
 平家蟹は、歌舞伎世界を構築する、もう一方の主役・大道具さんのその技術・技量を魅せるための芝居でもあったのだ。

 数年後に(1997年3月)再演されて、待ってました!! と見に行ったのだが、以前見たようにはカニさんが動いてくれなくて、全然面白くなかったのだった。大道具さんが代替わりしてしまったのだろうか…とにかくガッカリ、失望した。
 舞台とは、かくも微妙なものなのである。
 かように、伝統を現代に紡ぎだす立場の者の、責任は重大なのである。

 …そんな芝居の味を知っているものだから、一昨年、『風の谷のナウシカ』が歌舞伎化される、というニュースを耳にしたとき、おお、神谷町のDNAを継ぐ者である七之助なら合っているかもしれない、と思った。
 思ったまま時は流れて、その舞台には立ち会えず仕舞いだったのではあるけれども。
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われ幻の湖を見たり(遊興一代)

2020年04月14日 14時04分41秒 | やたらと映画
 旧作の日本映画に嵌っていたのは、学生時代から三十代ごろまでのことだったから、これまた20世紀の話である。

 嵩じた年には年間千二百本弱を観ていた。昭和55年当時、名画座は三本立て700円が相場だったように記憶している。一本千円か千二百円のロードショーで観るのは新作の洋画がメインで、学校のあった渋谷では文化会館で旧作の2001年宇宙の旅、アラビアのロレンス回顧上映…etc.も見たけれども、半中古作品をかける名画座との中間的役割である二番館へもよく行った。ロードショーで見逃した魔界転生を観るために大塚の…館名は失念したが二、三番館へ出かけたこともあった。
 競馬新聞に赤鉛筆でマークを付けるおあにぃさん方と同じスタイルで、毎週木曜日(火曜日?水曜日だった??)に発売されていた週刊ぴあ誌を入念にチェックし、見たい映画を求めて武蔵国一帯を東奔西走した。

 戦前の邦画はフィルムセンターや単発の企画上映会、1950年代以降の日本映画の黄金期作品は名画座へ…昼間、ご近所の三鷹オスカー、足を延ばして有楽町の並木座、浅草の新劇場、心のホームグラウンド池袋の旧・文芸坐やJR京浜東北線大井町の大井武蔵野館、横浜の桜木町、黄金町などに出掛けて、映画館に籠っているといつの間にか日が暮れる。取って返して新宿東口、紀伊国屋書店はす向かいのツタヤで、フィルム上映に成らなさそうな稀少ビデオを借りる。
 …なんてことをやっていると、一日に映画を5本ぐらい見るのは何でもない。苦も無く年間千本映画ノックぐらいは出来ちゃうのである。
 映画だけではなく、並行して演劇(現代劇はアングラ…千人以上の大きい劇場は苦手で、国劇は歌舞伎や能、狂言が主だったけれども)、寄席や美術館、博物館…etc.へも通っていたのだから、あきれた極道っぷりである。
 もちろん、フィクション・ノンフィクション、学術書に限らず、本もたくさん読んでいた。我が家では、父の方針で、本代はお小遣いとは別の掛かりとなり、書物であるならいくらでも買ってもらえたのである。



 人間の要諦をはぐくむものは文化である…と、私が育った時代は、戦争に対するアレルギーから、殊更、子どもたちに豊饒な文化生活を送らせるよう、大人たちは腐心してくれたのだ。

(…しかし、そんな肥やしに育てられ、現代において、売り家と書く三代目…というのは、われら1960年前後に生まれた者たちのことだったのであろうか…と、ひそかに狼狽する。)



 さて、コロナ禍により、この春以降の演奏会、発表会は悉く(ことごとく)中止や延期の憂き目に遭い、常日頃、身過ぎ世過ぎの諸事に取り紛れ、きちんと出来たためしがない日常生活の基本的なところにテコ入れをしよう、と…掃除や片づけをすればいいものを…見ずに溜まっていたテレビデッキ回りの、要するに未見の長尺の映画を、見て片付けてしまおう、という気になった。

 そんな訳で、昨年の正月に日本映画専門チャンネルで追悼上映された、橋本忍が原作・脚本・監督作品『幻の湖』を観てしまったのである。



 橋本忍といえば、私があれこれ言及(ごんきゅう)するべくもない、名脚本家である。
 黒澤明監督と組んだ錚々たる諸作品群…世間では、黒澤監督の作品はダイナミックで奇抜でスカッとするのかもしれないが、大づかみでガサツなところが私には合わない。

 私にとっての衝撃の橋本忍作品は、正木ひろし原作、森谷司郎監督の『首』である。
 戦前の人権を描いた硬派の社会派映画で、サスペンス仕立てになっており、文字通り手に汗を握って、映画館の闇の中で銀幕を見つめていた。帝大の標本室が空襲で炎に包まれる後日譚も、事件の行く末に余韻を残した。
 このミステリがスゴイ!に映画編があったなら、私は第一にこの映画を推す。
 未見の方にはぜひ見ていただきたい作品である。

 そしてまた、松本清張原作、堀川弘通監督、橋本忍脚本の『黒い画集 あるサラリーマンの証言』。
 前述『首』と同じ主演の、小林桂樹の名演もさることながら、保身のために真実を言えず、嘘をつき通したがゆえに全てを失ってしまう…物語の落としどころがスパッとしていて、すごい切れ者の映画構成だなぁ…とうら若き乙女だった私はショックを受けた。
 
 同じ松本清張原作、野村芳太郎監督『砂の器』は、主演の加藤剛と加藤嘉を思い浮かべるだけで、私ごときは滂沱の涙である。
 さらに、横溝正史原作、野村芳太郎監督の『八つ墓村』は、けだし名作で、各方面の手練れの映像作家がチャレンジしたいくつもの八つ墓村を見てきたが、伝奇ロマンとメルヘン、怪異ファンタジーの魅力を余すところなく描いた橋本忍脚本が絶品である。

(余談になるけれども、横溝作品は市川崑監督のシリーズが有名で、『犬神家の一族』は放送されるたび何度も見てしまうほどであるが、『女王蜂』や『獄門島』は女の事件というテーマに強引に改変していて、原作の味を損なっていると思う。
 テレビで1977年に放送された角川春樹事務所の横溝正史シリーズはなかなかの傑作ぞろいで、何といっても斎藤光正監督の『獄門島』が原作に忠実でキャスティングもいい。
 蔵原惟繕監督の『本陣殺人事件』は、余情があって素晴らしい。トリックの発想だけで奇矯なイメージのこの作品に詩情を加え、日本の田舎の因習や情念を、美しい風景を交えて描き、余韻のある作品に仕上げている。
 工藤栄一監督『犬神家の一族』も、迫力の京マチ子as松子夫人で、丁寧なキャラクターの描き分け、私は好きである。
 森一生監督の『悪魔の手毬唄』は、崑監督のものより、出来がいいと思う。)



 あれこれ書き連ねてきたけれども、そんなことがあって、ただの映画愛好の徒である私にとってさえ、映画人・橋本忍は間違いのない職人だったのである。

 …だものだから、38年遅れで『幻の湖』を観た私は、ただもう、ビックリしてしまった。
 1980年代のニューミュージック風に言えば、アメージングが止まらない。
 吃驚して、この映画をどうとらえたものか、二日がたった今でも、夜眠れない。
「…誰でも心のなかに一つ、大切な幻の湖を持っているのです…」なんていう、人間の証明の岡田茉莉子のモノローグの空耳さえ聞こえてくる。

 ただ、ほかの誰かが言うように、駄作とは思えない。
 第一、とても長い…2時間40分を超える超大作なのだが、物語の展開が読めず、一体どうなってしまうのだろうと、私は見続けてしまったのである。
 冒頭描かれる、琵琶湖の四季折々の風景。美しい。
 愛犬の復讐、という主役の風俗嬢の初志貫徹を経糸(たていと)に、緯糸(よこいと)に彼女に絡みつく様々な登場人物を配置し、それが現在のソープオペラ的要素だったり、歴史ロマンの味だったり、落語様の落とし噺があったり、東宝映画の日本的SF物の世界だったりする。
 経糸の事件の顛末には驚愕するばかりだが、やっぱり…という納得の決着でもある。
 人間の思惑というものは、緯糸で模様が描き出されるように、このように多元的でとりとめのないものなのだ。

 2000年頃、京橋のフィルムセンターで、何の作品か忘れてしまったが、上映後、見知らぬ方に誘われてお茶したことがあった。その方は映画を作っていて、いま手掛けている作品は7時間ほどの長さのものであると語った。
 その後お目にかかったことはないが、自主映画であると、作品の愛着ゆえに、適切な長さに切れないものなのだろうか。

 翻って、幻の湖を鑑みるに、これ以上切るところはないように思える。
 すべてのエピソード、シークエンスが、橋本忍作品として不可欠な要素に思える。

 昭和55年頃、寄席で聴けない前時代の名人の噺を知りたくて、知人から八代目桂文楽のテープをたくさんお借りした。
 無駄な部分をそぎ落とした完成型の落語は、でも、ああそんなものか…と資料的意味はあっても、私には何度も聞き返す魅力があるとは思えなかった。ライブではないから仕方ない。
 貸してくださったご本人からも、圓生のほうがおススメなんだけどなぁ…と呟かれた。

 物事には、余分なところがあるから面白いのだ。
 

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花がるた 三月桜

2020年04月12日 18時05分28秒 | きもの歳時記
 人間として大切なものは何か、子どもたちには分かりにくい世の中になっていると思います。

 テレビをつけても事務所のサラリーマンと化した芸人たちの悪ふざけ、タカリを推奨・助長するようなゲーム感覚のバラエティ番組などなど、20世紀と比べて明らかに低次元化しています。

 NHKの教育チャンネルでなくとも、日曜日の朝、イルカの「雨の物語」がオープニングテーマになっている、古今東西の名著を紹介する番組が、昭和のころ在りました。夜、久米明氏の厳かなナレーションとともに、世界各地の歴史的な不思議を紹介する番組もありました。奇をてらった表現ではなく、極々穏やかで静かに、私たち昭和の子どもは未知なる世界と接する機会を与えられ、向学心のようなものも育まれていたのではないかと、感じます。

 岩波子どもの本、というシリーズがあり、私も未就学児童のころから親しんでおりました。
 挿絵も素晴らしく、初山滋『瓜子姫とあまのじゃく』、武井武雄&サマセット・モーム『九月姫とウグイス』、翻訳ものでは『ちいさいおうち』『こねこのピッチ』『花の好きな牛』…etc.…何度読み返したか知れません。

 今日はそんな中の一冊で、想い出すたびに、いじめ問題解決の糸口はなかったかと胸が苦しくなる、『百まいのきもの』を連想しつつ書き起こします。



 1980~90年代、通勤のための着物の着回しを考えたとき、塩瀬の染帯は必須アイテムだった。
 四季折々の花の柄は、棒縞(ぼうじま)の御召(おめし)や、堅牢で汚れの目立たない紬の着物によく合った。
 平成になって間もないころまで、銀座松屋の呉服売り場は、確か3階(4階かも?)にあった。
 百貨店における呉服売り場は、その業態の要となるものだったので、いずこの百貨店でも20世紀中には、地上からそう遠くないメインのフロアに、ドドーンと存在していたのである。
 スモーキーな桜色とグレーの棒縞の御召は、親の力を借りず、自前で購入した二枚目ぐらいの着物だった。
 松屋の呉服売り場は小物もシャレていて、歌舞伎座の行き帰りに欠かさず寄っていた。もちろん、ほとんどがウインドゥ・ショッピングだったので、この着物を手にしたときは頭がクラクラした。

 それから5年ほどのち、新宿伊勢丹での即売会の売出しか何かで、さらに目の前がクラクラする一目惚れの帯が、この塩瀬の薄いグレー地に描かれた枝垂れ桜の染め帯である。ポイントに金糸の縁取りの刺繍がある。
 垂れに、三ひらほどの花びらが、そこはかとなく散っているのが、ぐゎしと胸ぐらを掴まれた要因でもあった。



 前帯も同じ枝垂桜である。
 帯揚げは、昭和のころ、まだ吉祥寺に近鉄百貨店があったとき、同店の呉服売り場で求めた鉄紺(てつこん)の綸子(りんず)。
 関東にはないような、上方から下ってきた素晴らしい工芸品が近鉄百貨店には在って、何かというと吉祥寺の近鉄デパートに行っていたのだが、プロ野球球団の近鉄バファローズが優勝する前年に撤退してしまったので、関東の民は優勝セールの恩恵にあずかれなかった。悔しい。野茂投手が大活躍して、日本人選手として初めて(と、私は思っていたのですが)大リーグへ行ったのがこのころである。

 帯揚げひとつ取っても、全盛期の日本の染色業界は手が込んでいた。
 地紋は網代(あじろ)に梅鉢(うめばち)の散らし、桜の一枝を生き生きと活写した筆致を生かした白上げに、思い思いの色指しが為されている。
 これも多分売り出し中だったので、二、三千円で購入できた。昭和のころの相場はそんなものだった。

 このいで立ちで、花見時、四谷の紀尾井ホールの下ざらいに出向き、午前中に用事が済んだので、その時、たしか、市川雷蔵の没後30年追悼上映会をやっていた、横浜のシネマジャックまで遠征した。
 大岡川の桜並木をそぞろ歩き、さくら尽くしの一日に身も心も蕩けたが、のちに「桜の時季に桜の柄のものを着て、本物の桜の前に出るのは、桜の花に失礼である」と、とある呉服屋さんの女将さんのお話を聞き、ああ、そうか…そういうこともあろうかと、反省した。




 縮緬(ちりめん)の染め帯は寒い季節のオシャレにうれしいものである。
 東京の呉服屋さんの連合会で、年に何回か展示会をやっていて、銀座のメルサだったろうか、日本橋の丸善の裏のビルだったろうか…で、めぐり逢ったのが、鼓(つづみ)に桜があしらわれた、薄いベージュ(香色)のこの帯だった。
 箏絃(こといと)を模したものか、右端六筋、左端六筋の、合わせて12筋は、13本の絃に一筋足りないが、琴柱(ことじ)の意匠があしらわれているのも面白い。
 和の楽器に勤(いそ)しむ者にはこれまた、グッと来てしまう柄行き(がらゆき)である。
 袋帯の尺があったのを、名古屋帯に仕立てていただいたので、落款が垂れに出ないのを申し訳なく思って、撮影用に。



 前帯は源氏香(げんじこう)。
 平成の初めごろ、まだ銀座の1丁目辺りにお店があった、とある呉服屋さんの売出しで入手した、琵琶や笛、箏の楽器尽くしの帯揚げを合わせた。
 振袖以外で、帯揚げがよく見えるように着付けるのは野暮天なので、常に日陰者…というか帯の蔭にしか存在しえない凝った柄の帯揚げがいとおしい。
 鼓の帯に、帯揚げの鼓の染め柄が見えるように着付けるのは難しい。



 右利きの私は、いつも同じ側の前帯になってしまうので、誰かに着付けて頂ける折が在ったら、反対側の前柄を出して着たいものである…いつも出ない柄のほうが可愛らしくて色鮮やかである。源氏車と手毬。
 しかし名古屋帯は普段着か、せいぜいがところお出掛け着なので、それも叶わぬ夢。

 京鹿子娘道成寺の地方(じかた)で、おさらい会の下ざらいに、塩沢紬(しおざわつむぎ)と合わせた。
 吉野山の観劇の折に、小紋の着物と合わせて、シャレて出かけたいなぁ…と思っていたが、当代の歌舞伎座のことは、それもまた夢。
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シャガの擬態

2020年04月08日 23時13分09秒 | 美しきもの
 幾ひらかのかたみを残して、今年の桜の頃は過ぎていった。



 武蔵野の雑木林の木洩れ日、その下草の中に、実生の楓を見つけた。



 ミニチュアの破れ傘のようでもあり、南洋の椰子のようでもあり…
 そういえば、私が育った故郷の庭の、日当たりの悪い植木の下草に、特撮用ミニサイズのジャングルのモサモサっとした熱帯雨林に似た苔が生えていたのだが、何という植物だったのか…眼下に辿りゆく失われた世界への憧憬を込めて、心はキングコングやゴジラ、モスラ、あるいは川口浩の探検隊員となり、子どもたちは想像の翼を広げた。

 

 綿毛の飛んだタンポポの果肉様の萼のうてなは、妖精たちのパン、もしくは我らが探検隊の糧食であった。
 ままごとに発する、子どもたちの見立て遊びは際限なく、ミクロの視点から覗く世界に飽きることがなかった。



 この度のコロナ禍で、当分のあいだ閉鎖になった植物園のお知らせが気になる。
 どこぞの庭園では、羅生門葛(ラショウモンカズラ)が咲いたという。
 皆様ご存知、頼光四天王・渡辺綱に斬り落とされた、鬼神・茨木童子のかいなに、花の形を見立てた命名であるらしい。

 お隣の公園にも群生していたが、意外と小さいサイズの野草で、うまく撮影できなかった。
 そして、我が家のレモンの葉の新芽が、私の見立て命名心をくすぐった。



 シザーハンズ・檸檬。ティム・バートンのあの映画を想い出すたび、胸が切なくなって、泣きたくなる。

 さて、公園のソメイヨシノも幾もとか根元からバッサリ剪定されて、池の汀が寂しくなっていたのだが、日当たりがよくなったのか、例年は日陰者のようにひっそり群れて咲くシャガが、妙によく育って大振りの花が誇らしげに顔を向ける。
 …ところへ、ひらひらとモンシロチョウがとまった。



 しかし、よく見ると紋白蝶にしては、翅の形がオシャレだ。角にアールヌーボー調の切れ込みが入っている。
 しなしなしな~と、風にそよぎながら、あれよあれよという間に、シャガの花の一片になってしまった。



 翅の裏が薄クリーム色で、細かい胡麻斑(ごまふ)が入っている。まことシャガの花そのものである。
 …うぬも、ただのモンシロチョウじゃあるめぇ……
 と、荒獅子男之助が、言ったか言わずか。


追記:花供養(灌仏会)、花祭りの今日、お釈迦様には申し訳ないほんの地口の出来心で、シャガの花をクローズアップしてみたのですが、さて、シャガの花の漢字を調べたところ、“射干”のほかに“胡蝶花”という字を、国語辞典に見つけて驚いた次第。

追記2:ありがたや、その後の調べで、モンシロチョウではなく、ツマキチョウ(褄?端?黄蝶)らしい、ということが判明しました。

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新芽

2020年04月04日 17時11分48秒 | 折々の情景
ここ暫く、放ったらかしにしていた鉢の状態を案じていたのですが、さすが、我が家の植木たち、生命力の逞しいこと。
スズランの、瑞々しい新芽が顔を覗かせておりました。

♪早く芽を出せ 柿の種 出さねば頭をチョン切るぞ…

と、脅されるまでもなく、自然は己(おの)が力で、来たるべき時を迎えれば、伸びてゆくものなのですね。

新緑の季節に丹精した植物たちの美しく誇らしい姿を、来園者に見てもらえないのは、何て切なく悲しいことなのだろうと、全国の公園・庭園関連の従事者の皆さまにお見舞い申し上げます。



当家の檸檬も、花芽を出しました。
同じ柑橘類、ハナタチバナの実の意匠によく似たかたち。
主の酔狂ゆえ、昨シーズンは果実を結ぶことが叶わなかった彼らに、責任を感じておりましたから、殊の外、嬉しくて。



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