長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

あたま山競演録

2020年03月12日 00時35分15秒 | お知らせ
 本日、第11回 Waライブ両国亭が開催されます。
 正午開場、12時15分開演、14時終演予定です。木戸は500円です。

 番組は当初予定されていたものと若干変更がございます。以下が本日の番組です。
 1.篠笛独奏『さくら in ブルー』笛:福原清彦
 2.落語『あたま山』落語:林家時蔵 お囃子:福岡民江 鳴物:福原庸子、望月実加子 笛:福原清彦
 3.よもやま噺『寄席囃子』福岡民江、林家時蔵
 4.長唄『あたま山』弾き唄い:杵屋徳衛 打物:望月庸子、福原千鶴、望月実加子 笛:藤舎理生

 長唄のあたま山をご存知の方は、えっ…!?と、驚かれたことと存じます。
 ひとり三味線オペラのような塩梅になっております。乞うご期待。

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庵梅(いおり の うめ)

2020年03月09日 23時30分31秒 | お稽古
 横浜能楽堂で、大蔵流の狂言「庵梅(いおりのうめ)」を観たのは、もう先々月の1月13日のことである。
 この狂言には太郎冠者は出てこない。全編、女性を表すビナンカヅラというお約束の、白い布を頭から巻いて、端をツインテール様に両サイドに垂らした、登場人物すべてが女性という、珍しい狂言である(もちろん狂言方の男性が演じているわけであるけれども)。



 老境に達した尼僧が一人、結んだ庵に住まいしている。ところへ、かつて彼女に歌の道を学んだ教え子たちが訪い、昔のようにそれぞれが和歌を詠み、梅が枝に短冊を下げていく。やがて酒宴となり、往時を懐かしみ謡い舞う春の一日。



   しきしまのみちを すてさせたもうな おとめごたちよ…

 別れ際に老尼は、若き日に学んだ歌の道を忘れず人生を送ってほしい…と謡い、教え子たちを見送るのである。



 山種美術館所蔵の川端龍子「梅(紫昏図)」がとても好きで、見掛けるとついつい絵葉書を求めてしまうのだが、私の脳内の庵の梅舞台図は、まさに、その絵なのである。



 梅が咲き、新しい春がめぐりきたるときは、別れの季節でもある。
 皆が新年度からの新しい身の置きどころへ去っていく。



 長唄、三味線をお伝えするようになって早や二十年余り、私の未熟さゆえ、長唄の魅力を伝えきれず道半ばにして去っていったお弟子さんの顔が浮かび、申し訳ない気持ちになる一方、結婚し子供が生まれてお休みしていた稽古を、再開して通って下さる方もいらして、本当に有難く、日々気持ちを新たにして進まなければとも思う。


 
 山本東次郎家の庵梅を、私は長らく待ち焦がれていた。
 臥龍梅のごとき枝ぶりの作り物も嬉しかった。
 演者が去ってゆく舞台から、暮れかかってほのぼのと清やかな梅の香が匂ったように感じて、私はしみじみと様々なことに思いを馳せ、掃部山を後にした。



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これを上げましては 明日より何の手業なし

2020年03月03日 03時05分25秒 | お稽古
 この度の騒動で、都民フェスティバル邦楽大会、第1部の子ども部門が中止になってしまった。
 長唄協会会員の小・中学生のお弟子さんで「末広がり」を演奏する予定で、当方からも来年度から中学校に進級するN君が、小学生最後の学年に、日頃のお稽古の成果を発表しようと楽しみにしていた催しであった。

 長唄「末広がり(末広狩)」は、例によって、狂言をもとに歌舞伎化されたものである。
 お習字に喩えれば、楷書体の曲と申しましょうか、手ほどきから二、三曲目ぐらいの教材になるのだが、山本東次郎さんファンの私としては、嬉々として歌詞説明を膨らませすぎるので、とにかく弾き込んで長唄という曲のスタイルの構造に慣れ親しんでほしい思いもある。
 小学三年生の別のお弟子さんにお手本で弾いたとき、♪太郎冠者、あるか~~というくだりで、目がキラキラキラ…と輝いたので、ぉぉ、やはり面白く受けとめてくれているのだろうか、と、うれしく感じたことがあった。

 太郎冠者が出てくる曲で、私が好きな長唄は「靭猿(うつぼざる)」である。
 このところ何かと見舞われる、ふさぎの虫…を払拭するために、やはり弾いているうちにウキウキ、憂き世が愉しくなってくる曲、そして、今年は何やらもう沈丁花が香ったり、シジュウカラが囀ったりしていたりもするのだが…梅が枝の清々しい匂いを風が運んでくれるこの季節にふさわしい曲、といったらやはり、靭猿…というわけで、久しぶりに引っ張り出してさらってみた。
 
 幾たび弾いても面白い。幾たび弾いても難しい。幾たび弾いても手に汗握るサスペンス・ストーリーで、調子のよいメロディに浮き浮きする一方、うっかり涙ぐむ場面もある。
 いにしえの価値観、歴史状況のもと誕生した古典作品には、それでも、人間を扱ったからには普遍のテーマ性がある。民主主義の世の中になった現代、いきなり縁もゆかりもない人からの理不尽な申し出によもや屈する目には遇わないだろうけれども、物事の関わり合いから生じる、この不変の情というもので、一般的な鑑賞曲としてお勧めしたい作品である。

 

 さて、名曲の上に大曲であるから、靭猿を稽古して頂けるまでには年季がいる。
 まだ昭和だった頃、お稽古場で姉弟子が唄をしごかれていた様子を、うらやましく聞いていたことを想い出した。
 そしてまた、20世紀の終わり頃、人形浄瑠璃文楽の公演で堀川を聴いたとき、ぁぁ…靭猿を…もっと稽古しておかなきゃいけなかったなぁ…と反省したこともあった。

 ♪げに豊かなる時なれや
  さらば我らはおいとまと もと来し道へ帰らんと
  花を見捨てて 帰る雁
  空も高嶺の富士筑波  
  名に負う隅田の春の夕 景色をここにとどめけり


追記:文末の詞章は長唄「靭猿」終章、写真は神代植物公園・うめ園にて2月の末、撮影したものです。


 
 
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