長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

合奏曲「むさしの」

2018年08月30日 07時55分55秒 | お知らせ
 皆さまご存知のように、平成の世にできました天空を凌ぐ塔・スカイツリーは、武蔵の国にあることを由来して、634メートルの高さに定められております。

 武州。
 武蔵の国にある五日市だから武蔵五日市、武蔵の国の小山だから武蔵小山、同じく武蔵小杉、武蔵村山、武蔵小金井…エトセトラ、etc.
 武蔵の国にある野原で、武蔵野。

 関東一円に広がります武蔵野台地。ひと昔前は、よく、時代劇のロケを山背の国=京都でやっておりまして、大川端、隅田川岸が琵琶湖河畔だったり、下賀茂神社が浅草奥山だったりしますが、関東の者には今一つ違和感がある。
 それはね、とても美しい風景でほのぼのするのですが、空が狭い。後ろに山がある。
 関東平野は見晴らしがいいんです。西に富士山、北に筑波山。
 ですから、あまり瑕(きず)のないよくできた時代劇だったりすると、風景に茶々を入れたりする。

 京の都の住人・武蔵坊弁慶が勧進帳で飲み干します大盃(おおさかづき、大阪好き、と変換されちゃいましたが…確かに好きですが…ちゃいます)、あれを俗に武蔵野(むさしの)と呼びますが、その心は?
 はい、広くて野を見尽くせない→野見つくせない→のみつくせない、飲み尽くせない…正解です。

 ひと口に武蔵野、と申しますが、どこら辺を指すかご存知でしょうか?

 東京都心/練馬・板橋・北・中野/杉並・世田谷・大田/武蔵野・三鷹/調布・小金井/府中/立川・八王子・青梅/東村山・清瀬・所沢/平林寺/東武・西武・奥武蔵/秩父/奥多摩/葛飾・成田/多摩丘陵

 …というような記述を、昭和50年に毎日新聞社から刊行されました風景写真集『武蔵野の四季』に見つけました。父の遺品整理の折、本棚にあった一冊です。

 かように、関東に住む者には、武蔵野という言葉は切っても切れない心の風景のよりどころだったり致します。

 そんなことがございます一方で、このところの2020東京五輪関連プロジェクトを拝察いたしますにつれ、自分たちの風土に根差した文化をもっと知り、実践すべきではないか、と思うに至りました。

 さて、「むさしの」という和楽器オーケストラ向けの曲があります。
 編成は尺八、箏、三味線。歌パートもございます。
 国木田独歩「武蔵野」のイメージから、武蔵野市政30周年を記念して昭和52年に委嘱作曲されました。武蔵の野に陽が落ちるトワイライトタイム、雑木林を歩む者の目前に開けた原野を風が吹き抜けてゆく風景を描いた、詩情にあふれた曲です。
 武蔵野を渡る風を表現する、尺八の名手になる独奏パートがオーケストラをリードし、箏が野の下草や梢の葉のうねりやさざめきを奏で音色をふくらませ、三味線が小気味よく歌パートとともに景色に陰影をつける素敵な曲で、さまざまな演奏会で再演を重ねてまいりました。

 武蔵野市がルーマニアのブラショフ市と友好を結んだ数年後の記念の、ジョルジュ・デュマ・ルーマニア国立交響楽団の招聘公演で、日本側の返礼曲として演奏いたしました折も大好評をいただき、先方の楽団責任者の方からスコアを所望されるという、嬉しいエピソードもございます。
 2013年には、花柳衛彦先生(彦六の正蔵師匠のご子息)が振付くださり、舞踊公演もいたしました。
 作曲は、祖父の代から吉祥寺に住まいし、武蔵野四小、武蔵野一中を母校とする杵屋徳衛です。

 
 音源はこちらにございますので、ご試聴くださいませ。
  ⇒ http://www.shamisen.org/musasino.htm

 武蔵野市は、関東に棲むもの皆が共有したいであろう、この武蔵野という言葉を冠する都市です。
 もっと武蔵野市が武蔵野であるゆえんを感じてほしい、というわけで、このたび武蔵野市教育委員会へ申請し、「武蔵野市でむさしのを弾こう!プロジェクト」という、こども対象の文化体験活動支援事業をさせていただく運びとなりました。
 
 9月から始まる市内中学校での練習に参加していただき、11月11日、吉祥寺駅南口の武蔵野公会堂での演奏会で、その成果を発表するというものです。

 なにゆえこのようなローカルな話題をインターネットで…とお思いになるかもしれません。
 なんと!!
 日本では、産土神、根生いである独自の盆踊り大会や子ども会などの衰退に見られるように、昭和末期から平成にかけて地域コミュニティが徐々に崩壊し、現在ではそうした経緯から巻き返した街おこしが結実している場所もあるようではありますが、地元のようで地元でないというような、中途半端に市街地な土地柄では、むしろ限定された地域に対するお知らせ・広報というものが、逆にむずかしい、ということを、身をもって思い知ったわたくしです。

 そんなわけで、上記のようなプロジェクトがございます。
 お知り合いに、武蔵野市に在住・在学する小・中学生がいらっしゃいましたら、ぜひにご喧伝くださいませ。

 小・中学生とポスターには記載されていますが、武蔵野市に在住か在学、在勤の未成年者でしたら、どなたでも参加できます。

 伏して乞い御願い申し上げ奉りまする。
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いざ、おかげまいり

2018年08月27日 16時55分55秒 | お知らせ
 ちょうど10年ほど以前のこと。
 目白にございますシアター風姿花伝で、現代劇の舞台に参加いたしました。
 清水邦夫作『いとしいとしのぶーたれ乞食』を、清水先生門下・南谷朝子さんがプロデュースし、ご自身が作詞作曲した曲に加え、新たに音楽を杵屋徳衛に依頼した舞台で、上演日程の間中、私も地方(じかた)でライブ出演いたしました。
 演出は井上思氏、今は亡きすまけいさん、蜷川幸雄の舞台で常連の青山達三さん、劇団桟敷童子からの客演の方々とご一緒させていただいた、想い出多き芝居でした。

 その後、何度か素の曲として演奏会にかけさせていただきました。
 この度は、今週末9月2日日曜日、第5回全国邦楽合奏フェスティバルにて、演奏することと相成りました。
 NPO法人全国邦楽合奏協会が主催しており、大掛かりなので、全容の把握ができず、うっすらとしたご紹介で恐縮なのですが…
 武蔵野邦楽合奏団の名義にて、参加しております。
 場所は、洗足学園音楽大学溝の口キャンバス、出演時刻は正午ごろの予定です。

 夏の終わりのおかげまいりに、いざ…
 
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邦楽器から和楽器へ

2018年08月18日 11時33分39秒 | お知らせ
 ここ十年ほどのことでしょうか、いえ、もっと以前からだったかもしれません。
 邦楽器と表現していた言葉が聞かれなくなり、日本の伝統音楽にかかわる事柄が「和」という言葉で表されるようになりました。当節流行の和楽器バンド、という言葉に感じられますように。

 邦=我が国の、という意味ですから、たぶん、昭和が終わって平成生まれの方々が世の中をリードするようになってから…という線引きできるものかはわかりませんが、いつの間にやら、日本の伝統文化は我々のもの、わたくしたちのものという身近なものではなく、日本文化、洋に対する和、という、一つの文化のジャンルへと代わったのでしょう。

 このところ気になる災害放送などで、ラジオをまた頻繁に聞くようになりましたが、気分転換に…と局を替えても、私の聞きたい邦楽は全然やっていませんですね、いつだってダイヤルを回せば、箏の音色や尺八の響き、三味線のさんざめきが聞けたものでしたが、これまたいつの間にやら、二、三十年があっという間に経っていて、世の中は変わっていたのでした。…このところ無闇と、自分が化石になった気がしてなりません。

 そこで、邦楽空間たる密室を、この夏開放して、広く和楽器の体験をしていただけるよう、考えてみました。
 題しまして、
 
  【三味っちゃおぅ!夏の子ども・キッズ体験レッスン】
 
 です。子どもサイズの三味線を常備しております杵徳教室の独自企画です。

 (こども、キッズと表現が重複しますのは、邦楽器・和楽器というように表現の統一をはかりかねている筆者の心の揺らぎにもよります…ごめんあそばしませ)

 付き添いの大人の方もご一緒に体験できます。

 夏休みの自由研究にいかがでしょう?

 詳しくは、杵屋徳桜の三味っちゃおぅ!稽古ホームページをご覧くださいませ。
 お待ちしております。
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キヘンのひと

2018年08月11日 22時33分44秒 | マイノリティーな、レポート
 街は再び再開発。無駄のないすっきりしたビルの群れが誕生しつつあるその景色を眺めながら、しかし、新しく美しい街並みを見るにつけ、どうも何か足りない。なんてのか、殺風景なのである。
 …新しくて美々しいのに、なぜ? なにゆえ?? なじょして???
 それはね……ぅぅむ、そうです、樹が、緑が足りないのです。

 植栽なんて、無闇と広くなった舗道にお飾り程度に置いてあるけど、圧倒的に足りないのです。
 だって、ビルって、鉄と砂利と石灰と粘土とか(要するにコンクリとか)、珪砂とか炭酸ソーダとか(要するにガラスとか)、石の塊、鉱物でできてますもん、緑の大地を荒廃させ砂漠にしているわけです。21世紀も東京砂漠。
 皆が知恵と資本を出し合って、寄ってたかって、わざわざ都市を砂漠化させているんですね。

 だからもう、やたらと暑いんだわさ、幕末に日本に来た外国の方が、まるで植物園のなかで暮らしているようだ、と評したことがあったそうだけれど。…ぁぁ、ねぇ……

 そういや、日本語の漢字で一番多い部首はキヘンだと以前、聞いたことがありましたな。
 きへん。
 もう40年前、占いに凝ってた友人が、あなたは将来、手に木を持つ仕事をするようになる、と予言した。
 どうやって占ったのかしら…そもそも私は本名のファーストネームに既に二本の木があるので、気が多い人間なんですょ。そもそもがファミリーネームにすら二本、木が入っていたのだ。キヘンが付く苗字のひとと結婚したら、それはもう、木の生い茂るウッディな世界なのだ。何の話だ。
 材木屋って、シャレてそう呼んでましたょ、気が多い人のことを。…遠い昭和の市井の物語ですょ。



 さて、わたくしが今生の仮の宿は、府下西域にございます。はじめて都内の甲州街道を23区から通り過ぎて西へ西へと車に乗って移動した40年前、両端の欅がのびのびと枝を伸ばし、梢の無数の葉が風にそよぎ、緑の屋根、トンネルをつくって、それはそれは美しい街道沿いでした。

 江戸、ならびに東京という都市を造成するために資材の運搬路としても活躍してきた、青梅街道、五日市街道…etc. 郊外にも大動脈たる幹線道路が何本か拡がっていて、キヘン王国ニッポンの名にたごうことなく、沿道は樹木で縁取られています。
 それが、ですね…あれはもう2年前の晩春から初夏のこと…俗にいう黄金週間のあたりの出来事。

 省線から動物園へ至る吉祥寺通りの、そろそろ新緑が芽吹いて薫風に吹かれようというケヤキの枝が、無残にもバッサリと切り落とされて、私はとても驚きました。
 ただの棒…電信柱が4本ぐらい合わさった木製のオブジェ様になってしまった、欅の木の痛々しいことといったら。
 枝葉末節、というものではなく、幹が拡がって伸びた主要な枝を刈られてしまったのです。剪定はこれで正しいのだろうか…素人が口を出すべきことではないのかもしれないけれど、天才バカボンのパパも含め、私の知ってる記憶の中の植木屋さんは、あんな伐り方しないよなぁ…樹影事典というものまであるほどに、樹の枝の張りようというのは、重要なものなのに。

 それから可哀想なケヤキたちの様子を、蔭無き陰から観察しておりましたが、そこはなんと健気なものたちでしょう、六月ごろになって湿気を帯びた空気に涵養されたのか、太い幹から直に産毛のような葉を生やしはじめ、ヤドリギをたくさんつけたような不思議な樹影になりました。 
 これは何か見たような…そうだ、何年か前に緑の地球博で売り出されたイメージキャラのモリゾーとやらに似ている……。

 こうして、美しい樹影を形づくり、市民の心のやすらぎ、景観のいしづえであったはずの吉祥寺通りのケヤキたちは、幹から直接柳のような細い枝を枝垂れさせて、樹の影から幽霊でも出てくるんじゃないかという姿にさせられておりましたが、さらに驚くまいことか、その年の秋口。
 落ち葉の舞う移りゆく四季の風情が楽しめようという、その、もののあわれも味わわぬまま、黄葉する前に再び剪定作業車がやって来て、ことごとく葉と枝を刈り取っていったのです。

 濡れた落ち葉がすべって危ない…というクレームに忖度したのでしょうか、台風で折れる枝が危ないという提言があったのでしょうか?
 いくらなんでも、自然の摂理である落葉の権利までをも樹々から奪うとは…!! かくも酷薄たる人間たちの所業を、いかにとやせん…
 動物虐待を騒ぐ方は多けれど、かくもむごき植物たちへの仕打ち。こんなことが許されてよいものかいなぁ…(文語体で嘆く私)。

 そんなわけで、昨冬は、吉祥寺通りのケヤキ並木は、電飾用のただの木の台のようになってしまいました。
 季節感のない街で私は、身も心も凍りつき乍ら、その木霊の骸(むくろ)の下、駅までの道を毎日辿ったのです。

 ですから、落ち葉かきの労を惜しんだ報いでもあるまいに、本末転倒というか、負のスパイラルというか…この炎天下、直射日光に曝される舗道を散策するという物好きがいるわけもなく、歩道沿いの商店も閑古鳥が鳴いて、観光客の増える日祝しか営業しないというケーキ屋さんまで出てきました。

 それから二度目の夏を迎え、今年もバッサリ剪定された街路樹は、それでも、太い幹からこんもりと緑の葉を繁らせましたが、ケヤキ特有の、太い幹からすっきりとのびやかに広がる枝葉、それらが生み出す爽やかな木陰が、今さら育つはずもなく……
 さらなる猛暑に為すすべもなく、本来なら樹影のトンネルのもと、木々の緑に目と脚を休ませ一息つく愉しき街角になっている場所なのに…木蔭の恩恵を受けられない街路樹の並木道ってどうょ…と灼熱の日差しを避けて、ありがたや、全国のコミュニティバスの先鞭者たるムーバスに乗車し、私は駅まで通うのです。

 さてまた、今年の秋、彼らはどのような処遇を受けるのでしょう…
 街路樹の美質、長所をいかせぬまま、浅はかな方策でもって街並みを衰退させてゆく、愚なる処方が再来するのか。
 いずれにしろ、年月と人の手によって立派に育てられてきた樹は、伐ってしまったら、いかんせん、すぐには生えてきませんからねぇ……


 付:写真は吉祥寺大通りとは全く無縁の、とある神明社の境内の樹々であります。昨秋11月撮影。


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私をころして

2018年08月10日 11時00分02秒 | 近況
 「私を殺してからにしてくれ!」と今朝のニュースでどこぞの首長さんが啖呵を切った話を聞きましたが、あらら?
 コンチ、流行言葉なのかなぁ、思わず笑いました。このところ矢鱈と聞いちゃう言葉なんです。

 ひと昔、ふた昔…いぇもう何昔も前かなぁ、推理小説、サスペンスドラマにもよくある手法で、タイトルに持ってくることによって読む者にショックを与える物騒な言葉だったりしますが、それが、ふた月ほど前から同居している垂乳根の母のことなんでございます。
 母がときどき、「私を殺して!」と、夜中に迫るんだよなぁ。

 …というのは、海馬がだいぶ委縮して、先生の見立てでは新しい記憶が入らない状態らしく、五歳児のような言動でむしろ微笑ましいことも多いのですが、そこはさすがに年を経た八十路のオババ、いろいろなんですねぇ。
 自分の身の回りのことはそれなりにできて、御不浄なんかもきちんとはしているのですが、時々深夜に粗相をしてしまう、そんなとき人間の尊厳が冒されるのか、自己嫌悪に陥って、先の台詞で寝ている私をいじめるのです。

 「私は死にます、こんなに馬鹿になって生きていてもしょうがないもの…!」
 夏目漱石の夢十夜にも「私は死にます…」って話が在りましたね。

 「あのなぁ…」
 抗うすべのない理不尽な仕打ちに、探偵物語の松田優作の如く、眠気のとりこになって朦朧としている私は絶句します。
 (おかあさん、何もそんなにシンコクにならなくても……)
 母は戦中生まれの真面目な人間なので、一大事なのです。
 まったくもう、近松の心中ものかしらん…

 「ちょっと、オカーサン、娘を殺人犯にするつもり?」
 なんだ何だ何だねぇ、面倒に巻き込まないでほしいなぁ、日々の生活の苦難に朗らかにけなげに立ち向かう無力な芸人風情に、これ以上むつかしい問題を持ち込まないでほしいなぁ…
 「あたしゃー、人殺しになるのなんて真っ平ですからね」
 もう眠いから明日にしようよ…と、適当にお茶を濁しているうちに、情熱の嵐ならぬ妄執の嵐は過ぎゆき、台風一過の秋の空のようにカラッとはいかないけれども、八月の朝。

 「オカーサン、水羊羹、おいしゅうございますょ」
 「あら、そう?」なんて言って、無邪気に可愛らしいのですけれどもね、人間の脳って不思議なもんですねぇ。

 それにつけても、このところの世の趨勢を見てるとなんだか、酷いねぇ…数の論理でもって道義も何もない理不尽がまかり通るんですねぇ。

 どうなっちゃうんだろうねぇ、どうしたもんかねぇ…と、田村高廣になって、小林桂樹の梅安先生に相談したい今日この頃。
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足技師(世間はそれを夏休みと呼ぶのですね…DV篇)

2018年08月05日 23時55分59秒 | マイノリティーな、レポート
 どう表現してよいものやら…私が夏休みの宿題の絵日記帳をつけてた時分の、今日の気温はせいぜいがとこ25度C、よっぽど熱い30度越えの日は、40日間のうちのニ、三日あるかないかの時代でしたからねぇ、そりゃー暑くてかないませんけど、人混みで、歩きながらいきなり立ち止まって水分補給なさるのは、やめてほしいもんですなぁ。あぶないあぶない。
 立ち飲みとか口飲みとか、ことさらそういう言葉があって、昔はビンやなんかの飲み口にじかに口をつけて飲むのは下品だからおやめなさい、と窘(たしな)められたものでした。殊に女の子には、ぁ、口のみしてる! と小学生たちは指をさしたものでした。ポカリ何たらが発売されたCMだったかなぁ、ペットボトルから直に、渇いたのどにゴクゴクッと飲むのが気持ちよさげで、あの頃から一挙に流行ったけれど、それ以前は眉を顰(ひそ)められる行いのひとつでした。

 いぇ、それ以前に、歩き“ながら”食べたり飲んだりするのは下の下…乞食がするもんだと言って、一般人でそんなことをする人はいなかったですなぁ、昭和の頃は。
 たぶん戦争で極限状態まで行っちゃったから、文明の先鋭化よりも文化的生活の実践、動物ではない人間のあるべき姿というものに、ことさら敏感、憧憬の思いが強かったのかもしれません。だもんだから、祭りの夜店というのは格別な存在感があったりしたわけです。
 …こう書くと改めて、いまの世の中のすさみように愕然としますけれども。

 夏休みになってから、バスや電車のシートの片隅にお菓子の包み紙が矢鱈と落ちてたりしてて、子どもたちの行儀の悪さというよりも、それを容認して頓着することのない親の顔を想像するだに、悲しくなります。
 あたりをはばかることなく、子どもを連れて大声で歩き回る親御さん方、各ご家庭で展開される日常の様子が、電車の中で平然と繰り広げられる、コントのような目の前の景色。ドメスティック・ビュウ、略してDV。
 会社のことを家庭に持ち込まないのが20世紀の一家の大黒柱たる男の矜持?いやニューファミリーのモットー?であるなら、ご家庭のことを社会に持ち込まないでいただきたいのが、21世紀の赤の他人の所感です。

 「なにさ、一人で大きくなったような顔しちゃってさ…」
 小津安だったか成瀬巳喜男だったか…1950年代の白黒の映画で、お姉さんだったか小母さんだったかが、よくこぼしていましたけれど。傍若無人って死語になっちゃったのかなぁ、と、このところ出掛けるたびに、そんな科白を想い出します。

 太陽がまぶしいせいか、ものすごく動物的、本能的な人が増えましたね。
 昔、奥さまは魔女のエピソードのひとつに、魔女狩りの中世にタイムスリップしちゃう噺ってのがあって、もう40年以前見たのにいまだに覚えてるんですけど…サマンサに、タイムスリップした先の、村の行き掛かりのおばちゃんが、あらっ、あんたどうしたのそんな下着で歩いてたら捕まるわょッって、ものすごい勢いで注意して心配してくれるシーンがあるんですけどね。
 その時の奥様のいでたちは、白い夏のノースリーブの当節流行のミニのワンピースで、背中が幅広のバイヤス布のクロスになってるバックスタイル(…よくこんなこと覚えてるなぁ…世の中の何の役にも立たない悲しき記憶力…)。ここは視聴者の笑いどころで、そんな前時代的なこと言っちゃって、と、当時の頭の固いオバサマ方を揶揄してるのもあったかもしれませんが。彼我の価値観のギャップに、みな一様にドッと笑います。
 そんなシーンを今更のように想い出すけれども、さらに現在は、その比じゃなく、気温に負けまいとするかの如く凄い露出度です。あからさまになって奥ゆかしさがない。立ち居振る舞いがもう、人間じゃなくて動物です。景色を除いて人々の姿だけ見ると、街中の交差点じゃなくて、ビーチだったりプールサイドだったりします。

 何だったかなぁ…これまた「アタシ、脱いでもすごいんです」って品性のかけらもない言葉がCMに出てくるようになってからでしたか。体で勝負する=身体を売るのは最終手段で、人間の尊厳、お金のために自分の誇りを捨てるというそんな前時代的な目に遭いたくないから、女性たちは何とか手に職をつけて自分たちの存在意義を勝ち取りたかった。
 最終兵器的な肉体にものを言わせる労働から解放されて、「脱がなくてもすごい人間」というものを目指していたのに、バブル期で、すべての努力は水の泡になってしまいましたねぇ。

 人間としてどうあるべきか、という哲学は廃れて、快楽主義、享楽に走ったのですね。文化的なことをして自分の内側を高めたいということはなくなって、ていのいい見掛けやスタイル、上っ面を整えることに終始し、おいしいパンやスイーツを求めて三千里、何を買ってどこに行って何を食べて今日は満足、という刹那的な。結局、一億総成金状態。

 子ども向けのミュージカルで、メアリーポピンズだったでしょうか…映画の中で、絵にかいたような銀行家が出てきて、利益という言葉がすべてに優先する、という科白は笑いどころだったのだけれど、今じゃジョークでもなんでもなく、本気でしょう、皆さん。

 なにはともあれ、いくらなんだって周りに気を配るのが、人間が密集した都市部で生活するものの最低限のたしなみってもんです。「公衆道徳」をヨコ文字にすると、なんていうのかしら。横文字にすれば皆が気にするようになるのかしら。

 そんなわけで、自分の行儀の悪さを、お天道様のせいにしちゃぁいけませんぜ。

 そーいやクマさんや、行儀という言葉も死語になったねぇ。
 ちょきいて、今日、目の前で起きた能楽堂での出来事を、そっくりそのまま言うぜ。
 正面席上手側通路から左の列の席に座ろうと、列の一番端の人に、スミマセン、失礼します~と声を掛けたと思いねぇ。
 60~70代とおぼしきかなり自由な服装をなさったその老紳士は、なぜだかとてもたくさんの荷物を抱えて立ち上がった。その手からゴロンとヘルメットが転がり落ちた。あらまぁ、拾って差し上げようと私が手を伸ばしたその瞬間、紳士の足がヘルメットを私の反対側へ蹴飛ばした。ヘルメットはヒュン…と飛び老紳士の左隣の席に座っていた二人ばかし先の客の足をヒットした。傍杖じゃなくて傍ヘルメットってやつ。
 いやーーーー、びっくりしたよねぇ。あまりのことに面喰い、呆れ仰天しつつも、失礼します、といって、自分の席に進んだら、その老紳士が一言、跨げばいいじゃない、とのたまった。

 な、な、な、なんですと!!マタゲバイイジャナイ??? 跨げばいいじゃないですと!?
 はぁぁぁぁ!!?? 日本人はね、物をまたいではいけないと、教育されて育つもんなんですょ。
 あんまり呆れたけど、負けん気の強い私だものだから、とても黙ってはいられず、
  それはちょっと、なかなか跨げないですよね、
 と言ってはみたけれど、私のこの呆れ果ててものも言えないというような気持ちは、先の老紳士には通じなかったでしょうねぇ、物が言えたんだから。(まぜっかえしたくはないけれども)

 そいえば驚天老紳士の類例ですが、想い出しました、恐怖の映画館での体験。
 もう25年以前、白山の今は亡き三百人劇場で中華電影(中国映画)大特集があって、何回か通ったある日のこと、映画が始まってから遅れて入ってきたやはり老紳士が、暗闇の通路の中で席を探すのに、ジッポとおぼしきライターで、カチッカチッと、何度も火をつけながら歩いてきたので、もう本当にびっくりしました。
 その当時はフィルム上映でしたから、映画館で直火をつけるなど言語道断です。もう本当に、炎の陰に浮かぶやや猫背の老紳士は、かのスクルージにそっくりで、生きた心地がしませんでした。ここで火事に遭って焼け死んだらどうなるんだろう、非常通路はどこだったかしら、まず連絡が家族に行くのだろうけれど分かってもらえるのかなぁ…へんな服着てなかったょね…救急車で運ばれた場合の最寄りの病院って順天堂かなぁ、いや東大病院があったっけ……とか、例によって勝手な連想に脳内は占拠され、観てた映画とは全然別の想像をしてしまい、気が散ること甚だしく、ほんとうに迷惑しました。

 無茶苦茶な人って、ときどきいてはりますね。

 能楽堂の見所で、そういう呆然とする目に遇っての帰りの電車は空いていて、はす向かいに座った壮年の紳士が、物凄い顔をしてスマフォと睨めっこしていました。細かい字を読むのに目の焦点が合わなくて目を細くしてたらそんな顔になっちゃったのでしょうけれど、陰腹でも切ったんですかぃ? と声を掛けてあげたいほど苦痛に歪んだ苦り切った顔だったのだ。隣りに奥さんらしき方が座ってらして、注意してあげればいいのに、その方もスマフォを見るのに余念がないのでした。
 どうなっちゃったんでしょうねぇ、まったく、日本国の住人たちは。

 正しい足技というのは、一角仙人やら、鳴神上人を籠絡しようとしたかの雲絶間姫のチラリズム、そういう足技であってほしいものでございますな。
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