長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

教養と娯楽のはざまで…2

2016年08月24日 23時22分21秒 | マイノリティーな、レポート
 「あれ、長唄って東京大空襲の時に絶滅したんじゃないんですか?」
 と、初対面の方に言われたことがある。
 20世紀と21世紀のはざまの、ちょうど西暦2000年頃のこと。私とそう幾つも違わない年齢の、大手銀行で経営の研究だかコンサルタントをしてらした方だった。
 その時自分がどう答えたか全然覚えていないのだけれども、かなり痛烈な左ストレートを喰らいながら、利潤の追求というテーマを生業としている方なのに、長唄という言葉を知っていらしたことに驚いた。
 しかも、江戸で生まれて東京で育ったという、長唄の履歴までご存じとは。
 
 時代小説や歴史叢書を専門に出している出版社の方でも、長唄と常磐津、清元の違いが分からない(つまり、聴いたことがないということでありましょう)という、そんな世の中になっていたころだったからである。
 財界人は芸術に投資するのが甲斐性だったりする土壌、また、企業メセナ、という今では死語になっている言葉が当時はまだ存在していて、そういう自国の文化を最低限知っていることが経済人のたしなみであったのかもしれない。

 日本人には「本音と建前」という感覚があって、建前が過ぎる…という反省のもとに本音を押していったら、建前が無くなって本音だけになって、美しい文化風土は崩壊した。
 衣食が足りても礼節を知る人がいなくなった。
 経済優先の御旗の下に、無駄をなくしてお金儲けをすることが一等偉いような価値観で世の中は覆われて、あからさまになった分、人間としてのたしなみ、成熟した大人が持つべき仁、見識を失った。

 教養が娯楽として成り立つには、日常の素養がいる。
 日本人は戦争によってあまりにも多くのものを失った。欧米文化の恩恵に浴し享受している者は、それだけで事足りるから感じないし、知らないから分からないだろうけれども、どれだけ多くの素晴らしい文物が灰燼に帰したことであろうか…考えただけで身震いがする。

 戦争に対する反省で、日本のものは総てダメだった、という極端な考えから、歴史が積み重ねてきた貴重な文化まで破棄するに至り、戦後の教育は西洋の文化一辺倒になったのだけれども、戦前の美しい日本を知っていた戦前生まれの人々は、DNAに培われた文化をたしなむことを忘れなかった。
 さて、戦後71年が過ぎ、その素養が重要であったことを知る世代が失われつつある。

 余剰の利益を文化に還元する教養・たしなみがなくなった政界関係者が行う施策によって、日本はかつて日常的な文化の担い手であった中産階級という市民層を失い、格差社会は、つつましく生きる者たちのひそかなたのしみまで奪いつつある。さらに、衣食が足りても足らずとも礼節をわきまえない、という新たな民衆を生むに至った。
 本音で生きているので、見栄を張るということがない。だから見場が悪くて恥ずかしいということがない。ゴム草履でペタペタ歩いて電車に乗る。TPOが喪失してしまったのだ。
 本人は楽かもしれないが、景色が悪い。
 建前がなくなって本音だけ…つまり自分の好き勝手、都合だけで行動するので公衆道徳が崩壊して、袖すり合うも他生の縁という、柔らかな感性がなくなり、見知らぬ人間との関係がとげとげしくなり、巷の美しい風景が失われてゆく。

 日本の伝統文化の敷居が高い、と大衆が感じるようになったのは、つまり日本の伝統文化を形づくる観念を構築している日本語を、知らないからなのではないだろうか。
 日本家屋がなくなって、軒下がない、三和土もない。日本間で暮らすには畳が消耗しない動き方がある。湯を沸かすやかんも知らない。浴衣は着るが下駄は履かない。
 日常にそういう風物がなければ、日本文化を語る言葉すらがすでに多くの日本人には理解できない、自分たちのものではない文化になってしまっているのである。

 台風が何年振りかで関東地方を直撃した日、30年ぶりにフレッド・アステアがカッコよくてしびれる「バンドワゴン」を観て、日常が日本文化だった昭和に生まれ育った私も、それだからなお一層異国のシュッとした文化に憧れる気持ちを思い起こしたのだけれども、21世紀の若い人々の身の回りには欧米の文化しかない。
 選択肢がない状態で、自国の文化を担う方向性を見いだせないのは無理からぬことである。ひよこは最初に見たものを親だと思うそうだから。
 
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教養と娯楽のはざまで…1

2016年08月16日 16時16分16秒 | マイノリティーな、レポート
 友人がお見合いで結婚を決めたとき、妹さんに「へぇ…誰にでも気の迷いってあるんだねぇ」と言われたそうである。ご安心ください。それから幾星霜、彼女は幸せな家庭を築いておられる。
 そんなわけで、私にも気の迷いが生じた5年ほど前、和製ミュージカルの舞台をいくつか観に出かけたことがあったのだが、自分の嗜好の方向性を再確認する思いがけない機会となった。

 そこで不思議に感じたのは、客席で聴かれる称賛の感想の多くが「正しい音の高さまで声が出てた」というものだった。
 …学校の授業の延長線なのでしょうか、正しい音程で歌っていることに何の意味がある、と言っては極論になるので言い換えるけれども、決して安くはない対価を払って聴きに行くプロフェッショナルの芸能に対する評価が、正しいか正しくないか、それどまりであっていいのだろうか、ということを感じたのだった。

 そして、偶々演じている側の意見を聴く場があり、さらに不思議の感を強くしたのだが、日本人らしい真面目さと謙虚さでもって自らの技能を評価する彼らの最終的な結論付けは、まだまだ本場には至らないということだった。
 若く美しい肢体を持ったまだ20代の演技者は、あれは本場のミュージカルだからね、と肩を落として言うのだった。
 自分が生涯かけようというものの目標があらかじめ諦観で括れる指標であっていいのかなぁ…なんで自分の身体能力・特徴に見合う、そして芸術的高みにまで…そこまでの努力ができるのであるならば、到達することが可能な、DNA最活用の自国の伝統文化に目を向けないのか、そしたら貴方がそれほどの憧憬を持って語る「本場の人」に、それだけでなれるんだょ、そして心的充足感が満ち満ちて幸せになれるんじゃないのかなぁ…と、申し訳ないけれど思ってしまったのである。

 絶対音感、という能力がひところもてはやされた。
 しかし、その能力は、音楽を左脳で聴いて言語的感覚でラベリングされた音の高低を識別する能力であるので、芸術的感覚を察知する右脳の大脳皮質が著しく後退する、ということが、このところの研究になって分かったそうである。

 教養ではなく娯楽として、日本の伝統文化をたのしむ、ということについて述べたい。
 …そう思って数年が過ぎたのだが、自分が三味線マシーンである、と断言できるに到る道はわが肉体が滅んでも達成、そして満足できないロング&ワインディングロードなので、なかなか文筆作業にとれる時間がない。
 まとまった文章を、と思うから書ききれないのであって、少しづつ新聞小説みたいに書けば、いつの間にか大部の大河ドラマ的小説に到るのだ、と考え直して今日はここでupすることにする。(つづく)
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