長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

平成25年の“ハローアゲイン”

2013年05月31日 00時51分55秒 | 歌舞伎三昧
 ひょんなことから、すっかり諦めていた歌舞伎座5th杮落し興行へ行けることになった。
 ご同道下さったのは、つい半年前から歌舞伎を見始めたという、美しく可愛いお嬢さんである。
 なにしろ切符の争奪戦が激しい、ということもあり、昨年末、番組が公表されたときは、ひとしきり開場熱が一段落ついたころにお邪魔しよう…6月の夜が『助六』。先代さんに別れを告げた同じ演目だし、これは何となく、ここからいらっしゃい、という芝居の神様のお告げかも…と思っていたのだが、成田屋が旅立って、途方に暮れた。
 そこへ、やはり、芝居の神様のご配慮でもあろうか、本当に思いもかけないめぐり合わせがあって、5月の昼の部に突然行けることになったのだ。
 番組は当代・坂田藤十郎『先代萩』、そして仁・玉『廓文章』。

 当代歌舞伎座との初目見得。番組に合わせた着物でご挨拶したいところである。
 時代物好きな私は、まさに、先代萩対応の意匠、竹にふくら雀を型染した縮緬の名古屋帯を持っている。そして廓文章には、いかにも芝居のなかの室礼を写した繭玉の染め帯も。
 心中、ガッツポーズをしたいところだが…しかし生憎と二つとも冬の衣装。
 5月も下旬に入るところで蒸し暑い日も続いていたので(そして旧暦の四月朔日を過ぎていたので)、大名縞の黒お召の単衣に、燕柄の織り帯にした。
 きものを着てお芝居に…歌舞伎座に行ける…!! なんとこの日を待ちわびていたことか。

 以前は東の塀の向こうに庇が見えるだけだったお稲荷さんが、歌舞伎座の表に遷座ましまして、私ははじめてお参りした。
 開場までの何ヵ月か、新しく出来上がった懐かしい唐破風に櫓が上がった大正面を遠巻きに眺めるたび、この玄関を通ってロビーに入ったら、号泣しちゃうに違いない…と気構えていたのだが、あまり違和感なく設計された新顔の歌舞伎座は、むしろ私を柔和に迎えてくれた。
 そして受付までの両脇にずらりと並んだ番頭さん達。机に、いままで無かった名札が添えられているのも新時代のお客さま対応であろう。

 新しい歌舞伎座は、新橋演舞場や明治座、それから東宝系のミュージカル劇場をミックスしたような、モダンな構造になっていた。なんと、全階エスカレーター完備なのである。
 そして、「想い出の名優」の回廊に行ったとき、この3年間に思いもつかぬほど増えてしまった肖像を見たら、泣き崩れるに違いない…と密かに案じていたのだが、なぜか私は彼らの顔をほほえみをもって、なつかしい旧友たちに挨拶するように受け入れることができたのである。

 それはやはり、1階から3階までをぐるりと見て回って、やはり、このものは、かのものとは別のものである、と…新しい歌舞伎座は新しい歌舞伎座であって、私の歌舞伎座ではない、ということに釈然として得心がいったからなのである。
  
 高砂屋の八汐に、ぁぁ珍しいものを観た、長生きはするもんだね…と独りごちながら、幕間で再び、あらここはこんなふうになってた…キャッキャッとニュー歌舞伎座探検に興じ、さて、廓文章。
 たとえようもなくビックリしたのは、舞台上に、先ほどまでの自分がいたからである。
 放蕩が過ぎて勘当された大家のぼんが、久々に訪れた、かつて慣れ親しんだ遊廓・吉田屋の座敷のあれこれを、懐かしく喜び飛び跳ねて見回している様は、ついさっきの私と一緒だ。
 つっころばしの後ろ頭を雪駄でぴしゃり、と張ることしか思い浮かばなかった自分が、放蕩息子に共感する日がこようとは、夢にも思わなかった。
 …そうか、芝居の神様はやっぱり、今日の私にこのようなドンピシャリの演目を、誂えて下さったのだ。

 そして、松嶋屋の伊左衛門は余りにも可愛過ぎて、ただただ、泣けた。
 つきぬけた天衣無縫の無邪気さ。これは本当に若いものには出来ない。これこそが、世阿弥いうところの「まことの花」というものであろう。
 ここへ来て、この片岡仁左衛門という役者は、さらにバージョンアップしているのである。
 これだ。これです。(ことあるごとに、若い才能を欧米由来の演劇に流出させている現日本の芸能界に歯噛みしながら、恨み節のようにこのブログでもそう言ってきたわけではあるが)
 …こういう藝境が存在し得るのが、日本の演劇の凄いところなのだ。

 帰りしなにも、私はしゃべり続けた。ここにはおでん食堂があってね、カレーのスタンドと、お蕎麦屋さんもあった、そうそう、この置時計はむかし1階の会長室の脇にあってね、そしてこの銅像はロビーの……年寄りの勢いとは恐ろしいものである。
 ご一緒して下さったくだんのお嬢さんは、ニコニコと黙ってうなずいてくれた。
 それが私はとても嬉しかった。
 これから、この新しい歌舞伎座と、この新しい歌舞伎ファンのお嬢さんは同じ時を刻み、この小屋の時代を築いていくのである。

 木挽町をあとにしても、なにやら私の記憶にはよどみがなく、むしろ、かつてあそこにあったあの歌舞伎座の隅々までの姿が、ますます鮮やかさを持って脳裏に浮かんでくるのだった。
 いや、脳裏どころか。目の前に浮かんでくる。そう、いまコンピューターグラフィックならいくらでも描き出される、城壁が崩れるとその向こうに、隠れていたもうひとつの建物の外郭が出てくるという塩梅に。

 なんだ。3年前、私は歌舞伎座に“アデュゥ”なんて別れを告げてもみたのだったが、彼は別にいなくなったわけじゃなかった。
 今もこれ、この中に…私の胸の中、というよりも、五感がすべて覚えていて、ここに…我が身の内に在ったのだった。

 そうして、歌舞伎座は…成田屋や神谷町、京屋、天王寺屋、中村屋、そして大成駒、播磨屋、橘屋、音羽屋、山崎屋、紀伊国屋…etc.私の青春のすべてが詰まっていた、あの芝居小屋が…無くなることは、もうないのだ。
コメント
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