長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

解題新書(カブキの巻)

2012年06月26日 06時26分00秒 | 稽古の横道
 梅雨冷えのする六月下旬の、月曜日の午後のことである。
 美容室の鏡の前で家庭画報を渡されて、パラパラとページを繰った先に、白塗りの女形の写真が見えた。七之助だ。中村七之助と荒井文扇堂のご主人の対談記事だった。
 芸談というものは聴き手の技量でその面白さが左右される。
 さすが家庭画報だけのことはある、なるほどのセッティング。グッジョブ!…と感心しながら、あれはいつだったろう、それまでの印象とは全く違う、新境地とも言うべき七之助の、清冽な舞台にめぐり会ったときのことを想い出していた。
 歌舞伎座の八月の夏芝居。幕末の薩摩藩を描いた『磯異人館』。いい女形になったなあ、七之助…と感心したのだった。そのあとも彼の姿は幾度となく観ているが、あれほどの強烈な印象を植え付けられた役柄をほかに知らない。

 古典の作品だとどうしても、ほかの誰かと比較してしまうので、ひょっとすると私は、彼らがどんなに良い芝居をしていても気がつくことがなかったのかもしれない。
 あとから生まれた彼らは常にマイナスの評価をされることが前提であるだけに…翻って考えてみたら、諸先輩方が生涯かけて積み上げてきた高い山に挑戦するという――伝統芸能に向き合うという作業に、日々心してかからなければならぬ、可哀想な俳優なのだった。古典が洗練され磨かれていく理由はそういうところにあるのかもしれない、と今更ながら思い返す。
 最初からプラスの方向でしか評価されないのだとしたら、表現者というものはその時点で完璧ということになり、それ以上成長しない。

 ただ、世の中には、“感心する”芸と“感動する”芸の二種類があって、藝の巧拙とはまた違うところで人の心を揺さぶる事象に遭遇する場合もある。それがライブの面白いところで、記録媒体が介在したものでは感じ得ない、空間を一にしたものしか味わうことのできない事柄である。(…余談です)
 その芝居の概要もあら筋も、ほかに誰が出ていたかも、ほとんど覚えていない。『磯異人館』は私が七之助という女形と初めて出会った芝居、といっても過言ではない。子どものころから見知っていた中村屋の次男坊であったのに。

 七之助の「自分がやりたい役とお客さまが観たい役とは違う、ということに気がついた…」という談話をふむふむ、そぅそぅ、そーなんだよね、と、頷きながら読んでいたときのことである。
 「そういうの好きなんですか?」美容室の新人さんが私に問いかけた。彼女は先ほど「夏でもキモノって着るンですか?」と訊ねてきた子である。
 そりゃーあんた、夏だって人間生きてるんだからさ、昔の日本人は何を着ていたと思うよ?…なんて乱暴なことを言ったりはしない。10年ぐらい前だったかな、街角でふと耳にしたうら若きオトメ達の会話「ねぇねぇ、ユカタ着るときに履く小さい靴あるじゃない?あれがさ…」それ以来、アタシゃあ、たいがいのことでは驚かなくなっているのだ。

 さて「そういうの好き?」の質問に、彼女の意図するところと何をポイントに答えていいのか咄嗟に判断できなかった私は、とりあえず率直に、「うん、そうなの。こういうのが好きでよく観に行くのよ」と答えた。
 ふうううん、というような顔をした彼女は二の矢を放った。
「それって、何ていうんですか」
 おおおぉぉ、それか。そっちの根本的なところか。「これはね、カブキっていうのよ」
 あぁぁ、歌舞伎…と、分かったような分からないような…腑に落ちたような落ちないような呟きが伝わってきた。
 そのまま会話を終わらせるのも愛想がないような気がして、私は言葉を継いだ。
 「きれいでね、面白いのよ」
 「それって、男の人が女の役をやるやつですよね?」
 奇矯さだけでとらえられているそのイメージを、なんとかプラス方向に持っていく術はないものか…しかし多くの言葉を並べ正統な歴史をひもといた解説をしても、私の意図したことは伝わらないだろう。ただの面倒なオバサンになってしまうのも…つまり客層がそんな変人ばかりだと思われるのも、歌舞伎にとっては不憫である。
 「そうそう、男の人のほうが骨格が太くて造りが大きいから、舞台で見映えがして、そういう独特の世界が出来るのね…」
 今や女の人でも立派な体格の人ばかりだから、ちょっと違っちゃったような気もしたが、とにかく簡明に。ツイッターに倣い、140文字で収まり、かつ単純で明快に説明することにした。すると彼女から三の矢。
 「それって、宝塚と逆ですよね」
 「…あ、そうそう、そうだょね…」
 私は愕然とした。彼女たちにはもはや歌舞伎ではなく、宝塚のほうが基準となっているわけだ。そうか、このあいだからうすうす感じてはいたが、巷では…社会の大勢は、芝居というと歌舞伎ではなく、新劇でもなく、日本製のミュージカルになっていたのだ、いつの間にか。
 「むかしはね、職業的に…男の人しかプロフェッショナルになれなかったから、役者もみんな男だったのよ」
 「へえぇぇ」
 美容師さんも女性のプロフェッショナルの仕事としては嚆矢の部類なんだよ、と言おうとして話がややこしくなるのでやめた。
 「カブキって、歌舞伎町でやってるんですか?」
 歌舞伎町の成り立ち…以前、そこらへんでも地芝居をやっていたという話を聞いたような気もしたが、さらにややこしくなるのでやめて、
 「歌舞伎はね、歌舞伎座でやってるの。銀座のほうにあるんだけどね。歌舞伎町はね…前は新宿コマっていう劇場があったけど今はもうなくなっちゃってね、あそこはまあ、繁華街だわね。あと国立劇場とかでやってるよ」
 ふぅううぅん…と空気でこたえると、彼女はほかの作業のために去っていった。

 もう20年前に私が髪を結ってもらっていた昭和な美容院(室ではなくて、あくまでも、院)では、「うちの亡くなった主人が戦争に行ってた時、同じ部隊に黒川弥太郎がいてね…」なんていうおねえさんがたのお話を、素知らぬ顔をしながらきき耳立てて聴いていたものだった。
 いろいろ変わっていくものですね。美容室今昔物語。
 …そして私は、なぜだか俄然、燃えてきた。身のうちに何か、気力がみなぎって来た。障害があればあるほど燃えるタイプ、これです。

 そこはかとなく日本人が消えてゆくのを憂えている場合ではない。
 なぜなら、もはや日本人は絶滅していたからだ。ゾウ亀のジョージくんのように最後の一頭は特定できないが。本人たちが気づかないうちに。
 事態はここまで至っていた。継承なんて生易しいものではなく、もはや私たちは…“種まく人”になっていたのだ。

 考えてみたらそうだ。私が育ててもらった昭和という時代。あのころ世の中は洋楽が恐ろしい勢力で蔓延しつつあったが、関東地方にあった3局のFM放送局の内、NHKFMは当然としてFM東京でも頻繁に邦楽(純邦楽というべきでしょうか)の番組があったし、テレビでもラジオでも、筝曲や三味線の音色を聴く機会はふんだんにあった。
 私の中学生時代の恋敵、Sさんは大工の棟梁の娘で日本舞踊を習っていて、クラスのお楽しみ会には袴姿で凛とした舞を披露していた。(私はその美しい姿に、敵ながらあっぱれ!と万感な思いで拍手喝采したものだ)
 こう書いていると単語のすべてが前時代で、自分自身、セピアカラーの歴史の一部になっているような気がしてきた。

 そういう環境がなきゃ、生まれながらにして日本人じゃなくなってるのは仕方ない。もはや敵は欧米化じゃない。全世界的に、文化のグローバル化が進んじゃってるってことだ。
 コンビニやフランチャイズ店ばっかりで、駅前の商店街に個性がなくてつまらない、と、聞くようになって久しいが、文化もだ。何の疑いもなく、各国が同じようなことをやってるんだ。
 …おいら、負けちゃぁいられねえんだぜ。
 そして私は、絶滅種らしく…いや、らしからぬ態で、思いっきりジタバタしてやることにする。
 
コメント
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