長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

朝はどこから…

2012年01月23日 01時23分12秒 | 稽古の横道
 2012年1月22日(日曜日)は、旧暦の平成廿三年師走廿九日で、大晦日だった。
 29日でも小の月だから、大晦日なのだ。
 かくも融通無碍なる日本の文化風土が、うれしくて面白くて…ニンマリしてしまう。

 たまたまこの日、富士山の程よい角度の南嶺へ、日輪が沈みゆくさまに立ち会うことができた。
 であるから、この写真は、太陰太陽暦・平成23年の、最後の日没なのだ。

 さて、そういうわけで、今日はめでたく旧暦の平成廿四年正月朔日。
 この表題は「朝はどこから…来るかしら」というメルヘンな命題ではなく、「朝はどこから…朝かしら」という、旧暦を使っていた時代の根本的なお話。

 昨年末に観た新作のお芝居の忠臣蔵で劇中「赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした、十二月十四日未明」という、ちょっと残念なセリフを耳にした。
 そそっかしさで、忠臣蔵というよりも会津の白虎隊になっちゃってますわね。
 これは明らかな間違いですね。
 未明というのは、いまだ夜が明けていない時間帯を差す。
 江戸時代は、朝になると一日の始まりだから、現行の時間感覚、午前零時を過ぎると日付が変わる、という概念はない。
 つまり、赤穂浪士が討ち入ったのは、吉良邸で茶会が催された14日の深夜であるから、正しくは15日の未明である。

 当日の記録から、江戸の人々がどのような日付概念を持っていたのか、うかがい知ることができる。桑名藩の江戸詰の家老の文書には、赤穂浪士が吉良邸へ討ち入った時刻を
 「昨十四日の夜八つ時ごろ」
と、記しているらしい。
 夜八つ、つまり丑の刻。今で言う、だいたい午前二時前後。

 落語「時そば」でおなじみで、蛇足でもありましょうが、念のため。
 日没。入相の鐘が鳴りますれば、これを暮れ六つ。
 それからだいたい2時間後が、宵の五つ。刻限表示の数は、増えないで減っていきます。
 さらに更けて夜四つ、亥の刻。だいぶ夜中ですね。現在の22時ごろでしょうか。
 亥から十二支の先頭へ戻りまして子の刻。ほぼカウントダウンな時間帯。これがどういうわけでか、九つ。
 さらに2時間ぐらい経って牛の刻、夜八つ。
 寅の刻ともなりますと、暁の七つ。
 …やがて、からすカァで夜が明けますと、明け六つ。明けの鐘がゴーーーーンと鳴る、と。 

 なんで大体…という表現しかできないかというと、このころは朝日が昇ると昼間で、沈むと夜。その二つに分けた区分を、それぞれに6等分して一日イコール十二刻を決めていたので、季節によって一刻の長さが変わるわけだ。
 むかしの時刻法は面白い。
 欧米化された現代の感覚で時代劇を料理しようとすると、思いがけない勘違いをすることになるから、当時の人々の考え方、概念というものを理解したうえで想像して、そっと思いやりつつ噛み砕いていく。

 そんなことをつらつら考えていたら、新暦の新年カウントダウンイベントで「あけましておめでとう」というのは、本寸法じゃないんじゃないかしら…と、はたと思い至った。
 だって、いまだ夜は明けていないのだもの。
 夜明け前は、新しい一日の始まりではないのだ。
 だから来年から、カウントダウンの時は欧米式に「新年おめでとう!」と言うことにしよう。

 時刻を読み込んだ文章というと第一に思い浮かぶ、ものすごく好きな詞章がある。

♪あれ 数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残るひとつが今生の 鐘の響きの聞き納め…

 近松門左衛門「曽根崎心中」お初と徳兵衛が、死に場所を求めて天神の森へと進みゆく場面。
 あぁ…やっぱり、近松は天才じゃないかしら。
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ひゐき

2012年01月11日 01時11分12秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 こうなると、いっそ不憫というものである。
 誰がって、史実の上の吉良上野介義央が、だ。
 役者はいいよ。悪役、憎まれ役は役者冥利に尽きるほど、演っていて面白いらしいから、全然可哀想と思わない。虚構の世界の吉良上野介には。

 そりゃ先に死んでしまったものは可哀想だ。自分も、忠臣蔵が何たるかよくわからない20代前半のころは、昼行燈の頼もしさとか、塩冶判官の悲愴とか、四十七士の艱難辛苦とか、討入り装束のカッコよさとか…無念を晴らす恍惚感に酔いしれた。
 たとえそれがどんな目的であれ、何かの目標を遂行するために一心不乱になっている者たちは美しい。
 しかし、である。いい加減、さまざまな忠臣蔵を観尽くして、吉良の旧領を訪れたりすると、とことん、一方的な悪者にされている、吉良本人があまりにもかわいそうに思えてきた。もう、講談ネタをベタで映像化している忠臣蔵の、見るに忍びないことといったら。

 講談や落語は、仕手に愛嬌があるから噺として聴いていられるが、こと映像でまことしやかに描かれると、大ウソが際立って、なんかもう、救いようがなくメタメタに腹立たしい。
 町人づれが、現代マスコミのストレイシープ叩きのように、自分たちとは無関係の上つ方々への悪口雑言。あり得ない。
 むかしの映画はもう観ちゃったからいいけど、新たに再びそんな目に遭ったりするのは…忌々しくて私はもう見ません、そんな時代劇。

 だいたい、勅使饗応役が粗相をして、その責任はすべて教育係の自分に返ってくるのに、そんなに浅野内匠頭に意地悪をする必要がどこにある?
 燕雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや。
 人にものを教えるってのは、労苦が伴う、実に大変なことなんですョ。
 そしてまた、殿中で刃傷に及んだ、その罪科に対して、なんらの自責の念も持たず、幕府の手落ちだのエコひいきだの、ああしゃらくさい。片腹痛いとはこのことだわ。
 それがどんなに重い罪だか判らないの?? かてて加えて綱吉くんの大切な母君・桂昌院の叙勲の行事なんですよ。即日切腹、当然です。

 こうなったら私は、昭和のころ読んだ、とある有名歴史作家先生の、地道な考証研究からの「浅野内匠頭がキレ易いDNAを持つ男だった説」というのを披露したい、と思ったが、あいにくその本はどこかにやってしまった。その小説家が誰だったのかも…女流であったことしか想い出せない。
 「キレやすい」というよりも「切りやすい」…「斬りつけやすい」性癖、ということではある。
 そこで、自分が調べ直すことにした。全然関係ない事柄に一肌脱ごうという…これは、任侠である。吉良の仁吉に触発されたわけではなけれども。

 浅野内匠頭長矩が、殿中で吉良上野介に斬りかかった元禄十四年(西暦1701)を遡ること20年ほど前。貞享元年(1684)、江戸城中、つまり殿中で刃傷事件がありました。
 な、な、なななななんと…!! 時の若年寄・稲葉正休が、大老・堀田正俊を、刺し殺したんです。こりゃあ、今で言えば、総理大臣を国務長官が殺したようなものだから、そりゃもう、たいへんな出来事です。
 実を言えば、この稲葉正休は、浅野内匠頭の母方の親戚なんです。
 具体的にどう親戚だったか忘れてしまった私は、えーーーー、調べました。吉良くんの名誉のために。

 浅野長矩のお母さんは、徳川幕府の譜代大名・内藤忠政の娘です。でその、内藤忠政の奥さん、つまり内匠頭の母方のおばあちゃんは、やはり譜代大名・板倉重宗の娘です。そのおばあちゃんに、これまた譜代大名・太田資宗へ嫁いだ姉妹がいて、その姉妹が生んだ娘が稲葉正吉へ嫁ぎ、そして……くだんの事件の主、稲葉正休が生まれたと、そういうわけです。ああ、ややこしい。
 だからね、浅野内匠頭が、かかる大騒ぎを惹き起したのとまったく同じ、江戸城内で、20年ほど前に、彼の遠縁の稲葉某が、同じように刃傷事件をおこしていたわけです。
 慄然とするでしょう?

 真実なんて、本当のところ、当事者にしか分からない。
 自分が実際に見聞きしたことでもないのに、単なる憶測や、一方的な見地から、見知らぬ他人を悪人と決めつけるのは…いかがなものでございましょう。
 とかく人間は、自分がひいきにしている事どもからの話を、鵜呑みにしてしまう。
 身びいきというのは誰しも持っていることだけれど、イメージからだけの人間の根拠のない思い込みって、これほど人を不幸にするものはない…恐ろしく罪深いものである…ということをよくよく考えてほしいなあ…と、久しぶりに忠臣蔵のことを想い出した辰歳の年頭、吉良家への判官びいきから、義憤に駆られた自分でした。

 お芝居は、面白くてなんぼの世界だから、それはそれで、いいんです。
 本当はそうじゃないんだって、分かってくれてればそれだけで、吉良の殿様も、多少なりとも、浮かばれよう…てなもんです。

 ちなみに、元禄元年は1688年、戊辰の年。同年、柳沢吉保の身がタツて、側用人に登用されます。
 その前年、貞享四年卯歳(1687)には、例の「生類憐みの令」発布。五代将軍職に就いて張り切っていた綱吉公、在職7年目の辣腕です。
 伊達騒動の一因とされた有名な大老・酒井忠清は、延宝八年(1680)、四代将軍家綱公が亡くなり、弟の綱吉公に代替わりした途端、即座に免職されています。

 さて、2012年辰の歳正月の話題として、おもだった関係者に辰年がいたら面白いところですが、ご存知のように綱吉公も柳沢吉保も戌年。吉良上野介は巳年。内匠頭はヒツジで、内蔵助はイノシシ。意外なところで、浅野大学(兄の弟)が、お犬様と同じイヌ年。堀部安兵衛も同い年の戌年生まれです。
 綱吉公のお父さん、三代将軍家光公が辰年でした。余談ながら。


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大序

2012年01月01日 22時33分44秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 ……そんなつもりじゃなかった。
 私は、宵闇に沈みこんだ鶴岡八幡宮の社頭で、ドキドキしながら夜空を見上げた。
 星は煌めくけれど、月は見えない。今日は旧暦十二月一日…つまり、平成廿三年、師走朔日。2011年12月25日聖誕祭当日。
 左手前には、いつだったかの台風で倒れてしまった大銀杏が、根株から伸びた蘖(ひこばえ)の育ちっぷりがよいので、室の独活(うど)か、20世紀のSF映画やウルトラ・シリーズに必ず登場するマッド・サイエンティスティックな博士に巨大化された、エノキダケのようになって、暗がりの中で白く光っている。

 仕事は必然で詰めていきたいものだが、遊びは偶然性がうれしい。凝り性の酔狂で、何事においても、よく「○×づくし」や、縁語・類語を果てしなく繋げていく符合遊びをしてしまうものだが、今日はそんな目途のある旅ではなかった。
 食事に行けば必ず深酒へ…という、分かっちゃいるけどやめられない病の、気のいい友達を、ともに過ごすクリスマス・ディナーまで、日頃の慰労の意もあってドライブに誘ったのだ。
 われら一行三人旅。三浦半島の西海岸で、天気晴朗なれども波高き、暮れの海を眺めていた。
 さてさてこれから晩餐までどこへ行こうかねぇ…と皆でぼんやり懐手して、波の高さを測っていたときである。久しぶりに湘南へ出てみようか…主賓の彼女が、ポロリと言った。
 それにアタシ、まだ、鎌倉に行ったことがないの。
 ええええええええっつと、私は思いもよらぬことに驚いて…いやいや、それはそういうこともあろう…と、六段目のおかるの老母のように分別顔をしつつも…しかーし、鎌倉へ一度も行ったことがない…それは関東に住まいするものとしてはいささか不本意なことでもあろうから、ここは友達甲斐としても、やはり…いや、なんとしても彼女を鎌倉へ連れて行ってあげなくては…という義侠心、使命感が、突如私の中に芽生えた。

 人であふれ返った日曜日の湘南なんて、目差すかたきを求めて好んで雑踏を歩く、旅の仇討ち主従でもない限り、絶対行きたくない場所である。
 この世に人を突き動かす衝動があるとするならば、それは愛…それゆえでしかない。

 今上天皇誕生日に続くクリスマスeveの連休を、浜町は明治座にて大江戸鍋祭に参戦、戦国鍋TVテイスト「忠臣蔵」で過ごした私は、まだ夢の中にいた。
 なにしろ、旧暦の師走は今日からだから、まだまだ、赤穂浪士が討ち入りできますようおぉにぃ~♪と歌いながら街灯の根方で♪シングinザrain~ジーン・ケリーの真似して、ターンしたっていいわけだ。はしゃいでいるのが許される時節であるのだもの。

 そういうわけで、弁天小僧ゆかりの江ノ島弁財天へ詣り、弁天様を守る龍神のレリーフに、おおっ、この意匠は年賀状に使えるのではなかろうか…などと思惑しながら、万事思うがままの卦が出た大吉の神籤を手土産に、江ノ島大橋端。
 振り返った西の空が夕焼けに染まって、いかなる天然の配剤にや、空に聳える龍神の塔の遙か遠景の雲が、天昇する龍のかたちのまま流れて行く、まさに龍吐から龍。
 歌舞伎十八番『鳴神』。結界が解けて天昇する龍神をきっかけに、破戒僧となった瞬間、ぶっかえった舞台の愉しさは格別だったなぁ。
 
 それから鎌倉へ向かったが、渋滞に巻き込まれて、すでに陽はとっぷりと暮れていた。
 鎌倉を西から攻めるなら、腰越状は置いておいて、まず大仏様ですかねぇ…あいにく閉園。
 つい三日前の日本橋劇場で、金馬師匠の「大仏餅」にすっかり感銘を受けていた私は、何となく、この数日来の遊興の反芻を、江戸から場所を変えた鎌倉で、ふたたびなぞらえているような、不思議な感覚を覚えた。

 作為的な行動による結果ではなく、無為無策で何もなさずに、その瞬間、心に囚われていたものが目の前に現れると、ことのほか嬉しい。
 人はこれを「運命じゃないかしら…」と呼ぶ。

 そして、いま気がついた。イチョウの大木を見て想い出したのだ。歌舞伎の大道具にも、この大銀杏はちゃんと存在するからだ。
 『仮名手本忠臣蔵』の大序、あれは、ここじゃん。
 赤穂浪士が本所・吉良邸へ討ち入った史実は江戸の話だが、浄瑠璃作者は例の如く、舞台を歴史上のとある時代に設定し直している。時は室町。「太平記」の世界。
 だから、大石内蔵助は大星由良之助、浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直。

 全十一段の物語。昭和時代に誕生した芝居「元禄忠臣蔵」以前の歌舞伎において、もっともスタンダードな「忠臣蔵」は、室町幕府に弓引いた新田義貞の兜を鶴岡八幡宮へ献上するため、戦利品の兜の中からそれと選定する、兜改めの場から始まる。登場人物の主だったものが勢揃いする、実に様式的な序幕である。
 もともとは文楽のために書き下ろされた芝居であるから、歌舞伎ではことのほか、役者たちを人形に見立てた演出がなされている。

 この符合はいかなることか…! 
 ここについ昨日、私はいた。明治座の舞台のここに。
 大江戸鍋祭の制作者の心意気や大したもので、芝居の序幕が、忠臣蔵の大序へのオマージュ仕立になっていた。つい24時間前まで浜町河岸で、爆笑と陶酔と興奮の十重二十重の波にたゆとうていた私は、ここまでくると、かえってこの偶然が恐ろし過ぎて……
 何となく背筋が寒くなって、参拝ざま、私は神籤を引きに石段を下りた。
 鶴岡八幡宮の紋・鶴の丸(むかしのJALのトレードマークでしたね…飛行機の尾翼に必ず宿っていた)が地紋についた、第十番、吉。
   武蔵野は 限りも見えず かりそめの
             草の庵に 心とどむな

  世間は広く、また、長く遠く涯(はて)もない。そのなかに充ち足るものは、小さな自分の体に包んでいる心なのです。このことを理解して、いまのこだわりを捨て去ってください。

 これはうつけ放題、遊興に浸りきっている今現在(今に限ったことでは無けれど)の私への、ご諫言なるや。
 
 時計は暮れ六つを回り、帰路途上の首都高速。芝を過ぎ、いつものように東京タワーを望むと…クリスマス仕様の電飾になっていた。
 降りかかった星が鉄梁にとどまって、まばゆくフラッシュのように交互に瞬いている。

 …そして私は、昨晩、大江戸鍋祭で観た〈松の廊下走り隊7〉の歌「キラ☆キラ KIRA Killers」をくちずさむ。
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