長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

猫の町 3

2011年10月29日 17時00分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 それまで私は、大きな勘違いをしていた。
 宇和島の闘牛は何となく、四国の最西端、佐田岬の半島の付け根の辺りで行われているように思っていたのだ。
 たしかに、四国の佐田岬はとても細長く「持つとしたら、こう!」と言いたくなるような牛のしっぽにそっくりの形をしているが、落ち着いて地図を見ればそんなことはない。
 私の唯一の自慢は、地図が読める女、ということで、どこへ行っても頭の中で東西南北を俯瞰してイメージできる。唯一、苦手なのが人形町。交差点が斜め45度になっているので、これまで何度行ったかしれない土地なのだが、常に一角分、錯覚してしまう。三越へ行こうと思って茅場町へ向かっていたこともしばしばだ。
 …というわけで、地理に関しては腕に覚えのある自分なのだが、こればかりはしくじった。自分の頭の中の四国地図は、中世のイドリーシーの地図以下だった。

 そういえば、子どものころ『小公女』を読んだとき、イギリスの植民地であるインドは、ヨーロッパのすぐ真南…なんとなくアフリカ大陸の辺りにあるような錯覚を起こしていた。
 人間、欲の皮が張れば、どこにでも行きますな。
 そういう愚かしい者の前途を案じて、父は小学校に上がる前から、私に地球儀を与えてくれたが、いちばん最初に覚えたのは、長靴の形をしているイタリア。そして同時代同様に記憶に残っているのが、円為替レート1ドル360円だった1960~70年当時、オランダ土産というと、陶製のサボ型花卉で…やっぱ人間、履くものは大事です。

 トートツですが、もう20年ぐらい前に仲良くして下さった知人から、裸足で道を歩いている夢をよく見る、という話を伺ったことがある。何か履いて出掛ければよかった…と思うのにハダシで、それで自分はやっぱり、と思いながらも怪我をしてしまうのだ…という、フロイトだったら眼を輝かせそうな暗喩的な夢である。
 そのとき、私は、この人の足袋になってあげられないものだろうか…と、ちらと思ったものだったが、結局、それも果たせぬ出来ごころであったまま、時は流れた。

 で、宇和島踏破以降、私の脳内四国地図は、ようやっとまともになってきたわけであるが、それでは、それ以前のイメージング宇和島の跡地には、ホントは何があるのか。
 自分の知らないことは、なんとなく…で済ませてしまうのが人の常だが、どうもそれでは気が済まない人間は、物事の在りようを自分の眼で確認せずにはいられない。
 …ということで、佐田岬の最西端マイナス1.8キロ地点を制覇した私は、再び尻尾の付け根に戻ってきた。マイナス1.8キロとはなにかというと、…仕方ないよ、トレッキング・シューズがなかったのだから。
 佐田岬の突端まで来た!!と鼻息を荒くしていたが、灯台はその、車で到達できた展望台より、さらに1.8キロ先だったのだ。

 昭和から平成初年頃まで、城めぐりと並行して、岬めぐり…燈台めぐりもしていたのだが、岬の突端まで行って、灯台に触れられないのは、本当に悲しいことだ。
 私は佐田岬灯台に上って、いや、それが叶わないなら灯台を見上げながら、♪おいらみさーきのぉとうだいもぉりぃは~と低い声で一節、歌いたかったのである。
 これはどの灯台でもそうなる、というものではない。唄は感情の発露、ほとばしりだから、むかし訪れた遠州灘の灯台、犬吠埼の灯台などなど、皆いずれ劣らぬ立派な灯台であったが、そういう心持ちにならなかった。
 実際、城めぐりをしていて三橋美智也大先生「古城」を口ずさんだのは、やはり20年前の、丸亀城でだけである。そのとき私はこんぴら歌舞伎の帰りだったのだが、芝居とは別に、ひどく大きな喪失感を抱えていた。

 さて、歌好きにはどうしてもこの場所で唄わなくてはならぬ、という歌があるものだが、灯台守の歌。これは佐田岬、という地名の為せる技である。
 木下恵介監督「喜びも悲しみも幾歳月」。この映画の主演であった佐田啓二・高峰秀子コンビ。この名作は、木下監督が自らの作品をパロった「風前の灯」という怒濤の抱腹絶倒コメディとともに存在することで、私の中では忘れ得ぬ映画となっているのだ。
 いまは亡き並木座の暗闇、♪誰よりも君を愛す~love!!

 しかし、その、灯台に寄れなかったじんわりとした失望感を埋めるに余りある、佐田岬の付け根の海岸の町々。リアス式の半島には、多くの湾口があり、いくつもの集落を形づくっている。
 陽も西に傾きかけた逢魔が時、私たちは八幡浜というところへさしかかった。
 街道に、ハイカラな町並み、という看板が見えた。時代がついたもの好きな人間には、やり過ごすことのできないキーワードだ。
 立ち寄った役場の出張所のみなさんが総がかりで、その場所を教えてくれた。

 なるほど、なつかしい町並みだ。特に官公庁が総力を挙げて整備していない、というところに、実によい味わいが出ている。
 昨今の歴史の町並みを売り物にしている地方都市は、きれいにし過ぎなので、テーマパークのようになっている。旅人には、それが面白くない。
 歴史の遺物とは、その半分朽ち果てたところに、何とも言えない情緒が存在するもので、きれいにしてしまっては魅力半減なのだ。
 …でも、マスで集客しなくてはならない観光都市は致し方ないのでありましょうなぁ。

 洋館の脇を入り、赤レンガの塀に沿って小道を歩いていたら、急に町屋の裏庭に出た。
 日当たりのよい庭の向こう、蔵の二階の裏窓に、猫がバストショットで座っている。網戸をすかして、窓から常に隣近所を見張っている安楽椅子探偵のおばあさんのように。アーサー・ラッカムの挿絵のチェシャ猫を上品にした、銀灰色の、きれいな虎縞の猫だった。
 「こんにちは!」なにかというと朗らかな連れが声をかけた。
 すると突然、「ガイギュギギョゲーギャ」という、おばあさんの声が聞こえた。
 ?? どこかに誰かいるのだろうか、と思って猫窓のあたりをよくよく見ると、猫がもう一度「ガイギ…ギョギイ」と、しゃべった。
 は?…「ガギグゲゴタイロー」とか言ってないよね?
 私はとてもビックリして、一同の頭上の空間に特大のエクスクラメーション・マークが浮かび、その場の空気は一瞬、時間がとまった。
 グレイッシュ猫は、しまった!というような顔をしてじっとしている。
 「おまえ、いましゃべったよね?」
 と、連れが話しかけた途端、猫は、
 「みゃあぁぁあぁ~ん」
 と、この世のものとも思えないほど可愛い声で鳴いた。

 この瞬間、私ははっきり確信した。
 こやつは、人間である。人間が猫になったのか、猫が人間になったのか、そんなこたァ分からない。
 しかし、この猫が人間であることは間違いない。まごうかたなき事実なのである。

 六本木や歌舞伎町、都会の繁華街にいるのは、まがいものの化け物である。
 本当の化け物は、時間の狭間のようなところにひっそりと棲息している。そして本人は、自分が魔性のものになっていることすら気がついていない。
 それから、彼女が何かを話すかと思ったが、それきり沈黙の行に入ったまま、窓辺に貼られた肖像画のごとく、じっとこちらを見ながら座っていた。
 私は彼女を残して、再び崩れかけた赤レンガの迫る裏道を、とことこと歩きだした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫の町 2

2011年10月27日 15時55分30秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 失敗しない一枚目の着物を選ぶには?…とかいうようなマニュアル本の、賢人たちのおすすめを、ついぞ聞いたことのない私は、
(ほんなもん、義務的な仕事とかではない、自分の好き嫌いの問題なんだから、失敗したっていいじゃないの…無難なきものって、結局一度も着ないで箪笥の肥やしになるよね~おしゃれはTPOを踏まえるのは当然ですが、それ以外のチョイスの原点は自分が好きかどうか、着ていて愉しいかが、第一義ではないかと…)
 松山空港に降り立ったとき、松山城に行かずに、愛媛県西南方面を目指していた。

 愛媛県宇和島地方は、獅子文六『大番』の主人公・ギューちゃんが生まれ育ったところである。
 二十代後半、まじめな文学小説に飽きた私は、ユーモア小説に蜜の味を見出し、獅子文六の本を制覇しつつあった。この時すでに、獅子文六の諸作品は多くが絶版になっていて、文庫本ですら探し出すのに苦労したものだった。
 『大番』は昭和時代前半、兜町の株屋になってのし上がっていく、痛快無比の男の一代記である。加東大介が主演、マドンナ役が原節子の映画化作品は、三十代になってからフィルムセンターで観た。織田作『夫婦善哉』で惚れた男に尽くすキャラだった淡島千景が、この作品でもいい味を出している。
 あのバイタリティの塊のような男は、どのような天然のもとで醸成されたのであろう。
 何かを理解したいと思ったら、それらのものが生み出された現場に赴くのが一番だ。

 そしてまた、持ったが病の、城めぐり。現存十二天守のうち、宇和島城。
 仙台藩・伊達政宗の長子ながら、元和元年に宇和島に入府した伊達秀宗を藩祖として、明治維新まで九代。
 時代がついた建造物のみが持ち得る、何とも言えない味わいのある空間。狭間から洩れる南予の温い日差しを浴びて、感慨にふけっていた私は、江戸から平安時代へ急ぐべく、天守閣から仰いだ、ご城下のみなとへ向かった。

 伊予国、日振島。1000飛んで70年前、承平天慶の乱。
 東の平将門…そして!西の藤原純友が根城にした島である。海賊…と聞くだけで血沸き肉躍る。そのワルどもの夢のあとを周遊できる船便が出ているのである。
 やっぱり、なんてったって、交通の王者は、船だねっ!!
 ところが、あいにく、その日のフェリー最終便が五分前に出たところだった。
 ……舟は出てゆく、カモメは残る。船旅は、こんな時が切ない。

 気を取り直して、宇和島名物・闘牛場へ向かう。
 とはいえ、お城下のご町内掲示板ですでに分かっていたことだったが、つい昨日、年に5回ほど開催される闘牛、そのうちの1回が、終わったところだったのだ。
 大相撲の場所のように、何日間か興行しているものと思っていた私は、落胆した。
 こたびの旅程は、どうも後手後手。

 昨日までの、はなやいだ興奮の余韻を残して、闘牛場は丘の上にあった。
 スタジアムの入り口は人っ子一人おらぬ。茶と利休鼠の、似たような虎猫が4匹、うずくまっている。じっと見つめても、ピクリともしない。
 ……そして、猫の前足が、どうも、ヘンだ。

 天神さまの牛の像に、そっくりなのだが、手首(つまり足首)から前を、身体の中の内側に折り曲げているのだ。これは、偶蹄目とか奇蹄目とか、ひづめのある動物たちの座り方じゃなかったっけ??
 前足が自由に動かせるように、手(つまり足先)を前に出して座るのが、正しい猫の在りようだ。…そうじゃないと、食肉目のネコちゃんは、獲物をいたぶることができませんからね。

 そうそう、この座り方には、私は身をもって感じ入ったことがあった。
 昭和のころ、わが家族は夏休みになると、那須高原の南ヶ丘牧場へ行く。母がとてもこの牧場を好きだったのだ。
 初めて行ったとき、放牧されていた羊の前脚を見た母が「あっ!大変!! このヒツジ、足が折れちゃってるんじゃないの?!」と叫んだ。
 まったくもって、うちの母親は太平楽で困る。人が善いばかりで愚かしいものだから、子どものころ、冬、桶の水中で蛙が泳いでるのを、寒くて可哀想だなーと思い、熱湯を注いで暖かくしてあげたそうである。幸福感きわまったのか、カエルはきゅーっと伸びた。
 …自分だけが正しいと思っている者はまこと扱いに困る。そして、罪の意識のないものの残酷なことといったら。お蔭で、親の因果が子に報い…私が斯様にカエルに執着するのも、母の悪業の祟りに違いない。

 …こやつたち、自分をウシだと思っているのだな。
 「迫熱の激突!」と迫力あるレタリングで描かれた、入場券売場窓口の、閉ざされたシャッターの前で、4匹の猫は微動だにせず、じっとコンクリ敷きのスタジアムのエントランスに座っている。
 闘牛場だけに、狛犬もウシ風。
 天神さま……菅原道真公も、以って、瞑すべし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫の町 1

2011年10月26日 13時00分03秒 | やたらと映画
 私はよく、猫にたぶらかされるたちだ。
 もう30年近く前、池上本門寺に、市川雷蔵の墓をさがしに出かけた時のことである。
 そのころ友人が本門寺の近所に住んでいて、友人一同で散策ついでに「力道山の墓を見に行こう」ということになったのだが、そのころの私はまだ恥じらいの多い年ごろだったので、ひとりだけ、あの~、ついでに雷ちゃんのお墓参りもしたいン…とはとても言いだせなかったのである。
 目玉の松っちゃんのお墓はあっち…とか言いながらガヤガヤと、学生どもは広い山内を散歩した。
 …で、後日、ひとりで探しに行った。

 昭和60年前後。そのころ雷蔵は、忘れ去られた銀幕の大スターのひとりだった。
 現在のように、大々的に回顧特集を組まれることもなく(その当時、日本の伝統的風合いを持つ芸術文化に対する社会的評価はそんなものだった)、浅草の新劇場で三本立てのうちの一本に「陸軍中野学校」がバラ上映されるとか、好事家の16ミリ上映会とか、そのころよく放映されていた12chとかの昼下がりの邦画名作劇場(勝手に命名してます、スミマセン)で明朗時代劇が放映されるとか…そんな稀少な出会いを求めて、若い私はフィルムの巷をうろうろしていた。

 五重塔を右に曲がったほうにある…という唯一の手掛かりを頼りに、ひとりで本門寺の墓苑をトホンとしながら歩いていた時のこと。
 日も暮れかかり、樹影でうっそうとした墓内は、人っ子一人見えず、風に木の葉がざわざわと揺れる音だけが聞こえていた。
 ふと視線を感じて、木洩れ日でちらちらする辺りを見つめた。とあるお墓の石段の上、墓を守るが如く横臥した猫が、私をじっと見据えていた。
 しばしの静寂。と、突然、スフィンクス猫は、ミャア…とひと声鳴くと、石段をするするっと降りて、私の脚にすり寄り、幾度も往ったり来たりして痩身をこすりあわせた。
 …その、猫が石段を下りてくるさまたるや、あまりにも流麗。
 おぉっ、これは…! 
 五味康祐原作「薄桜記」で隻眼片腕の美剣士となった雷ちゃんが、いざりながら階段を下りてくる、あの立ち廻りにそっくりや…!! と、気がついた私は、ゾッと総毛立った。
 …この猫は、雷ちゃんじゃあるまいか…。

 結局、その墓石の主の名は、雷ちゃんのものではなかった。
 それからまた何年かして、祥月命日の日に本門寺を訪れる機会があった。前回と同じく墓をさがした私は、ご遺族が法要を続けている様子を見つけ、散歩をするふりをして遠巻きに拝んだ。
 この辺りには猫が多いのだ。尻尾をピンと立てて、道案内をするでもなく人の斜め前をひたひたと歩いていた猫は、いつの間にか姿を消していた。

 やっと、雷ちゃんのお墓の在り処がわかった! …と雀躍しながら帰途につき、また何年かが過ぎて、ある春のうららかな午後、久しぶりに本門寺をたずねた。
 そのとき同道していた知人に、ちょっと自慢げに、雷ちゃんのお墓はここよ!と、前回の記憶を辿って案内したかったのだが、なぜだか、見つけることができなかった。
 かつてとは全く様子の違った、散策の人々でにぎわう寺内をいったりきたりして、ようやく市川雷蔵の墓に辿りついた。
 そこは、以前、私がそれと見定めた、雷ちゃんのお墓ではなかった。

 あの、うららかな十年ほど前の法要は、いったい何家の法要だったのか、気になりながらも確かめようがない。
 またいつの日か本門寺にやって来た時、私は間違いなく、目当てのお墓を参ることができるのではあろうけれども。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サタディ・ナイト・ファイヤー!!

2011年10月22日 09時55分55秒 | お知らせ
本年の杵徳一門のおさらい会は、珍しくソワレ公演。

本日、10月22日、太陰太陽暦では平成廿三年長月廿六日。

月も未だ見えぬしっとりした宵、6時45分に開演いたします。

ところは、渋谷の今チャーミー坂の上、渋谷区文化総合センター大和田の伝承ホール。

渋谷駅南口徒歩3分。
番地は渋谷区桜丘町23-21。

一門の温習会ですから、お気軽にお出掛け下さいませ。入場無料です。

写真はこの夏訪ねた、春日山城は春日神社の、狛犬さん、阿、像。

あまりに美々しく立派なお姿!
かくありたい…は、藩がちがう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする