長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

廿日の菊

2010年10月27日 09時48分08秒 | 美しきもの
 9月のいつごろだっただろう、明け方に雨が降って、しっとりとした朝にふと金木犀の香りを感じてから、秋はさわやかに、そして慌ただしく深さを増して行く。
 気がつけば早や10月も過ぎようとしていて、私は毎年この時期になると、ドキドキしながら朝晩を迎える。…虫の音は今日もまだ聞こえているだろうか…と思って。

 「この花開きて後、更に花の無ければなり」と詠われた菊が百花のしんがりをつとめ、紅葉の緋色が過ぎれば、時雨が落ち葉を濡らして、やがて、冬枯れの水辺。
 本当に日本には美しくない季節など無いなぁ、と、ひとりしみじみと思い入る。

 虫のすだく季節が、とにかくたとえようもなく好きで(3月19日付「秋の色種」記事をご再読いただけますれば幸甚)、西行が花のもとにて春死にたいといっていたけれど、私は虫の音を聴きながら秋の宵に逝きたい、と思っていた。
 今考え直してみたら、冬枯れの蘆の原に儚く倒れているのもいいかなぁ、と思う。
 「乱菊や 狐にもせよ この姿」…落語の野ざらしだ。やっぱり私は脳内ドーパミンが多すぎて、どんなにしみじみしていても楽しく愉快になってしまう性分なのだ…残念なことに。
 かの名高き陰陽師・安倍晴明のお母さん、葛の葉狐は菊の香りが大好きで、正体を現してしまった。乱菊はイメージとしては黄色。お父さんの保名は、菜の花畑で妻を慕いて物狂い。ともに目が眩むようなイエローな世界。

 長唄に「菊づくし」という可愛い小品がある。菊の花のさまざまを唄い込んだ、さわやかな踊り地の曲である。
 この「何々づくし」というテーマは、凝り性の日本人気質をよく現していると思う。
 絵ハガキと切手の取り合わせ、私は判じ物風に組み合わせるのが好きだったが、もう早世してしまったのが惜しまれる、絵師の椙村嘉一さんからのお便りは、切手も絵柄もドンピシャリの同じ絵面で、その凝りように私は衝撃を受けた。
 椙村さんは独特の美的感覚をお持ちの方で、「演劇界」の挿絵や、時代小説のカバー絵、歌舞伎座の掌本などで、ご活躍していらした。何かの仕事でお目にかかって、何度かアトリエにお邪魔した。私と同い年だったので、まだまだこれからというときに亡くなってしまったのが悔しい。

 日々かすかになっていく虫の音に、心しおれながら、唱歌「庭の千草」の歌詞を、想い出す。
 いつもながら、独断の意訳で……夏のあいだ盛んに生い茂り、目を楽しませてくれた秋草もすっかり枯れ、虫の音も、日ごとに増していく冷涼たる気に絶えてしまったころ、それでも最後に、菊の花はひとり美しく、静かに咲いている。

 この、虫の音が絶えてしまったあとの野には、さらに、日本の音楽のテーマが潜んでいるのだけれど、この続きはまた…。
 
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腹芸のできる男

2010年10月23日 13時10分00秒 | やたらと映画
 昨日10月22日は、旧暦だと長月十五日、つまり九月の十五日で、そうなるとこれはもう、今からざっと410年前の西暦1600年、和暦・慶長五年の天下分け目の関ヶ原の合戦があった日である。
 もう十数年前、一度だけ、いつも新幹線に乗って車窓から偲ぶだけだった関ヶ原に行ってみたことがある。ちょうど今時分だったかしら、平原が草色から薄茶色に移ろっていくころ、陣立てに見立てた幟旗がほうぼうに立ててあって、地元では合戦祭りの準備をしていたようだった。

 東から西へ見物左衛門、そして帰路となると日中目いっぱい、上方で遊んでくるので、関ヶ原辺りを通る時はたいがい、とっぷりと陽が暮れている。
 新幹線の窓からうかがう関ヶ原は、闇の中に静かに横たわっている。さらさらと篠の原をゆらして、音もなく粉雪が舞っているだけの、静寂に覆われた何もない原っぱである。
 その原っぱで、家康に仁義があったかなかったかを、三成が天下に問うた、豊家の代理戦争が行われた日なのである。

 一方、同じ年、イギリスは東インド会社を設立している。日本国内は豊臣か徳川かで、天下を二分する戦端を切ってドンパチしていたのだが、ヨーロッパでは、その後3世紀にも及ぶ帝国の繁栄を築く基となる、植民地政策を着々と推し進めていたのである。…うぅむ。

 二十代の終わりごろ、平成のひとケタ時代、築地の華僑ビルで、シネバラック3000という、好事家のために古い邦画を16ミリで観せてくれる個人上映会があった。主催していた田中英司さんは、今もお元気でいらっしゃるだろうか。
 さて、そのシネバラックである日、私は月形龍之介の、あまりの、胸のすくカッコよさにしびれた。それは大友柳太朗の「むっつり右門」捕物帖シリーズの一作品なのだが、副題は失念した。
 ある政治的な事件があって、誰が黒幕なのかさっぱりわからないのだが、右門は犯人を明らかにする罠を思いつく。それは、その犯罪の張本人であれば、とある商家の蔵の中に閉じ込められて朝を迎えざるを得ない、という仕掛けだ。
 策奏して、さて翌朝、蔵を開けてみると、そこにいたのは、なんと右門の上司であった。…まぁ、ありがちな筋書きではあるが、その上司が月形で、自分の正体が暴かれた、その瞬間の月形のショットが、もう、あまりにもカッコよかったのである。
 悪びれもせず、毅然ときっぱりとして顔を上げている月形の、その潔さと、そしてそれでも腹の内を明かそうとしてはいない胆の据わり具合に、私はシビレタのである。

 惚れ惚れするほどカッコいい男の基準というものは、自分が幾つだったかで変わる。その人物に出会った年頃によって、判断のスケールは違う。

 新美南吉の『うた時計』に登場する「清廉潔白の廉」という名前の男の子が、己ではそうと知らず惹き起すエピソードに涙した私は中学生だったし、映画「風と共に去りぬ」の中の誰か一人といえば、やっぱりアシュレーがいい、と思っていたのもその頃だ。

 清濁併せのむ人を許せないと思う、思春期特有の潔癖さ。

 でもやがて、高校生になってから再び観た「風と共に去りぬ」は、アシュレーではもはや線が細く頼りなく、どうしたって男っぷりは、圧倒的にレット・バトラーがいいのだった。

 20世紀末の三十代の頃、突如、中華電影に凝り、その延長で、あの長江の流れにも匹敵するナガ~イ中央電視台制作のテレビドラマ『三国演義』を観た。
 みなさんは、誰がお好きですか? 
 三十代半ばだった私は、圧倒的に曹操だった。自分を助けてくれた一家を勘違いから皆殺しにしてその挙句…というあのエピソードに、私は感服した。あの潔いワルっぷりときたら、もう実にカッコよくて清々する。いっそスガスガシイ、とはこういうことなのだろう。

 すでに二十代の一途な純粋さから一歩踏み出していた私には、諸葛亮、孔明の聡明なスーパーヒーロー的聖人君子ぶりは、もはや、あまり魅力的ではなくなっていた。

 まぁ、こういう悪役は身近でない、虚構世界に生きているから、胸のすくカッコよさを歓迎できるのだろう。実際に江戸市民だったら月形のオッサンには、石持て礫投げ、税金返せ~と叫ぶだろうし、曹操のもとからは離れて田園に暮らすさ、当然。

 そして、歴史の夢から覚めて、西暦2010年、和暦・平成22年の現実に立ち返り、逆にまた思う。腹黒い、いや、腹黒いらしい…という、ある意味、世の中の無責任な…あるいは思惑のある誰かが喧伝したイメージで、その人自身の黒白を決めてしまっていいのだろうか。
 政治家にそんなに、聖人君子のような、清く正しい美しさ…のみを求めてどうする。人それぞれの立場によって、求められることは違うはずだ。

 クリーンさを求めるがあまり、ほんのちょっとした瑕疵で出来物が失脚していってしまっては、世の中に仕事のできる人物が居なくなってしまう。革命後のフランスやソビエトは粛清に拍車がかかり、優秀な人材を次々と潰していった。
 一元的な価値観のもとで権力闘争をすれば、独裁者が生まれるだけだ。
 世の中を仕切るということは、きれいごとじゃできないはずだ。

 清廉潔白は誰しもが憧れるところだけれど、そういう人物を歴史上に見出すとき、たいがいは進退きわまって、自分の道に殉じて儚くなってしまうことが多い。
 変節すれば歴史には残らない。自分の道を全うする、その誰もができない潔さに人々は感動するのだけれど、その人本人は、存在することができずに滅んでいく。

 思想家はそれでいいかもしれないけど、政治家は、現実に何をどうできるかが、すべてじゃないのか。
 そのもの本来の在りよう、本質を見失って、すべからく、世にあまねく生業(なりわい)の人々をきれいごとだけの、美談の型に、一元的にはめ込むことは、いったい正しいことなのか。

 清濁あわせ呑むことができる人物でなきゃ、こんな有象無象のひしめく世の中を、仕切っていくことなんて、できやしないのだ。


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美容院ジプシー

2010年10月17日 01時30分00秒 | 凝り性の筋
 きものを着こなす、いちばんの要、ポイントは何だと思いますか、みなさん。
 着物姿のポイントは、帯です。…いいや、帯締めです。んにゃ、着物の柄です。いえ、色合いですョ…と、皆さん、さまざまなご意見をお持ちであろうと思う。
 着物姿のポイントは、なんといっても、TPOをわきまえた程のよい取り合わせなのだが、本当はもっと大切なところがある。
 それは、おぐし。頭、髪形である。

 とくに観劇の際の着物のおしゃれは、髪形ですべてが決まる、と、力強く断言したい。
 どんなに凝った帯や着物を身につけていても、観客の場合、劇場で過ごす9割方の時間は、椅子に座っている。いかに芝居のテーマにマッチした風物のコーディネイトをしていようと、贔屓の役者に関連した紋やキャラクター文様で決めていようと、桟敷に座らない限り、ほとんど目立たない。
 バストショットより下は、ないも同然なのだ。

 しかし、この髪形というもの、今やまっとうに拵えようと思うと、幻の麦わらストローを求めるように、大変なことなのだ。
 吉祥寺稽古場に至る吉祥寺通りのわずか200メートルの間でさえ、美容院が十数軒、妍を競って軒を連ねている。別に髪結い横町というような、特別な場所なわけではない。
 しかし、それらはすべて、今様のニーズにお応えになっているという点で、私には無縁の美容院なのだ。今日的な美容院で、うっかりカットしてもらうと、自分でアップにしたときに全然まとまらない。
 心得のある美容師さんにカットしていただくと、梳いてあろうが段がついていようが、キチンとまとまる切り方をしてくれた。そしてその上、洋装のときでもしゃれて見えたものだったのだが…。

 21世紀になってここ10年ほどというもの、美容院、ビューティ・サロンの傾向はエアリーなカット、ということで、カットの技術を先鋭化させることに腐心し、髪を結いあげる技術というものが廃れてしまったのだ。
 カラーが退行したら部分染めだけしてくれるとか、シャンプーにアロマが、とか、マッサージがうまい、とか、リラクゼーションタイムという点では、本当に素敵な美容室ばかりなのだが、違う。ワタシのと違うんだなー、これが。

 以前私は、大変腕のいい美容師の先生を知っていた。何の変哲もない住宅街の昭和な美容院だった。何より手早く、すべてお任せで、私の顔に合うように、前髪の上げ具合から、左右のサイドの膨らみのまとめ方といい、すべて可笑しくないようにしてくれた。
 人それぞれ、鬢の膨らませ方と髷のトップの来る場所が、その人の顔の形に合う場所というのがあって、それがちょっとでも違うと、ぜんぜん違って、ヘンになってしまう。
 それを30分程度で、パパッと結い上げてくれるのだ。まさにプロ。この、何の気なしにアップができる腕、というものは、もはやたいへん貴重な技術なのである。

 …しかし、その美容院の先生は、ある年、今度二世帯住宅に建て替えて、孫の面倒を見るから…アタシももう、来年で七十なんですよ…とおっしゃって、引退してしまった。

 そうして、私の流浪の旅が始まった。
 この、大仰でなく程よくまとめて、自分の顔の形に合ったように結い上げてくれる美容師さんを求めて、幾年月。私はあちこちを彷徨った。
 そういう技術を持った美容師さんは絶滅種なので、商店街のしもた屋風のビルの、階段を上がった二階にあったりする。…女が階段を上るとき。昭和なのだ。
 でもやはり、そういう前時代の価値観で成り立っている業態のものは、やっとの思いで探し当てても、ほどなくお店自体がビルの建て替えで立ち退き…というような悲しい別れに至り、再び私は、旅を続けることになるのだった。

 しかし、気をつけなければならない。あるとき、お店の名前が○×美粧院とかいうので、よしっ!と思って入ったら、パーマをかけられすぎて、サザエさんのようになってしまった。
 あれは漫画だからいいわけで、現実に自分の頭がああなったら、情けないもンですョ…正月早々気が滅入ることこの上なかった。
 …まあ、髪の毛は、直しがきくからいいんですけどね…。

 いまどきの美容師さんはアップもそつなく手早にやってくれるのだけれど、違うのだ。洋服や浴衣には合うのかもしれないけど。外国から見た日本の国を紹介する教科書に載ってる人みたいになっているのだ。スターウォーズに出てくるお姫様とか。
 それでは、黒紋付に合わないのだ。
 さて、私、どこの美容院へ行ったらよいのでしょう…美容院を求めて三千里。

 ……とか悲観的になっていたのが、今年の梅雨時。「髪結新三」なんてお芝居が観たくなる時分でしたが、ありがたいもんですねぇ。
 おとつい、いつものように美容院探訪に出かけて、初めてのお店で結い上げてもらったら、あにはからんや…というよりも、案の定、やっぱりスターウォーズのような、頭を扁平な棕櫚団扇で挟んだような、仏さまのような髪形にされてしまった。
 それでいつもは自分で直していたのだが、ちょっと心持ちを替えて、翌朝、なでつけし直してもらったときに、昔の(といってもほんの10年前なんですが)着物の本を持って行って、さらに、やってほしい髪形のポイントを図解した。

 考えてみたら、ここ10年ほどの着物雑誌の髪形も、今風に変化していて、若い美容師さんは、古典的な髷のフォルム…われらが美しいと感じる価値基準を知らないのだ。

 後生畏るべし。
 やっぱり、現代っ子の年若い美容師さんでも、餅は餅屋。本職さんだ。私の望むところをたちどころに理解し、サラリとやってのけた。感動した。
 美容師さんには「カントク、これでどうです?」とか言われてしまったが、いやー、嬉しかったですねぇ。

 日本の文化を担う技術者がいなくなったと嘆いてばかりいないで、老人たちには育てる義務があると、痛感した。
 若い才能は、それを体得するだけの可能性を秘めている。


追記:この記事を読んで下さってか、吉祥寺の美容室で、
古典芸能業界の髪型にアップしていただけるお店をご紹介いただきたい、というご連絡を頂いた。
申し訳ないことに、本稿でご紹介した美容師さんは、この記事の2、3年後に産休で退職なさり、
その後私もこの美容室には伺わなくなってしまったので、ご期待に沿えないことをここにお伝えいたします。
あしからずご容赦くださいませ。
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三味線武士

2010年10月09日 15時00分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 昨日から旧暦では九月。寒露の候。
 本来なら、九月一日が衣更えで、袷着用となるので、再三感じ入っているようで自分でもどうかとも思うのだが、なんかやっぱり、太陰太陽暦は日本の気候に合っている。
 つい一昨日の10月7日、旧暦の八月晦日に、島田大祭「帯祭り」の前夜祭に行ったときは快晴で、床着(ゆかぎ:邦楽家が舞台で着る衣装。黒紋付なので、俗に、まっくろくろすけ、と呼んだりもする)は単衣に仕立ててあるから比較的涼しいのだが、それでも帯揚げまで汗みずくになる陽気だった。

 静岡県の島田は、わが家元・杵屋徳衛のおじいちゃん、三世杵屋勝吉の生まれ故郷である。
 東海道・島田宿は、みなさんご存知のように「越すに越されぬ大井川」、大井川の川越えの東岸、江戸方面から上方に上っていく旅行客のたまり場である。
 一応、軍事政権だった江戸幕府は、軍備・防衛上、大河に橋をかけることを許さなかったので、増水したときなぞ、川を渡ることができず、幾日も川止めになる。
 今でいえば、悪天候で飛行機が飛ばなくなりました…どことも知れぬ空港に留め置かれる。江戸の人は運命に逆らわない。川の流れのように宿場町に居続ける。川の流れは同じに見えて、でも同じ水じゃないんですけどね。
 だって、人間なんて、いくら文明や科学が進んでも、お天気ひとつ、変えられやしない。

 これはグランド・ホテル方式的状況で、それでよくまあ、昔の時代劇には、股旅ものに捕り物帖的趣き、ミステリーをからめた宿場町の人間模様を描いた人情話とか、面白い映画がたくさんあった。
 捕り物帖の謎ときは他愛ないものが多いので、記憶からすぐ抜け落ちてしまう。あれは本格推理ではなく、江戸情緒、風情を愉しむものだろう。川止めに至る状況、旅籠の軒先から水溜りに落ちる雨のしずくとか、探偵役の男前の主演俳優が顎に指を当てて推理に耽る絵面…を、断片的に想い出す。
 バンツマの『狐の呉れた赤ん坊』は、島田の対岸、金谷宿が舞台になっている。子役だった津川雅彦の表情が印象深い。

 東海道五十三次、江戸から箱根の関所を越えて、三島、沼津、ここから広々とした海岸沿いの道が続く。千本松原、田子の浦、白妙の富士を右手に仰ぎ、蒲原から由井正雪の生家といわれる紺屋を過ぎれば、興津白波。三保ノ松原、駿府のご城下を過ぎて、安倍川を渡ると(きまって皆ここで、あー、安倍川餅のできたところだ!と叫ぶ)鉄道では用宗海岸、そして焼津。♪向こう意気なら、焼津の半次~と唄わずにはいられない、素浪人月影兵庫、花山大吉ファンは、昭和の人。
 ……ちょっと志ん生の「黄金餅」めいて参りました。

 江戸時代は、駿府を越えると山道に入る。「蔦紅葉宇津野谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」というお芝居をご存じだろうか。
 検校の位を頂くために百両持って上方を目指す盲人が、無残にも鞠子の宿で殺されてしまう黙阿弥の芝居だ。平成五年ごろだったろうか、歌舞伎座にかかって、殺しの現場を観た目撃者が犯人をゆするという、現在の二時間ドラマ・トラベル・ミステリーの嚆矢のような筋立てだったが、私は、旧暦の九月に初演されたという季節感をも表すこのタイトルの「蔦紅葉」が、すごく気に入っていた。たぶん、絡み合った人間模様を暗示する、蔦紅葉という意味もあるのだろうけれども。

 その杣山道を抜けて、岡部、藤枝まで来ると、さあて、お次は、大井川の川越えが控えている、島田の宿。長編映画なら、そろそろ、インテルメッツオと字幕が出て、お中入りとなる頃合いだ。

 そんなわけで、島田は江戸時代、陸運業の一大要塞基地、今でいうとネットの巨大サーバーのようなものだから、その繁栄たるや、江戸に勝るとも劣らないといわれるほど、繁盛した。
 それで、幼少の三世勝吉・杉山松吉少年が三味線弾きとしての萌芽を芽生えさせる、江戸長唄文化の土壌が、島田には、あったのだろう。
 戦前まで、東京は神田同朋町に住まいしていた三世勝吉は、腕といい発想といい天才肌でファンも多く、飛行機で大陸の上海から稽古に通った弟子もいたそうだ。いま流通している碧型(みどりがた)と呼ばれている撥は、おじいちゃんが発案したものである。

 そのおじいちゃんが音楽監督、芸事指導をした、天下のアラカン大先生、嵐寛寿郎の『三味線武士(しゃみせんざむらい)』という映画がある。
 昭和13年に制作された、川口松太郎原作の芸道もので、いわゆる旗本の次・三男で長唄三味線の腕が立つ主人公が、歌舞伎の下座を勤めていたときに椿事が出来し、御家を出奔。上方に流れて芸事の腕を磨いていたところへ、いわくのあるかつての同僚の妹が、やはり箏の修業に来ていて、図らずも「秋の色種」を競演することになる。女の浅はかさを呪いたくなる、悲恋ものだ。
 大坂の天神祭のシーンでは、おじいちゃん作曲で、現在わが杵徳の家の曲である「菅公」が流れる。長唄の師匠役で、三世勝吉の長男・勝助が出ている。

 この映画が観たいため、私は、昭和の終わりごろ方々を探していたが、ある時、時代小説の評論をしていた知人が、チャンバリストクラブ、という会合を紹介してくれた。
 それはチャンバラ映画を愛してやまない方々が、当時は16ミリフィルムで観るしかなった古い日本映画の上映会をして、チャンバラ映画の魅力に浸る、という集まりだった。

 ……蛇の道は蛇ですなァ。
 なんと、その中のお一人が、『三味線武士』をビデオで所持しているというのだ。どこかの地方局でTV放映されたのを録画したということだった。ダビングしてくださり、このビデオはいまでも当方の家宝となっている。
 それから何年かのち、今はなき大井町の大井武蔵野館で、『三味線武士』が上映されると聞き、社中で映画鑑賞会を行ったことがある。大井武蔵野館は「名画座最後の砦」と銘打ち、楽しい番組立てで、私は入り浸っていたのだが、残念なことに20世紀のうちに幕を閉じた。

 さて、島田大祭は、3年に一度、寅、巳、申、亥の歳に、本来なら旧暦の九月十五日(これは本来の神田祭と同じですが)に行ったそうなのだが、新暦になって今年は今週末の10月9・10・11日に執り行われる。
 別名、島田長唄まつりともいい、長唄を主体とした音曲が祭り全体を彩る。
 その賑やかで盛大なこと、また優美で、祭り本来の真摯で静謐なありよう、神々しいものに対する精神性をも感じさせる、島田の街の雰囲気に感激して、私はちょっと涙ぐんだ。
 各街の屋台や、神輿、鹿島踊りなどが続く神輿渡御行列、帯祭りのいわれともなった、大奴が太刀に絢爛豪華な丸帯を巻いて練り歩く大名行列。
 今回、前夜祭でお世話になった方々の、各街の揃いの半纏を見ているだけでも飽きない。素晴らしい、粋(すい)を凝らした、艶やかな日本文化の結晶である。

 ご用とお急ぎのある方もない方も…島田の帯祭りを観ずして、江戸を語ることなかれ。

 この広い空の下、地域地域の歴史とは関係なく、なぜか、阿波踊りとよさこいが、日本列島の祭りの二大勢力となってしまっている昨今、その土地本来が培ってきた文化を慈しみ継承していく、島田の皆さんの、その心意気に、私は深く、心打たれる。

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