長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

しもきた三味線プレイス

2022年07月24日 07時10分11秒 | お稽古
 コロナ禍も3年越しとなりました。
 7月の歌舞伎座が公演中止とは…お見舞い申し上げます。
 平成の歌舞伎座では、7月というと、先代澤瀉屋の独壇場(どくだんじょう)でありました。
 澤瀉屋の芝居という家業に対する気高い精神性…お客様に対するサービス精神には、贔屓でない者も胸が熱くなる思いでした。
 何より、三階席の、天井桟敷の人々っぽい我々は、狂熱のライブに喝采したものです。

 さて、日本列島に生まれ育った者のDNAを慰めるために、日本の伝統音楽は生まれ、洗練され、発展して参りました。
 世情が不穏で人心が掻き乱される日常となった不幸な時代、古典に携わる者として皆さまのお心を安らげ、なごみへとお誘いするのがつとめでは…と気持ちを新たに、新しい考え方の下、三味線スタジオを設けることといたしました。

 三味線は、奏でる者の体が楽器の一部である、理屈ではなく実践でたのしめる性質の楽器です。楽譜などは要りません。
 しかし、三本の糸の調子合せが出来ないと、弾いて嬉しい境地まではたどり着けません。
 そこで、あらかじめ調子を合わせた三味線を、気が済むまで弾いていただける、ゴルフの打ちっぱなしのような、三味線の弾きっぱなし道場を始めました。
 イメージとしては三味線のバッティングセンターや釣り堀…のようなもの、で、“行けば弾ける”が合言葉です。

 その名も【しもきた三味線プレイス】でございます。
 次のようなサイトを設けましたので、ぜひご覧になって下さいませ。

https://shami-place.com/

 完全予約制で、感染症予防対策も万全を期しております。
 酷暑の夏は心静かに、三味線の音色で魂を燃焼させて下さいませ。
 よろしくお願い申し上げます。

 
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那須野(三国妖狐物語 下の巻)

2022年03月06日 12時01分21秒 | お稽古
 那須野の殺生石(子どもの頃から“さっしょうせき”と呼ぶと思い込んでおりました)が、なんと先日、真っ二つに割れたという。
 怖いことに、下野新聞の写真から伺うに、何ものかを内在させていたかの如く、石の中は空洞であった。

 偶々、そのニュースを聞いたのが、昨夕刻、お弟子さんのお稽古で「那須野」の
  ♪のう あさましや 幾万代(いくよろづよ)の としを重ねて功を積み…
辺りを、さらっての帰りだったので、とてもビックリした。

 栃木県のお隣の海に隣接した北関東はI県で生まれ10代まで育った私には、下野の国(しもつけのくに)那須野(なすの)は、幼少よりお馴染みの場所であった。日光への日帰り遠足は屡々行われた学校での年中行事であったし、足を延ばせば那須・塩原は我が裏庭であった。

 特に、母方の曽祖父は那須野の歌詞にも出てくる“大田原”の素封家の出身で、分家して隣県の海岸沿いの寒村にてランプを商い始めたのが明治~大正年間。
 母が太平洋戦争中に本家に疎開した折、立派な白壁の築地塀が街道沿いに延々と続いたのが何区画もあって、沢山あった土蔵の中で遊んでいたら大きな蛇が落ちてきてとても驚いた、貴族院議員を何度も務めた一族で、おふじさんというとても美人でとてもお裁縫が上手で何をやらせても完璧な大伯母さんがいたのである…と、幼少期の私は、第二次世界大戦・太平洋戦争の想い出話として何度も聞かされた。こうして文章化すると…史料的価値のあまりない日本昔話的お伽噺ではあった。

 …であるから、子供時代からの私の那須野=殺生石のイメージは、遠縁のおふじさん=ルパン三世の峰不二子イコール、金毛九尾の狐(こんもうきゅうびのきつね)の魂が漂泊して人のかたちを以ってこの世に現れた美しき女性にょしょう、イコール私の眷属、という図式が出来ていて、実は私はお稲荷さん…(本物のキツネはそぅでもないが)、空想上のキツネが、精霊の御遣いひめでもあるキツネの眷属が出てくる物語が、とても好きなのである。
 今となってはとても迚てもそんな不遜なことは思いも寄らないが、若い時分、宗教の勧誘を受けそうになると「アタシは、オイナリさんと自分教のmixですから、結構です」と断っていた。

(余談になるが、この図式で、西行法師=佐藤某イコール母方の祖母の姓=遠縁…自分の子供を縁側で足げにして出家した…ふむふむ、イコール私の眷属とか、琵琶湖の大ムカデ退治・俵藤太:藤原秀郷イコールNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の露口茂asシャーロックホームズは永遠に不滅です…イコール、myフェイバレットthings、とか…脳内が渦を巻き始めるのである)

 さて、長唄の那須野は本名題「三国妖狐物語(さんごくようこものがたり)」全三段の物語のうち、下の巻。二上りの通しのうえ(つまり調子替りがないので未熟な者でも演奏しやすい)15分程度なので、20世紀中のおさらい会では結構かかっていた。
 踊りのプロである舞踊家でもあるお弟子さんが、あまり聞いたことがない曲ですね…とちらりとこぼしたので、私の目がキラリと光った。
 「文楽に『玉藻前曦袂(たまものまえ あさひの たもと)』という番組があってね…」

 教養としての観劇を目的とした高尚な文化を嗜みたい方々は、演劇に思想性や精神性を求めがちなので、どうしても理論が先行し、素朴なお芝居(例えばピアノ線がうっすら見える昭和の特撮ドラマなど)を馬鹿にしがちなので、伝説や幻想的傾向をのみ頼みとする歌舞伎が、どうしても廃れていくのであるが、子どもの頃から芸術文化を愉しむ素養を育むに最も適した演目、本来の歌舞伎の魅力はケレン味にある。

 左脳ではなく右脳。理屈ではなく情緒で味わうのが、ストレス社会における頼もしい芸術との付き合い方ではなかろうか。

 メルヘンとホラーは私の最も好むところ。

 我らが(長唄・那須野での)お玉ちゃんこと九尾のキツネ、
 三国妖狐物語の上の巻「天竺檀特山(てんじく だんとくせん)の段」では、インドの山奥で修行しているシッダールタ太子、つまり後のお釈迦様の留守の隙を狙って、隣国の王の愛妾となり攻め寄せるというキャラ設定。
 太子の法力に無念や、お隣の中国に飛び去り、中の巻「唐土華清宮(もろこし/とうど かせいきゅう)の段」で、悪名高き殷の紂王の愛妃・妲己に化けておりましたが、これまた魔鏡の法力にて姿を現し敗退。
 お隣の本邦・日本国へ逃げ、平安時代の朝廷にて玉藻の前となり入内(じゅだい)し、傾国を企む一味として帝をたぶらかしておりましたが、陰陽師・安倍泰成(あべのやすなり)博士に法剣・獅子王にて退けられ、那須野へ飛び去るのでありました←今ココ(長唄・那須野の舞台設定)

 そして三国妖狐物語の特徴は、三つのエピソードが夢オチを逆手に取った夢続き(?)ドリーマーズ・ハイとでも呼びたい手法で連続しているところ。
 上段が、はっ、夢だったのか…と古代中国の文王が目を覚まし、中段の幕開きとなり、下段が、ややや、途方もない夢を見ちゃったぜ、と、しずの百姓と猟人である助蔵・助作コンビ(実は上総之助と三浦之助)が夢の話を自慢し合う、というシーンで始まるのだ。

 彼らが戯れに恋の鞘当てを演ずるマドンナ・お玉ちゃんは、なんとまぁ、分かりやすいことに玉藻の前の暗喩(いえ、明確なトレードマーク)“水に藻の花”模様の衣装でオシャレごころを発揮。土地の祭で浮かれくるって踊っておりましたところ、油断して自らが妖狐である証しの夜光の明玉を、ころころころ…と取り落としてしまいます…

 さてさて、両助に蟇目(ひきめ)の弓で降伏(ごうぶく)された九尾のキツネは心を入れ替え、♪四海泰平民安全(しかいたいへい、たみあんぜん)、五穀富裕(ごこくふゆう)の神なるぞ、と堅い約束をして盤石の固い石になったのであります。めでたしめでたし。

 この、かつて日本の人口に膾炙した御伽噺が、令和の世に再び降りかかってこようとは…
 悪夢にハッと目覚めた方はウクライナの大統領、九尾のキツネが飛び去ったお隣の国は魯西亜国、名もプーチン公と改めたのでありましょうか、いやはや、これは夢物語、おとぎ話だったはずでございましょうに………


表題写真は今朝の武蔵野より富士山の遠望、九尾のキツネが那須野より再びいずこかへ飛び去った彼方を望む。
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檸檬可愛や

2020年06月21日 06時55分55秒 | お稽古
 

 この春、中学校に進学予定だったお弟子さんから、晴れて入学式が執り行われたとのお話を伺ったのがもう先々週のこと。
(本当によかったです。照る日、曇る日、さまざまあれど、心が晴れやかなら万事OK、というものです)
 止まっていた時間が動き出し、旧暦令和二年閏四月も昨日晦日。
 雨もよいの朝、今日は旧暦五月朔日。
 晴れれば日本にても部分日蝕が見られるとの由、夏至に日蝕が重なるのは1648年(慶安元年)以来、372年ぶりという、心慌しき日曜日の始まり。





 この半月ほどは時計の針の廻りの早きこと矢の如し。
 先週末、公園を突っ切って久しぶりの打合せに伺ったら、池のほとりで烏鷺の争い。
 シラサギと鵜の好対照、教育テレビでは毎日曜正午に見られるこのセットを、現実に見かけるのも珍しい(当社比では十数年前、京都は辰巳大明神さまのご町内でお見かけして以来…)。



 レパートリーになかった「船頭可愛や」が歌えるようになった新暦6月初旬。
 案じていた樹脂病のレモンの様子を見ていたところ、植木鉢の受け皿に、ガソリンスタンドの水溜りに時折見掛ける、虹色の油膜のようなものが浮いていることに気づく。
 それを朝の水やり時に捨てておりましたら、



 少しづつ油膜が減り、



 わき目がすくすくと伸びてまいりました。



 閏四月晦日、朝陽を浴びて初々しく。
 さて令和二年旧暦五月は、いかなる月になりましょうか。
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空 うそ吹いて

2020年04月30日 23時55分55秒 | お稽古
  ほー……ほー……ほぉぉ……
 という野鳥の啼き声で目が覚めたのが、令和2年4月29日、昭和でいえば天皇誕生日の朝だった。
 おお、こ、これは………!!
  ほーほけきょ…
 まごうかたなき鶯の啼き声ではないか…!

 東京都心で、ウグイスの初鳴きの統計が取れなくなって20年余りも経つ、というショッキングな情報をもたらしたのは、つい2,3週間前のテレビ番組の天気予報士のお兄さんであった。
 
 そう言われてみると、最後にウグイスの声を聴いたのはいつだったろうか、心もとない気がしてきた。
 房総半島の親類の家の裏の藪で、谷渡りに至る稽古中のウグイスの囀りは、寒い時季によく聞いた。
 都内だって、シジュウカラはよく囀っているのだ。人けのなくなったゴールデンウィークに、よく、お隣のアンテナのてっぺんで鳴いていた。
 すぴすぴすぴ…と、初夏の青天をつつくように、潔く、ともすると攻撃的に、啼いていたのだった。
 それすらもう、十数年前のことになるのだ、五日市街道は松庵稲荷の傍らに、棲んでいた時分のことであるから。

 さてさてまあ、諸鳥の囀りへの追憶はさておき、21世紀には稀少なものとなってしまったらしい、ウグイスの初鳴きを、東京都下とはいえ、環八の外側の…武蔵野の面影が残っているような気もする…我がいおで観測したのである。
 はい、こちらですょ、こちらで鶯が鳴いておりますょ…

 何かしら誇らしげな心地さえして、かくも奥ゆかしく伸びやかなホーホケキョを聞いたからには(季が違うこと甚だしいのだけれども)、私の大好きな長唄『娘七種(むすめななくさ)』のご紹介をせずにはいられない。

 江戸の歌舞伎で初春狂言に曽我物をかけるという習慣があるのは、皆さまご存知よりのことと思う。
 (初耳だわ…とお感じの方は、当ブログ中、過去の記事をご笑覧くださりませ)
 タイトルからして、きれいなお姉さんがお正月の七草がゆのお支度をする、しかも曽我物なので仇討のお話ももれなく付いております…という晴れやかで朗らかで愉しい曲なのだ。魔除けだったりもする。
 この曲を思い描くとき、なぜだか亡くなった紀伊國屋、九代目の澤村宗十郎丈を想い出す。紀伊國屋は今ではもう継承されていないのかもしれない、江戸和事を得意とした役者だった。春風駘蕩、おおどかで伸びやかで、古雅でさっぱりとしながらも滴るような色気もあって、私が歌舞伎に青春を傾けるきっかけとなった、大好きな役者であった。

 …そんな雰囲気の曲なのだ。
  冒頭、「神と君との道直ぐに…治まる国ぞ 久しき」…と、謡いがかりで改まって始まるのだが、続いて唄の、
  ♪若菜摘むとて 袖引き連れて 思う友どち…と、二上りらしい、至極明るく朗らかな曲調に惹き込まれ、浮き浮きしてしまう。
   …袖引きひくな若き人 あら大胆なひとぢゃぇ…(おや、どういう展開に…と思っていると…)
 ここで、唄方の聞かせどころの、鼓唄となる。
  ♪春は梢も一様に 梅が花咲く殿造り…
 そこへ、
  ホー ホー ホー  ホーホケキョ、と、江戸家猫八先生の芸風とはまた別の、邦楽の独特な表現法をお聞き頂きたい。

 そして、♪初若水の若菜のご祝儀…から、これまた何とも言えぬ、のどかで初々しく華やかなメロディが展開するのだ。
  ♪やまと仮名ぶみ いつ書き習い 誓文(せいもん)一筆(ひとふで)参らせそろべく
    かしくと 留め袖 問うに落ちいで語るに落ちる…
  (日本語ってなんてステキなんでしょう…)

 さて、そろそろ、春の七種の出番。言立てが苦手な方は、この曲を覚えれば難なく言えるようになる優れもの。
  ♪夜の鼓の拍子を揃えて 七種ナズナ ゴギョウ 田平子 仏の座 スズナ スズシロ 芹 ナズナ
  ♪七種揃えて 恵方へきっと 直って
   しったん しったん どんがらり どんがらり どんどんがらり どんがらり
 昭和のお母さん方の、七草をまな板で叩くときの御約束の御まじない…
  ♪唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に……

 というところで、お待たせいたしました。三味線方の聞かせどころ、七草の合方。
 本手と替手とが紡ぎだす、リズミカルで愉しく、聞いていると体が思わずswingしてしまうほど。
 (実は、この曲は邦楽には珍しく、表間できっちり作られている作品なのです。二拍の休符の掛け声を聞くと違いが判ると思いますが、洋楽式なので行進曲っぽい感じもあります。管弦楽曲「タイプライター」にも似ているかもしれない…演奏する側の好き嫌いが分かれる曲でもあります)

 ひとしきり盛り上がって
  ♪怨敵退散 国土安穏…天長地久
 (コロナ禍よ、終息せよ…との願いを込めつつ…)
   打ち納めたる 今日の七種 で、終曲。

 …そんなわけで、今朝も聞けるかな…とドキドキしておりましたが、往来が静かだったのは旗日のせいだったのでしょうか、疾風怒濤のごとく走りゆく車の音で目が覚めました。
 鳥の声はというと、鴉ばかり……。
 
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鉢木

2020年04月27日 18時14分44秒 | お稽古
 遠隔稽古の流行がここへきて始まっているらしい。
 早くも、うちの孫は200メートルで学校の授業を受けているんじゃよ…という落とし噺までできているとのこと。
 わが杵徳会では、昭和のころから遠隔お稽古というシステムがあり、カセットテープの音のやり取りで、お稽古に来られない方のフォローをしていたと師匠に伺ったことがある。

 もう10年以前になるが、このブログ開設のきっかけともなった不肖・私の愛弟子に、ご主人のお仕事の都合でドイツに赴任することになった方があった。
 当初スカイプを考えていたが、時差の煩わしさを勘案し、そのお弟子さんが、ピカサ・ウェブアルバム、というシステム導入を教えてくれた。
 自分のページに動画をアップすると、全世界に発信することもできるのだが、合鍵を持っている者だけが見られるという仕組みにもなっている。私がお手本を撮影し動画をアップする、それを彼女が見ながら弾く、また一人で弾く動画を撮影して、その場所にまたアップしておく…というやり取りで、1年ほどそのスタイルの遠隔稽古が続いた。
 彼女の長唄、三味線への情熱が、極々アナログな師匠である私を、新システム稽古に導き、新世界への扉を開いたのである。
 負うた子に教えられ浅瀬を渡る…インターネットを渡る…と申しましょうか、有難いことであった。

 会議やコミュニケーションなど、言葉のやり取りだけなら単純なツールで済むと思うが、音質や間合いなどが重要な要素である音楽には、zoomは適さないように感じる。
 機を見るに敏な方々のご尽力で、また新たなる道具が開発されることでありましょう。



 さて、令和2年4月22日、可愛や千松、一番先に芽吹いたのに、ついに鶴千代に背丈を越えられてしまった。
 そしてまた、昨夏植え替えたスズランは二株だったので、やっぱり新芽は二つしか出ないのかなぁ…と思っていたところ、何と…!
 第三の新芽が出てきた。



 めきめきと育ち、三日見ぬ間にアスパラガスかな……



 そうなると、政岡と命名するわけにもいかず…あらたに、梅王丸、松王丸、桜丸と名付けることに。
 サマセット・モームの『九月姫とウグイス』という童話に、タイの王様にお二人のお姫様が生まれ、夜と昼と名付けたが、その後お姫様がまた誕生なさって四人姉妹になったので春、夏、秋、冬と名前を変えた、しかし、またまた妹姫が増えたので一月、二月、三月姫…と改名し、何度も名前が変わった上のお姉さま方はすっかりひねくれてしまいました…というようなお話があったことを想い出しつつ……



 謡曲「鉢木(はちのき)」の話をするなら、12月が本来である。
 表題写真は、もう数年前の晩秋、新名取の名披露目を兼ねた一門会の折、結婚してのちご実家のある地方都市に住まいして子育てに専念しているお弟子さんが、手土産に下さった、銘菓・鉢の木の折りの包み紙である。
 先輩の名取として、いざ鎌倉…と、わざわざ演奏会へ顔を見せてくださったのだ。取立て師匠である私は、彼女の気持ちが、とてもとてもうれしかった。

 お能の鉢木は、昭和40年頃はとても有名な曲で、しょっちゅう上演されていたことは、小学生の私でも知っていた。
 思えば、太平洋戦争で焦土と化してから僅か20年余りしか経っていない。
 鉢木は、零落してしまった主人公が、その心根の健気さによって、再び旧領を安堵され、返り咲く話である。
 戦争で総てを失ってしまい、失意の底から生きてきた当時の日本国民には、とても身につまされつつも、明るい未来を予見させるハッピーエンドが待っているところが、人気の作品だったのかもしれない。

 究極のおもてなし伝説…と安直に譬えるのは気がひけるが…大雪で難儀している雲水に一夜の宿を提供することになった、上野国佐野の常世(つねよ)は、貧しさのあまりろくに持て成すことができなかったので、せめて暖を取ってもらおうと、大切に育てていた盆栽の梅、桜、松を、薪にして供応するのである。

 歌舞伎、文楽好きな方はピンと来るでありましょう、そう、たぶん、菅原伝授手習鑑の三つ子の兄弟、梅王丸、松王丸、桜丸は、この「鉢木」も元ネタとして仕込まれているに違いない、と、私は思っている。



 いま、銀座sixに移転した観世能楽堂が松濤にあったとき、忘れられない「鉢木」を、私は見た。

 常世が、源頼政の「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ かなしかりける」という辞世の句を引きながら、手すさびに育てた鉢の木を、旅の僧のために焚くなら、
  …これぞ真(まこと)に難行の 法(のり)のたきぎとおぼし召せ…
 諸行無常の世の供養となりましょう、焚き木にせんと、一鉢ずつ、手にかけてゆくシーン。

 まず、寒い冬、雪に閉じ込められても健気に咲く花の先がけである、梅の木から切ろう…
  …人こそ憂けれ山里の 折りかけ垣の梅をだに 情けなしと惜しみしに
      今更たきぎになすべしと かねて思いきや…

 次は、桜の鉢を
  …桜を見れば春ごとに 花少し遅ければ この木や侘ぶると 心を尽くし育てしに…
  …切りくべて 緋桜になすぞ 悲しき…

 そして盆栽らしく枝をためて剪定して育てた松をも、
  …松は もとより煙にて 薪となるも理(ことわり)や
     切りくべて 今ぞ御垣守(みかきもり) 
     衛士の焚く火は お為なり……

 幼少から話を聞き、何度か見て知っている鉢木であったのに、私はもう切なくて、この上もなく胸が締め付けられ、泣いてしまった。
 その時のおシテ方は、観世宗家の弟君の芳伸先生で、その舞台を観るまでは、お若い時からとても美しく違いの分かる男で(!…(。-人-。) )花があってお話が面白いご宗家と、別家を継がれた双子のお兄様の、華々しいお二方にくらべて控えめな印象だったので、とてもビックリした。そして、とても感動したのだった。

 この公演ではないが、千駄ヶ谷の国立能楽堂で、おシテ方はどなたか忘れてしまったが、間狂言(あいきょうげん)を東次郎さんがなさって、とても面白かったのを覚えている。
 前場がしんみりして悲しいので、心得た達者な狂言方だと、ぐんと鉢木という物語の面白みが増すのである。
 同じ番組でも、演者の違いで作品の出来不出来が違いすぎるのが、古典作品のつらい定めだったりもする。



 そういえば、井伊家の14男だった直弼が部屋住みだった頃、自分が棲む屋敷を“埋木舎”と名付けて風流の道に励んだ話も、昭和のころはよく知られたエピソードだった。
 舟橋聖一原作「花の生涯」は、忘れ得ぬ名優・紀尾井町(先々代尾上松緑)で、大河ドラマにもなった。共演した淡島千景の座長だったかで、平成時代も明治座で上演していたのが、ついこの間のことのような気もする。



 この2月に予定されていた横浜能楽堂での、横浜開港160年記念の、井伊直弼が作った能の特別公演も残念ながら中止になってしまった。
 横浜能楽堂は、井伊大老の銅像が立つ掃部山公園の裏手にある。
 3.11の前まで、地下の能舞台へ、私の大切な憧れの、能楽の先生のお稽古に通っていた。
 そしてまた、平成10年ごろまで、横浜能楽堂に至る紅葉坂の途中に、梅の木書房という古書店があり、歴史や時代関連、演劇関係書をたくさん用立てて頂いた。まだ東横線の桜木町駅があった頃だった。

  世の中を よそに見つつも 埋れ木の
    埋もれてをらむ 心なき身は

 …と、若き日の井伊直弼は詠んだという。
 そして、埋木舎に植えて愛でたのは、風に柳の…柳の木だったらしい。

 むかし読んだ吉川英治のエッセイに、掃部山に井伊大老の銅像が建って除幕式の数日後、銅像の頭部が失くなった、という騒動があった、と言及したものがあった。
 当時の横浜の新聞にも「掃部頭(かもんのかみ)の首が二度取られた」と書かれたそうである。
 2019年は、井伊掃部頭銅像建立110年の記念の年でもあったそうな。



 井伊掃部頭の銅像の眼差しは、開港した横浜港を向いている、と聞いたことがあった。
 令和元年12月の掃部頭の眼差しの先を追った先は…
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庵梅(いおり の うめ)

2020年03月09日 23時30分31秒 | お稽古
 横浜能楽堂で、大蔵流の狂言「庵梅(いおりのうめ)」を観たのは、もう先々月の1月13日のことである。
 この狂言には太郎冠者は出てこない。全編、女性を表すビナンカヅラというお約束の、白い布を頭から巻いて、端をツインテール様に両サイドに垂らした、登場人物すべてが女性という、珍しい狂言である(もちろん狂言方の男性が演じているわけであるけれども)。



 老境に達した尼僧が一人、結んだ庵に住まいしている。ところへ、かつて彼女に歌の道を学んだ教え子たちが訪い、昔のようにそれぞれが和歌を詠み、梅が枝に短冊を下げていく。やがて酒宴となり、往時を懐かしみ謡い舞う春の一日。



   しきしまのみちを すてさせたもうな おとめごたちよ…

 別れ際に老尼は、若き日に学んだ歌の道を忘れず人生を送ってほしい…と謡い、教え子たちを見送るのである。



 山種美術館所蔵の川端龍子「梅(紫昏図)」がとても好きで、見掛けるとついつい絵葉書を求めてしまうのだが、私の脳内の庵の梅舞台図は、まさに、その絵なのである。



 梅が咲き、新しい春がめぐりきたるときは、別れの季節でもある。
 皆が新年度からの新しい身の置きどころへ去っていく。



 長唄、三味線をお伝えするようになって早や二十年余り、私の未熟さゆえ、長唄の魅力を伝えきれず道半ばにして去っていったお弟子さんの顔が浮かび、申し訳ない気持ちになる一方、結婚し子供が生まれてお休みしていた稽古を、再開して通って下さる方もいらして、本当に有難く、日々気持ちを新たにして進まなければとも思う。


 
 山本東次郎家の庵梅を、私は長らく待ち焦がれていた。
 臥龍梅のごとき枝ぶりの作り物も嬉しかった。
 演者が去ってゆく舞台から、暮れかかってほのぼのと清やかな梅の香が匂ったように感じて、私はしみじみと様々なことに思いを馳せ、掃部山を後にした。



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これを上げましては 明日より何の手業なし

2020年03月03日 03時05分25秒 | お稽古
 この度の騒動で、都民フェスティバル邦楽大会、第1部の子ども部門が中止になってしまった。
 長唄協会会員の小・中学生のお弟子さんで「末広がり」を演奏する予定で、当方からも来年度から中学校に進級するN君が、小学生最後の学年に、日頃のお稽古の成果を発表しようと楽しみにしていた催しであった。

 長唄「末広がり(末広狩)」は、例によって、狂言をもとに歌舞伎化されたものである。
 お習字に喩えれば、楷書体の曲と申しましょうか、手ほどきから二、三曲目ぐらいの教材になるのだが、山本東次郎さんファンの私としては、嬉々として歌詞説明を膨らませすぎるので、とにかく弾き込んで長唄という曲のスタイルの構造に慣れ親しんでほしい思いもある。
 小学三年生の別のお弟子さんにお手本で弾いたとき、♪太郎冠者、あるか~~というくだりで、目がキラキラキラ…と輝いたので、ぉぉ、やはり面白く受けとめてくれているのだろうか、と、うれしく感じたことがあった。

 太郎冠者が出てくる曲で、私が好きな長唄は「靭猿(うつぼざる)」である。
 このところ何かと見舞われる、ふさぎの虫…を払拭するために、やはり弾いているうちにウキウキ、憂き世が愉しくなってくる曲、そして、今年は何やらもう沈丁花が香ったり、シジュウカラが囀ったりしていたりもするのだが…梅が枝の清々しい匂いを風が運んでくれるこの季節にふさわしい曲、といったらやはり、靭猿…というわけで、久しぶりに引っ張り出してさらってみた。
 
 幾たび弾いても面白い。幾たび弾いても難しい。幾たび弾いても手に汗握るサスペンス・ストーリーで、調子のよいメロディに浮き浮きする一方、うっかり涙ぐむ場面もある。
 いにしえの価値観、歴史状況のもと誕生した古典作品には、それでも、人間を扱ったからには普遍のテーマ性がある。民主主義の世の中になった現代、いきなり縁もゆかりもない人からの理不尽な申し出によもや屈する目には遇わないだろうけれども、物事の関わり合いから生じる、この不変の情というもので、一般的な鑑賞曲としてお勧めしたい作品である。

 

 さて、名曲の上に大曲であるから、靭猿を稽古して頂けるまでには年季がいる。
 まだ昭和だった頃、お稽古場で姉弟子が唄をしごかれていた様子を、うらやましく聞いていたことを想い出した。
 そしてまた、20世紀の終わり頃、人形浄瑠璃文楽の公演で堀川を聴いたとき、ぁぁ…靭猿を…もっと稽古しておかなきゃいけなかったなぁ…と反省したこともあった。

 ♪げに豊かなる時なれや
  さらば我らはおいとまと もと来し道へ帰らんと
  花を見捨てて 帰る雁
  空も高嶺の富士筑波  
  名に負う隅田の春の夕 景色をここにとどめけり


追記:文末の詞章は長唄「靭猿」終章、写真は神代植物公園・うめ園にて2月の末、撮影したものです。


 
 
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ヒトの ナサケの サカヅキ

2019年05月23日 12時41分41秒 | お稽古
 先週の唄稽古のとき、マイ譜本が手元になかったので、稽古に使ったことがない唄本を取り出してみた。
 20世紀のうちに、大正生れの姉弟子から、頂戴したものである。
 和綴じで、日常使いするには憚られる美しさだったので、本棚に仕舞ってあったものだ。
 装丁や、文字の美しさを時折出して眺めるぐらいだったので、中身を吟味する、ということがなかった。

 唄っているうちに、勧進帳のひとふし、♪士卒を引き連れ 関守は 門のうちへと…の箇所に、「かどのうち」という歌詞に「もんのうち」とルビがふってあることに気がついた。あれっ? あれあれっ???

 不思議に思いながらも、唄い進めていくと、なんと、あの二上りの有名なうたいどころ、
 ♪…人の情けの盃を……が、♪人の情け「を」盃「に」と記述されている。


 奥付は、その本にはなかったので、同じ装丁の兄弟本の二冊を取り出して調べてみた。
(といっても、この手の唄本の和綴じ本は、一曲づつの唄本を個人がまとめて綴ったものであるので、本当にその年のものかは不明なのではあるが、参考にはなるだろう、と思いまして…)
 大正12年刊のものであった。


 これは、ひょっとすると、版元の校正の方が、日本語の文法に合わない歌詞である…と思い、詞章を直してしまったのだろうか、と思いめぐらせた。

 ちょっと気になるので、ほかの和綴じ本の勧進帳を探してみた。

 これは明治41年のもの。


 ポピュラーな歌扇録の、我が家で一番古い大正15年刊のものもご参考までに。




 表題の写真の奥付は安宅勧進帳のもので、本文はこちらです↓


 さて、そんなわけで……
 正しいことが必ずしも正しくないことは、世の中にたくさんある。
 
 
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長唄の美学

2017年07月23日 13時33分33秒 | お稽古
 この春のとある演奏会で、お客様から「幕を下げるタイミングが早すぎるのではないか?」とのご意見を頂戴いたしました。
 それは、現行の演奏会での傾向を薄々感じているものからすると、ついにここにも来たか、という…頻繁化する外国船の到来に、どうしたものかと考えているうち天保末年に開国勧告がしたためてあるオランダの国書を受け取っちゃったというような…ギクリとするご意見でした。 
 実を申せば、昭和からの生き残りの者には、これでもまだ、ちょっと遅いな…と感じ、幕下げの見計らいの甘さに忸怩たる思いをしているからでございます。
 何年か前から、緞帳を下げるのが早すぎる、とのご意見を頂戴するようになって、下げ方の様式がだいぶ変化して参りました。
 演奏が終わって、客席からの拍手を浴びながらツーーーーーーと緞帳が下がっていく傾向が増えたように感じます。

 長唄の演奏会での慣習は、終曲の段切れ部分、ツーン、ツーン、シャン。←このシャンの部分で緞帳が舞台の床に着地する、それが鉄則でした。その絶対的なタイミングを計るのに、各劇場の緞帳の、幕下げスイッチを入れて締まりきるまでの時間を過剰なまでに把握しておりました。とても微細な神経を使う作業でした。
 演奏一曲の仕上がりが、この幕一つにかかっている、といっても過言ではありません。たかがどころではなく、幕、されば幕、きっちりとしなきゃいけないのが幕です。
 幕当番を仰せつかるととてつもなく緊張します。しかし、ツーーーーと緞帳が下りていって、シャン、と同時に幕が落ちたときのあの充実感ときたら…! 
 些細で些末なところに気を抜かないのが、仕上げというものです。お裁縫や建築の現場もそうだと思います。作品の仕上がりとはそういうものです。

 洋物の演劇にどっぷりとつかっていらしたのに、ここへきて急激に歌舞伎・文楽など日本の伝統演劇に目覚めた、という嬉しき方々からよく伺うのが、カーテンコールがない、客電が明るい…etcというご意見です。
 日本の文化には長い年月培われてきた経験則が生かされておりますので、そのご意見をクレームにせず、そうするのはどうしてなのか?…と、翻って考察なさっていただけたらいいなぁ、と思います。
 彼我の文化の違いを、否定して自分が親しんできた方向へ変えさせようとするのではなく、まずは受け止めて考察してくださいませ。いろいろな発見があって面白いものです。

 ところで、能舞台の前、見所(けんじょ:客席)との境には幕がありませんが、私が敬愛してやまぬとある狂言方の先生があるとき、こんなことをおっしゃいました。
 「舞台というところは、僕やアタシのパフォーマンスをお見せするところではなく、結界です」

 舞台と見所の間には厳然とした次元の隔たりというようなものがあって、それで、なぁなぁではない藝境を垣間見る瞬間が訪れることがあるのだ…と、伝統芸能が好きな私は思うのです。

 そういえば、芝居の下手さをヤジる言葉に「緞帳役者」というのがありました。
 歌舞伎の定式幕、あれはお上から許された座元しか使えません。引き幕です。舞台の格を示すもので、かたや、それを使えない芝居を緞帳芝居といって、垢ぬけないアンダーグラウンドのものと揶揄したのです。
 今では緞帳さえないフリースペースの、劇場とは言えない小屋のようなものばかりが増えましたけれども。

 ぁ、そうでした。もう一つ、長唄の美学を顕しているものに、白ネジ、というものがありました。
 長くなるので、この話はまたの機会にお届けできたらと、思います。
 
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しみじみの研究:序

2017年01月03日 17時21分41秒 | お稽古
 2017年到来。平成二十九年とかや。
 街にお正月気分が無い。クリスマスの電飾で力尽きたのか、注連飾りや松、繭玉の装飾が見当たらない。日本人たるもの、正月をニューイヤーではなく、正月として祝わずしてどうする。

 お正月の街を彩る、そこはかとない邦楽の調べも、ついぞ聞かなくなって久しい。
 新年早々耳にしたのは、現代邦楽の調べであった。
 21世紀になってからの邦楽は、洋楽を邦楽の楽器で演奏しているだけで、音色にしみじみとした要素がない。それはそれで、伝統邦楽とは目指すところが違うので、それでいいとは思うけれども、伝統的な楽器を使っているだけで、伝統文化としての邦楽を広め存続させていることにはならない。
 古典音楽としての邦楽の演奏にもその影響は出ていて、しみじみとした音色に心揺さぶられる機会が少なくなった。
 日本独自の文化を昇華させた伝統音楽の魅力が潰えつつあるのだ。

 そんなことを常々考えて、「しみじみの研究」(九鬼周造の『いきの構造』を引いてドイルの『緋色の研究』を捩ってもみた)というタイトルの下、3年前の秋に記事を書き始めてみたものの…四度目の初春を迎えても下書き中なのである。
 これではいけない。
 しかし、邦楽に携わるものとして「魅力が潰えつつある」状況を余所事として看過できようはずもないので、日々精進し、そうならないよう実践できる演奏家に自らを育てなくてはならない。
 構想は絶えずとうとうたらり…と湧きいずるのであるが、掬うすべを知らぬ無力な猿が私なのだった。

 干支も申から酉にバトンタッチした。
 鳥が鳴く 鳥が鳴く…そのけたたましさは前世紀に倍加してうるさい。
 携帯するコンピュータが普及し、DTMのチャカチャカした音が巷にあふれ、アナログの柔らかい音に囲まれて育った者はどうも落ち着かない。
 昭和のころ、邦楽のピッチはA=440ヘルツだった。
 しかし当節は、443ピッチ以上に合わせるのがカッコいいらしいのだ。

 ピッチが上がると、人間は気分が高揚し、攻撃的・戦闘的になるそうである。
 演奏する本人たちはいいかもしれないが、聴かされるほうはシンパでもない限り置いてけぼりにされやしないか。なごみや癒しを求めているとしたら、充足されないだろう。
 まぁ、それも聞く側が音楽に何を求めるかにもよるのだけれども。
 何が美味しいかという舌、味覚もそうだが、音も…自分の耳に慣れ親しんだ音が、本人にとっては一番よく感じられるものらしい。
 
 ちょうど二十年ほど前、自分の中の古典音楽の要素と、現行の洋楽理論とのはざまで、いろいろ感じ悩んでいたころ読んだ、一冊の本があった。
 芥川也寸志『音楽の基礎』岩波新書。
 久しぶりにペラペラとページを捲ったら…ぉぉ、名著というのはいつの時代にも朽ちることなく要点をズバリと表出しているものである。
 以下に引用させていただく。

  ……私が音楽学校の受験用に覚えた標準音の周波数は、A=四三五ヘルツであった。…(中略)ピッチを高くすれば音に張りがでて、楽器では強い大きな音が出せるので狭い部屋で聞くのには適さないが大会場には向く。(中略)
  ……ピッチの上昇化をはじめとするこのような傾向が、今後も際限なくつづくとすれば、音楽の商業主義化に役立ちこそすれ、けっして音楽自身にとって幸福なこととは思われない。  現にバロック音楽の演奏では、現代の標準ピッチをもってしても、やや不自然の感をまぬがれえないのである。……

 以前ご紹介した「長唄絵合せ」を企画したのも、作曲された時代を映し、写した絵とともに在った長唄の世界を、表出したかったからである。
 
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菅公

2015年07月25日 23時20分02秒 | お稽古
 常々、身辺整理をしたいと思っていた。
 コンセントを抜くと消えてしまう媒体をどうしても信用できず、記憶すべきものは紙に記されているものに限る、という観念から抜けきれない。だからどうしても書類に埋もれてしまう。
 世間に流通している出版物の類いは、自分で持たなくても図書館にあるから安心である…と思えたのはもう昔のことで、私が憶えておきたいことどもが載っている書籍は、たぶんもうこの地上から姿を消しつつある。
 けれども…。自分のこの脳が消滅してしまえば、そのようなこだわりなどもとより存在しない。それに気がついて、近頃はようよう、本という名の我が神様から解放された。

 さて、今日処分しようと手に取ったファイルから、昨年4月の文楽公演のチラシが出てきた。「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅ てならいかがみ)」の通し上演。国立文楽劇場30周年記念と銘打たれている。しかしこれは文楽fanには特別な意味を持つ興行でもあった。切場語りの竹本住大夫の大阪における最後の舞台となったからだ。
 ちょうど日程が重なった通り抜けで、私は造幣局の桜を観たのち、日本橋の文楽劇場で桜丸切腹の段を聴いた。

 文楽のチラシには裏に作品解説と粗筋が印刷されているものと、配役が載っているものの2パターンあって、それぞれ写真が違う。これは捨てるに忍びない。梅鉢の縫い箔を散らした濃き紫の袍を着いた菅丞相(かん・しょうじょう)、そしてもうひとつは、力紙と病鉢巻き、黒地に雪持ち松の衣装の松王丸。
 菅原と言ったらなんてったって寺子屋なのだ。日本の伝統芸能の外題の付け方は直球勝負じゃないところがその特質を表している。たとえば、義経千本桜もそう。
 表題の人物が主役ではないのだ。その人物の周りの人々が主役で、エピソード集なのである。日本の演劇の歴史は、二次創作の積み重ねなのだ。

 そうして、偶然にも程があろうというもので、今日は大阪の天神祭の日なのだった。…これを天啓といわずしてどうする。
 道真公のことを、書かずばなるまい。

 思えば菅原道真公は、何とわれらの身近に存在していることであろう。
 幼少時、♪とおりゃんせ、とおりゃんせ…と遊んだものは既に「天神様の細道」という言葉を諳んじている。
 「東風吹かば匂い起こせよ梅の花…」私が日本の歴史に詳しい小学生だったのは、マンガ版日本の歴史シリーズをページが擦り切れるほど読み込んでいたためであるが、昭和四十年代の同書の編著者が、菅原道真公のフキダシにこの有名な歌を入れてくれたことには大変感謝している。「我が世をば望月と思う…」藤原道長の有名な歌も、あかねさす…額田王も、私は歴史上の人物キャラ(似ているかどうかは最早問題ではない)のフキダシに入っていたがゆえ、憶えることが出来たのだ。

 映画「非情城市」を想わせる20世紀終わりの台湾に行ったのはもう20年前だったが、ツアーの現地ガイドさんが孔子廟の説明をして下さって「日本にもこの建物と同じものがあります。えーと、ユハラの聖堂ね」…すぐに湯島の聖堂のことである、と察することが出来たのも、昌平黌(しょうへいこう)脇の道をずっと上って…常にわが心の中には新派の婦系図…雷ちゃんも早瀬主税を演じた湯島の白梅、そして天神様がいたからである。
 カンコー学生服、という有名なブランドがあるが、言わずと知れた菅公学生服なのだ。

 歌舞伎や文楽の菅原伝授手習鑑は、義太夫節の狂言である。
 それでよく訊かれるのが、「長唄には道真公がテーマの曲ってないんですかねぇ?」

 待ってました。あります、あります、あるんですょ。
 一般的でないのは、当、杵徳の家の曲だからなのです。
 皆さま、ぜひ一度お聴きになって、流行させて下さいまし。

 その名も『菅公(かんこう)』。
 作詞は、鴬亭金升(おうてい・きんしょう)。明治元年に旗本の家に生まれ(先祖は何と、あの斎藤実盛)、新聞記者から後に雑俳の大先生になり、また全国の流行歌(その当時ですからご当地ソングや、長唄・清元・常磐津・小唄などの俗曲)の作詞を幾つとなく手掛けられ、明治・大正昭和の文壇・劇壇・演芸界に名を馳せた方である。
 作曲が、三世・杵屋勝吉(きねや・かつきち)。杵屋徳衛の御祖父ちゃん。
 
 演劇出版社から昭和36年に刊行された『鴬亭金升日記』の、昭和四年己巳(つちのとみ)の歳、一月七日の項に、

  長唄に楠公あれど菅公なければこんなものを作ってみた。
 
 とあり、以下に 「菅公」の歌詞が全文、掲載されているのだ。

 さて、どんな曲かと申しますと、上の巻が二上がりの通しで、菅公存命の時制にて、

  ♪さても菅原道真公 まことの道の色変えぬ 松につれなき藤蔓…

と、配流先での憤懣やるかたなき苦悩を、道真公の詩や、飛び梅など菅公の伝説に関連あるキーワードをちりばめ、

  ♪都府楼はわずかに瓦の色を見 観音寺はただ鐘の声を聴く…

春の名残を筑紫の風景とともに抒情豊かに描いている。

 下の巻は本調子から、没後の雷鳴とどろく様子を大薩摩を交えスピーディな迫力のある節付けで始まり、のち二上がりから三下がりに調子替りし、天神祭の祭囃子の合方で、賑々しく終曲となる。
 この祭囃子の合方は、アラカン主演の映画「三味線武士」劇中、天神祭の船渡御シーンにも使われている。

 ♪都府楼は~のくだりは、往時の大宰府を偲ぶにふさわしい、うっとりする節付けだが、都府楼というと、松本清張の『時間の習俗』を想い出す方も多いかもしれない。そうなると『点と線』から香椎海岸へと連想し、さらに夢野久作へと想いが飛ぶのは、昭和29年10月31日に黄泉へ旅立たれた鴬亭金升より、さらに私たちが昭和の文化を重ねた時代に生きた者であるあかしでもあろう。

 鴬亭金升の著作で今も手に入るものに『明治のおもかげ』という随筆集があり、その中に

  「…明治時代には天保の生き残りの老人から種々教えを受けたが、昭和の今日は僕等が明治の生き残りになった。昔は若い人に教えたのに引きかえて、今は若い人からいろいろ教えを受けるのは可笑しい」

 という一文がある。この明治を昭和に、昭和を平成に入れ替えると、今の自分の心境に合致して何だか面白い。
 そういえば楠公の取材で四条畷へ行ったとき、駅前に『ナンコウ』という店名の散髪屋さんがあって、ぉぉぉ~、さすがご当地、と、感心したものだった。
 それさえもう、二十数年前のことである。
 
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それは蜘蛛拍子舞から始まった。

2015年03月23日 23時33分23秒 | お稽古
 “とうらぶ”とは何ぞや……??
 と、しばらく前から気になっていたのですが、先ほど検索してやっと分かりました。
 これまた、遅かりし由良之助。
 しかし、古今の大和の国における若い女子というものは、時代を問わず日本刀の銘柄に憧れるものである、ということが分かりました。

 なぜならば、私が日本の伝統芸能に目覚め、長唄に本格的にのめり込むキッカケとなったのが、二十歳を過ぎた頃に観た『蜘蛛拍子舞(くものひょうしまい)』だったからなのです。
 
 近年、大和屋が歌舞伎の本興行にしばしば掛けるようになりましたが、昭和の終り頃はあまり出ておりませんで、私が観たのは舞踊協会の、歌舞伎役者ではなく舞踊家による舞台でした。
 ですから尚更、長唄や日本舞踊本来の魅力が感じられるライブになっていたのかもしれません。
 拍子舞というのは、踊りの形式の一つで、三味線の音色にのって唄いながら舞うものをいいます。
 登場人物は、源頼光と四天王、例によってモノノケ退治でございます。
 美しい白拍子に化けた女郎蜘蛛の精、頼光、碓井貞光の三人が、御殿の階段にレビューの如く立ち、名だたる刀鍛冶の名前が連ねられた掛け言葉の歌詞を、とうとうと唄うのです。
 「なにこれ、オペレッタみたいでむちゃくちゃ面白い……!!」
 こんな面白い音楽が邦楽にあるのならば、ぜひこれを私もやりたいものである、と二十歳そこそこの小娘は思ってしまったのです。

 刀剣乱舞にハマっていらっしゃる皆さま、いっぺん長唄の「蜘蛛拍子舞」を聴いてみて下さいませ。おもしろいょ。
 戦争を止めていた時代の日本人は、闘う道具であった刀で、こんなにも文化の誉れ高き平和なお芝居をつくっていたのである。

 ご参考までに、曲中の刀工尽くしの歌詞をご紹介いたしますね。
 初世・桜田治助の作詞です。

 ♪花の姿を垣間見に ひがきやすりは天がい重俊 さて薙刀は当麻少将 金剛正枝 力王一王 これらは名に負う大和鍛冶 利剣宝剣名作名物 六百九十四振なり
 九十四振は九十九夜 或る夜その夜の廓(さと)通い 色に乱れし業物と
 名乗って和泉の加賀四郎 さてまた相模の新造五郎 新造五人引き連れて
 紋日物日は月参り 月山 森房 蜘蛛頭 はつゆき平を眺めんと チョキで長船 
 四つ手にのり宗 ようよう三条宗近と 客は女郎に寸延びて 余所で口説を島田の義助
 座敷も新身の付け焼刃 文殊四郎の知恵借って 内外の手前を兼光が 
 まだ居続けとは さりとは長光 大酒に 青江の四郎が捩じ上戸
 ちょっと助光 一文字 腹立ち上戸は仁王三郎 相手に長門の左利き 
 左文字や方々よ あいと石見の酒盛綱 こころ安綱 友成が 君万歳とぞ打ったりける

 天明元年(西暦1781年)、カントが純粋理性批判をドイツで刊行し、アメリカ合衆国の独立が欧州各国に承認されつつあったそんな時代に、江戸中村座の顔見世狂言として上演されたのが、蜘蛛拍子舞だったのでした。

 
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回文、そして判じ物。

2014年06月05日 14時10分41秒 | お稽古
 子どもというのは追いつめられると、真剣な思いつきを言ってしまうものである。
 小学校の国語のテストだった。漢字の部首を答えなさい、というよくある設問。
 「殺」…「るまた」の、つくりで分類することは皆さんご存じでしょう。
 その時の私は知らなかったので、さて、困った。かといって試験の解答用紙に空欄をつくるのも悔しいものである。
 ………「めぎへん」。違う、違うにきまっているが、しかし、何かしら書かずにはいられない子供心。
 返ってきた答案用紙には「惜しい!つくりで分けます」と愛情にあふれた赤が入っていた。
 先生というのは偉大な職業でありますね。
 そういうことがあったりして、私は国語が大好きな人間に育ったわけだ。

 …そんな、もう何十年もむかしのことを想い出したのは、明日が芒種であると知ったからである。そう、“めぎへん”の発想の原点は“のぎへん”です。
 そういえば、探偵小説家に、山本禾太郎(のぎたろう)という素敵な名前がありましたね。
 「るまた」は知らなくても、新青年に掲載されていたような探偵趣味の小説が好きなのは、昭和の、物好き(=ややオタク)な子どもたちの、共通事項でもありました。
  
 三十代の初め、本を読まずには夜も日も明けなかった頃のこと。井伏鱒二もほとんど読んでしまったので、何か似たようなテイストの作家はいませんか?と、当時懇意にして下さった方にお教えを乞うたところ、木山捷平を紹介して下さった。
 さすが、週刊誌で書評を担当してらした御方である。そのぴたりの選球眼たるや、ベストキッドのお師匠さま、掌を指すが如く。暫くの間、私は木山捷平を平らげることに退屈しなかった。

 その木山捷平の故郷は備州笠岡なのであるが、氏の著作中、丹波篠山に関わる記述があったような気がして…先日、久しぶりに京の街散策にいそしもうと取った旅程が何故か、午前中は長唄らしく鳥羽の恋塚寺にいたのに、午後想いつきで琵琶湖一周しちゃったり、貴船で青もみじ狩と洒落込むつもりが沓掛を経て丹波篠山をおとなう…やっぱり王道を外して横道へそれてしまう、三つ子の魂。

 篠竹が青々と茂る美しい里山の風景と…そしてもう一つの収穫は、篠山能楽資料館。
 面の特集展示も面白かったのであるが、私にとっての目から鱗は、小鼓や大鼓の胴の蒔絵の意匠の意外なテーマ。
 将棋の「王将」「香車」や「龍王」なんぞと書いてある駒ちらしの柄。傍らに、「将棋も鼓もどちらも打つもの」と丁寧な学芸員さんの解説が。
 ほかにも、斧と鼠で「よき音(ね)」とか、錠前が夥しい数を鎖の間に置いて「上手(=錠数)に鳴る」とか…これは面白いじゃないですか!!
 今まで真面目で客観的な美しい文様ばかりを見てきたのであるが、なんと、浮世絵のような判じ物仕立ての、読み解く文様の蒔絵がたくさんあるのだった。

 考えてみたらそりゃーそうですね。能楽関係者は常に真面目なしかつめらしい顔をして、人生の一大事や指標になるようなことを追い求めているような…そういうイメージの固定概念があって気にも留めなかったのだけれど、お武家だって遊び心がなきゃ生きていけませんね。

 むしろ、争いごとの無きよう、一心不乱に事なき一生を過ごそうと気をめぐらし知恵を働かせていた、鎖国時代の日本人は、平和に生きることを追求していたのですから、遊び心にかけちゃ地球随一であったに相違ございません。 

 長唄にも「宝船」という、七福神が吉原へ繰り込むという、シャレのめした曲があります。
 しかも凝ったことに「長き夜の遠の眠りのみな目覚め…波乗り舟の音のよきかな」という回文が、冒頭と段切れに織り込まれているという、日本人の諧謔味ここに極まれりという、七福神それぞれのキャラが立った、短いながらも面白い曲。

 それがこのたび、四回ほどの講座で、唄えるようになるのであります。

 長唄杵徳会家元・杵屋徳衛の“初心者向け唄稽古”プロジェクト、このたび新シリーズstart!いたします。
【宝船コース】2014年6月14日、7月12日、8月9日、9月6日の各日土曜日
      午後3時より下北沢稽古場
【供奴コース】2014年6月14日、7月5日、8月9日、9月6日、10月25日の各日土曜 
      夕方6時より下北沢稽古場 
 参加費は1回3千円前後で一括割引が有ります。お問合せください。

 皆さま、お誘い合わせのうえぜひ…!
 …という、引き札のような、本日のブログでありました。

 (そして写真は…弁財天のおわします竹生島、
  岬に隠れて見えませんが、その向うには長浜市の山本山があります)

追って:♪なかきよのとおのねぶりのみなめざめ…
 多くの芝居マニアがそうであるように、自分の凝りっぷり、のめり込みっぷり(かくも凝り過ぎな伝統文化を眺めるにつけ、典型的なガラパゴス島的日本人体質に違いありません)ときたら尋常ではないので、観劇は一人で行くことを旨としているのですが、時々、うれしいことにご同道下さる方がいます。
 そんなカンゲキ時は、先代の歌舞伎座の二階の奥に吉兆がありまして、忙しい幕間のお弁当をいただいたりするのですが、円いコースターを縁取るように、この回文が書かれているのです。
 以前、この話をしましたら、大阪の吉兆に行ったらやっぱりありました、とお弟子さんがコースターをお土産にくださった。大阪のは中心に宝船の絵も描いてありました。
 新しい歌舞伎座、三階奥に吉兆があります。もう無くなっちゃったかなぁ…ドキドキしてお弁当を注文したら、嬉しや、変わらぬ回文コースターでした。
 そんな想い出もある、宝船の曲です。
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魁(さきがけ)

2012年02月02日 22時22分02秒 | お稽古
 百花に先駆けて、梅は寒中につぼみをほころばせる。
 それがため、梅は「花の兄」と呼ばれる。
 
 そして世を謳歌して咲き誇った花々が、散っていったそのあとに、菊は花開く。
 ゆえに、菊は「花の弟」といわれる。

 長唄に「君が代松竹梅」という佳曲がある。
 梅をうたった曲というと、まず長唄では「梅の栄」という名曲が挙げられるが、私は「君が代松竹梅」の梅尽くしの箇所が、特に好きである。
 はつ春らしい、しら梅のかぐわしい、匂うが如き清々しさに満ちている。

 同曲の結びの段の詞章を引く。
 ♪…千歳(ちとせ)の松の色変えぬ、実(げ)にまた梅は花の兄、
   南枝(なんし)はじめて開きそめ、薫りは世々に呉竹の……

 たとえ何があっても信義を変えぬ、確固たるものにワタシハナリタイ…と思う。
 
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ダイナマイツ浦島

2011年09月27日 23時55分05秒 | お稽古
 中学生のときの芥川龍之介「邪宗門」、長じて谷崎翁「乱菊物語」を、あぁ、これからどうなるのだろう…!!と、激しく胸躍らせてページをめくって、「未完」という活字が、目に飛び込んできたときの、あのたとえようもない、中途半端な虚脱感。
 生きている限り「つづき」は「つづき」であり得るが、物故した作家に続編執筆を求めるすべはないのだ。

 長唄界で、繰り返し演奏される曲のひとつに「新曲浦島」という、海のさまざまな情景を描いた名曲がある。
 坪内逍遥大先生が、日本にも国際社会にアッピールできる新しい演劇が必要である、という新思想のもと、一念発起して、長唄、常磐津、義太夫など、日本の伝統音楽でもって一大叙事詩的楽劇をこしらえた。明治三十九年、西暦にして1906年のことである。
 しかし構想が壮大過ぎて、結局、長唄で作曲されたオーバーチュアの部分しか上演できずじまいだったという、未完の大曲。
 力強く走る波がしら、夕暮れの凪いだ海面、嵐の轟く情景など、さすが逍遥先生の作詞もすばらしいが、長唄界の名手の手になる作曲も素晴らしい。演奏者も表現する愉しさを存分に味わえる、スペクタクルに満ちた、溌溂とした曲なのだ。
 
 …で、新曲、というからには旧曲があるわけで、日本舞踊好きには実にポピュラーな、おさらい会には必ず誰かが出曲するというような、その名もズバリ「浦島」という珠玉の小品がある。お伽噺の浦島太郎を素材にした舞踊曲だ。
 えーなに、浦島太郎の曲って、幼稚園のお遊戯会じゃあるましー、と、呟いた方は、お待ちなさい。長唄に、そんな芸のない曲が残っているわけがない。

 これはね、さざ波のような旋律とともに、遙か水平線のかなたから、浦島太郎が艪を漕いで、ドンブラコと、現世に戻ってくるところから始まります。
 そして、波打ち際で涙ながらにカニと戯れ、龍宮城での乙姫様との楽しかった日々を、ひとり想い出す。
 楊貴妃と玄宗帝の白居易「長恨歌」になぞらえたような、ロマンチックな歌詞で綴るラブソングになっているのですね。
 ♪袖に梢(こずえ)の移り香が散りて、花や恋しき面影の…忘れかねたる比翼の蝶の、情け比べん仇桜…
 旋律も美しく、もう本当に、ため息しか出てこないような、リリカルな叙情性に満ちた世界が、聴く者の感性を揺さぶる。
 しかし、この曲もまた(古典であるから古風にメリハリつけずに弾く、という表現方法もあるわけではあるけれども)情感を込めて緩急つけて表現しないと、それが聴く者のハートに伝わらない、そんな曲でもあるのだ。

 そして、ひとしきりロマンス懐古シーンが過ぎると、浦島の疑心を表すサスペンスに満ちたメロディが。
 ……あぁ、玉手箱、開けちゃおっかなー、どうしよっかなー。
 どろどろどろん…と白煙が立ち、太郎はたちまちオジイサンになっちゃうのですが、そのあとの旋律が、またカッコイイ!!
 この部分を弾くとき、私の眼の前にはいつも、とどろ巻き立つ浪をバックに、虚空を掴むかのように手を前へ突き出し、茫然自失たる浦島の姿が、劇画チックに浮かぶのだ。
 もう二度と帰れない。帰って来たけど、帰れない。
 山上たつひこの「うらしま」というホラー短編漫画もあったけれど。

 かたや文政十一年(西暦1828)の江戸の歌舞伎舞踊、また一方は明治の近代的発想で作曲された、対極にあるようなこの新・旧二つの浦島、実は、両者ともに、ダイナミックな海の魅力を喚起し、演奏者の表現力を発揮できる、愉しい曲なのだ。

 もう二度と戻らない…という切ないキーワードを思い描くとき、私は小学生のとき読んだ、安房直子「きつねの窓」という短編童話を想い出す。
 あるとき主人公は猟に出かけた山中で、小狐を見かける。彼を追って深く山中に入ると、突如林が開け、桔梗屋という染物屋が目の前に現れる。追っていた小狐が化けているであろうその店の小僧に勧められるままに、両手の人差し指と親指を、桔梗のしぼり汁からつくったという染料で、美しい青紫色に染めてもらう。
 その四本の指で菱形の窓をこしらえて覗いてみると、なんでも、自分が逢いたかった人に会えるというのである(もう何十年も前に読んだ話なので、違っているところもあるかもしれない)。
 主人公は、もう会うことのできなくなったお母さんの姿を、その指の窓のなかに見出し、雀躍して家に帰るのだが、いつもの習慣で、ついうっかり手を洗ってしまうのだ。

 この小説を想い出すたび、似たような切なさを持って私の脳裏に浮かぶのが、有島武郎の「一房の葡萄」。紫色の艶やかなブドウは思い浮かぶけれど、そのブドウをのせていた先生の美しい白い手はもうどこにもない、というような切ない文末だったように記憶している。
 ともに初秋を彩る植物が介在する。

 フランク・キャプラ監督らしくないけれど、むかーし「失われた地平線」という映画もあったなぁ。
 夢の桃源郷・シャングリラへ行ったものの、人はどうしても遊び呆け続けていることができなくて、自分のいるべきもとの場所へ、戻ってきてしまうのだ。
 
 秋はそんな、もう二度と再び巡り会えない人に、会えるような気がする季節でもある。
 そしてここ2か月ほど、美しいタイやヒラメの舞い踊り…ならぬ、はたで見ているものの心の底が打ち震えずにはおられぬほど、一途でひたむきな表現者たちの舞台を追いかけて、龍宮城に深く潜行していた私は、Uボートの如く、再び浮上するすべを失った。

 若い時に恋すると、失うものは何もないような気がするから、すべてをかけることも出来ちゃう。
 歳とって恋をして、すべてを失っても、再び、怖いものは何もない、何もないのだけれども、しかし、そこまでして想う相手から何かを得たいか…という気力もなければ体力もない。フッ…とトレンチコートの襟を立て、ポケットに手を半分入れながら、ひとり笑みするのはそんな気持ちになったときだろう。
 …恋や恋、なすな恋。
 ♪なれし情(なさけ)も、いまではつらや…(オジイサンになった「浦島」の詞章)。

 そしてまた、深海の龍宮であったわが戦国鍋TVも、最終回を迎えて、私には戻る場所とてないのだった。
 かてて加えて、久しくブログの扉を開かぬうちに、かの入り口は固く心を閉ざし、たしかこれであったはず…という呪文(パスワードですな)を申し述べても、私を中へは入れてくれないのだった。
 …というわけで、パソコンの文書ソフトで原稿を書き、それを携帯へメールで送り、さらに唯一、認証で入ることのできる携帯からログインして、投稿するという…なんだか、親父さんに勘当を受け、表立っては自分の部屋に出入りもできない、井原西鶴『好色一代男』の世之介みたいになってきた。
 あぁ、それとも、このふた月ほど私がいたのは、女護ヶ島だったのかしらねぇ……。

 今日から、太陰太陽暦、平成廿三年の九月。
 「新曲浦島」の詞章♪錦繍のとばり、暮れゆく中空…
 変わり易い空模様の、雲流れゆく秋である。
 
コメント (2)
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