長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

こどもの神様

2022年07月31日 07時57分30秒 | きもの歳時記
 三つ子の魂百まで…こどもの頃、目にしたものは生涯忘れられないものである。
 記憶の何処かに潜んでいて、上層に様々なものが沈澱して、すっかり忘れていたのに、ある時ひょっと眼にしたものが、あっ、これを私は知っている、昔とても好きなものであったはずだ…と、自分でも吃驚することがある。

 二つになるかならないかの子ども時代、私は絵本を読んでもらうのが迚も好きだったらしい。
 母の話では、目の前に絵本を拡げて読んでいて、ふと、分かっているのかしら…と思って読むのをやめると、まだ口がよく利けないのに、本を手で示して続きをうながしたそうである。

 熊田千佳慕先生の『おやゆびひめ』は、私のとても大好きな絵本だった。
 熊田ちかぼ先生は、ファーブルに影響を受けた昆虫の画家としても有名である。
 たまたま数年前、「バースディカード」という、1970年代に撮られた水谷豊主演のTVドラマを見たことがあり、劇中ロケの北海道のとある都市の街角の本屋さんの店先のブックラックに、私が好きだったあの本の表紙が覗いていて、とても驚いた。
 あの頃(このドラマが作られたころ:1977年と、その後の調べで判明)も、まだ書店に並んでいたのだ…!

 その後、コロナ禍になって、母のアルバムを整理していたら、従姉妹のチアキちゃんと一緒に写っている私が出てきた。
 ビックリしたことに、つい先日目にして想い出した、熊田千佳慕・絵の、おやゆび姫も一緒に納まっていた夏の庭でのスナップだった。
 気に入っていたカトレアの柄の浴衣。二つ半ごろだったので、肩上げをしている。

 その時撮ってくれたのは誰だったか覚えていないのだが、傍らにいたチアキちゃんのお母さん、つまり父方の叔父の連れ合いの叔母さんが、お互いに持っている本を交換して持ちましょう、と、当時は何かよくあった趣向で撮影したのだった。

 私が手にしているのはチアキちゃんのシンデレラである。
 チアキちゃんは聡明で機知に富んだ同学年のいとこで、盆暮正月、親戚が集まるたび、早生まれで幼く何かと覚束ない私には思い付かない、面白い遊びを考える名人で、憧れの人物であった。

 あるとき…この写真よりだいぶ後年、たしか小学生に上がって間もない年齢だったと思うが、4コマ漫画を描いてみよう、とチアキちゃんが言った。お盆だったか、暮れからのお正月だったか、とにかく親戚が集まって宴席をしていた時だった。
 凄いなぁ、自分でマンガを描いてみるなんて…と思いながら、私はその頃常々考えていた、人気のお伽話へのアンチテーゼを形にしてみた。

 1コマ目は、明日はお城の舞踏会だわ~!と、子供の手になるヘタウマ以前のシンデレラ擬きがタノシミだわ~とウキウキするシーンから始まる。
 次のコマで万難を排し宮殿へ到着、すると3コマ目、見るからにバカ殿らしき王子さまが出現…あたし帰る、という4コマ目のオチである。
 これが親戚に意外とウケた。

 チアキちゃんはシンデレラとは全く違う生き方で、名門大学を卒業後、大手新聞社に入社し、記者として活躍した。

 このコロナ禍でインターネットで調べ物をすることが増えたところ、記憶の底に沈んでいた幼稚園に上がる前の、私の神様(絵本作家)たちを改めて知るという現象が齎された。

 『長靴をはいた猫』というペローの有名な御噺がある。私の世代には、“ながねこ”の略称で忘れ得ぬ映像作品でもある。東映アニメーションのイメージキャラクターにもなっている。
 とても好きだった私の絵本『ながぐつをはいたネコ』は、黒い紙にパステル画で描かれたものだった。
 思い起こすにつれ、現在世の中に流通して販売されているどんな長猫よりも、オシャレで芸術性に富んだ絵本であると感じた。
 作家は誰だったのか、とても気になっていたが、半世紀も前の子供向けの絵本がまだ残っているとも思えなかった。
 それが、インターネットの検索で明らかになったのである…ありがたい。 

 わがまぼろしの長猫は、三好碩也…みよしせきや先生の手になるものであると知った。

 小学2年生の時、理科学習漫画シリーズ『人体の神秘』のとりこになって…それは、本屋さんで皆が立ち読みしてカバーが襤褸ぼろのほぼ本体だけの書籍が平台に出ていて、お店の人が、すみませんねぇ、今この現品しかなくて、と謝るのを、でもどうしてもその本が欲しくて買ってもらったものであるのだが、それを口切りに、そのシリーズを一冊ずつ揃えてもらった。
 その中に『動物の王国』があり、その表紙絵を担当していたのが太田じろう先生であった。
 それを私は2020年に開催された、氏の回顧展の、SNS上の情報で知った。

 行きたかったなぁ…と思いつつ、この3年間で、行けなかったり中止になった催し物の数々に思いを馳せたところで、なんと…!!
 太田じろう先生の世界展が今年、2022年8月6日から開催されると今知った。
 うれしい。(秋葉原のフォーラム・ダンクとは何処に在りや…)
 うれしい。
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花がるた 七月 萩・桔梗

2022年07月06日 07時04分10秒 | きもの歳時記
 今年はどうしたことでしょう、新暦の六月下旬から摂氏三十度超えの日が続き、二年続いて継続中のコロナ禍下も小康状態とて、少しづつ仕事を復活させる機運が街なかに広まりつつありますが、大好きな薄物を身に纏う喜びも半減いたします。

 生地を見ているだけで、その透け感にうっとりしてしまう明石縮は、雨に遭うとチリチリチリ…としぼんでしまうので、こんな急変する天候の時はもってのほか、十年ちょっと前、知り合いの呉服屋さんがお店をたたんでしまった折、一級河川…東京に於いては多摩川と荒川なんですが…一級化繊でもあるポリエステルの絽小紋を何着か仕立てて頂いたことがありまして、これが夏場は非常に重宝致します。
 しかし、この暑さはもう、如何ともし難く…。

 久しぶりに小千谷縮を取り出してみました。
 同じ“ちぢみ”でも、明石は正絹、長唄・越後獅子の歌詞でもお馴染み、小千谷は麻です。
 袖を通しただけで、ひんやりとして、ぉぉうれし。



 紺とグレーの幅広の縞に、矢羽根柄が織り出してあるこの小千谷ちぢみは、もう三十年以前に、今はなき渋谷の東急プラザにあった越後屋さんの、例によって夏物の売出しで求めたものでした。
 帯も麻の、染め名古屋帯です。
 生成り地に、淡い灰色で障子に見立てた格子を取り、秋草がそこはかとなく、達者な筆致で描かれています。
 前帯は、桔梗と白萩の二種、落款は"紫香"とありました。
 本職の、手慣れた職人さんの、量産品ではありましょうが、素晴らしい芸術品です。
 
 昭和から平成の前半にかけて、我々一般的日本人は、このような品々に囲まれて日常を彩っていたのでした。
 令和の現在の、産業構造の推移が残念です。

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花がるた 六月 薊

2020年06月22日 23時55分50秒 | きもの歳時記
 新暦の6月、単衣(ひとえ)の着物に夏帯を合わせます。半襟や襦袢(じゅばん)も夏物です。
 紗(しゃ)や絽(ろ)の薄物は7月になってから着ます。
 昭和のころは6月の定番と言えば、紗袷(しゃあわせ)というオシャレの真髄、まさに歩く絵画、美術品というような、惚れ惚れする着物がありました。
 具象的なモチーフ(季節の動植物、たとえば鮎や紫陽花など)が描かれた紗の下地に、上生地に波紋や雲、霧などを描いたり織り出したりした紗を二枚合わせて仕立てた、袷(あわせ)の着物です。

 生地が透ける、紗という織物の特質をよく生かした衣装、そして意匠と言えましょう。
 とてつもなく抒情的な世界が、一枚のきものから広がります。

 ぜいたく品なので、20世紀のある時、上野広小路にお店を構えてらした呉服屋さんが、「うちは紗袷の下の生地を単衣物で拵えたりもいたしますよ」と、耳打ちして下さったことがありました。
 地球の資源に限りがあるように、私の懐にも限りがあります。
 幸いなことに(悲しいことに)お茶などのTPOに厳しい業界と違いまして、パーティでもない限り、演奏会や稽古時に紗袷を着ることはありませんので、有難い呉服屋さんのお気遣いに報いることは出来なかったのですが、6月が来るたび、紗袷という着物に対するあこがれを想い出します。

 例によって例のごとく、日本橋の高島屋さんの売出しを冷やかしていた私の目の前に、どきん!とする帯が現れました。
 ペパーミントブルーのもっと薄い、ガリガリ君にも似たシャーベットのペールなグリーンとでも申しましょうか…ごくごく淡い青磁色の絽縮緬(ろちりめん)地に、薊(あざみ)の花茎が潔い筆致で描かれていました。
 しゅっつとした勢いの、惚れ惚れとする筆遣い。
 これまた何度目かの一目ぼれ。
 絽縮緬なので、まだ6月に入りたての初旬に、ちょうど良い名古屋帯でした。
 
 籠目(かごめ)の江戸小紋に、この帯を締めて6月の歌舞伎座へ、三島由紀夫のお芝居、当時勘九郎だった中村屋と玉三郎の「鰯売恋曳網(いわしうり こいのひきあみ)」を観に行きました。
 ほんの小さな意匠ではありますが、舞台に展開する世界の一端を身に纏うことにより、ますます芝居世界を共有した気がして、言い知れぬ充足感で胸が満たされました。




 同じ籠目のきものに、平絽(ひらろ)の染め名古屋帯を合わせた写真です。
 夏の柄の定番、茶屋辻(ちゃやつじ)が描かれています。
 色数を少なく合わせるのが、涼しげに見えるコツだと、昔、教わったものでした。
 
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花がるた 四月 藤

2020年06月10日 23時44分55秒 | きもの歳時記
 長すぎた春休みゆえの、夏休みが半分もない…かもしれない…というあまりにも悲しいニュースを目にするにつれ、一個の人間の将来、人生を左右する重大事である、子ども時間の在り方に思い馳せる。
 久しぶりに聴いた志ん朝の四段目で、昔は子ども向けの娯楽というものはあまりなく、大人の遊びにおまけで連れて行ってもらったものだった…と枕にあった。大人の無意識な日常が、子どもの人生を左右するのである。大人の責任は重大なのだ。

 小学1年生の夏休みの研究で、父の入れ知恵、差し金の成果である「アリの研究」で賞状をいただいた私は、でも、小学4年の時は「日本の服飾の歴史」という自由研究をする、オシャレ好きな、ごく普通の女の子に育ってはいた。
 前号で、21世紀のテレビドラマの衣装に対する連綿たる心情を語り損ねたが、1983年の市川崑監督の細雪(私は山根寿子が三女・雪子だった阿部豊監督1950年新東宝作品が好きだけれど)をはじめとして、呉服屋さんが協賛していた映像作品の、きものの豪華絢爛さたるや…娯楽作の常で当たり前だと思って気にも留めなかったけれど、今思えばあれこそが、夢、夢であった…のでございましょう。

 ある年の宗十郎の会の「鬼神のお松」だったかしら、子育てをしながら生業の盗賊に精を出す女丈夫の世にもカッコいいお芝居なのだけれど、煌びやかでありながら、尚且つ渋くて上品な金泥が施された馬簾の四天の出立ちで、花道七三に極まった九代目紀伊国屋が「提供は、千總~!」とこれまたカッコよく宣った姿と声が忘れられない。
 
 今日は旧暦では令和二年閏四月十九日で、ざっと220年前の西暦1800年、寛政12年の今日、伊能忠敬が旅に出たという、歴史地図フェチには忘れ得ぬ記念日であるのだが、さて、忠敬先生の、その日の出立ちやいかに。
 産業革命で蒸気機関が発明されて以来、地球の気温は上がり続け、一方で江戸時代は軽い氷河期(?!)だった、というお説も昔聴いたけれど、時代劇の着物の季節感がやたらと気になる老婆心。

 此の方はというと…20世紀中は猛暑日などという言葉がなかったので、新暦の4月いっぱいは袷(あわせ)を着用していたが、最早、熱中症の恐ろしさには代えられず、4月中にこっそり単衣を着ていたりする。
 着物の仕来りが重視されるTPOとは違い、自分の場合は仕事着のこともある。気候の変動に合わせて規範というものも崩壊した。



 藤は執着深い花である…と何に書いてあったのか忘れてしまったが、古典的な柄では、松の枝の、木の精を吸い取ってしまうかのように絡みついている。
 もう30年以前、金毘羅歌舞伎に出かけた折、高松空港からの道中の車窓から、藪の枝の上部に野生の藤の花が咲いているのを方々で見かけた。白い藤が多かった。
 松見草という別名に、先人の日本語のセンスがしのばれる。命名の妙である。
 ♪いとしと書いて藤の花、という長唄「藤娘」の歌詞はなるほど、葦手の柄行そのものの藤の花房を想い出させる。
 長唄舞踊の藤娘の衣装は、女形の役者さんごとに好みが違って、私は音羽屋・七代目尾上梅幸丈の、オレンジがかった朱と、スモーキーなカーキっぽい萌黄色の、片身替りの衣装が好きだった。

 しかし、歌舞伎座で藤娘が掛かっても、藤の衣装で観劇するのは野暮の骨頂というものなので、変わり縮緬地(一越にしては地厚なので織地不明)の藤の染め帯を、芝居に着て行ったことはない。

 将棋に凝っていたのはもう10年以前で、このたび藤井聡太七段(えっ…もう七段なんですね…四段と書いてしまったので急いで直しました)に棋聖戦で挑戦されている渡辺明三冠が、無敵の竜王何期目かの防衛をしていた頃だった。
 3.11の震災があった春先、チャリティイベントが多く行われた。イベント目当てで旅行することは稀な自分には珍しく、名人戦を追っかけて弘前を訪れたりもしたが、憧れの棋士先生が指導対局してくださるというので、黄金週間の始まりの旗日に、横浜はみなとみらい地区のイベントまで行ったときに締めていたのが、この帯である。

 午前は横浜、午後は日本橋の知人の演奏会へとトンボ返りで忙しかったが、東京へ向かう空いている根岸線の中で、棋士先生の指し手を思い浮かべては、一人にやにやしていた(ほかに乗客がいなくてよかった…)。車窓から射し込む、明るい晩春の日差しのなかで、全身喜びに満ち溢れていた。
  うれしさを 昔は袖に包みけり 今宵は身にも余りぬるかな
 そんな古歌を想い浮かべるほどに、そう、その時なぜだか、私は春だった。

 実はこの帯は、20世紀の美しいキモノ誌読者垂涎の、K先生の作品なのである。
 2000年を過ぎたころ、作家ものとは縁遠いワードローブ生活者の私が、日本橋のT百貨店の、特選呉服売り場の売出しを冷かしていたとき、なんと…!!というお値段で出されていた。
 「えっ!!本当にこのお値段なんですか!?」と訊くと、「まったく嫌になっちゃいますょねぇ…」と実直そうな店員さんが言葉を濁しつつ答えた。
 輝かんばかりの金通しの菊の柄と、あと何だったか…藤のものと合わせて三本ほど、出ていた。買い占めたかったのであるが手元不如意につき、クリーム色と藤の紫の取り合わせが何とも言えず素敵だったので、しかもしゃれ袋ではない、締めやすい名古屋だったので、一筋だけ求めた。

 藤棚の竹の菱形に合わせて、ひげ糸の紬を空色の斜め格子に染めた袷に合わせた。
 朗らかな晩春の空、このいでたちの私は、身も心も春だった。わずか10年ばかり以前のことである。 
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花がるた 二月竹に福来雀

2020年04月18日 18時08分20秒 | きもの歳時記


 籠城してはや幾日…曜日の感覚が最早なく、日々の天候で日にちを計る、東京都下郊外の陸の孤島に住まいする、令和ロビンソンクルーソーの物語。
 4月2日、鈴蘭の新芽によろこぶ。地球温暖化の賜物か、成長が早く、



 4月15日、慌てて写真を撮る。早くも鈴蘭らしく葉が巻いている。
 新芽の時は、左側が早く出ていたのに、右側の成長著しく、



 4月18日、先に芽生えたものを凌駕しつつある自然界の不思議な法則。
 ふと思いつきで、左を千松、右を鶴千代、と名付ける。



 関東好み、というものがあって、20世紀の着物界のブランドで、私が常々憧れていたのは、竺仙、そして矢代仁だった。
 1990年代の忘年某日、とある百貨店の売出しで廻り合ってしまったのが、竹に、ふくら雀のこの縮緬(ちりめん)の染め名古屋帯である。見るなりガビーーーーンと、赤塚不二夫の漫画の描き文字様の衝撃が心の臓に走った。

 昭和のころ、吉祥寺の近鉄百貨店の呉服売り場で、参考商品として展示されていた帯の柄に瓜二つ…!! だったからである。
 とてもとても好きだったので、売り場に行くたび、穴の開くほど見つめていたのだ。値段が提示されてなかったところから類推するに、江戸時代の型染の復刻版だったのかもしれない。
 地に格子柄が方眼状に入り、さらによく見ると、竹の菅が、心持ち、立涌(たてわく)状の縞に配されている。
 垂れと手が、太鼓と別の色取りになっていて、その意匠も気に入った。



 塩沢絣地(しおざわがすりじ)に、紫濃淡の滝縞(たきじま)が後染め(あとぞめ)になっている着物に合わせて、いつだったか…2月の文楽公演、伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)に出掛けた。帯揚げは、ペルシャ風の更紗(さらさ)柄が地紋で織り出された、香色と空色が、白い一本のよろけ線で染め分けになっている、オールラウンダー。



 竹に雀は、皆様ご存知、言わずと知れた仙台藩54万石、伊達家の家紋である。
 伊達騒動を題材にした先代萩ものは、歌舞伎の悪役・仁木弾正を新解釈で描いた、山本周五郎原作で、映画では長谷川一夫主演『青葉城の鬼』、NHK大河ドラマ『樅の木は残った』のほうが、後期昭和生まれには刷り込みが早い。

 1980~1990年代の歌舞伎界は、いま思うと、各家の女形の大全盛期だったので、御殿勤めの、絢爛豪華たる武家の妻女たちが総出演する御殿の場の面白かったこと(憎まれ役の迫力の女性を立役の役者が演じる、そのギャップもまた可笑しすぎたりもして)、手に汗握る熱演の凄まじかったこと…手に取るように目に浮かぶ。
 そしてまた、立ち廻りの緊迫感が手に汗握る、対決・刃傷の怖かったこと…
 なんと言っても、毒殺の恐れがある若君のために、乳母(めのと)が御膳に手を付けさせず、茶釜でご飯を炊く、まま炊きの場の、千松と鶴千代君のいじらしかったこと。



 先代萩は、あまりにも面白く見どころ満載の芝居なので、通し上演されることも多く、また、女形の活躍どころである、先代萩や加賀見山は、藪入りのお休みの日に御殿勤めのお女中たちが観劇のお目当てにした番組だそうだから、3月にかかるのが習わしだったそうで、縮緬の帯は冬に着なきゃ…と思っている自分は、先代萩に当てて歌舞伎座へ締めて行ったことはあまりなかった。
 神谷町びいきの私は、成駒屋三代揃い踏みの先代萩が観たかった。
 福良雀は児太郎丈の紋でもあったのだ。



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花がるた 三月桜

2020年04月12日 18時05分28秒 | きもの歳時記
 人間として大切なものは何か、子どもたちには分かりにくい世の中になっていると思います。

 テレビをつけても事務所のサラリーマンと化した芸人たちの悪ふざけ、タカリを推奨・助長するようなゲーム感覚のバラエティ番組などなど、20世紀と比べて明らかに低次元化しています。

 NHKの教育チャンネルでなくとも、日曜日の朝、イルカの「雨の物語」がオープニングテーマになっている、古今東西の名著を紹介する番組が、昭和のころ在りました。夜、久米明氏の厳かなナレーションとともに、世界各地の歴史的な不思議を紹介する番組もありました。奇をてらった表現ではなく、極々穏やかで静かに、私たち昭和の子どもは未知なる世界と接する機会を与えられ、向学心のようなものも育まれていたのではないかと、感じます。

 岩波子どもの本、というシリーズがあり、私も未就学児童のころから親しんでおりました。
 挿絵も素晴らしく、初山滋『瓜子姫とあまのじゃく』、武井武雄&サマセット・モーム『九月姫とウグイス』、翻訳ものでは『ちいさいおうち』『こねこのピッチ』『花の好きな牛』…etc.…何度読み返したか知れません。

 今日はそんな中の一冊で、想い出すたびに、いじめ問題解決の糸口はなかったかと胸が苦しくなる、『百まいのきもの』を連想しつつ書き起こします。



 1980~90年代、通勤のための着物の着回しを考えたとき、塩瀬の染帯は必須アイテムだった。
 四季折々の花の柄は、棒縞(ぼうじま)の御召(おめし)や、堅牢で汚れの目立たない紬の着物によく合った。
 平成になって間もないころまで、銀座松屋の呉服売り場は、確か3階(4階かも?)にあった。
 百貨店における呉服売り場は、その業態の要となるものだったので、いずこの百貨店でも20世紀中には、地上からそう遠くないメインのフロアに、ドドーンと存在していたのである。
 スモーキーな桜色とグレーの棒縞の御召は、親の力を借りず、自前で購入した二枚目ぐらいの着物だった。
 松屋の呉服売り場は小物もシャレていて、歌舞伎座の行き帰りに欠かさず寄っていた。もちろん、ほとんどがウインドゥ・ショッピングだったので、この着物を手にしたときは頭がクラクラした。

 それから5年ほどのち、新宿伊勢丹での即売会の売出しか何かで、さらに目の前がクラクラする一目惚れの帯が、この塩瀬の薄いグレー地に描かれた枝垂れ桜の染め帯である。ポイントに金糸の縁取りの刺繍がある。
 垂れに、三ひらほどの花びらが、そこはかとなく散っているのが、ぐゎしと胸ぐらを掴まれた要因でもあった。



 前帯も同じ枝垂桜である。
 帯揚げは、昭和のころ、まだ吉祥寺に近鉄百貨店があったとき、同店の呉服売り場で求めた鉄紺(てつこん)の綸子(りんず)。
 関東にはないような、上方から下ってきた素晴らしい工芸品が近鉄百貨店には在って、何かというと吉祥寺の近鉄デパートに行っていたのだが、プロ野球球団の近鉄バファローズが優勝する前年に撤退してしまったので、関東の民は優勝セールの恩恵にあずかれなかった。悔しい。野茂投手が大活躍して、日本人選手として初めて(と、私は思っていたのですが)大リーグへ行ったのがこのころである。

 帯揚げひとつ取っても、全盛期の日本の染色業界は手が込んでいた。
 地紋は網代(あじろ)に梅鉢(うめばち)の散らし、桜の一枝を生き生きと活写した筆致を生かした白上げに、思い思いの色指しが為されている。
 これも多分売り出し中だったので、二、三千円で購入できた。昭和のころの相場はそんなものだった。

 このいで立ちで、花見時、四谷の紀尾井ホールの下ざらいに出向き、午前中に用事が済んだので、その時、たしか、市川雷蔵の没後30年追悼上映会をやっていた、横浜のシネマジャックまで遠征した。
 大岡川の桜並木をそぞろ歩き、さくら尽くしの一日に身も心も蕩けたが、のちに「桜の時季に桜の柄のものを着て、本物の桜の前に出るのは、桜の花に失礼である」と、とある呉服屋さんの女将さんのお話を聞き、ああ、そうか…そういうこともあろうかと、反省した。




 縮緬(ちりめん)の染め帯は寒い季節のオシャレにうれしいものである。
 東京の呉服屋さんの連合会で、年に何回か展示会をやっていて、銀座のメルサだったろうか、日本橋の丸善の裏のビルだったろうか…で、めぐり逢ったのが、鼓(つづみ)に桜があしらわれた、薄いベージュ(香色)のこの帯だった。
 箏絃(こといと)を模したものか、右端六筋、左端六筋の、合わせて12筋は、13本の絃に一筋足りないが、琴柱(ことじ)の意匠があしらわれているのも面白い。
 和の楽器に勤(いそ)しむ者にはこれまた、グッと来てしまう柄行き(がらゆき)である。
 袋帯の尺があったのを、名古屋帯に仕立てていただいたので、落款が垂れに出ないのを申し訳なく思って、撮影用に。



 前帯は源氏香(げんじこう)。
 平成の初めごろ、まだ銀座の1丁目辺りにお店があった、とある呉服屋さんの売出しで入手した、琵琶や笛、箏の楽器尽くしの帯揚げを合わせた。
 振袖以外で、帯揚げがよく見えるように着付けるのは野暮天なので、常に日陰者…というか帯の蔭にしか存在しえない凝った柄の帯揚げがいとおしい。
 鼓の帯に、帯揚げの鼓の染め柄が見えるように着付けるのは難しい。



 右利きの私は、いつも同じ側の前帯になってしまうので、誰かに着付けて頂ける折が在ったら、反対側の前柄を出して着たいものである…いつも出ない柄のほうが可愛らしくて色鮮やかである。源氏車と手毬。
 しかし名古屋帯は普段着か、せいぜいがところお出掛け着なので、それも叶わぬ夢。

 京鹿子娘道成寺の地方(じかた)で、おさらい会の下ざらいに、塩沢紬(しおざわつむぎ)と合わせた。
 吉野山の観劇の折に、小紋の着物と合わせて、シャレて出かけたいなぁ…と思っていたが、当代の歌舞伎座のことは、それもまた夢。
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群生

2019年04月01日 11時00分00秒 | きもの歳時記
 ♪3月31日と4月1日の間に~~~と、歌い飛ばすにはつらい、制度の替り目が在って。
 じたばたしているうちに平成30年度は仕舞ってしまった。

 仕方ないので花見しょ、とお向かいの公園へ、桜のご機嫌伺いに。
 ふと見ると、昨年まで天南星が咲いていた傍らに、なんと今年はカタクリが咲いているではありませんか。



 なんとまぁ、めずらしい。
 20世紀から21世紀にかけて、カタクリの花が咲く、というと珍しいので埼玉県の群生地が必ずニュースになっていた、その便りを聞かなくなったなぁ…とふと思い立って、お彼岸の青青会@杉並能楽堂へ、稽古の都合もあって、もう何年かぶりでカタクリの織り帯を締めて行ったのがつい10日前のこと。
 まぁ、片栗の帯ですね! と声をかけて下さった見所の有難い見知らぬタバリシチに、絶滅種のシンパシーをしみじみと。
 これはもう25年前、上野の広小路の佐野仁さんのショーウィンドウで一目惚れして求めた黒地の八寸でした。
 きものの柄の約束事の一つに、四季折々の花はシーズンに先駆けて装う、というものがありまして。



 ただし、桜はその限りではない。
 …そんなお話を始めるとキリがない。
 街に、季節感を感じるきもの姿が少なくなったのが、平成も半ばから末年頃のことでした。(守貞漫稿風記録)

 雨という天気予報が、思いのほか晴れ晴れとして、平成31年度4月の最初の空に雲は流れゆく。




 
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白いネギ

2010年12月05日 14時40分00秒 | きもの歳時記
 「先生、神無月は今日で終わりだよ」と、若草山の鹿ではなく、濃い紫地の塩瀬の帯の鹿が、私に語りかける。
 遠山に一もとの紅葉。「もみじ踏みわけ啼く鹿の…」古歌を思い起こす二頭の鹿が描かれたこの帯は、海老茶の小紋に合わせて、よく、11月の顔見世観劇の際に締めていたものだが、今年は出番がなかった。

 もう3年ほど前になるだろうか。万城目学の『鹿男あをによし』がテレビドラマ化されて、新作の小説は、前世紀末に出現した『くっすん大黒』などの町田康以降、全然読んでいなかった私が、一挙に万城目ワールドに惹かれ、『鴨川ホルモー』が映画化されたころには、寡作の万城目作品を全部読み尽くしてしまった。
 爆笑、やがて悲しき…という感じでもない、人情の機微をすくい上げた泣き笑いが同居する、何ともいえずチャーミングな世界が、読む者の心をとらえる。

 万城目も町田も大阪の人間だ。
 そういえば、もう十数年以前の三十代前半のころ、大正から昭和初期の小説をむさぼるように読んでいたとき、上司小剣や水上滝太郎の、大阪を舞台にした小説がとても面白かった。

 ちょうどそのころ、大阪出身の友人が結婚することになり、ご実家に戻ることになった。彼女は私のようなデラシネとは全く違う、たしかご両親とも大阪に本社がある財閥系会社の勤め人で、ご両親の本家は船場にあるという話だった。
 船場……。いかな世間知らずの私でも、その地名は、大谷崎の『細雪』や、花登筐の浪花商人ど根性もののテレビドラマ群で、子どものころからよく知っている。
 ことさら他人に対して詮索癖の無い私は、詳しいことは聴かずじまいだったが、幼少のころ彼女は、学校から帰ると、きものに着替えて近所の友達と遊んでいたらしい。

 思えば、私が日々着物を着て暮らす生活に強い憧憬の念を抱いたきっかけというのは、子どものころから茶の間に常にあった、そういうベタな時代劇からではなかった。
 高校生のころ、幕末の志士に憧れて、月代を長く伸ばしたざんばらの着流し姿の浪人者のイラストを数多く手すさびに描いたりもしていたが、なんといってもその直接的銃爪は、学生時代に観た大林宣彦監督の『ねらわれた学園』だったのである。

 たしか、主役の薬師丸ひろ子が、学校から帰宅すると制服から着物に着替えて生活していたという設定だった。それがなぜか、十代終わりの私の心に強く刻みつけられたのだ。
 …これだ! この方法なら、半農半漁ならぬ、半洋半邦生活が実践できるはずだ!!



 余談はさておき、そんなわけで彼女は、大阪に帰る前に江戸をよく見ておきたい、ということで、私にいろいろ案内してもらえないか、と言うのだった。
 昭和60年ごろから一人で歴史散策をしてきたから、腕(?)に覚えのある私はとても嬉しかった。
 そんなわけで、平成ひとケタの都下を、数回に分けて、休日のたび、案内した。そして一人ではあまり行かない、老舗の鍋料理などを出す店へも、何軒か訪れた。

 ある日、上野から谷根千界隈を歩いていたときのことである。
 上野の広小路の裏のほう、ほとんど池之端に近いあたりに、とり栄という鳥鍋屋があった。今でも存続しているだろうか。
 まだ本牧亭があったころだったか、当時仲良くして下さった噺家さんに連れられて伺ったことがあって、そのときの美味しさと、店先に柳が植わっている一軒家の風情が忘れられず、ぜひとも彼女にも味わってほしいと思った。
 しかし、予約が取れないので有名な店であった。私はドキドキしながら、アメ横の路地の商家の軒先のピンク色の公衆電話(まだ携帯など普及していない、緊急連絡はポケベルを鳴らしていた時代だった)で、電話をかけてみた。
 すると、なんと奇跡的なことに、今夜はまったく差し支えなく、おいで下さい、ということなのだった。

 私は雀躍して、彼女を案内した。ぎしぎしと階段を鳴らしながら二階の座敷へ上がった。
 炭のよく熾った匂い、円形の鍋から淡くのぼり立つ白い湯気。
 つやつやと輝くかしわ肉。そしてまた、みずみずしく円柱形に切られた白い長葱。
 うっとりとしている私に、彼女は遠慮がちに告げた。
 「ごめんなさい、私、白いネギ、食べられないんです」
 ええぇぇえっっつ!! 
 そういえば、常日頃、蕎麦屋で黒いつゆがどうしても不気味で食べられないと言っていたことがあった。
 そりゃー、可哀想なことをした…。この鳥鍋は白いネギだからこそ、オイシイのだ。
 そしてまた切ないことに、本当に鶏肉と白ネギだけの、東京の下町式の鍋なのだった。

 その時ハッと、京都出身の別の知人のことを想い出した。たしか彼女も関東へ来て初めて白いネギが食用とされてある、というのを知って驚愕した、と話していた。
 関西ではネギは青いのだ。

 せめて鶏肉をたっぷり食べてね…と、私は彼女のほうへカシワを寄せた。
 行儀のいい彼女は、湯気の向こうでにっこりほほ笑んだ。

 もう十数年前のことになるが、鍋の美味しい季節になると、白い湯気に目をぱちぱちさせながら想い出す、ちょっと心の痛む関東者の話である。
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