長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

桜井発13時36分、四条畷行き。

2020年05月27日 15時33分25秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 もう先週の月曜日のことになってしまうが、令和2年5月18日の朝、私は「テッペンカケタカ…」という鳥の声で目が覚めた。
 おお、なんと!! ホトトギスである。杜鵑が啼く季節が到来したのである。
   ♪頃は皐月の末つ方…(ころは さつきの すえつかンた~~~)
 こうなると、長唄「楠公(なんこう)」の話をせずばなるまい。
 断捨離作業に精を出していると、限りなく世を捨てた隠居の心境になって後ろ向きになるかと言うと然(さ)にあらず。当時の写真まで発掘して、忘れ去られた時を求めるライフワーク熱が翩翻とひるがえる。機は熟せり。

 …とはいえ、楠木正成、大楠公のお話をするのは難しい。
 私の父方の祖母は、明治43年生まれで西暦2000年に90歳で天寿を全うしたが、彼女の口から楠公の話を聞いたことはなかった。
 長男だった父は、祖父宅の離れに新所帯を構えたが、私が幼稚園年長組の時、祖父が十二指腸潰瘍の術後経過悪しく急逝したので、母屋に入り、私は高校を卒業するまで三世帯住宅で育った。独立する前の叔母、叔父も同居していたので、私の雑多な記憶、知識はそれらの集積である。
 祖母の世代の価値観を測るに適した論評の端々(つまり、何気ない日常会話)は、テレビを見ながら茶の間で聞いていたが(私が昭和の一時期のソープオペラに詳しいのは祖母のおかげである)、ことに映画や講談の、立川文庫(たつかわぶんこ)由来の昔の話を聞くのが好きで、二階の一番日当たりのいい彼女の隠居部屋に時々押しかけ、寝しなに十八番の一つ話を聞いた。
 祖母のレパートリーは「岩見重太郎のヒヒ退治」である。
 なんど聞いても面白いので、ずいぶんリクエストしたものだ。
 そんな祖母の口からも、戦争体験の重さによるものか、戦前教育における固有名詞のキーワードは、昭和40年代の小学生の耳に入ってくることはなかった。

 考えあぐねているところへ…実は平成時代、ビジネス書籍版元の月刊誌に歴史紀行文を連載させて頂いていたことがあり、桜井の駅の別れに思い馳せ、四条畷方面へ取材に出かけたことがあった。この度の大掃除で思いがけなくその雑誌が出てきたので、ここに再掲させて頂こうかと思う。
 平成初年の当時と今と、三十年の隔たりや如何ばかり…二十代の小娘の小賢しい歴レポを、話ついでにお聞きくださいまし。

          *   *   *

   『ニッポン漂泊』桜井の梢葉 (1993年記事)



 己(おの)が長年のあいだ温めていた、まだ見ぬ宿意の土地というものを、期せずして訪う(おとなう)こととなった。『瞼の母』にならなければよいが…いつにない思案顔で鈍色(にびいろ)の舗装路を歩いた。
 工業用トラックも広い路肩に呑気に停まっている、三島郡島本町、大阪府郊外の近代産業地域である。
 Sウイスキー、U繊維、S化学の大工場を抱えているためか、畑地に新旧の住宅地、社員寮などが点在し、今となっては最早夢のような、昭和の高度成長期の面影を持つ町である。
 空が開けた丁の字の辻に来ると、右手遠方、バイパス線の高架の背は天王山。突き当りの民家の屋根越しに、こんもりと繁った青葉蔭が見える。あれが、西国街道は桜井の駅・阯(あと)か。

 建武三年(1336)、湊川の合戦で賢才武略の勇士・楠木正成を失った後醍醐帝は足利尊氏に屈し、建武政府は崩壊。
 しかし、同年暮れに幽閉された京都の花山院を脱出し、吉野へ逃れ朝廷を開いた。明徳三年(1392)北朝に吸収されるまでの57年間の、南北朝時代の始まりである。

 そもそもの南北両朝迭立(てつりつ)の因縁は、後醍醐天皇を遡ること八代前、後嵯峨天皇の御代である。
 承久の役(1221)以降、天皇家の謀(はかりごと)を恐れた北条氏は、皇位継承に悉く(ことごとく)干渉するようになった。
 後嵯峨帝は、病弱な嫡流の皇子(後の後深草天皇)ではなく、英邁な第二皇子の亀山天皇に譲位することを望んだ。

 そこで、幕府の計らいによって、亀山帝(大覚寺統)と、後深草帝(持明院統)の子孫が交互に即位することになったのである。
 これに不満をもって倒幕を謀ったのが、のちの世の大覚寺統の後醍醐天皇であった。

 さて、欝蒼とした木立に囲まれて、案に反して、桜井の駅は温存されていた。
 妙に広い空間の中に、墓標を思わせる巨大な石碑が二基鎮座し、傍らには「滅私奉公」と刻まれた台座の上に、楠公父子訣別の像が置かれている。史跡名勝天然記念物保護法による指定を、大正10年に受けているのだ。
 梢の葉陰の隙間から、隣のゲートボール場の人影が見え隠れする。静かな静かな、平日の陽未だ(いまだ)高き野辺の公園である。
 この広場もかつては、出征兵士を送る日章旗の波の、狂騒に沸き返ったことがあったのだろうか。



 命運尽きた北条氏が新田義貞に滅ぼされた後の、帝の親政による建武の中興に失望した足利尊氏は、後醍醐帝に反旗を翻す。
 前身は河内の土豪であった帝の股肱の臣・楠木正成は、西国から京都に攻め入らんとする尊氏・直義連合軍を迎え撃つべく、摂津の湊川(今の神戸市湊川公園)に赴こうと、桜井の駅まで来た。
 これより西に行けば兵庫、南下し淀川を渡れば、四条畷を経て河内に至る分岐点である。

 死を覚悟した正成は、自分亡き後の皇家の守護と身の処し方を諭し、十一歳の長子・正行(まさつら)を河内へ帰らせる。





 小津安二郎の『彼岸花』だったか、戦前の教育を受けた昭和のお父さんたちは、同窓会で「青葉繁れる桜井の」を歌うのである。
 大政奉還、王政復古により、士農工商の“士”が廃れ、国民の義務として「徴兵制」が布かれたのは明治五年。
 同年に学制も発布され、唱歌が誕生した。
 当初は外国の民謡曲に歌詞をはめ込んだものだったが、日本人の作詞作曲による唱歌が生まれたのが、明治も三十年代、つまり20世紀に入ってからである。『夏は来ぬ』、ジンタでお馴染みの『美しき天然』、そして、国文学者・落合直文の作詞、師範学校教諭・奥山朝恭の作曲による〈大楠公〉『青葉繁れる桜井の』が愛唱された。

 現在、歴史の教科書は、明治以降の実証主義に立脚した、南北両朝併立論が主流であるが、欧米思想と国粋思想が対立し、思想的混乱による政治暴動が相次いだ明治末期、南朝を正統とし、北朝を教科書から削除するという事態が起こった。
 明治43年(1910)に生じた、南北朝正閏論である。
 権力が教育に介入し、「富国強兵」政策の下(もと)、日本は国家主義の道を突っ走ることとなる。

 桜井の駅を後にして、阪急京都線・水無瀬駅から高槻へ移動、枚方駅行きのバスに乗った。
 丁寧に探せば別のルートもあったかもしれない。
 ただ、風まかせながらも、淀川を渡って南下し、四条畷に行きたかったのである。
 私市(きさいち)線、片町線を乗り継いで、丘陵に広がる河内の学園都市群を眺めながら、四条畷駅に着いた。







 1348年(正平三、貞和四)、成人した正行は、父の遺志を違える(たがえる)こと無く、後村上天皇を守らんと、北朝の高師直(こうもろのう)軍と戦い、討ち死にした。四条畷の合戦である。
 時に正行二十三歳。思いつめた子供というものは、いつの世も痛ましい。
 南朝は吉野を捨て、更に草深い賀名生(あのう)へと、追い詰められていく。

   青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
   木(こ)の下蔭に(したかげ)に 駒とめて
   世の行く末を つくづくと
   忍ぶ鎧の袖の上(え)に
   散るは涙か はた露か


















四条畷神社のある、飯盛山から俯瞰した四条畷市街。


※写真はすべて1992年秋に撮影したものです。
 四条畷駅コンコースに在った黒岩淡哉作・小楠公の銅像は、2000年前後に再訪した折には見つけられませんでした。
 
        *   *   *

 さて長唄の楠公は、明治35年、榎本虎彦作詞、13代目杵屋六左衛門作曲により生まれました。名曲です。
 テーマの好き嫌いが、現代では、あるかも知れませんが、私は大好きな曲です。
 前半と後半の二段に分かれています。
 上の巻は、桜井の別れを二上りでしみじみと描いたもので、唄方の聞かせどころ。うっかりすると泣いてしまいます。
 下の巻が湊川の合戦を描いた、本調子の大薩摩を聞かせる、三味線方の腕の見せどころです。
 詳しくはお稽古の時にお話しいたしましょう。

 追記:演奏曲なので、舞踊は後に作られたものです。
   あれはいつだったでしょう、大阪へ文楽のオッカケに行ってた時分、大阪の宿で偶々テレビをつけたらNHK芸能花舞台で、亡くなった大和屋の「楠公」の素踊の放送でした。
   八十助時代から人懐っこい笑顔が忘れられない三津五郎丈、今となってはもう見られないのが残念です。
   
 
 
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犬の寺(山陰柴八犬伝)

2018年03月05日 21時12分20秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 さて、2012年10月の末に訪れました折のご案内をば。

 日本国 鳥取県 倉吉(くらよし)市はこの辺りにあります。



↑倉吉観光案内所で頂戴した観光案内冊子の最終ページの地図です。

 そして、倉吉の歴史的景観地区の地図はこちら↓



 鳥取県観光連盟で無料配布している、山陰鳥取・鳥取県観光ガイドマップの一部分です。

 右端のフキダシを、鳥取空港からレンタカーに乗って移動していた車中で発見した時は、驚いたの何の。

 そしてこちらが萬祥山大岳院、曹洞宗のお寺です↓



 山門にすてきな木鼻(外側に出張ってる柱の端っこのこと)がありましたので、アップで撮ってみました。

↓まず右側。


↓そして左側。


 獅子のような狛犬のような…お犬様でしょうか。めずらしい意匠です。
 お邪魔しまして…ご廟所の所縁書。



 そしてこちらが、里見忠義公と八賢士の皆さまのお墓です。




 あれ? お墓のかたわらに忠犬ハチ公のように佇む、お犬さまが…↓



 寄ってみましょう。



 そして、こちらにも…↓



 お墓の傍らの、築地の向こうにも…↓



 さらに、振り返れば…

 ふり向けば、イヌがいる…↓



ちょうど渡る世間はハロウィンだったので、奥の外縁に唐茄子の細工ものが見えます。

 そしてまた、ふり返れば木陰に…↓



 さて、墓所の正面にもどって、本堂を拝みますと↓



 おぉっ!! この手前のものは、ひょっとして…!!!



 はい、八つの玉の文字「仁 義 礼 智 信 忠 孝 悌 (じん ぎ れい ち しん ちゅう こう てい)!」
 
(この並びがいちばん言いやすいので、私はこの順番で憶えています)

 ぇえと、ここまで六犬士、あと二士はいずこに…



↑本堂の傍らに、そして…



↑皆、このようにして、里見忠義公のお墓のほうを向いておりました。


 滞在中、偶然にも、三朝温泉の宿で見ておりましたローカル局TV番組で、この週末、山陰柴犬(さんいんしばいぬ)の品評会があった…というニュースを聴きました。
 この山陰柴犬は、シバ犬なのにしっぽがくるんと巻かないのが特徴だそうです。

 40年ほど前には絶滅の危機に瀕していたのですが、現在120匹ほど(いえ、200匹だったかもしれません…一度聞いただけで失念…不確実で申し訳ない)まで、増えたそうな。

 大岳院の犬くんたちのしっぽが脳裏に浮かび、天祐のような豆知識ガイドの廻り合せに感謝しました。



 倉吉市内の蔵元、元帥酒造(げんすいしゅぞう)の「八賢士」にて、献杯。
 横綱・琴桜の銅像の広場から、つらつらと街並みを歩いておりましたら、お店に行き当りましたのです。

 ちなみにこちらのお店では、戦艦三笠の甲板での、有名な肖像画をラベルにした、東郷平八郎元帥ゆかりの「元帥」というお酒が主力銘柄らしいです。

 そいえば…日露戦争の折、海軍の東郷元帥と並び称された、陸軍に乃木希典(のぎ・まれすけ)という軍人さんがいました。
 この方は、何度も失策して多数の戦死者(彼の子息も戦死)を出してしまうのですが、それでも明治天皇は彼を留任し、乃木は艱難辛苦の末、旅順(りょじゅん)という重要な地点を陥落させます。

 失敗しても、すぐに解任せず、自分の使命を遂げさせてくれた明治天皇への恩義を忘れず、この方は、明治天皇が崩御したとき、殉死しました。

 …里見八犬伝ゆかりの町、倉吉。

 「忠義」の二文字に、さまざまなことを想う旅でした。



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前説の南総里見八犬伝・後編

2018年03月03日 23時55分23秒 | ネコに又旅・歴史紀行
  【2012年11月8日付の報告書】

 テッペンを取るのに、いちばん必要なものって何だと思う?

 理想をもち、信念に生きョ…とかいうカッコいいキャッチフレーズ?
 メッチャ幟が立ってるけど、アレ、一人で3本持ってるんだぜ…なーんて情報収集力?? 
 何があっても裏切らない忠臣???

 ノー! No!! のーぅ!!!
 かなり率直に言って、お金、軍資金です。
 ケンカに強いお侍なだけじゃ、連戦連戦で切りがない。疲れ果てて死んじゃいます。
 おカネにものを言わせれば、たいがいの融通は利きます。
 情報だってお金で買えるしね。

 むかしは、戦場でどんだけ兵隊を斬れるか…が武士の甲斐性とするならば、
 いまは、選挙の時にどのくらい札束を切れるかが、政治家の甲斐性。
 勢いとハッタリだけで天下取れるのは、1950年代の東宝映画の中の植木等だけですね。
 大内義隆がレイナさんに「貿易っていいよぉ」と連呼していたように、
 お金を貯めようと思ったら、貿易…そして、商いでんなぁ。

 信長くんが室町幕府最後の将軍・足利義昭と、まだ仲のよかった頃、義昭くんが、京都に近い領国をくれると言ったのを、信長くんは辞退して、泉州堺や、琵琶湖のほとり大津などの商業都市を、直轄地として所望したそうです。
(むかしは流通のカナメは水運=舟でしたから、湊って物資の集まる一等地だったわけですね)
 信長くんは、お金の集まるところをよぅ知ってはったんですわなぁ。
 その真似をしたのが秀吉くんですね。

 商業・貿易、そしてもうひとつ。
 世の中の流行りすたりと関係なく、世界でいちばんお金持ちな人って、だーれだ?
 それはね…なんてったって、アラブの石油王、これです。

 軍資金、よそから集められなかったら、自分で掘り出しゃいいわけです。
 戦に明け暮れてたヤンキーみたいな武田信玄だって、甲府に金山持ってました。
 徳川家康が持っていた"金のなる樹"…いぇ、金の卵を産む鶏、
 その名を、大久保長安(ながやす:俗に、ちょうあん、と呼ばれてます)といいます。

 あっ!わかった!!
 この人、前の回に出てきた、大久保忠憐の親戚っしょ!!!
 …というのはいささか早計です。

 大久保長安は、もともと大久保くんだったわけではありません。
 武田家のお抱えの猿楽師の一族でした。
 お兄さんといっしょに士分に取り立てられて土屋くんになり、お兄さんは長篠の戦いで戦死しちゃって、いろいろあって武田家も滅亡。

 武田領が家康くんのものとなって、甲斐の国にやってきたときに、お風呂好きな家康くんに、桑の木製のお風呂を献上して、ものすごく気に入られて、徳川家に召し抱えられるようになった…そうなのです。

 桑といえば、絹織物の生みの親、蚕さんの食物ですからもう、むかしの日本は桑畑ばっかしだったと言っても過言ではない。
 歌舞伎役者の鏡台も、桑の指物です。木目がきれいで、色つやも上品ですてきです。

 浅草公会堂の裏に、江戸指物のお店がありまして、もうずっと昔、25年ぐらい前に桑の合い引き(ハンバーグのネタじゃなくて、正座する時、おしりの下に敷く小さい折り畳み式の台、現代語でいえば正座椅子っての)を、フンパツして買ったことがありましたが…高かったょ。新幹線で大阪ずっと越えて、新尾道往復できるぐらいでした。
 でも、もう、国産の桑の木って、ほとんど無いらしいですね…。

 その、土屋(弟)が徳川家に召し抱えられたそのときに、身元引受人になってくれたのが、くだんの、大久保忠憐(ただちか)なわけです。
 業界用語でいうところの“寄親(よりおや)”というやつで、血縁関係のないよそ者を迎え入れるときに、保証する親代わりとなる人です。

 というわけで、土屋くんは、大久保を名乗るようになりました。
 さて、大久保長安(旧・土屋くん)には山師的才能があった。…この場合、的、ではなくてまさに山師だった。
 どうやら、猿楽師という職分は、諜報員をも兼ね、また忍者をも兼ねるような役目を果たす人たちだったらしい。

 山伏や、漂泊の旅芸人がそういう役目を担っていた=傀儡子(くぐつし)なんて呼ばれて、大道で人形劇をやったりする…平安時代を舞台にした時代劇(おもにNHK大河「風と雲と虹と」~平将門と藤原純友のお話です)にもありましたが、
武田家に仕えていただけに、鉱山開発にかけては、たぶんかなりの知識を持っていたに違いない。

 原発の下に活断層があるかどうか、プロにかかれば十中八九の見立てができるように、
大久保長安は、毛利氏の金蔵だった石見銀山を、新技術でもって銀の産出量を倍増させ、
さらに佐渡金山の開発に乗り出し、徳川家の金蔵を盤石のものとし、
伊豆の土肥金山…湯河原に行くとその土地の豪族、土肥氏の銅像が駅前に立ってますが…、
奥州(岩手県)の南部金山…etc.、さらに木曾の林業の開発までやっちゃったそうですから、
 もう、ただただビックリするしかない、仕事っぷりです。

 こーんな有能な、大久保長安…実は、昭和の50年代ぐらいまでは、かなりな有名人でした。
 時代劇や、寄席で講談とか聴いて、たいがいの庶民は知ってました。
 でもね、「天下の大悪人」…とかいうアカウントで呼ばれちゃってるヒトとして。

 家康くんの有能な部下だったのに、なんで大悪人??
 たぶんね、前代未聞だと思いますが、大久保長安、病気で亡くなった2ヵ月後に、切腹を言い渡されます。

 …はぁ??どーゆーこと????(つづく)



  【2012年11月9日付の報告書】

 怪しいんだょなぁ…。
 なにがって、徳川将軍家の下で天下取ったる!抗争の主要人物のことなんですがね…。

 大久保長安は、家康くんに莫大な富をもたらしてくれる、金の卵(金銀鉱石)を生むニワトリだった。
 でも残念なことに病に倒れて(薬マニアの家康くんは、高価な特効薬までお見舞いに贈っています)、
 亡くなったその日に、家康くんから大老クラスにまで取り立てられています。

 1613年4月のことです。69歳でした(♪諸説あるんだ~けどね)。

 それなのにお葬式が執り行われようとしていた2か月後の7月、
 生前の悪行(業務上横領とか、贅沢しすぎとか、幕府を転覆しようとしたとか、なんだかいろいろ)が暴露したということで、長安はすでに棺桶の中にいたのですが、領地の八王子を没収、切腹を命じられて(できるのか??)、
 さらに生きている長安の子どもたち(もう成人してますが)7人全員が切腹させられ、
 嫁の実家の大名家に至るまで、連座して断罪されちゃったわけです。

 むかしの時代劇ですと、長安は天下の大罪人ですから、
 慶安太平記に出てくる由井正雪にそっくりな、総髪(オールバックの後ろ髪の長いやつ。金八先生を短くした感じ)のオッサンの姿で出てきます。
 歌舞伎から出た、いわゆる典型的な「国崩し」キャラですね。

 そんなことがあったので、長安の寄親だった、大久保忠憐も、とばっちりを喰うわけなんですが、
 それがヘンなんだよねー。
 大久保忠憐が実際に失脚したのは、1614年1月のことなんです。

 歴史って、ただ出来事が列挙されてある年表を、じーっと眺めてるだけのほうが、真実が浮き上がって見えることがある。

 まだ豊臣家が大坂にあった1600~10年代、家康くんの下で力があったナンバー2が二人ありまして、
 ひとりは、この大久保忠憐(ただちか)。1553年生まれの丑年。
 そしていま一人が、本多正信(まさのぶ)。1538年生まれ。いぬ年。
 ちなみに家康くんは1542生まれ、トラ年です。

 ま、早い話が、大久保忠憐の存在を疎ましく思った本多正信が、あることないこと大御所さまに吹き込んで、罪に陥れたらしい…というのがのちの世の考察ですが、
 それだけなのか?
 実は本多正信、大久保忠憐に勝るとも劣らない、スキャンダルのタネが身内にありました。
 正信には正純(まさずみ)という息子がおり、親子そろって家康くんに仕える重鎮です。
 その本多正純の家臣・岡本大八(おかもと・だいはち)が、ちょっとヤバいことになった。
 1612年3月、この岡本大八くん、キリシタンなんですが、詐欺及び収賄で火あぶりの刑にされます。

 彼はこともあろうに、キリシタン大名の有馬晴信(ありま・はるのぶ):天正遣欧少年使節の千々石ミゲルくんを派遣したお方ですね~を、騙してカモるのです。

 有馬晴信は、長崎でポルトガル船を焼き討ちしちゃったんですが、
(この事件の顛末は、市川雷蔵主演・伊藤大輔監督「ジャン有馬の襲撃」という映画に詳しい…これまたファンタジーかもですが。白黒の古い作品ですが、もんのすごく面白い映画だょ~!!
 …もう20年以上前に観たのでほとんど忘れましたが、前髪立ちの雷蔵がまた常に無いこしらえで、カッコよかったのです。ヘアスタイルは重要だね!)

 その恩賞として旧領を回復させてあげるからと、その運動資金を要求して着服したのが、正純の家来・岡本大八です。わるいやっちゃ。

 そしてこやつは、自分だけが滅せられることを潔しとせず、
 有馬晴信が長崎奉行の暗殺を企てた…だのと言いつのり、
 それがため晴信も所領を没収され、甲斐の国(奇しくも)へ流罪となり、切腹を賜ったのです。
(でも、晴信くんはキリシタンなので自殺できないから、斬首されたそうなのだ…なんだか泣けてきちゃうょ…)

 ちなみに、宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘したのは、この年、1612年=慶長17年です。
 でね、
 そんなこんながいろいろありまして、1年後の1613年春、大久保長安が没する、
 同年夏には、都内(その頃は府内ですな)浅草や鳥越でキリシタンが処刑される、
 一方で、秋、伊達政宗くんが、大人の遣欧使節・支倉常ニャガを出帆させる。

 明けて1614年正月、京都でキリシタン弾圧の任務についていた大久保忠憐に、突如、改易のお達しが…!!
 なんで、ここで………???

 怪しいよ、絶対になんかあるよ、本多正信とキリシタンの関係って何かあるよねー
 当時のかわら版屋だったら、アタシ、絶対あることないこと書いて、週刊誌の売り上げをあげてやるぜ!!!
と、叫んでいたと思います。
 とまぁ、さまざまな出来事でゴタゴタしていた慶長年間なんですが、
 大久保忠憐が失脚しちゃった同年夏、家康くんがいよいよ豊臣家を詰めにかかった、例の方広寺の鐘銘事件…「家族健康」じゃなかった「国家安康」ね…が勃発します。

 さて、それでですね、あれあれ~? この報告書は、徳川幕府草創期の、仁義なき戦いに関するものじゃ無かったはずだゾ…そもそもね…と、気がつかれたことと思います。

 この話が、里見八犬伝のモデル・里見忠義公と何のかかわりがあるのか。
 実は、大久保忠憐の長男の娘…というのが、忠義公へお嫁に行っていました。
 忠義にとって、大久保忠憐は、義理のおじいちゃんなんです。

 そーなんです。

奥さまは、マゴ、だったのです…(つづく)



  【2012年11月12日付の報告書】

♪親ガメの背中に 子ガメをのせて~子ガメの背中に 孫ガメのせて~~
 孫ガメの背中に ひい孫ガメのせて~~~

 という歌を、むかーし、寄席で漫才師が早口言葉のようにしてやってましたが、
 そいうわけで、親亀こけたら皆こけた。

 おじいちゃんの大久保忠憐が失脚して、親戚もコケた。
 1614年9月、房州館山藩主、弱冠21歳の里見忠義公も、改易となりました。
 
 改易ですから、家名を取りつぶされて領地を没収されちゃったんですが、
 忠義くんのお父さんは、先祖代々の安房の国9万2千石以外に、家康くんから、常陸の国の鹿島郡3万石をプレゼントされていました。
 関ヶ原のときに、秀忠くんに従って宇都宮を守った功績があったのです。

 ですので、館山城は破却されちゃいますが
 (いまある館山城は、昭和57年に復元されたものらしいです。
  館山藩自体には、忠義くんののち、約170年後の1791年に稲葉氏が陣屋を置いたそうな)

 忠義くんには、鹿島領の替え地として、伯耆の国・倉吉藩が用意され、引っ越し(移封ともいう)てきたのです。

 しかーし、1617年(大御所さまの亡くなった翌年)、中国地方で、いくつかの国替えがありまして(ややこしくなるので省きますが)、
 因幡・伯耆の国の諸藩は、ことごとくが合併統合され、
 倉吉藩も、新しく大きくなった鳥取藩に吸収され、廃藩となってしまいます。

 3万石がいつのまにか百人扶持に…本当はコワイ日本昔ばなし・逆わらしべ長者篇。

 1622年(元和8年:2代将軍・秀忠が隠居する前の年です。シマバランは1637年ですからまだ15年ものちのお話)、
忠義くんは、29歳で亡くなりました。
 幕府の公式見解では跡継ぎがなく、里見家は断絶。

 そのとき、まだ若き主君に殉じた忠臣、8名。
 この方々が、のちに八犬伝のモデルになったといわれているそうです。

 チュウギとは何でしょう。
 忠義くんの義理のおじいちゃん・大久保忠憐は、領地の小田原藩6万5千石を没収され、彦根藩・井伊家にお預けの身の上となります。

 家康くん亡き後、小田原藩復活の赦免状が出たのですが、
 忠憐は、「大御所さまの非をさらすことはできない」と言って、

(つまり、自分が許されるということは、家康くんの裁定に間違いがあったということを、白日の下にさらすことになるわけであるから、家臣の自分にはそんなことはできないのだ!ということですね)

 死ぬまで配流先で暮らしたそうです。私は、このオッサンの心意気に泣きました。

 因果はめぐる糸車…忠憐一族を無実の罪に陥れた、本多正信・正純親子ですが、
 正信は、大御所さまの後を追うように同年、1616年に亡くなり、
 正純自身も、例の宇都宮釣り天井事件

(これは有名な講談ネタで、むかしの時代劇には必ずと言っていいほど出てくる話なんですが…
宇都宮城主・本多正純が、家康くんの8回忌のための日光詣での際、2代将軍秀忠を暗殺しようとしたというね、
将軍の御座(みま)しの間へ、天井が落ちてくるような仕掛けをつくったという、
これは、まー、フィクションらしいのですが、面白い話でしょ?)

 で、1622年(奇しくも里見忠義が亡くなった年ですが)、改易されました。


 さて、長すぎる前説はそろそろ切り上げまして、

 いよいよ、2012年10月の倉吉のお話を致しましょう…(つづく)



《写真の説明》

講談社刊、講談名作文庫(昭和51年刊行)より、由井正雪と大久保彦左衛門の巻です。

たらいに乗ってるのが彦左衛門御大。
後ろについてるのが、若干イメージが違いますが、一心太助。

由井正雪は、たしか、楠正成の流れをくむということで、背景に菊水の紋が配されております。

カバー絵は、生頼範義
(この方は1980年代にSF関係のイラストを多く手掛けてらした、人気画家でした)。

装幀は、平野甲賀(こちらも有名な装幀家の先生ですね)。
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前説の南総里見八犬伝・前編

2018年03月03日 23時13分10秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 敬愛してやまぬKI流の御家元様から、房総半島の富山のことを教えていただいた。中腹に伏姫と八房が隠れ棲んでいた籠窟があるという。ご存知のように、南総里見八犬伝は滝沢馬琴の伝奇小説であるから、創作であるはずなのに、なぜかその籠窟は実在しているのである…事実も小説も、どちらも奇なるものでありますなぁ…。

 さてそのような心ときめくお話を伺ったので、私共もかつて鳥取を旅した折、里見家末裔のお殿様のお墓に偶然往き合ったことをお話ししようと思ったのだが、なんという脆弱かつ情けない脳髄でありましょうや、具体的な固有名詞をすっかり失念してしまっていた。そこで、自分自身の欠落した記憶を補填するため、6年ほど以前、別名義にて書き留めていたブログ記事を確認してみた。
 その記事を再編集してご紹介しようとも思ったのであるが、かつての情熱そのままを酌んでいただければとも感じたので、二重投稿にならぬよう先のブログを閉じて、ここに掲載させていただく。
 当時、「戦国鍋TV」というTV番組に打ち興じていたので、かなり砕けた文体になっていることをお許しいただきたく…。


       * * * * * * * *

  【2012年11月3日付の報告書】

 日本国中国地方の日本海側に在します鳥取県。
 東は兵庫県、南は岡山県、西は島根県(ちょっとだけ広島県)に隣接しています。

 そんな鳥取県は、旧地名を、因幡(いなば/東半分) あーんど 伯耆(ほうき/西半分)の国、の、二つの部分からなっています。 東京から手っ取り早く参りますには、羽田空港からつーーーーっと飛んで、鳥取空港へ。

 鳥取空港は、秀吉くんの餓(かつ)え殺し(兵糧攻めのさらに凄惨なやつ)で有名な鳥取城や、砂丘、白ウサギがオオクニヌシノミコトに助けられた白兎海岸のある、因幡地方(因州ともいう)にあります。
 戦国時代の因・伯両地域は、大まかに申しますれば、

  室町時代の守護大名・山名氏→尼子氏→毛利氏(吉川)→信長くん&秀吉

 な感じで、山名氏の内部抗争やらもあり、多数の武将がシノギを削る、抗争地域でした。
 ですから、まー山城の多いこと。

 この辺りの力関係の歴史は、横溝正史「八つ墓村」を想い出すと分かりやすいですね。八つ墓村の呪いの発端は、毛利氏との戦いに敗れた、尼子氏の落ち武者ですから…
 そして、20世紀の頃の日本全国共通認識の、鳥取でおなじみの戦国武将キャラは、なんといっても、山中鹿之助(尼子氏の部将)です。
 とくに戦前の修身(道徳)の教科書では、主君に仕える忠臣として圧倒的なヒーローだったわけです。
 戦国鍋の戦国キャパクラでも登場しましたが、昔のイメージでは、目的に邁進するひたすら一心不乱でカッコイイ、悲運の武将…そして美剣士でした。
 (小学生の私は、たしかいちばん好きな戦国武将だったりしました…最早あいまいな記憶ではありますが)
 大阪の豪商・鴻池家(鴻池財閥の前身。幕末には、新撰組の近藤さんの強引な申し出により、隊服をつくる資金を出してくれたらしい)は、山中鹿之助の子孫だということです。

 というわけで、2012年10月の月ずえに、鳥取県に赴きました私の当初の目的は、
  1、山中鹿之助などゆかりの戦国時代の山城・城址をめぐる
  2、20年前に行きそびれた、山陰の小京都・倉吉を訪れる
  3、湯治
 だったわけです。

 鳥取空港を立ち出でて、因幡の国のお城を少しだけ廻り、さらに伯耆にある初日の宿へ向かう途中、レンタカー屋さんで頂戴した「山陰鳥取観光マップ」なる地図をしげしげと見、これから向かう打吹城(うつぶきじょう)がある倉吉の、白壁土蔵群・赤瓦のある、伝統的建物保存地域の詳細マップをつらつらと眺めておりました、その時のことでございます。

  !!! 

 「南総里見八犬伝」のモデル里見忠義の墓

 という、地図から飛び出たフキダシが目に入ったのは。
 クラクラクラ~めまいがしました。…こりゃー空手じゃけえられねぇ…

 ご存じのように山城は、山のテッペンにある城址で、トレッキング覚悟で挑まなければなりません。しかーし、もはや陽は西に傾き、走れメロス的強迫観念にとらわれた私は、打吹山を遠望し、満足げにうなずくと、
 一路、里見忠義公のお墓のある大岳院へ…(つづく)



  【2012年11月4日付の報告書】

 それにつけても、どーして倉吉なん?
 そして、里見忠義(ただよし) 公ってだれ??(殿様sideなのにチュウギとはこれいかに…)

 そも、滝沢馬琴が28年間………文化11年:1814から天保12年:1841までですから、
 11代将軍家斉(いえなり)公:第二の大御所時代を築いた徳川15代随一の子福者です。
    ちなみに、着物の種類の一つ・お召し:織り地の種類による分類の呼び方~は、
    家斉公がお好みでよくお召しになっていたところから、命名されたきものです。私も
    ツルツルしない生地が着付け易く、紬ほどくだけないので、愛用してます…
  から、
 12代家慶(いえよし)公:父の横槍と内憂外患にアタフタし続け、天保の改革は大失敗、
    ペリーが来た時にみまかられたという、ちょとカワイソウな将軍です…
 の2代、年号にすれば文化~文政~天保の時代です。

 この28年間にあった主な出来事といえば、
 八犬伝の1巻目が発売されたころは、伊能忠敬が日本全国実測をそろそろ終え、
  忠敬の死後、完成した地図が将軍家に献上され、
  小林一茶が俳句を詠み、葛飾北斎が富嶽三十六景を描き、
  お岩さまでおなじみ鶴屋南北「東海道四谷怪談」が初演されました…ザックリですょ、ざっくり…

 そして完結goal!!する天保12年は、隠居の身なのに院政的影響を及ぼす大御所・家斉公が卒せられ、
 やっとのびのび自分の治世で手腕を振るえることになった家慶公が、天保の改革に着手した、
 出版・演劇関係者にはク ラ~い時代の始まりです。


 …の長きにわたり執筆した、106巻・全篇184回におよぶ絵入り読み本ですから、
 今でいえば…35年連載「こち亀」よりは短い、ジョジョの奇妙な冒険(あと数年続けば匹敵する?)よりは、ちょと長い、超大作なわけです。

 そして伝奇小説…ファンタジーなわけですから、史実なんて知ったこっちゃない。
 歌舞伎や映画で観る八犬伝は、八つの玉が伏姫の胎内より日本中に飛び散ったあとの、八犬士の活躍を描いたものが主流ですね。

 しかーし、その冒険譚のプロローグは、1440年に起きた結城戦争(関東地方のとある豪族:結城氏が、
室町幕府:将軍足利義教←結局、翌年赤松氏に暗殺されちゃうのですが~これを戦国時代・下剋上の始まりとする学説もあります~に謀反を起こした時の戦争)の結城氏に加担した、里見氏のお話に拠っています。

 里見家、すなわち、南総(なんそう・上総プラス下総=総州、そして総州プラス安房=房総半島の南部)の名家です。
 安房(あわ)の国を本拠にしました。

 このとき、結城戦争に出陣したのが里見義実(よしざね)&、お父さんです。
 (ややこしくなるのでもう人名は出しません。そしてこのあたりは日本のクラシック音楽・長唄の「八犬伝」という3部作の曲に詳しい顛末が載っています。でも明治10年の作品なので、これもfantasyかもしれません)

 ここまでは史実ですね。
 ストーリーテラーの作家さんは、プロの詐欺師といっしょで、本当のことに、絶妙なウソの世界を織り込んできます。

 八犬士のお母さんとも言える伏姫のお父さんが、この、里見義実なわけです。

 だから、なんで里見八犬伝のモデルになった人=義実じゃないの?
 という素朴な疑問が生まれるわけですが、そんなときは、日本系譜綜覧を調べましょう。

《里見家系図》

 かなりの代数略→義実―成義―義通―義豊―義堯―義弘―義頼―義康―忠義(断絶)

 きたっつ!!!!
 こういうときにこそ使う言葉、キタコレなわけです。

 この里見忠義公はなんでまた、断絶しちゃったんでしょう…(つづく)



  【2012年11月6日付の報告書】

 ところで、時代劇の「一心太助」シリーズはご存知でしょうか?

 東映がその昔、「時代劇は東映!」というキャッチで売り、東映城と呼ばれていた頃。
 たぶん、団塊の世代前後、昭和20~30年代に子どもだった頃の方々には、絶大なる人気を誇っていた、
中村錦之助:歌舞伎界から映画界に転身した俳優さん~

 (昭和40年代に子どもだった私の、リアルタイムな錦之助はすでに萬屋錦之介になっていて、
  テレビ時代劇「子連れ狼」「破れ傘刀舟」など、ニヒルでダークなオジサンでした。
  そして、その頃の私のヒーローは「素浪人 月影兵庫」「花山大吉」近衛十四郎:松方弘樹のお父さんです。
   ~しかーしむしろ実のところ、コメディリリ-フ焼津の半次役・品川隆二がメッチャ好きでした~や、
  「木枯らし紋次郎」だったりする
  …時代は股旅や浪人=アウトサイダーがヒーローの時代になっていたのです。

  で、錦之助=錦ちゃんはまだ、戦後、がれきの中から再出発した、
  アウトローがヒーローになり得るほどそこそこ豊かになった日本ではなく、
  3丁目の夕陽的時代の庶民的ヒーロー、みんな貧乏だけど明日があるさ、という時代の、
  カタギのヒーローから出発していたんですね。
  1950年代に、新諸国物語という子供向けのファンタジー時代劇映画シリーズがありまして、
  「笛吹童子」「紅孔雀」「七つの誓い」などの主人公をなさってました。

 ←1990年代大人になってからビデオ鑑賞しましたところ、無国籍時代劇な感じで、すこぶる面白かったです。
 また、このシリーズは昭和50年前後にNHKで人形劇化され、リアルタイムで時々見てました。

  彼のお兄さん役で、錦ちゃん千代ちゃんと呼ばれ、お神酒徳利のように、
  常に一緒に出演していたのが、東(あづま)千代之介です。
  熱血主役タイプの錦之助とはまた持ち味が違う、端麗な二枚目美剣士タイプです。
  この方は映画スターは早めに引退なさって、その後日本舞踊の家元になられましたが、

  1954年版「里見八犬伝」:映画版では自分にとって一番分かりやすく印象深い作品で、
  1990年の半ばごろツタヤで借りて観たっきりでよく憶えてなかったりもしますが、
  この作中では、錦ちゃんが犬飼現八、千代ちゃんが犬塚信乃でした)

 ~が演じていた、男の中の男の、魚屋さんです。

 一本気でそそっかしくてけんかっ早いが明るくさわやか、へこたれない…一般的江戸庶民ですね。
 今のドラマでいうと、GTO鬼塚ティーチャーでしょうか。
 でも、あそこまでギラギラしてなくて、ひたすら爽やかなんですね、時代は明日を信じてましたから。

 その鬼塚ティーチャーの身元引受人的理事長先生の役割だったのが、一心太助が慕っている旗本の、大久保 彦左衛門。

 昭和時代、大久保といえば、幕×Japanのトシじゃなくて、圧倒的に、天下のご意見番・大久保彦左衛門でした。
 (その後ご長寿番組・水戸黄門が天下のご意見番の称号を一手に引き受けますが、
  昭和の40年代ぐらいまでは大久保彦左衛門だったのですね。

 東映の映画では月形龍之介が演っています。
 この方は渋くて、メチャかっこいい悪役でした。
 テレビ時代劇の東野英治郎がリアルタイムのマイ水戸黄門ですが、東映城の頃は月形龍之介が水戸黄門でもありました。

 水戸黄門は悪役出身者でなくては務まらない、というのが私の持論です。
 清濁併せ呑み腹芸ができるオッサンが、好々爺になるところが、人生の機微というものでしょう。
 (加藤武に演ってほしかったなぁ…)

 ちなみに月形龍之介の子息・月形哲之介も、1954版八犬伝に出ています。犬山道節役でした。

 余談が多くて困りますが、大久保彦左衛門のお墓は、白金の立行寺にあります。
 まだ地下鉄の三田線や南北線が工事中だったころ、
 泉岳寺へ赤穂浪士のお墓参りから、歩いて行ってお参りしたことがありました。たのしかったなぁ。

 さて、この大久保彦左衛門という人の一族は、徳川幕府草創期に、たいへん重要な役割を果たした名家でした。
 この人のお兄さんは、大久保忠世(ただよ)と申しまして、徳川家康が江戸に封じられたのにおともして、相州小田原城主になったという、家康くんにとっては艱難辛苦をともにした、かけがえのない家臣です。

 で、この大久保忠世に、忠憐(ただちか)という長男がおりまして、家康くんに子どもの頃から近習として仕え、2代秀忠の重臣となり、大坂の秀吉くんがまだ存命のころに、小田原城主を継ぎました。

 城持ち大名って、なったらなったで大変です。
 要するに「テッペン取ってやる!」と息巻いてる連中が跋扈していたのが戦国時代で、その親方を決める権力闘争があらかた決着したら、次はナンバー2をめぐる争いですから…政治抗争ってむかしも今も変わりません。

 1600年に関ヶ原で秀吉亡き後の大坂方を痛めつけて、
 1603年に征夷大将軍に任命された家康くんが江戸幕府を開き、
 1605年に、天下は豊臣家にはもう譲りませんょーだ!と、家康くんが意思表示するべく、
 将軍職を2代秀忠に譲り、大御所さまとなって、

 でも、まだいろんな大名家が存在していて、大坂には淀と秀頼がいて、
 スペインやオランダやポルトガルやイギリスが、うるさく貿易したがったり、
 キリシタンは、何度ダメと言っても信仰を捨てないし…

 そんなふうに徳川幕府がまだそれほど安定していなかった頃、幕閣のあいだでも、熾烈な権力闘争が続いていました。

 そんな、徳川将軍家の下でテッペン取ったる!抗争に巻き込まれましたのが、
この、大久保忠憐です…(つづく)
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ゆる松さん

2017年12月18日 22時20分41秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 けさがた、今季初めて気温が氷点下を記録しました、と天気予報が言っていた。そうそう、そうでしょう、今日から霜月だもの。太陰太陽暦、平成廿九年の十一月、江戸の芝居は顔見世月。

 21世紀の私は、12月の文楽東京公演で「ひらかな盛衰記」を聴いた。ここ数年で世代交替が進み、中堅・若手の方々の熱演が頼もしい。その中でついと、私の耳の中に入ってきたのは大津宿屋の段 ♪紀の路大和路うち過ぎて…なんてこたない地を語る若手の太夫の、何と申しましょうか、役者なれば目に潮ある、とでも例えましょうか…美声というわけではないけれども艶のある、情景に色のある声だった。
 この、事件の起きる前の何気ない景色や状況を説明する、脚本で言えばト書きの部分、ここを面白く聞かせられるようになるのが、けっこう難しいのだ。劇的でない分、表現者の力量が問われる。けれど、その息が分かるようになると、演じる側はとても愉しい。

 古典作品には、このなんてこたぁない詞章、たとえば道行…登場人物が劇的事件現場のポイントへ移動する、その旅ゆく道中の景色を読み込んでいるだけの詞章が、聞かせどころだったりすることがしばしばある。

 そいえば故あって久しぶりに「安宅の松」をさらっていたこの夏のこと。
 能登の国の海岸線に生ふる松、長谷川等伯の松林図などを想い浮かべながら…ぁぁここはもっと深く弾き込んで風景を詠み込むことができたら、もっと面白く作品の魅力を引き出せるのだなぁ、そのように弾けるようになりたいものである、それでこそ古典、伝統を現代にて演奏する意味、作者の意図の昇華、作品への供養…何だろう、言葉が見つからないけれども。
 
 そしてその、安宅松の道行をひさしぶりに浚っていた私は、急にまた、もう二十年以前に舞鶴から金沢への道のりを辿っていた旅程で、偶然にも敦賀の松原で、天狗党の終焉地である処刑場と鰯蔵に往き合ったことを想い出した。

 天狗党の墓の前で私は泣いた。いや、そんなに思い入れがあったわけではなかった。だっていくらなんでも無謀な感じになっちゃってるんだもの…水戸学は幕末の尊王攘夷の理念でもあったわけだが、中学や高校の同級生にI沢正志斎やA島帯刀の身寄り、古文の恩師が渋沢翁旧幕時代の家臣の血縁I坂先生であった私には、身近な話でもあった。

 内紛の末、“薩摩警視に水戸巡査”との言葉に揶揄されるように人材が枯渇したとされる水府ではあるけれども、旅の終着が死地であったとは…無謀であった彼らではあるが、ふるさとを遠く隔てた思いもかけないこの地までやってきて、死んでしまったのである。いくらなんでも、かわいそうだょ………
 自分でも思いもよらなかったことに、彼らの石碑に手向けられた、銘菓・水戸の梅、そして受験時代同じ塾だった学友の生家でもある蔵元の銘酒・一品のラベルを見たら、突然みぞおちから何ものかが込み上げてきて、しばらく海岸の松が枝を渡る松籟に誘われて、はらはらむせび泣いていたのである。

 …そんな気持ちになった旅があったことを想い出したことを、さらにまた国立小劇場の客席で半年過ぎて想い出したのだった。
 年ふると記憶が錯綜するのを通り越し、入れ子になったりするのが、人間の脳の働きの神秘でありますね。

 ときに、あたかのまつ、本名題「隈取安宅松(くまどりあたかのまつ)」。初演は明和六年、1769年江戸市村座の顔見世狂言のうちの一幕。例によってお能の「安宅」の道行の詞章部分を、歌舞伎界では ♪時しも頃は如月の……海津の浦につきにけり、までを「勧進帳」が、♪東雲早く明けゆけば……花の安宅に着きにけり、までを、この「安宅松」が借用しております。

 ご参考までに、道行の詞章をば。

  ♪しののめ早くあけゆけば 浅茅いろづく愛発山(あらちやま)気比の海 宮居ひさしき神垣や
   松の木の芽山 なほ行く先に見えたるは 杣山人(そまやまびと)の板取 
   川瀬の水の浅生洲や 末は三国の湊なる 蘆の篠原 波寄せて なびく嵐の烈しきは
   花の安宅に着きにけり

 さて、この安宅の松、勧進帳と同じく能「安宅」を素材にしていながら、しかもその勧進帳より70年ほど前に作曲されていながら、奇想天外な筋立てになっているのである。なんと弁慶が天狗なのだ…メルヘンですねぇ。
 そして旅先で出会った里の子どもたちと無邪気に踊るのであるが、詞中に子どもたちの名前が羅列されていてなかなかにキュートなのだ。当時のキラキラネームなんでしょうか、いやまぁ、戸籍法でお上のいいように管理されてからこの方の常識ではない感覚から生まれた事どもの面白いことときたら、思い耽るだけで降車駅をいくつも乗り過ごしてしまうのだった。

  ♪さっても揃うた子宝……一度に問えば、
   おとよ、けさよ、辰松、ゆる松、だんだらいなごに かいつくぼう、ひっつくぼう……

 実は初演時は、懐妊した静御前を、男子なら無き者にしてしまおうという鎌倉からの討手が調べるという窮地を、鞍馬山の僧正坊(義経が牛若丸時代の剣術の師匠ですね)が、弁慶の姿で現れて助け、奥州へ落とすという話だったそうなのだ。
 義経の道行で何故トートツに子宝のはなし?と、曲だけを聴くと思ってしまうが、そんなわけで、物事には必ず理由があるのだった。

 そういえば…弥次喜多道中にもあったけれど、私の母方の実家は商家で、昭和の40年代まで五右衛門風呂だった。
 焚口に薪のほかに古紙や雑誌が積んであって、その中に少年サンデー、少年マガジンやらもあった。家で漫画本を禁止されていた私は、母の実家に帰るたび、少年漫画を読み愉快な時間を過ごした。
 赤塚不二夫や藤子不二雄のギャグ漫画…おそ松くん、もーれつア太郎、天才バカボン、オバQ(これは西武園のユネスコ村に行く列車の中で大学生だった末の叔父が見せてくれたのだったかしら)、パーマン、ウメ星殿下、怪物くん、人名ではないけれど読切短編の「爪のある杖」、手塚治虫のアポロの歌、やけっぱちのマリア、ジョージ秋山の銭ゲバ、水木しげるの河童の三平、悪魔くん、白土三平のサスケ、山上たつひこの僧侶が狼藉を働く話は吉祥寺の叔母の家に行く電車の中で読んだものだったか(永井豪のチャカぽこは、妹の幼年誌だったかしら)、それから…楳図かずおのおろち、イアラ、ちばてつやの蛍三七子…等々がいまでも記憶に残っている。
 道端には露店がたくさん出ていて、鉄道の高架下で、段ボール箱に入れてカラーヒヨコを売っていた時代だった。吉祥寺のサンロードに白木みのるの子供服の店があった。

 安宅松、落ち葉を掻いていた子どもたちが去ってゆく詞章から、さらに天狗が消えうせる段切。

 ♪…扇になじむ風の子や 風の木の葉の散りぢりに 里を指してぞ…
 ♪ゆめゆめ疑い荒磯の いさごを飛ばす土煙 こずえ木の葉もばらばらばら にわかに吹き来るはやち風
  天地も一度に鳴動して 岩石古木ゆさゆさゆさ どろどろどっと山おろしの……

 ちょっとこの辺りは黒澤明監督の『虎の尾を踏む男たち』のラスト、エノケンが六法もどきを踏んで去っていく飄々とした味わい、今まで目にしていた出来事は、松吹く風が見せた幻だったんじゃないかしらん、というような、ファンタジーな味わいになっている。
 
 
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ハサイダー

2015年01月05日 15時15分15秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 ハカイダーじゃないょ、ハサイダーだょ。
 どうした加減だったか想い出せない。昨夏、安曇野へ行った弾みで黒部ダムへ行ってしまったのだ。
 観光するならば私は山よりは海のたちである。山は怖いのだ。私が小学生の頃、やたらと山岳小説が流行って…三浦綾子や新田次郎、そして松本清張の黒い画集シリーズまで、山へ行くと決まって遭難するような劇的な状況があると刷り込まれたので、とても怖いのだ。
 死ぬなら海。今じゃなくて海。

 それはさておき、そうだ…偶々その旅程のちょっと前に映画「黒部の太陽」を何十年か振りにちらっと観てしまったのと、ダムマニアである友人の顔を想い出したからかもしれない。
 石原プロ肝煎りの「黒部の太陽」は、工事関係者たちのトンネルが貫通し鏡割りした祝い酒をヘルメットで酌みかわすという、酒豪・弁慶の存在も薄くなろうというシーンが感動的な映画である。
 …しかし私はそれしか覚えていなかった。ダム工事なのになにゆえトンネルを掘っていたのか?

 改めて考えてみるとヘンである。迂闊だった。総ての物事には必ず因果関係があるのだ。
 昭和20年代後半、慢性的な電力不足に悩んでいた大阪方面に電気を供給するべく発電所とダムの建設が急がれていた。そこでコンクリートの打設が少なくて済む、谷間の地形を利用したダムが計画されたのだが、天然の要害へ至る道が無い。建設資材を運ぶためにまず、トンネルが掘られたのだった。
 …そうだったのだ。
 そして偶然とは恐ろしいもので、たまたま昨夏は日本が世界に誇る特撮技術映画・ゴジラも記念番組が組まれており、さらに私はなつかしのゴジラ映画まで再見したのだが、シリーズ第2作のゴジラの逆襲だったかが、電力不足に悩む大阪が舞台だった。
 パズルがピタリとハマる瞬間の快感。
平成26年の夏、昭和30年当時のゴジラと電力とダムを結ぶ因果関係が、半世紀の時を超えて私の頭の中で結実したのだった。
  
 そんなことを、CS放送で偶々見ていた私は、ふと実物を体感したい気になったのかも知れない。
 そしてダムマニアではない私は、自分が渡船マニアであったことを想い出し、ダム湖の遊覧船に乗ることを忘れなかった。

 

 ダム湖のほとりで私は泣いた。ちょうど夏場の観光シーズンとて、黒部ダムの人となりを伝える、丁寧に制作された記録映画が上映されていた。昭和の名優たちが妍を競ったあの映画よりも、直截に胸にこたえた。なんという遠大な道のりを経てこのダムは完成したことであろう。
 多くの人々のたっとい志の末に結実したさまざまな仕組みの上に成り立って、私たちは恙なく今日もこうして生きてあるのだった。 


 
 ダム工事をするためのトンネルを造る工事において一番難関だったのが破砕帯を突破することであった。
 ダムへ至る通路の売店で、なにやらほのぼのとする幟旗を見かけた。
 その秀逸なネーミングに私は思わず近寄った。破砕帯から湧出する地下水を炭酸水にしたサイダーが発売されていたのだった。



 それにつけても、その天才的な商品名に反してこの控え目な売り出しぶりはどうしたことか。真面目な人に不謹慎であると咎められたりしたのだろうか。
 でも、きっと。私は考える。
 重い歴史の一面として触れることに遠慮が生じるよりも、そうか、そんな機知にとんだ商品名がつけられる心豊かな時代がやってきたのか、とダムを守る天上の方々が、そう思って嬉しく眠りについてもらいたい。そういう遊び心に富んだ状況が、存在し得る世の中であってほしい。


 
 どんなに便利で機能的なことどもも、すべては一人一人の人間の微細な努力からできあがっているのである。

 そんなわけで手に入れたハサイダーだものだから、私にはまだ勿体なくて飲めない。
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それからの荒木又右衛門

2013年12月09日 00時11分07秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 さて、本日は旧暦平成廿五年の十一月七日で、正しく今日は何の日であるかと問えば、379年前の寛永十一年の今日、伊賀上野の仇討があった日である。
 …ぁ、これって4年前の本稿にも同じような文言を書きましたね。
 (2010年12月22日「伊賀越え」をご参照いただけますれば幸甚です)
 あまり声を大にして我が胸の内を明かしたことはないが、日本三大仇討のうち、たぶんもっとも私が愛し執着しているのは、この、鍵屋の辻の因縁譚なんである。

 それは何故かと…尋ねられなくても申しますが、たぶん子ども時代を過ぎ、晴れて市井の生活人となり、自分の好みの赴くままに名画座で黄金期のold日本映画に湯水のように浴していた当初、観た作品だったからだと思う。
 そして、昭和の終り頃から始めた猫にマタタビ的股旅歴史紀行の第一歩がどこだったかは想い出せないのだが、官軍とは逆に♪西へ~!!と、志向するようになったきっかけが、鍵屋の辻の景色だったことは違い無い。芝居の書割そのままの風景に、関東者は度胆を抜かれたのだ。ただの自然の眺めであるのに情感がある。どこか懐かしいのである。
 歴史がある、とはそういうことだ。迂闊なことに、そのとき初めて気がついたのだった。

 さて昨秋、今まで手薄になっていた山陰方面を旅した。小学生の私は山中鹿之助も好きだったので、まず、不昧公の松江ではなく、鳥取から倉吉、津山から若桜方面を廻った。
 旅の最終日、鳥取城から市街を突っ切って、空港へ向かおうとした日暮れ間近、私は懐かしい文字を道標に見付けてしまったのである。

  荒木又右衛門の墓

 もう、吃驚した。そのとき頭の中は、その前々日に偶然見つけた里見忠義公の墓のことで、南総里見八犬伝一色になっていたから、物凄くビックリした。



 
 寺社建築の意匠のすごいことときたら。



 そうだった。荒木又右衛門が国替えになっていた池田家に帰参叶い、同地で没したことをすっかり忘れていた。
 魚心あれば水心。素通りとは水臭い、お待ちなさい…と、又右衛門に呼ばれたのだ。めっちゃウレシイ!!



 そして、記憶が胡乱になっていた“三なすび”の謂れを鳥取市に教えていただいた。ありがとうございます。



 ところでどうした廻り合わせか、それから一年経った今年の秋、歌舞伎も文楽も、今まで絶えて久しかった『伊賀越道中双六』が連動して通し興行された。

 九月の東京国立小劇場文楽公演、11月の大阪国立文楽劇場公演、ともに伊賀の水月マニアの私は見届けました…と改めて又右衛門の墓の御影に告げよう。

 で、関連事というのは不思議とつづくもので、つい先月、とある旅の途中で偶々沼津を通りがかってしまったので、千本松原の段よろしく、本当の沼津の千本松原に行ってしまった。
 それが表題の写真である。
 この日は恐ろしいほどよい天気だったのに、かつて体験したことのないほど激しく、駿河湾の波濤が吹きつけていた。
 決死の思いで護岸の堤防に立った私に、どういうわけか松原から、4匹の野良猫が猛然とダッシュし、みゃぁみゃぁ啼きながら土手を駆け登りすり寄ってきた。白と黒の斑、茶虎…みな毛色が違う。
 沼津の里の平作一家かも知れなかった。
 海風はびょうびょうと松が枝を鳴らしていた。




 「だって、お芝居だょ??」
 最近、歌舞伎や文楽の評判や感想を聴くと、ちょっと驚く感想を耳にすることが増えた。忠義の為の児殺しが許せないので、伊賀越の岡崎の段は絶対観ない、という意見などもその一つ。
 そんなこと言ってたら、もうたいがいの歌舞伎も文楽も能も見られないょ。
 凶悪犯罪を取り上げた現代の映画だって、犯罪者がそこに至る心理や状況を慮ってこそ、一つの作品として成り立っているのでしょうに。
 なぜ、日本の古典作品となると色眼鏡のレンズが濃く厳しくなるのだろう。

 劇中で起きる事象だけを現代の価値観・判断基準で評価するのなら、歌舞伎や文楽を観る意味がないではないか。
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軒を連ねし…

2013年02月09日 14時14分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
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麒麟さん、あ。

2012年12月11日 11時21分30秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 都バスの路線が減ってここ十数年ほど、さびしい思いをしていたが、都内各地域、コミュニティバスが増えて、思いがけない街角で、バスに行きあうことがある。
 想いつきは、いつも、旅の始まり。
 踊りの会がハネて日本橋劇場から外に出たら、小体な可愛いバスが停まっていた。
 来た道と同じルートで帰るのはつまらないから、行き先も知らず乗ってみた。
 江戸バス、といい、中央区内の、あまり交通の便利ではない地域を循環しているのである。

 コミュニティバスだと、始発停留所にしても終点にしてもたかが知れてるから、どこかの知らない街で、来たバスにとりあえず乗るという、博打のような思いつき小旅行を“決行する”ほどの度胸もいらないので気が楽だ。
 ただ、自分はどこに行ってしまうんだろう…的浮き草的デラシネ心情を満喫したいときには、地方都市の大型路線バスは、エキサイティングな旅のツールではある。

 多くは申しますまい。長年の懸案事項だった「霊岸島」(落語「宮戸川」主人公の親戚が住んでる町)を、期せずして訪れた…という収穫があったことだけ記しておく。

 どこをどう廻ったにしろ、江戸バス北循環は、戦前の日本橋区内だ。
 日曜の晩、ひと気のほとんどない中央通り。
 美味しいものでくちくなり温まり満ち足りた人間は、思いもかけぬ行動に及んでしまう。

 はい、たぶん人通りの多い、明るいお天道さまの下では絶対に恥ずかしくて撮らないであろう日本橋を被写体にして、シャッターを押してしまいました。
 だって、日本橋ってステキなんだもの。


 
 欄干の中ほどにある麒麟の像です。
 よく見たら、麒麟さん、阿吽になってました。
 北面を向いているのが「阿」像、南面が「吽」。

 日本橋は、東京では「にほんばし」。大阪は「にっぽんばし」いうらしいですなぁ。
 日本橋銘の揮毫は、徳川十五代将軍、慶喜公です。
 (日本橋の意匠で、榛原商店が、便箋封筒セットを商ってらっしゃいます)

 1911年、明治44年に架けかえられたのが現存する日本橋だそうな。
 橋の設計(意匠)は妻木頼黄(つまき・よりなか)氏。幕末の旗本の家に生まれた方です。
 去る10月開催された戦国鍋LIVE(私は演奏会前日で準備のため参加できず涙を呑んだのですが)主戦場、横浜赤レンガ倉庫の設計者でもある。
 そして、愛知県は半田市の観光名所になっている、旧カブトビール工場の赤レンガ群もこの方の設計です。

 ちなみに、半田市は『ごんぎつね』でおなじみ新美南吉の故郷でもあります。
 私を泣かすには玉葱は要りません。新美南吉の『うた時計』があれば、即号泣です。

 …ほら、やっぱり余談で長くなっちゃった。

 さて、この、“あ・うん”の麒麟像で想い出したことがあります。
 小学生の時、英語塾に通っておりましたその時のテキストに、たしか、ローマ神話のヤヌス神の彫像が載っていた。月の名前を憶える、一月の言葉の語源ですね。
 ヤヌス神は二つ顔を持っていて、去年と新年を見ています…と、むかし聞いた。

 日本橋の欄干の真ん中で、龍に似た麒麟を見て、ふと。
 そして、ヤヌス神が立ってる場所って、本当に一年の境目だとすると、後ろの顔は去年、前の顔は来年を見てるわけで、その瞬間は“今年”って概念がないわけだよね…などと考えてみる、酔客が、夜更けた橋のたもとに独り。
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風が呼ぶ

2012年09月11日 11時09分05秒 | ネコに又旅・歴史紀行
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ひゐき

2012年01月11日 01時11分12秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 こうなると、いっそ不憫というものである。
 誰がって、史実の上の吉良上野介義央が、だ。
 役者はいいよ。悪役、憎まれ役は役者冥利に尽きるほど、演っていて面白いらしいから、全然可哀想と思わない。虚構の世界の吉良上野介には。

 そりゃ先に死んでしまったものは可哀想だ。自分も、忠臣蔵が何たるかよくわからない20代前半のころは、昼行燈の頼もしさとか、塩冶判官の悲愴とか、四十七士の艱難辛苦とか、討入り装束のカッコよさとか…無念を晴らす恍惚感に酔いしれた。
 たとえそれがどんな目的であれ、何かの目標を遂行するために一心不乱になっている者たちは美しい。
 しかし、である。いい加減、さまざまな忠臣蔵を観尽くして、吉良の旧領を訪れたりすると、とことん、一方的な悪者にされている、吉良本人があまりにもかわいそうに思えてきた。もう、講談ネタをベタで映像化している忠臣蔵の、見るに忍びないことといったら。

 講談や落語は、仕手に愛嬌があるから噺として聴いていられるが、こと映像でまことしやかに描かれると、大ウソが際立って、なんかもう、救いようがなくメタメタに腹立たしい。
 町人づれが、現代マスコミのストレイシープ叩きのように、自分たちとは無関係の上つ方々への悪口雑言。あり得ない。
 むかしの映画はもう観ちゃったからいいけど、新たに再びそんな目に遭ったりするのは…忌々しくて私はもう見ません、そんな時代劇。

 だいたい、勅使饗応役が粗相をして、その責任はすべて教育係の自分に返ってくるのに、そんなに浅野内匠頭に意地悪をする必要がどこにある?
 燕雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや。
 人にものを教えるってのは、労苦が伴う、実に大変なことなんですョ。
 そしてまた、殿中で刃傷に及んだ、その罪科に対して、なんらの自責の念も持たず、幕府の手落ちだのエコひいきだの、ああしゃらくさい。片腹痛いとはこのことだわ。
 それがどんなに重い罪だか判らないの?? かてて加えて綱吉くんの大切な母君・桂昌院の叙勲の行事なんですよ。即日切腹、当然です。

 こうなったら私は、昭和のころ読んだ、とある有名歴史作家先生の、地道な考証研究からの「浅野内匠頭がキレ易いDNAを持つ男だった説」というのを披露したい、と思ったが、あいにくその本はどこかにやってしまった。その小説家が誰だったのかも…女流であったことしか想い出せない。
 「キレやすい」というよりも「切りやすい」…「斬りつけやすい」性癖、ということではある。
 そこで、自分が調べ直すことにした。全然関係ない事柄に一肌脱ごうという…これは、任侠である。吉良の仁吉に触発されたわけではなけれども。

 浅野内匠頭長矩が、殿中で吉良上野介に斬りかかった元禄十四年(西暦1701)を遡ること20年ほど前。貞享元年(1684)、江戸城中、つまり殿中で刃傷事件がありました。
 な、な、なななななんと…!! 時の若年寄・稲葉正休が、大老・堀田正俊を、刺し殺したんです。こりゃあ、今で言えば、総理大臣を国務長官が殺したようなものだから、そりゃもう、たいへんな出来事です。
 実を言えば、この稲葉正休は、浅野内匠頭の母方の親戚なんです。
 具体的にどう親戚だったか忘れてしまった私は、えーーーー、調べました。吉良くんの名誉のために。

 浅野長矩のお母さんは、徳川幕府の譜代大名・内藤忠政の娘です。でその、内藤忠政の奥さん、つまり内匠頭の母方のおばあちゃんは、やはり譜代大名・板倉重宗の娘です。そのおばあちゃんに、これまた譜代大名・太田資宗へ嫁いだ姉妹がいて、その姉妹が生んだ娘が稲葉正吉へ嫁ぎ、そして……くだんの事件の主、稲葉正休が生まれたと、そういうわけです。ああ、ややこしい。
 だからね、浅野内匠頭が、かかる大騒ぎを惹き起したのとまったく同じ、江戸城内で、20年ほど前に、彼の遠縁の稲葉某が、同じように刃傷事件をおこしていたわけです。
 慄然とするでしょう?

 真実なんて、本当のところ、当事者にしか分からない。
 自分が実際に見聞きしたことでもないのに、単なる憶測や、一方的な見地から、見知らぬ他人を悪人と決めつけるのは…いかがなものでございましょう。
 とかく人間は、自分がひいきにしている事どもからの話を、鵜呑みにしてしまう。
 身びいきというのは誰しも持っていることだけれど、イメージからだけの人間の根拠のない思い込みって、これほど人を不幸にするものはない…恐ろしく罪深いものである…ということをよくよく考えてほしいなあ…と、久しぶりに忠臣蔵のことを想い出した辰歳の年頭、吉良家への判官びいきから、義憤に駆られた自分でした。

 お芝居は、面白くてなんぼの世界だから、それはそれで、いいんです。
 本当はそうじゃないんだって、分かってくれてればそれだけで、吉良の殿様も、多少なりとも、浮かばれよう…てなもんです。

 ちなみに、元禄元年は1688年、戊辰の年。同年、柳沢吉保の身がタツて、側用人に登用されます。
 その前年、貞享四年卯歳(1687)には、例の「生類憐みの令」発布。五代将軍職に就いて張り切っていた綱吉公、在職7年目の辣腕です。
 伊達騒動の一因とされた有名な大老・酒井忠清は、延宝八年(1680)、四代将軍家綱公が亡くなり、弟の綱吉公に代替わりした途端、即座に免職されています。

 さて、2012年辰の歳正月の話題として、おもだった関係者に辰年がいたら面白いところですが、ご存知のように綱吉公も柳沢吉保も戌年。吉良上野介は巳年。内匠頭はヒツジで、内蔵助はイノシシ。意外なところで、浅野大学(兄の弟)が、お犬様と同じイヌ年。堀部安兵衛も同い年の戌年生まれです。
 綱吉公のお父さん、三代将軍家光公が辰年でした。余談ながら。


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大序

2012年01月01日 22時33分44秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 ……そんなつもりじゃなかった。
 私は、宵闇に沈みこんだ鶴岡八幡宮の社頭で、ドキドキしながら夜空を見上げた。
 星は煌めくけれど、月は見えない。今日は旧暦十二月一日…つまり、平成廿三年、師走朔日。2011年12月25日聖誕祭当日。
 左手前には、いつだったかの台風で倒れてしまった大銀杏が、根株から伸びた蘖(ひこばえ)の育ちっぷりがよいので、室の独活(うど)か、20世紀のSF映画やウルトラ・シリーズに必ず登場するマッド・サイエンティスティックな博士に巨大化された、エノキダケのようになって、暗がりの中で白く光っている。

 仕事は必然で詰めていきたいものだが、遊びは偶然性がうれしい。凝り性の酔狂で、何事においても、よく「○×づくし」や、縁語・類語を果てしなく繋げていく符合遊びをしてしまうものだが、今日はそんな目途のある旅ではなかった。
 食事に行けば必ず深酒へ…という、分かっちゃいるけどやめられない病の、気のいい友達を、ともに過ごすクリスマス・ディナーまで、日頃の慰労の意もあってドライブに誘ったのだ。
 われら一行三人旅。三浦半島の西海岸で、天気晴朗なれども波高き、暮れの海を眺めていた。
 さてさてこれから晩餐までどこへ行こうかねぇ…と皆でぼんやり懐手して、波の高さを測っていたときである。久しぶりに湘南へ出てみようか…主賓の彼女が、ポロリと言った。
 それにアタシ、まだ、鎌倉に行ったことがないの。
 ええええええええっつと、私は思いもよらぬことに驚いて…いやいや、それはそういうこともあろう…と、六段目のおかるの老母のように分別顔をしつつも…しかーし、鎌倉へ一度も行ったことがない…それは関東に住まいするものとしてはいささか不本意なことでもあろうから、ここは友達甲斐としても、やはり…いや、なんとしても彼女を鎌倉へ連れて行ってあげなくては…という義侠心、使命感が、突如私の中に芽生えた。

 人であふれ返った日曜日の湘南なんて、目差すかたきを求めて好んで雑踏を歩く、旅の仇討ち主従でもない限り、絶対行きたくない場所である。
 この世に人を突き動かす衝動があるとするならば、それは愛…それゆえでしかない。

 今上天皇誕生日に続くクリスマスeveの連休を、浜町は明治座にて大江戸鍋祭に参戦、戦国鍋TVテイスト「忠臣蔵」で過ごした私は、まだ夢の中にいた。
 なにしろ、旧暦の師走は今日からだから、まだまだ、赤穂浪士が討ち入りできますようおぉにぃ~♪と歌いながら街灯の根方で♪シングinザrain~ジーン・ケリーの真似して、ターンしたっていいわけだ。はしゃいでいるのが許される時節であるのだもの。

 そういうわけで、弁天小僧ゆかりの江ノ島弁財天へ詣り、弁天様を守る龍神のレリーフに、おおっ、この意匠は年賀状に使えるのではなかろうか…などと思惑しながら、万事思うがままの卦が出た大吉の神籤を手土産に、江ノ島大橋端。
 振り返った西の空が夕焼けに染まって、いかなる天然の配剤にや、空に聳える龍神の塔の遙か遠景の雲が、天昇する龍のかたちのまま流れて行く、まさに龍吐から龍。
 歌舞伎十八番『鳴神』。結界が解けて天昇する龍神をきっかけに、破戒僧となった瞬間、ぶっかえった舞台の愉しさは格別だったなぁ。
 
 それから鎌倉へ向かったが、渋滞に巻き込まれて、すでに陽はとっぷりと暮れていた。
 鎌倉を西から攻めるなら、腰越状は置いておいて、まず大仏様ですかねぇ…あいにく閉園。
 つい三日前の日本橋劇場で、金馬師匠の「大仏餅」にすっかり感銘を受けていた私は、何となく、この数日来の遊興の反芻を、江戸から場所を変えた鎌倉で、ふたたびなぞらえているような、不思議な感覚を覚えた。

 作為的な行動による結果ではなく、無為無策で何もなさずに、その瞬間、心に囚われていたものが目の前に現れると、ことのほか嬉しい。
 人はこれを「運命じゃないかしら…」と呼ぶ。

 そして、いま気がついた。イチョウの大木を見て想い出したのだ。歌舞伎の大道具にも、この大銀杏はちゃんと存在するからだ。
 『仮名手本忠臣蔵』の大序、あれは、ここじゃん。
 赤穂浪士が本所・吉良邸へ討ち入った史実は江戸の話だが、浄瑠璃作者は例の如く、舞台を歴史上のとある時代に設定し直している。時は室町。「太平記」の世界。
 だから、大石内蔵助は大星由良之助、浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直。

 全十一段の物語。昭和時代に誕生した芝居「元禄忠臣蔵」以前の歌舞伎において、もっともスタンダードな「忠臣蔵」は、室町幕府に弓引いた新田義貞の兜を鶴岡八幡宮へ献上するため、戦利品の兜の中からそれと選定する、兜改めの場から始まる。登場人物の主だったものが勢揃いする、実に様式的な序幕である。
 もともとは文楽のために書き下ろされた芝居であるから、歌舞伎ではことのほか、役者たちを人形に見立てた演出がなされている。

 この符合はいかなることか…! 
 ここについ昨日、私はいた。明治座の舞台のここに。
 大江戸鍋祭の制作者の心意気や大したもので、芝居の序幕が、忠臣蔵の大序へのオマージュ仕立になっていた。つい24時間前まで浜町河岸で、爆笑と陶酔と興奮の十重二十重の波にたゆとうていた私は、ここまでくると、かえってこの偶然が恐ろし過ぎて……
 何となく背筋が寒くなって、参拝ざま、私は神籤を引きに石段を下りた。
 鶴岡八幡宮の紋・鶴の丸(むかしのJALのトレードマークでしたね…飛行機の尾翼に必ず宿っていた)が地紋についた、第十番、吉。
   武蔵野は 限りも見えず かりそめの
             草の庵に 心とどむな

  世間は広く、また、長く遠く涯(はて)もない。そのなかに充ち足るものは、小さな自分の体に包んでいる心なのです。このことを理解して、いまのこだわりを捨て去ってください。

 これはうつけ放題、遊興に浸りきっている今現在(今に限ったことでは無けれど)の私への、ご諫言なるや。
 
 時計は暮れ六つを回り、帰路途上の首都高速。芝を過ぎ、いつものように東京タワーを望むと…クリスマス仕様の電飾になっていた。
 降りかかった星が鉄梁にとどまって、まばゆくフラッシュのように交互に瞬いている。

 …そして私は、昨晩、大江戸鍋祭で観た〈松の廊下走り隊7〉の歌「キラ☆キラ KIRA Killers」をくちずさむ。
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猫の町 3

2011年10月29日 17時00分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 それまで私は、大きな勘違いをしていた。
 宇和島の闘牛は何となく、四国の最西端、佐田岬の半島の付け根の辺りで行われているように思っていたのだ。
 たしかに、四国の佐田岬はとても細長く「持つとしたら、こう!」と言いたくなるような牛のしっぽにそっくりの形をしているが、落ち着いて地図を見ればそんなことはない。
 私の唯一の自慢は、地図が読める女、ということで、どこへ行っても頭の中で東西南北を俯瞰してイメージできる。唯一、苦手なのが人形町。交差点が斜め45度になっているので、これまで何度行ったかしれない土地なのだが、常に一角分、錯覚してしまう。三越へ行こうと思って茅場町へ向かっていたこともしばしばだ。
 …というわけで、地理に関しては腕に覚えのある自分なのだが、こればかりはしくじった。自分の頭の中の四国地図は、中世のイドリーシーの地図以下だった。

 そういえば、子どものころ『小公女』を読んだとき、イギリスの植民地であるインドは、ヨーロッパのすぐ真南…なんとなくアフリカ大陸の辺りにあるような錯覚を起こしていた。
 人間、欲の皮が張れば、どこにでも行きますな。
 そういう愚かしい者の前途を案じて、父は小学校に上がる前から、私に地球儀を与えてくれたが、いちばん最初に覚えたのは、長靴の形をしているイタリア。そして同時代同様に記憶に残っているのが、円為替レート1ドル360円だった1960~70年当時、オランダ土産というと、陶製のサボ型花卉で…やっぱ人間、履くものは大事です。

 トートツですが、もう20年ぐらい前に仲良くして下さった知人から、裸足で道を歩いている夢をよく見る、という話を伺ったことがある。何か履いて出掛ければよかった…と思うのにハダシで、それで自分はやっぱり、と思いながらも怪我をしてしまうのだ…という、フロイトだったら眼を輝かせそうな暗喩的な夢である。
 そのとき、私は、この人の足袋になってあげられないものだろうか…と、ちらと思ったものだったが、結局、それも果たせぬ出来ごころであったまま、時は流れた。

 で、宇和島踏破以降、私の脳内四国地図は、ようやっとまともになってきたわけであるが、それでは、それ以前のイメージング宇和島の跡地には、ホントは何があるのか。
 自分の知らないことは、なんとなく…で済ませてしまうのが人の常だが、どうもそれでは気が済まない人間は、物事の在りようを自分の眼で確認せずにはいられない。
 …ということで、佐田岬の最西端マイナス1.8キロ地点を制覇した私は、再び尻尾の付け根に戻ってきた。マイナス1.8キロとはなにかというと、…仕方ないよ、トレッキング・シューズがなかったのだから。
 佐田岬の突端まで来た!!と鼻息を荒くしていたが、灯台はその、車で到達できた展望台より、さらに1.8キロ先だったのだ。

 昭和から平成初年頃まで、城めぐりと並行して、岬めぐり…燈台めぐりもしていたのだが、岬の突端まで行って、灯台に触れられないのは、本当に悲しいことだ。
 私は佐田岬灯台に上って、いや、それが叶わないなら灯台を見上げながら、♪おいらみさーきのぉとうだいもぉりぃは~と低い声で一節、歌いたかったのである。
 これはどの灯台でもそうなる、というものではない。唄は感情の発露、ほとばしりだから、むかし訪れた遠州灘の灯台、犬吠埼の灯台などなど、皆いずれ劣らぬ立派な灯台であったが、そういう心持ちにならなかった。
 実際、城めぐりをしていて三橋美智也大先生「古城」を口ずさんだのは、やはり20年前の、丸亀城でだけである。そのとき私はこんぴら歌舞伎の帰りだったのだが、芝居とは別に、ひどく大きな喪失感を抱えていた。

 さて、歌好きにはどうしてもこの場所で唄わなくてはならぬ、という歌があるものだが、灯台守の歌。これは佐田岬、という地名の為せる技である。
 木下恵介監督「喜びも悲しみも幾歳月」。この映画の主演であった佐田啓二・高峰秀子コンビ。この名作は、木下監督が自らの作品をパロった「風前の灯」という怒濤の抱腹絶倒コメディとともに存在することで、私の中では忘れ得ぬ映画となっているのだ。
 いまは亡き並木座の暗闇、♪誰よりも君を愛す~love!!

 しかし、その、灯台に寄れなかったじんわりとした失望感を埋めるに余りある、佐田岬の付け根の海岸の町々。リアス式の半島には、多くの湾口があり、いくつもの集落を形づくっている。
 陽も西に傾きかけた逢魔が時、私たちは八幡浜というところへさしかかった。
 街道に、ハイカラな町並み、という看板が見えた。時代がついたもの好きな人間には、やり過ごすことのできないキーワードだ。
 立ち寄った役場の出張所のみなさんが総がかりで、その場所を教えてくれた。

 なるほど、なつかしい町並みだ。特に官公庁が総力を挙げて整備していない、というところに、実によい味わいが出ている。
 昨今の歴史の町並みを売り物にしている地方都市は、きれいにし過ぎなので、テーマパークのようになっている。旅人には、それが面白くない。
 歴史の遺物とは、その半分朽ち果てたところに、何とも言えない情緒が存在するもので、きれいにしてしまっては魅力半減なのだ。
 …でも、マスで集客しなくてはならない観光都市は致し方ないのでありましょうなぁ。

 洋館の脇を入り、赤レンガの塀に沿って小道を歩いていたら、急に町屋の裏庭に出た。
 日当たりのよい庭の向こう、蔵の二階の裏窓に、猫がバストショットで座っている。網戸をすかして、窓から常に隣近所を見張っている安楽椅子探偵のおばあさんのように。アーサー・ラッカムの挿絵のチェシャ猫を上品にした、銀灰色の、きれいな虎縞の猫だった。
 「こんにちは!」なにかというと朗らかな連れが声をかけた。
 すると突然、「ガイギュギギョゲーギャ」という、おばあさんの声が聞こえた。
 ?? どこかに誰かいるのだろうか、と思って猫窓のあたりをよくよく見ると、猫がもう一度「ガイギ…ギョギイ」と、しゃべった。
 は?…「ガギグゲゴタイロー」とか言ってないよね?
 私はとてもビックリして、一同の頭上の空間に特大のエクスクラメーション・マークが浮かび、その場の空気は一瞬、時間がとまった。
 グレイッシュ猫は、しまった!というような顔をしてじっとしている。
 「おまえ、いましゃべったよね?」
 と、連れが話しかけた途端、猫は、
 「みゃあぁぁあぁ~ん」
 と、この世のものとも思えないほど可愛い声で鳴いた。

 この瞬間、私ははっきり確信した。
 こやつは、人間である。人間が猫になったのか、猫が人間になったのか、そんなこたァ分からない。
 しかし、この猫が人間であることは間違いない。まごうかたなき事実なのである。

 六本木や歌舞伎町、都会の繁華街にいるのは、まがいものの化け物である。
 本当の化け物は、時間の狭間のようなところにひっそりと棲息している。そして本人は、自分が魔性のものになっていることすら気がついていない。
 それから、彼女が何かを話すかと思ったが、それきり沈黙の行に入ったまま、窓辺に貼られた肖像画のごとく、じっとこちらを見ながら座っていた。
 私は彼女を残して、再び崩れかけた赤レンガの迫る裏道を、とことこと歩きだした。


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猫の町 2

2011年10月27日 15時55分30秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 失敗しない一枚目の着物を選ぶには?…とかいうようなマニュアル本の、賢人たちのおすすめを、ついぞ聞いたことのない私は、
(ほんなもん、義務的な仕事とかではない、自分の好き嫌いの問題なんだから、失敗したっていいじゃないの…無難なきものって、結局一度も着ないで箪笥の肥やしになるよね~おしゃれはTPOを踏まえるのは当然ですが、それ以外のチョイスの原点は自分が好きかどうか、着ていて愉しいかが、第一義ではないかと…)
 松山空港に降り立ったとき、松山城に行かずに、愛媛県西南方面を目指していた。

 愛媛県宇和島地方は、獅子文六『大番』の主人公・ギューちゃんが生まれ育ったところである。
 二十代後半、まじめな文学小説に飽きた私は、ユーモア小説に蜜の味を見出し、獅子文六の本を制覇しつつあった。この時すでに、獅子文六の諸作品は多くが絶版になっていて、文庫本ですら探し出すのに苦労したものだった。
 『大番』は昭和時代前半、兜町の株屋になってのし上がっていく、痛快無比の男の一代記である。加東大介が主演、マドンナ役が原節子の映画化作品は、三十代になってからフィルムセンターで観た。織田作『夫婦善哉』で惚れた男に尽くすキャラだった淡島千景が、この作品でもいい味を出している。
 あのバイタリティの塊のような男は、どのような天然のもとで醸成されたのであろう。
 何かを理解したいと思ったら、それらのものが生み出された現場に赴くのが一番だ。

 そしてまた、持ったが病の、城めぐり。現存十二天守のうち、宇和島城。
 仙台藩・伊達政宗の長子ながら、元和元年に宇和島に入府した伊達秀宗を藩祖として、明治維新まで九代。
 時代がついた建造物のみが持ち得る、何とも言えない味わいのある空間。狭間から洩れる南予の温い日差しを浴びて、感慨にふけっていた私は、江戸から平安時代へ急ぐべく、天守閣から仰いだ、ご城下のみなとへ向かった。

 伊予国、日振島。1000飛んで70年前、承平天慶の乱。
 東の平将門…そして!西の藤原純友が根城にした島である。海賊…と聞くだけで血沸き肉躍る。そのワルどもの夢のあとを周遊できる船便が出ているのである。
 やっぱり、なんてったって、交通の王者は、船だねっ!!
 ところが、あいにく、その日のフェリー最終便が五分前に出たところだった。
 ……舟は出てゆく、カモメは残る。船旅は、こんな時が切ない。

 気を取り直して、宇和島名物・闘牛場へ向かう。
 とはいえ、お城下のご町内掲示板ですでに分かっていたことだったが、つい昨日、年に5回ほど開催される闘牛、そのうちの1回が、終わったところだったのだ。
 大相撲の場所のように、何日間か興行しているものと思っていた私は、落胆した。
 こたびの旅程は、どうも後手後手。

 昨日までの、はなやいだ興奮の余韻を残して、闘牛場は丘の上にあった。
 スタジアムの入り口は人っ子一人おらぬ。茶と利休鼠の、似たような虎猫が4匹、うずくまっている。じっと見つめても、ピクリともしない。
 ……そして、猫の前足が、どうも、ヘンだ。

 天神さまの牛の像に、そっくりなのだが、手首(つまり足首)から前を、身体の中の内側に折り曲げているのだ。これは、偶蹄目とか奇蹄目とか、ひづめのある動物たちの座り方じゃなかったっけ??
 前足が自由に動かせるように、手(つまり足先)を前に出して座るのが、正しい猫の在りようだ。…そうじゃないと、食肉目のネコちゃんは、獲物をいたぶることができませんからね。

 そうそう、この座り方には、私は身をもって感じ入ったことがあった。
 昭和のころ、わが家族は夏休みになると、那須高原の南ヶ丘牧場へ行く。母がとてもこの牧場を好きだったのだ。
 初めて行ったとき、放牧されていた羊の前脚を見た母が「あっ!大変!! このヒツジ、足が折れちゃってるんじゃないの?!」と叫んだ。
 まったくもって、うちの母親は太平楽で困る。人が善いばかりで愚かしいものだから、子どものころ、冬、桶の水中で蛙が泳いでるのを、寒くて可哀想だなーと思い、熱湯を注いで暖かくしてあげたそうである。幸福感きわまったのか、カエルはきゅーっと伸びた。
 …自分だけが正しいと思っている者はまこと扱いに困る。そして、罪の意識のないものの残酷なことといったら。お蔭で、親の因果が子に報い…私が斯様にカエルに執着するのも、母の悪業の祟りに違いない。

 …こやつたち、自分をウシだと思っているのだな。
 「迫熱の激突!」と迫力あるレタリングで描かれた、入場券売場窓口の、閉ざされたシャッターの前で、4匹の猫は微動だにせず、じっとコンクリ敷きのスタジアムのエントランスに座っている。
 闘牛場だけに、狛犬もウシ風。
 天神さま……菅原道真公も、以って、瞑すべし。
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新説・履きだおれの街

2011年07月21日 17時55分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 久しぶりに大阪に来たというのに、足にマメが出来てしまった。
 私はしょっちゅう、足に豆をこしらえるたちだ。ゆえに冬場はブーツを愛用している。
 しかし今回の旅に出かける前に、突如70年代懐古というマイブームが来ていたので、二十年ぶりにジーパンを穿く、という暴挙に出てしまっていた。しかもベルボトム。外側の縫い目付近の大腿部から裾にかけての花蝶の刺繍入り。なんとまあ、なつかしー!! 

 小学生の時、Gパンに花の刺繍を入れたのが大流行りして、私は級友の優子ちゃんの、濃紺にヒナゲシの赤い花がワーッと咲いている意匠をたいへんうらやましく思っていた。
 そうそう、当時、電子頭脳内蔵の仕組みで簡単に刺繍ができるという夢のような家庭用ミシンが発売されて、給食袋やハンカチに、加賀紋のように装飾したイニシャルをダダダダーッとミシン刺繍してもらうのがトレンドだったのである。
 そのころの商店街をゆけば、どこにでも必ず一軒はあったミシン屋さんの店先で、ニュートラルな男前のオニイサン方が実演販売をしていた。爆音とともにジグザグめまぐるしく動いた針先のあとには、まさに魔法のような美しい模様が出来上がっているのだった。
 思えば、最初の結婚のときバアサマが、電子のお針箱・リッカーマイティを嫁入り道具に持たせてくれた。そのころはイメージばかりが先行して、着たい服というものに手が届かなかったので、型紙がついている洋裁雑誌を買い漁っては、自分でワンピースとか作っていた。多種多様なリバティ・プリントも、大量に生地屋さんに置いてあった。
 あれはあれで充実した毎日だった。懐かしい。銀座の泰明小学校のはす向かいに、リッカー美術館があって、私は子どものころ好きだった絵本作家の武井武雄展を観に行ったりした。

 さて、このジーパン。これは佐島マリーナの売店でうっかり見つけてしまったものである。ピーター・フォークの訃報が、忘れていた欧米スイッチをonにしてしまったのだ。
 刺繍の色合いが、ストーンウォッシュタイプの地色に同化した水色と白だったので、これなら現年齢のわたくしでも大丈夫だろう…と、久しく忘れていた着るものを買う、という喜びに雀躍りしながら、購入した。
 そのふた昔ぶりに穿いたGパンに合う靴。私は昨年、生涯最後かとも思えるほど愉しみにしていたとある邂逅のために、洋装に合う靴をさがしに行って、夏物のブーツですョ、とお店の人に勧められて何となくその気になって買った、ウエスタンブーツをマイルドにした感じの、白い、これまたストーンウォッシュひび割れ加工の革ブーツをひっぱり出して履いてしまったのだ。
 履物はオシャレの要なので、とっておきのお洒落服に合わせるための靴は、とっておきの服同様、ほとんど履いていない。ワインでもなかろうに、十年間で一度履くか履かないか、というような秘蔵の靴もざらで、私は洋服も靴もたいへん物持ちがいいのだが、これが敗因だった。

 この格好で、日本橋の文楽素浄瑠璃の会がハネたあと、久しぶりに法善寺横丁をつっきって、心斎橋筋、御堂筋を越えて、アメリカ村付近まで歩いてしまった。ガッデム!! こんないで立ちで歩いていたから呼ばれたのか。
 鰻谷の番地表示。あああかん、ここは文楽でもめずらしい演目の、女腹切りの所縁の地や、おまへんか。…いや、ちゃうちゃう、ありゃ長町。あんさん、また、記憶が錯綜してまんがな~。

 …自分でもどうかと思うような、よくわからない関東者特有の大阪弁が頭の中でぐるぐるして、中之島の宿に戻ったときにはもう、どうしょうもなく足が痛くなっていて、サンテレビで一週遅れの戦国鍋を観てひとり悦に入っていたが、気がつけば、私には着替えるべき着物がなかった。
 雪駄はいい。足袋は実に楽だ。足に豆をこしらえても、仕事着である着物で出掛ければ何の苦もなく歩けるので、私はこの疼痛に至る原因に深く想いを致さず、油断していた。
 考えてみたら旅先で、着物がないので草履もない。つまり明日もこのブーツをはいて旅をしなくてはならない。

 食いだおれの街で、履きだおれ…。しかも意味が違う……!
 山崎豊子『ぼんち』は足袋問屋の大店のぼんが主人公だ。女道楽の賜物で、七色の足袋とこはぜ、というのを発案して、左前になっていた家業を復興する。
 人間、苦境に立たされると、思いもかけぬ妙案が浮かぶものだ。

 歩けなかったら、歩かなくていい旅をするのだ。

 実は、私は寛永寺門前で記念撮影するほど、ここ二十年というもの、十五代慶喜公を心の底から贔屓にしていたのだが、因縁の地、天保山へ行ってみようと、決意していた。
 天保山は、鳥羽・伏見の戦時、徳川慶喜が大坂から海路・江戸へ戻ったときに出帆した湊だ。ここへ行くのは怖かった。でも、人間、行かなきゃ完結できない場所がある。
 そのため、新大阪から梅田に着いたとき、観光案内所で天保山クルーズのパンフレットをもらっていたのだが、そのほかに何種類か、船で移動できる旅行案内を入手していたのだ。

 秘策、かつて水の都といわれた大阪で船の旅。(つづく)

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