長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

九代目團十郎の一軸

2023年01月12日 22時22分01秒 | 美しきもの
 いよいよ開催まで二日となりました、“浮世絵とたのしむ和の音色・舞踊”鑑賞会。

 今回は浮世絵のほかに、横山先生が、このたびの十三代目市川團十郎の襲名を記念しまして、大変めずらしい、市川三升(十代目團十郎)・賛、鳥居忠雅・画の、九代目團十郎の掛け軸を出展して下さいます。

 まさかり髷、柿色に三升定紋の裃に黒紋付という、瑞々しい色彩も美しい、成田屋の正装の出立ちで、舞台挨拶の絵姿。

 第二次世界大戦後間もない、1951(昭和26)年の夏に制作されました、謎の一軸。
 浮世絵探偵・横山先生の緻密な捜査・研究の末、導き出されました浮世絵の謎解き、ぜひ皆さま、ご自身の目でお確かめくださいませ。

 ご来場お待ちしております。
 
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佇むひと

2022年06月22日 22時32分13秒 | 美しきもの
 〽ベランダの隙より見れば サッシの下に色殊なるサナギの
  今を盛りと見えて候
  立ち寄り眺めばやと思ひ候





 …夕暮れ時はこのような塩梅でしたが、夜更けて夜目に透かして見れば、墨のように黒くなっておりました。
 翌朝、ふと目が覚めましたのが寅の刻。





 〽檸檬に戯れ 匂ひに交はる
  胡蝶の精魂 現れたり



 〽詩歌管絃の御遊を催し 眺め絶えせぬ花の色





 一時間ほどの間にだんだん翅が伸びて参ります。





 二期作(?)次世代のレモンアゲハの緑くんも、未だ夢のなかから応援中。



 二時間ほども経ったでしょうか、



 〝わが翼をご覧ぜよ″



 〽草木の花に心を染め 梢に遊ぶ身にしあれども
  深き望みのある身なり

 それから更に一時間ほど、前脚で頭をこすっているかと思いましたら、体液を排泄し、やにわに羽ばたき始めました。
 そしてついに、明るい向こうへ…



 〽人目稀なる木の下に 宿らせ給へ 我が姿
 夢に必ず見ゆべしと…



 〽明け行く雲に 翅うち交わし
  霞に紛れて 失せにけり


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そのとき折しも鏑木清方が…(和楽器ライブのお知らせ)

2022年05月15日 15時55分05秒 | 美しきもの
数年前まで黄金週間最終日の催し物としてお知らせしていた、
武蔵野邦楽連盟による邦楽演奏会でしたが、
昨年度より風薫る5月下旬の開催となりまして、
今年は来る5月22日(日)、吉祥寺駅南口ほど近くの武蔵野公会堂、
パープルホールで行います。

和楽器である三味線が活躍する、伝統長唄や現代曲、
筝曲や尺八など、全16番を予定しております。
開演は12時、終演は17時ごろ。
入場無料、お出入り自由ですが、
感染症対策として入場時の検温・消毒などご協力を賜りたく、
(ドレスコードはマスク着用にて)
どうぞよろしくお願い申し上げます。

当杵徳社中は、長唄「竹生島」、同じく「五色絲」、
そして杵屋徳衛作曲の三味線と十七絃による
現代曲「吉祥天女伝説/上の巻・白羽の矢」
を出曲いたします。

長唄「五色絲(ごしきのいと)」は、江戸時代の嘉永五年=西暦1852年、二代目杵屋勝三郎の作曲です。
旧暦七月七日、七夕の節句の乞巧奠(きっこうでん:巧みになることを乞い願うための祭り事)のお供え、飾り物の数々を、縁語や類語を鏤めつつ風雅に詠い込んだ嫋やか(たおやか)な曲です。

先月、同曲の場内放送のための解説原稿を調え、ホッとした私は、
世間の花見の狂騒も大方過ぎ、春の嵐に見舞われた四月中旬のとある雨の午後、
20世紀末、たつきの為に通っておりました一ツ橋へ至る懐かしい竹橋の、
国立近代美術館(これまた懐かしい…昭和の頃はいっときフィルムセンター〈現在の国立映画アーカイブ〉の仮舎がありまして、戦前の珍しい映画フィルム上映会にも行きました)にて開催されております、
鏑木清方の没後50年回顧展へ。

ここ二年ほど、仕事への責任もあり、
美術館・博物館、劇場など、
人の集まるところへは極力伺わずにおりましたので、
人気の同展へも二の足を踏んでいたのですが、
もとより大好きな清方の絵画、
荒天で人が疎らだったこともあり、
画伯の世界との久々の嬉しき逢瀬となりました。

そこで…なんということでしょう、
初めてお目にかかった、大倉集古館所蔵の昭和四年作「七夕」屏風絵。
つい先日書き上げた、五色の糸の世界、そのままの絵が私の目の前に…

実は、唄われる五色の糸が何色を示すのか、
文献を何冊も調べたのですが、
決定的な著作にめぐり合えず、
白青黄赤黒と書いて送稿していたのです。

清方描く乞巧奠のしつらえは、十三絃の向こうに青黄白赤緑の
糸を巻き付けた苧環(おだまき)。
なんという有難い廻り合わせでございましょう……
あらさ、黒じゃなくて緑の黒髪の方だった…と慌てて訂正を先様へお伝えしました。
本番に間に合って有り難いことでした。

そんなわけで、曲間にアナウンスされます解説にも
お耳を傾けて頂けましたなら、尚うれしく、
ご来場をお待ちしております。



供え物の瓜に蜘蛛が巣を張ると、願いが叶うとのこと…
写真は先月より檸檬樹に居着きました当家のささがに、オーチャード・スパイダーです。
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ヒデヨリ、旅立つ。

2022年03月28日 18時30分58秒 | 美しきもの
 さて、予てより当家には4頭の越冬サナギが居り、何故か1頭にだけ名前が付いていた。
 その名を"御拾い"といった。
 なぜなら、彼は終齢幼虫の時、蛹化するための最適の場所を求め、ベランダの手すりを這い回っていたが、何を勘違いしたのか、外壁の1尺近い厚みがある銀色の金属カバーの上を、外界へ向かって嬉々として直進し、そのまま真っ逆さまに9階から落ちた。

 まさか落ちはすまい、しかし、あの元気なスピードのまま進めば落っこちるのではなかろうか…などと思って彼の挙動を見守っていた私は、愕然として、とはいえ厳然とした自然のものの成り行きを、悄然として受け入れる覚悟はできていたので、諸行無常、南無阿弥陀仏…と唱える雲水のように、偶々室内にいた家人にそう告げた。
 淡々として諦めのよい私とは違い、情の厚い家人は、事の顛末を聞くと、突然玄関を飛び出していった。
 どうしたのだろう、バタバタして…と、相変わらず私は察しが悪かったのであるが、なんとベランダ真下の地上階二輪車置き場へ青虫救出に向かっていたのだった。

 そんな訳で、九死に一生を得たアゲハの終齢幼虫は、家人に拾われ、何事もなかったかのように檸檬の樹に戻ると、ほどなく蛹化した。
 2021年10月24日のことであった。




 ☝2021年10月28日

 十数メートルにも及ぶ空中をダイブして地面に墜落して、一体まともなサナギになれるのだろうか…と案じていたが、数日経つとすっかりほかのサナギと遜色ない蛹になって2022年を迎えた。
 そも、蛹の殻の中はマントル状の流動体になるのだから、落ちてひしゃげても差し支えが無いのかも知れなかった。


 ☝2021年12月31日

 果たしてオヒロイくんは、無事成長して、秀頼君になれるだろうか…というのが、このじゅうの私の心配ごとでもあった。
 第一、あまりにも無防備に陽の当たる場所で蛹になってしまったし、ということは外敵の野鳥に発見されやすく、餌として啄まれる危険性に満ち満ちている。
 案じれば案じるほど、彼は悲運の豊家二代目に似た特質を持っているのだった。

 暖冬が続いていたここ数年になく寒い正月だったが、3月になって急に暖かい日が続き…ひょっとしてまたまたそそっかしいウッカリ者の我が家のさなぎどもは、勘違いしやしないだろうな、こんなに早い時季に羽化してしまったら生涯の伴侶に出会えないではなかろうか…という、またそれが私の心配ごとの種ともなった。



 3月23日、さなぎ近影。
 慌しく年度末の行事日程に追われながら、28日月曜日の朝。



 レモンの葉陰にアゲハチョウが…こんな時期に卵を産みにお母さんが来るものだろうか、と矢張り察しの悪い私は、そんな一瞬の間をおいてから、蛹が羽化したのだと初めて気が付いた。動顛していたのである。







 強風にあおられながら、今ではヒデヨリくんと名を変えたお拾いが、懸命に網目を登ってゆく。
 まだ羽化したばかりの翅は伸び切っておらず、風の脅威に晒されて、ぺなぺなとはためく。















 30分ほども屋上の軒の際で風をこらえていただろうか、やおら、翅を大きく上下させると、秀頼は青空に飛んだ。

https://youtube.com/shorts/ZliM_7yxl1E?feature=share

 
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二人の碧丸

2021年07月17日 23時38分02秒 | 美しきもの
 今年の旧暦六月六日は盆の7月15日。
 午前中、轟然たる雷鳴とともに滝の如き雨に見舞われた。
 コロナ禍下とてお盆の墓参も控えて、三日の間、昭和の頃の精霊棚のしつらえをあれこれ想い出していた。
 田舎の8月の旧盆では、仏壇とは別に、奥座敷の床の間へ精霊棚を設けて、家紋入りの吊り提灯のほかに、たくさんの大内行灯を飾る。さまざまな意匠を凝らした回り灯篭が美しい。古典的な具象柄の走馬灯のほかにポップな水玉柄もあって、子どもごころに気に入っていた。家族総出で二十ほどもあった行灯を組立てる。
何の手違いか、電飾で温まっても回らない灯篭がある。
 お墓の前には、二本の笹竹を支柱として竹の横木を渡したところへ、彩色を施した盆提灯を三つ下げたのを飾った。各家の墓前がとりどりの提灯をぶら下げていて、旧盆の墓地は賑やかだった。いつ頃からだったろう、そのような風景を見なくなって久しい。

 翌16日は閻魔様もお休みで、まさに地獄の釜の蓋があいたような夕焼けであった。





 盆の14日に、みどり丸(兄)が旅立つ姿を見せに来たので、弟のことが気に懸かっていた。
 長兄たる碧丸が蛹化のために姿を晦ましたのが7月3日土曜日。羽化まで11日と平均より短いような気もするが、蝶の生態に温暖化も影響しているのだろうか。
 兄の後を追うように、末弟は三日後の6日火曜日にふっつりと姿を消した。



 青虫の兄弟が去った翌日に、私を慰めるかのように青い実を抱いた檸檬が、新しい白い蕾を持っているのを見つけた。有難い。
 お盆の13日に花開き、三日目の15日には早くも子房の先が尖って、実を結ぶ予感に心がときめいた。



 何よりも、実らなかった一年を隔てて、今年のレモンは標準形…待ち焦がれていたトンガリ君に育っているのも嬉しかった。
 もう一匹の碧丸のことは、半ば諦めていた。よしんば、無事成虫になったとしても、その姿にめぐり合えるとは思えなかった。
 兄との僥倖が好運過ぎたのである。インクレディブルなお盆の出来事だったのだ。

 7月17日、常であれば京都では祇園祭の山鉾巡行で、雷ちゃん(市川雷蔵。私は田坂勝彦監督1958年作『旅は気まぐれ風まかせ』が一番好きな主演映画)のご命日でもある。
 梅雨明けの強い朝陽を感じながら、水を携えてベランダへ…

 はて、どうしたことか、檸檬の鉢の向こうの、スズラン新三兄弟の上の方に、見えたるぞや…アゲハチョウのようなものが……



 !!!
 何ということ、兄より小柄なみどり丸(弟)が、ベランダの網目に涼しい顔をして留まっているではないか…!
 あわあわと慌てふためき、私は再び携帯を手にし駆け寄った。
 母の慌てっぷりに触発されたのか、みどり丸は狼狽えたようにハタハタとせわしなく羽ばたいて、あっという間に網を潜り抜け、蒼天に消えた。

 なんという天祐。何という律義な兄弟。



 “…孤帆の遠影 碧空に尽き ただ見る 白雲の天際に流るるを”

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手札

2020年07月10日 09時55分11秒 | 美しきもの
子雀が翔ぶ稽古をするときの、可愛らしい囀ずりが聞こえたのが6月。
信号待ちの高架下の交差点で、燕がパタパタと翼をはためかせ飛び交っていた昨日はもう、7月。
♪ここらでやめてもいいコロナ~と、小林旭の自動車ショー歌が脳裡を経廻る禍中もつかの間、令和2年は半年が過ぎ、中止・延期の憂き目を見た演奏会や催し物の手当てが、解除宣言とともに急に押し寄せ、落ち着かない。

総棚ざらいをしていた箪笥のあちこちから、過ぎし日々の捨てられぬテレフォンカードがひょっくり、顔を出す。



断捨離は果てもなく、私の記憶は藪のなか、未だ夢の途中。


【追記】
一枚目中央:益田玉城「現代隅田川風景」、目黒雅叙園美術館メトロカード(パスネット)は、昨年末に別れを告げた、営団地下鉄 銀座線 渋谷駅の旧駅改札口で求めたもの。
左右:歌舞伎・新派・新劇など昭和時代の区分にての劇界専門誌『演劇界』定期講読者プレゼントのテレカ。右は十五代目市村羽左衛門、通称うざさま。大正生まれの姉弟子に熱狂的なファンの方がいらして、よくお話を伺ったものでした。彼女の時代は『演藝画報』を定期講読していたそうな。
【追記Ⅱ】
二枚目中央:当代の尾上松緑丈が父上の前名・尾上辰之助を襲名した折の記念品。
江戸歌舞伎には大切なキャラクター、曾我物の五郎時致(ときむね)の拵え。
蝶の意匠の衣裳は五郎のしるし。

週刊少年マガジン 創刊30周年記念で頂いたテレカは、1989.10.27の日付あり。
(在ったことさえ失念しておりました…朝潮太郎 third関、ご免なさい…私の世代では、四代目がお馴染みです。いしいひさいち氏の漫画も流行りました。46代目の横綱・三代目朝潮関出身地のエピソードは、occupied時代を映し、涙を禁じ得ません…)
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シャガの擬態

2020年04月08日 23時13分09秒 | 美しきもの
 幾ひらかのかたみを残して、今年の桜の頃は過ぎていった。



 武蔵野の雑木林の木洩れ日、その下草の中に、実生の楓を見つけた。



 ミニチュアの破れ傘のようでもあり、南洋の椰子のようでもあり…
 そういえば、私が育った故郷の庭の、日当たりの悪い植木の下草に、特撮用ミニサイズのジャングルのモサモサっとした熱帯雨林に似た苔が生えていたのだが、何という植物だったのか…眼下に辿りゆく失われた世界への憧憬を込めて、心はキングコングやゴジラ、モスラ、あるいは川口浩の探検隊員となり、子どもたちは想像の翼を広げた。

 

 綿毛の飛んだタンポポの果肉様の萼のうてなは、妖精たちのパン、もしくは我らが探検隊の糧食であった。
 ままごとに発する、子どもたちの見立て遊びは際限なく、ミクロの視点から覗く世界に飽きることがなかった。



 この度のコロナ禍で、当分のあいだ閉鎖になった植物園のお知らせが気になる。
 どこぞの庭園では、羅生門葛(ラショウモンカズラ)が咲いたという。
 皆様ご存知、頼光四天王・渡辺綱に斬り落とされた、鬼神・茨木童子のかいなに、花の形を見立てた命名であるらしい。

 お隣の公園にも群生していたが、意外と小さいサイズの野草で、うまく撮影できなかった。
 そして、我が家のレモンの葉の新芽が、私の見立て命名心をくすぐった。



 シザーハンズ・檸檬。ティム・バートンのあの映画を想い出すたび、胸が切なくなって、泣きたくなる。

 さて、公園のソメイヨシノも幾もとか根元からバッサリ剪定されて、池の汀が寂しくなっていたのだが、日当たりがよくなったのか、例年は日陰者のようにひっそり群れて咲くシャガが、妙によく育って大振りの花が誇らしげに顔を向ける。
 …ところへ、ひらひらとモンシロチョウがとまった。



 しかし、よく見ると紋白蝶にしては、翅の形がオシャレだ。角にアールヌーボー調の切れ込みが入っている。
 しなしなしな~と、風にそよぎながら、あれよあれよという間に、シャガの花の一片になってしまった。



 翅の裏が薄クリーム色で、細かい胡麻斑(ごまふ)が入っている。まことシャガの花そのものである。
 …うぬも、ただのモンシロチョウじゃあるめぇ……
 と、荒獅子男之助が、言ったか言わずか。


追記:花供養(灌仏会)、花祭りの今日、お釈迦様には申し訳ないほんの地口の出来心で、シャガの花をクローズアップしてみたのですが、さて、シャガの花の漢字を調べたところ、“射干”のほかに“胡蝶花”という字を、国語辞典に見つけて驚いた次第。

追記2:ありがたや、その後の調べで、モンシロチョウではなく、ツマキチョウ(褄?端?黄蝶)らしい、ということが判明しました。

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2018年07月17日 17時17分00秒 | 美しきもの
 しろと言ったら犬だし、あかと言ったら牛、そして、あおと言ったら馬の名なのだ。
 …その常識は20世紀までのことだったのかもしれないけれど。
 常識、社会通念、共通認識があると話が早いのだ。無いと一から説明しなくちゃならない。

 ときに、八っつぁん、きっぱりはっきり厳然として人間の個人的な都合なんざ聞いてくれないお役所仕事が多い中で、歴史ある苗字はともかく、なぜまた名前という大事なところに使う漢字に、漢字自身の出自とは全く関係ない、各々勝手な読み方をさせて人名として命名することをOKとしてしまったのだろう…ねぇ。
 もはや当て字でもなくなぞなぞでもなく頓智クイズでもない。日本語の崩壊、文化の後退である。

 そんなこんなで、ブルーな日常でも、蒼い空を見上げると心が晴れやかになる。
 碧い海を見ると心が浮き浮きと躍りだす。
 青ってステキな色ですねぇ。
 出藍の誉れとか、藍より青く、とかいう言葉があるけれど。



 去る五月中旬の土曜日、M駅近くで素謡会を覗いた帰り道、ついふらふらと水中書店(三鷹駅北口に現存する古書店なり)に寄ってしまった。
 そこで、なんとした奇遇、何としたサザエのつぼ焼き、なんと間がよいことでありましょう、松岡映丘の生誕130年展の図録が出ていたのだった。
 …というのは、そのまたつい先週、野間記念館で1921年作「池田の宿」を観て、もう20年来片想い状態だった松岡映丘の絵よ、more…と、もやもやしていたところだったからである。

 私が初めて松岡映丘に出会った…Eikyuという画家の存在を意識したのは、藝大美術館が開館した20世紀も終わりのことだった。
 大学付きの資料館ではなく、新しく美術館として開館した折の記念展覧会で、私は松岡映丘の大正14年作「伊香保の沼」を見た。
 遠景に青々とした榛名山、同じく青を湛える湖、そして湖水に着物の裾もろとも足を浸し物思いにふけるニョショウ。
 美しい。美しいのではあるが、どちらかというと、怖い絵である。女性の目があらぬ彼方へ視線を投げているからである。風景に心象を宿し、群青と緑青が絶妙に融合した映丘描くところの、やまと絵の色遣いが、私の胸に深く刻み付けられ、網膜に焼き付けられた。
 彼に出会った帰り際、美術館の前庭で、ちょっとした開館記念の野外能があった。薄く暮れていく上野の森で時折薪がぱちぱちとはぜる音を聴きながら、仮設舞台の前に点在する椅子席から三山を見た。得難い夕べであった。

 その一枚の絵が怖かったこともあり、私は松岡映丘のことをあまり知らずにいた。
 …いや、調べようにもその当時、資料がなかったこともあったかもしれない。
 松岡映丘は昭和13年に56歳で亡くなった。

 もう20年以前、とある仕事で当時、雅叙園美術館が収蔵していた浅見松江の絵をお借りするため、ご遺族に連絡を取ったことがあったが、彼女が松岡映丘の弟子であったことを初めて知った。そしてまた、橋本明治も映丘の弟子だったのだ。映丘の家塾は当初、常夏荘と称せられたそうである。

 20世紀終わりの出会いから20年ほどを経て、そうした偶々通りがかった街角のめぐり逢いで手に入れた図録から、私はやっと松岡映丘の生涯を知ることができたのだった。
 そして、映丘blueと名付けたい青の色遣い、それゆえに、彼の存在は私にとって絶対無二となっているのだと気がついた。



 群青色の海、白い波頭、岩陰に身を寄せる浜千鳥。
 平福百穂の1926年作「荒磯」にそっくりの海だなぁ…と見入ったのが、昨夏訪れた初島の磯の岩。
 松が枝の手前から眺めるのは俊寛か、はたまた樋口兼光、松右衛門か。
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深紅の帆

2017年01月23日 04時56分00秒 | 美しきもの
 震える指で書かずにはいられない。
 稀勢の里が優勝したのである。

 「ぼろんぼろぼろぼろん勃嚕唵…」と数多の山伏、祈祷師が唱えた呪文よりも、霊験あらたかなる"稀勢の里優勝”このたった六文字が、ここ何年ものあいだ積もり積もった大相撲に対するもやもやを雲散霧消させ、私の魂は救われたのである。

 諦めようにも捨てきれない願い…これを人は悲願と呼ぶのだろうか、この日が来ることを信じていたわけではない。かなう日が本当に来るのだろうか、と疑わずにはいられないような状況が重なりながら、願わずにはいられない思い。
 いったい、それが現実になることがあるのだろうか…と幾度も諦め、しかし諦めきれずにいだき続けたこの思いが現実となって姿を現したときの、この心持ちたるや……なんと言うたらよかろやら…ついに、“深紅の帆”が目の前に現れたのだ。
 “深紅の帆”というのは、ロシアの小説家、アレクサンドル・グリンの短編名である。

 本と絵が好きな少女が抱かずにはいられない夢の一つに、絵本作家という職業があって、小学6年の春休み、神田明神での叔父の結婚式の帰り、後楽園球場で開かれていた大シベリア博でマンモスの氷漬けを見た私は、同会場のソビエト連邦(!)物産展で、美しいロシア語の絵本を手に入れたのだった。同じ日に初めて飲んだドクターペッパーの美味しさを忘れることはできない。
 その絵本を翻訳したいがため、春休みの間、田舎町の図書館に通ったのだが、結局何のことやらわからず仕舞いであった。その絵本のタイトルは、もはや覚えていない。

 それから何年かが過ぎ、その絵本をもう一度翻訳したいと思い、大学で第3外国語のロシア語を選択してしまったのだ。裏のコマの時間割に、教員の資格を取るには必修の講義があったのに、どうしてだか、1980年当時の一般的女学生の処世においては全く役に立たない(男女雇用機会均等法制定前夜の時代であった)…第1外国語の英語も、第2外国語のフランス語さえもおぼつかないというのに…教職を見返ってロシア語の授業を選んでしまったのだ。
 しかし、神様は我に味方した。他の学校から講師に来てくださっていたY先生は、若い時の三国連太郎とマルチェロ・マストロヤンニを足したような、複雑で独特な存在感のあるチャーミングな先生だったからである。
 Y先生は高校卒業後、いったん旋盤工の仕事に就いたが、思うところあって学校に入り直したそうだった。ある授業中、先生は黒板に文字を書こうとして後ろ向きになったが、シャツのポケットがその背中にあった。先生は後ろ前に丸首のシャツを着てらしたのである。クラスの男子がこっそり先生に耳打ちしに行った。途端に教室を出て廊下で着替えられたのち、すぐ戻ってきて「早く教えてくれよな」と顔を赤くして我々に訴えた。教室は明るい笑い声に包まれた。
 そのY先生が教えてくださったのが、アレクサンドル・グリンという作家の存在だった。

 ご存知のように、私は凝り性なのである。いくつになっても五十肩、という秀逸なCMの惹句をしばしば聞くようになったが、いくつになっても凝り性な人間は若い時も凝り性だったので、晶文社の翻訳本『波の上を駆ける女』だけでは飽き足らず、神保町のナウカ書店へ行き原書を求め、また古本屋をめぐり、どこだったかの版元の児童文学全集に入っていた『深紅の帆』までも探し求めたのである。

 もう三十数年前のこととて、あらすじの断片しか憶えていない。挿絵が美しかった。著名な画家だったが誰だったろう。残念ながら手許にその本はない。
 海沿いの寒村に住む少女は、村の人々に仲間外れにされながら、まだ見ぬ船長の父が深紅の帆を掲げた船で迎えに来てくれる、という亡き母の言葉を信じて暮らしている。
 それが本当にかなうことなのか、少女自身疑っているのかいないのか、そんなことは問題ではなく、ただ彼女はその事象が訪れるのを静かに待って暮らしているのだ。
 夢がかなう、かなえるためにアタシは旅に出るんだ!という明快な甘い雰囲気ではないので♪オーバー・ザ・レインボー…というお話とは本質的に違っていて、彼女は自分でその思いをかなえるすべを持たぬが、ひたすら諸事に耐えて待っている。
 やがて、海を見晴るかす岬に立つ彼女の目の前に、現実の深紅の帆が姿を現す…ただそれだけの話で、信ずるものは救われる、真実、純粋で真剣な人間を嗤うものは邪悪な脇役でしかない、という真っ直ぐなお話だった(ように記憶している)。

 この話に心が向くたび、高校の国語の教科書に「寒山拾得」の一文が載っていて、その時の自分には、起承転結、序破急という物語のツボを押さえることなく展開もしていかないこの掌編の存在の意味が分からなかった…そんなことも想い出す。

 抽象的な精神性を文章で具現化するには、細かい説明は要しないものなのかもしれない。
 アレクサンドル・グリンは、ストレートな熱を帯びてはいるが柔らかく清々しく、しかし熱く、透明で硬質的でありながら、ふうわりとして空に浮かぶ白玉のお団子にも似て(決して綿菓子ではない)とらえどころがないようで、確たる信念を感じさせる不思議な作風なのだった。

 渋谷のロゴスキーはもちろん、東京近郊の何軒かのロシア料理店を制覇したり、国営放送のロシア語講座に生徒として参加したり、「黒い瞳」を原語で歌えるようになったりしてその年は暮れていった。
 2年目に、先生はお忙しくなられて、外濠に面した学校に帰ってしまわれた。偶々同校にJK時代の仲のよい友達がいて、時間割を調べてもらい、土曜日の授業に潜り込んだ。
 5月の明るいある日、先生は、来週の授業の後、館山へハイキングに行こう…と誘ってくださった。私はとても嬉しくて、行きましょう!と答えた。…だが、行けないことはわかっていた。来週の土曜日は、私の結婚式だったのだ。

 それから2年ほど経って、ふたたび先生の研究室を訪った。先生は、本当にロシア語を勉強する気があるなら…と言って私にグラムシの原著のロシア語版と、日本語の評伝集を貸してくださった。
 次の週、外濠の北側にあった研究室へ向かうと、先生は不在で、お濠の反対側にあった本校舎では学生運動のデモ隊がアジっていた。しばらく待っていたら、息を切って先生が戻ってらした。どうやら先生もデモに臨戦していらっしゃるようだった。今日は授業はできない、と言葉を残して、先生はまた闘争の巷に去ってゆかれた。それ以来、Y先生にはお目にかかっていない。
 ロシア語教室の友人から、南米に渡られた、という消息をうかがったのが、もう30年前のことになる。

 Y先生は御茶ノ水のニコライ堂の隣に在った、ニコライ学院という学校でもロシア語を教えてらしたが、ベルリンの壁が崩壊してソビエト連邦という国がこの世から消滅したのち、いつの間にかその学校もなくなっていた。
 先生からソ連のお土産に頂戴したマトリョーシカとソフビのコサック人形をまだ持っている。
 先生に聞かせてあげようと思って手回しのオルゴールを持っていたのだが(マッドマックスのfirstシーズンの影響なのだ)渡せずじまいだった。メロディはリリー・マルレーンだった。
 そんなふうに私は、諦めが悪いのだった。


追記:この原稿を書いてアップするまでに5日ほど経ってしまった。その間に、稀勢の里は第72代横綱に推挙された。一昨日発表された手記に、自分を「早熟なのに晩成という珍しいタイプ」と評していた。自分の道を諦めきれぬと諦めて、意気揚々と生きてゆく、発奮させられる言葉である。
 
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緑の窓

2012年09月10日 11時12分13秒 | 美しきもの
2021.11.16追記

 中学生の時、美術部だった私は、『緑の窓』という油絵を描いた。
 少女が窓枠に頰杖をついて、梢の葉翳を映した緑色に紅潮した顔で、うっとりと樹影の、やはり緑色に染まった外界を眺めている絵だった。
 外を眺めているのだが、構図がキャンバスの縁からいっぱいに窓で、窓から顔を出した少女の背景は、何故か木々の緑色なのである。心象を描いたのだから理屈ではないのだ。

 ほかに中学生時代に描いた油絵で憶えているものといえば、テレビの洋画劇場で見た、マリオ・バーヴァ監督のイタリアン・ホラー映画に出てきた、白い毬を持つ長い髪の少女の絵だった。総体白いドレスと金髪の淡彩で、瞳だけブルーにしたので、モデルを知らなかった同級生からも、この目がぞっとする、と批評されたのだった。
 卒業式の後、美術室に絵が残っているから取りに来るように、と、顧問の先生からご連絡を頂いたが、行かず仕舞いだった。
 とてもお世話になった先生なのに、もうお名前が思い出せない。

 …と、ここまで昼間移動中の電車の中でつれづれなるままに記したのだが、夜半を過ぎてついさっき、Watanabe先生のお名前を想い出した。しかもファーストネーム最初の一文字は“雅”まさ、という字だったというところまで、中途半端に。
 なぜならば、先生の作品に"Masa"のサインがあったと、眼のすみの記憶が蘇ってきたのだ。

 中学一年生の時、私は苦しい立場に置かれていた。
 生徒として入学した中学校に、私の父も教師として勤めていたのだ。
 学校で何かがあると、すべてが父に筒抜けだった。

 授業中にぼんやり窓の外を眺めていたら、当時はやりだったアダムスキー型空飛ぶ円盤が見えたような気がした。
 それは、後でよく考えたら単なる空飛ぶ鳥の影だったんじゃないかな…と分かってきたりもしたのだが…いつの間にかなぜかその目撃談が「私のテストの点数が悪かったのは、テスト時間中に空飛ぶ円盤を見て記憶が定かでなくなったから、という言い訳をしている」という、思い掛けない噂になっている…ということを、父から聞かされた。愕然とした。

 夏休み前の美術の課題の、「身の回りの絵になりなさそうな景色を描く」水彩画は、学校の下駄箱と傘立て周辺を、一本だけ残っていた傘を、黄色いクレヨンで縁取ってアクセントにした自分としては工夫してみた一枚だったのだが、提出しそびれた。
 それで、一学期の美術の通知表は、5ではなく4に減点してあるのですよ、と、ワタナベ先生がおっしゃっていた、と、これまた父の口から知らされた。

 松平忠直卿ほど誇り高くなかったので、ぐれずに済んだが、万事このような感じで憧れの中学生になった早々、腐っていた。
 …そういえば、中学生になったら万年筆が使えるのだ!! というほのかな憬れも、小学生の思い違いであった、と気づいたのが昭和50年代の中学生であった。

 有難いことに、二年生になって、父は隣の市の中学校へ転任になった。
 異動先は文部省の何かの指針のモデル校で、父は赴任早々、その事業の担当者となり、毎朝胃が痛くなる思いで那珂川に架かる橋を渡り通勤していたと、後で知った。
 私にも地獄だったが、父にも地獄だったことであったろうと、気がついたのはずいぶん大人になってからである。
 天国のお父さん、ゴメンナサイ。

 甲府のワイナリーでこの写真を撮った時、初めて山梨に旅行した40年ばかり前を想い出した。
 ぶどう棚が延々と続く、緑色の庭先の天井の見事さに、ここで育った子供たちは、空は緑色だと思ったりしないだろうか…という学生らしい突飛な感想を、当時の大学時代の恩師に告げたことがあった。 
 何も言わずに先生は、優しく微笑んで下さった。
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ひこにゃん警報 レベル・ゼロ

2011年04月20日 11時03分00秒 | 美しきもの
 余震が続くので、私にはもはや、自分が揺れているのか、大地が揺れているのか、さっぱり分からなくなっていた。
 その違いを判別しようと、室内に、何か揺れているものをさがす。昭和のころなら電燈の紐を見ればよかった。しかし平成の調度は、リモコンで操作するものばかりで、中空にぶら下がっているものを見つけるのが難しい。
 3.11の折、CD雪崩に巻き込まれたパソコンに無意識に目をやると、宙吊りになっている物体に気がついた。……これだ! 
 以来、何か揺れているような気がするときは、決まって、稽古場内のパソコンデスクのわきに括りつけられている、ひこにゃんの姿をさがすようになったのだった。
 彼は、赤備えの天衝きの脇立てが二本、ぬっと伸びた兜のてっぺんから付いている鎖で、棚の支柱にぶら下がっている。そして、しっぽの代わりに商標のタグがついている。そこからさらに風鈴の札のように下がっている「ひこねのよいにゃんこのおはなし」という由来書きの折紙が、揺れていれば地震、揺れていなければ自身の気のせい、というように察知できるのだ。
 彦根藩二代藩主・井伊直孝が、豪徳寺門前の招き猫によって災厄を免れたが如く、迷える私を導く白い猫が、当家にも現れたのだった。

 そも、このひこにゃんは、江州に在する戦友のお土産である。
 かつて、いくさ場のように慌ただしい急ぎ働きをした仲間なので、戦友といって差し支えなかろう。
 思えば、思春期の私は、かたくなな硬派…いや、面白いもの、美しいものを求めてやまぬ硬派だったので、中学生以降、可愛らしいぬいぐるみなど、求めたことがなかった。
 かわいらしい、ということは、他人の保護・助力を必要とするものが持つ、ひとつの特質で、たとえば武士道によく言われる「潔い」美しさとは、相反する概念である。
 ローティーンの小娘は、潔癖で武骨だったりもするので、どうも可愛いものに相親しむことが苦手なのだった。さらに私は、そこからなかなか脱皮できなかった。
 社会人になってはじめて自力で銀行口座をもったとき、駅前の銀行のお姉さんが「今なら、ミッキーの通帳にも出来ますョ」と、うれしそうに言ってくれたのだ。たしか、浦安にディズニーランドができた年だった。
 しかし私は、ぶるぶる、とんでもない、銀行の通帳に軟弱なキャラクター商品などもってのほか!と思って、いえいえ、普通ので結構です、と答えて、窓口のお姉さんを悲しい気持ちにさせたのだった。
 そのあと、やっぱりミッキーにしてもらえばよかったのかも…と、しばらくの間、思い悩んだ。

 小学生のときは人並みな嗜好だったはずなのに、どういうきっかけでそうなったのだろう。
 中学何年生のときだか忘れた。たまたま誕生日に高熱を出して学校を休み、寝込んでいた私に、誕生日プレゼントが届いた。それは、常日頃、気の置けない弟分だと思っていたN君からのものだった。昭和50年代の中学生は、砕け果てたいまと違って、まったくオープンではなかったので、我が家に来る勇気がなかった本人は、全権大使を立てた。因果を含まれたのは、わがご近所の幼なじみ・かずみちゃん。お使者役として放課後、うちに寄ってくれたのだった。
 ああ、とんでもない、そんなプレゼント結構です、もらうわけにはいかないから…と固辞する私に、かずみちゃんは諄々と説いた。N君はもう一生懸命、あなたに喜んでもらえるプレゼントを選びに選んで探してきたのだそうだから…それに、仰せつかった私としてもこのまま持ち帰るわけにはいかない、と、押し問答のようになった。
 …昭和版「井戸の茶碗」である。

 結局、私は仕方なしに受け取った。やたらと大きい包みを開けてみたら、その当時流行っていたまさにポップな70年代調の、体長70センチはあろうかと思われるフェルト製のネコの、壁飾りにも出来るマスコット人形なのだった。
 申し訳ないが、私はその時分、大河ドラマの「風と雲と虹と」に出てきた草刈正雄演じる傀儡師に恋をしていた。彼は土手に座り、遠い空を眺めながら、篠笛を吹いているのだった。欲しいものといったら、その篠笛だ。

 十代の女の子というものは、男子が思うほどキュート志向ではない。むしろ雄々しく、傲慢で残酷なものなのだ。
 N君が考えた私が喜ぶものって、こ、これ?……恋愛感情ではない、友情による仲良しだとばかり思っていたN君の予想外の好意もうとましく、ぶらぶらと揺れる巨大なネコは、怒りに拍車をかけた。

 そんなわけで以来、私は、室内にぬいぐるみを飾る、という衝動に駆られたことはただの一度もなかった。二十代以降、室内の装飾は主に絵画で、しかも人物画である場合、すべての絵が、髷のある人物だった。(つづく)
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二挺杼(にちょうひ)

2011年03月06日 00時29分00秒 | 美しきもの
 「以後、呉服屋に出入りすること、まかりならん!」
 と、バアサンが遺言してくれたらよかったのだが、生憎、私に残されたのは三棹分の箪笥に入った着物だった。
 …とはいえ、母方のバアサンが亡くなったのは昭和15年、叔父誕生時の産後の肥立ちが悪かった、ということだから、着物のあらかたは虫が喰っていた。
 その遺品が私のもとに渡ってきたのは、平成の20年のことである。
 母は商家に生まれながら、商売をやっていると一家揃って落ち着いてご飯が食べられない…という理由で、降るような縁談を断って公務員の父のもとへ嫁いできた。しかし、長男の甚六の父は、終業ベルと同時に宴席へ向かい、箏か三味線を習わせようと思っていた長女(我事也。当ブログ2010年3月21日付「マイ楽器」記事をご参照されたし)は、音楽系の稽古事に通わせれば号泣して通学拒否する始末。
 そんなわけで母は、人生のほとんどを「失望」という言葉のもとで暮らしてきたので、女人特有の貪婪さを失い、自分が相続するべき物品への権利を主張することもなく生きてきたのだった。

 有吉佐和子の『真砂屋お峰』は、大豪商の材木問屋に生まれた女性が、自分の代で生家を潰すことを決意し、代々の当主が蓄財した莫大な財産を費やし尽くして、空前絶後の着物道楽に没入していく話である。
 『一の糸』だったか、『悪女について』だったのか…最初に手にした有吉佐和子の小説が何だったのかは忘れてしまった。23歳のとき、この本に度肝を抜かれた私は、有吉佐和子の小説をほとんど読破してしまった。
 勧めたのは橋本治である。

 書物を通してだが、橋本治は、二十代前半の私の人生の先生だった。
 1985年に『チャンバラ時代劇講座』を読まなかったら、私は今でも大星由良之助と大石内蔵助の区別もつかない、目玉に銀紙を張った西洋カブレの日本人のままだったろう。
 文庫本の『青空人生相談所』を口切りとして、怒濤のように橋本治の著作を読みつくしていた22歳のころ、橋本治が文中で勧めるままに、有吉佐和子の小説も読み尽くしてしまったのだ。
 それからずっとのちに一冊本で刊行された『久生十蘭選集』の、解説を橋本治が書いていて驚いた。そして、好きなもののルーツが根っこでつながっていることを知り、喜びもした。
 久生十蘭は、十代の私が一番愛し、崇拝していた作家だったからである。

 二十代、お峰のド迫力を心に刻みつけていた私は、三十代のある時期、「粋(すい)は身を食う」という、格言そのままに暮らし、給金のほとんどを呉服屋さんに貢いでいた。
 その放蕩もひと昔となった今、不思議なことに、うずたかく積み上げられた反物を目前にしても、胸騒ぎがするでもなく、食指も動かないのだ。
 身の内の業火がすっかり、燃え尽きてしまった。たぶん、着物への執着は水素のような気体で出来ていたのだろう。燃えるとその残骸すらも残らないというような。消し炭からくすぶりだす埋み火のような未練すらない。
 欲しいものがないのだから、仕方ない。…いや、素晴らしい品物はたくさんある。けれど欲望…という名の感情が無くなってしまったのだ。欲しい!死んでも欲しい!という、物に対する一途な執念が、どこからも沸き起こってこないのだ。
 こりゃ、解脱ってやつだ。市川家の歌舞伎十八番にもあるじゃん。私はキモノに関して、すっかり悟りの域に達したのだ。煩悩から解放されたのだ。
 …ああ、うれしくもない。

 祖母の遺品が詰まった箪笥が私の手許にきたのは、そんなときだった。
 衣喰う虫や時間の砂嵐から、かろうじて被害が少なかった三枚ばかりの羽織の裄と丈を直してもらい、私は久しぶりに、羽織の紐を買いに行った。
 総務部の職員が文房具店に、事務必需用品を買いに行くようにしおしおと。

 お勘定を済ませている間に、ふと後ろを見ると、博多織の展示会だ。
 なにしろ、美しいものを放っておけない、オッサンのような性癖を持つ自分である。ついふらふらと近寄って、その美しい、繭玉から紡ぎだされた絹が、職人さんの手によって昇華された姿をみつめた。
 すると、よく知っているいつもの博多の帯でないことに気がついた。傍らにおられた、作家ご本人が説明して下さる。

 薩摩切子のグリーンの色みから着想を得たという、グラデーションの色彩感覚といい、昔日の博多とは、一味もふた味も違う献上柄。
 新しい時代に生まれた若い職人たちは、その感性で、いま、こんにちの博多帯を模索し、創造しているのである。
 また、可憐な花喰い鳥が、くっきりとした稜線で織り出されている帯もあった。伺えば、二挺杼(にちょうひ)、という手法で織り上げているそうなのだ。
 緯糸を通す杼を二つ操り、かくも素晴らしい帯を織りあげるのだ。裏から見れば、二重織りのように仕上がっている。…美しい。感激した。

 こういうすばらしい仕事は、もっと世間に流通しなくてはならない。
 一目で値段と出所が分かってしまう、誰もが持ってるようなブランド品のバッグを買ってる場合じゃありませんぜ。
 もっと安い対価で、この世にたった一つしかない、美しい芸術品が手に入るというのに。
 …そういうわけで、日本橋高島屋の呉服売り場に行って御覧なさい。今度の火曜日までしか観られません。急ぐべし。



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武部本一郎

2010年11月13日 03時00分06秒 | 美しきもの
 小学四年生の時、私の理想の男性はシャーロック・ホームズだった。
 偕成社版のジュニア向けシリーズは私の宝物で、そのころ新発売された、スティックタイプの固型糊で、カバーの見返しを表紙に貼りつけたりした。その糊は、鱈のすり身のような匂いがした。

 挿絵は、何人かの画家が持ち回りで描いていたが、私の最も好きだったのは、武部本一郎のものだった。ホームズ自身の顔はイメージではなく、他の画家が描いたものがこれだ!と思っていた(そのころはジェレミー・ブレットのテレビシリーズはまだなかった)が、ヒロインの顔立ちが可憐で品があって、イイ!のである。
 頬の膨らみから顎にかけたラインが、ことに絶品で、とても好きだった。「ぶな館の怪」の猛犬に襲われるヒロインの姿など、もう四十年近く前に見たきりなのに、はっきり思い出せる。

 武部本一郎というと、SFの火星シリーズなどを第一に挙げる方も多いだろう。
 そう、武部本一郎の描く女人は、私にとって理想のヒロインだった。ほどがよく、可憐で美しいのだ。西洋人でも大和撫子的に薫り立つ。
 ウェルズの『タイム・マシン』の挿絵も忘れ難い。
 版元は忘れてしまったが、ジイドの『田園交響楽』も、確かそうだった。原節子主演の翻案物の映画も印象的だけれども。

 子供向けの本は、長ずるに及び、親戚の子に上げてしまったので、もう手元にない。学生時代に古本屋廻りをしていたとき、思いがけず、懐かしい武部の手がけた絵本にめぐり会い、何冊か手に入れた。しかし、これらも、二十代前半の愉しい生活とは訣別して家を出てしまったので、今はもう手元にない。

 私が学生の時、武部本一郎は亡くなった。創元推理文庫を出していた創元社から、武部本一郎の追悼特製限定本が出ることになった。いや、亡くなってほどなくのことだったから、早川書房だったかもしれない。たしか、二百部限定で一万円だった。
 当時学生だった私は、ちょっと迷って二日考えて、でもやっぱりほしいので、版元に予約の電話をかけてみた。すると電話口の方は、申し訳なさそうに、すでに申し込み人数が多く、刷り部数に達してしまったので締め切ったという。

 なんだかものすごくがっかりして、よく一緒に古本屋廻りをしていた友人にその話をした。
 「(自分が)死んだわけでもないのにね、死んだみたいにがっかりした」と、言ったら、友人は「それは、やっぱり、死んだんだよ。魂が死んだのだ」と言った。
 私はちょっと、その言葉にクラッときた。
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廿日の菊

2010年10月27日 09時48分08秒 | 美しきもの
 9月のいつごろだっただろう、明け方に雨が降って、しっとりとした朝にふと金木犀の香りを感じてから、秋はさわやかに、そして慌ただしく深さを増して行く。
 気がつけば早や10月も過ぎようとしていて、私は毎年この時期になると、ドキドキしながら朝晩を迎える。…虫の音は今日もまだ聞こえているだろうか…と思って。

 「この花開きて後、更に花の無ければなり」と詠われた菊が百花のしんがりをつとめ、紅葉の緋色が過ぎれば、時雨が落ち葉を濡らして、やがて、冬枯れの水辺。
 本当に日本には美しくない季節など無いなぁ、と、ひとりしみじみと思い入る。

 虫のすだく季節が、とにかくたとえようもなく好きで(3月19日付「秋の色種」記事をご再読いただけますれば幸甚)、西行が花のもとにて春死にたいといっていたけれど、私は虫の音を聴きながら秋の宵に逝きたい、と思っていた。
 今考え直してみたら、冬枯れの蘆の原に儚く倒れているのもいいかなぁ、と思う。
 「乱菊や 狐にもせよ この姿」…落語の野ざらしだ。やっぱり私は脳内ドーパミンが多すぎて、どんなにしみじみしていても楽しく愉快になってしまう性分なのだ…残念なことに。
 かの名高き陰陽師・安倍晴明のお母さん、葛の葉狐は菊の香りが大好きで、正体を現してしまった。乱菊はイメージとしては黄色。お父さんの保名は、菜の花畑で妻を慕いて物狂い。ともに目が眩むようなイエローな世界。

 長唄に「菊づくし」という可愛い小品がある。菊の花のさまざまを唄い込んだ、さわやかな踊り地の曲である。
 この「何々づくし」というテーマは、凝り性の日本人気質をよく現していると思う。
 絵ハガキと切手の取り合わせ、私は判じ物風に組み合わせるのが好きだったが、もう早世してしまったのが惜しまれる、絵師の椙村嘉一さんからのお便りは、切手も絵柄もドンピシャリの同じ絵面で、その凝りように私は衝撃を受けた。
 椙村さんは独特の美的感覚をお持ちの方で、「演劇界」の挿絵や、時代小説のカバー絵、歌舞伎座の掌本などで、ご活躍していらした。何かの仕事でお目にかかって、何度かアトリエにお邪魔した。私と同い年だったので、まだまだこれからというときに亡くなってしまったのが悔しい。

 日々かすかになっていく虫の音に、心しおれながら、唱歌「庭の千草」の歌詞を、想い出す。
 いつもながら、独断の意訳で……夏のあいだ盛んに生い茂り、目を楽しませてくれた秋草もすっかり枯れ、虫の音も、日ごとに増していく冷涼たる気に絶えてしまったころ、それでも最後に、菊の花はひとり美しく、静かに咲いている。

 この、虫の音が絶えてしまったあとの野には、さらに、日本の音楽のテーマが潜んでいるのだけれど、この続きはまた…。
 
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蝶の遊び

2010年09月06日 23時23分00秒 | 美しきもの
 八月も終わりかけた、熱いながらもさわやかな風の吹く朝方、私はふと、吉祥寺稽古場の、奥の窓の外に目をやった。
 蝶がひらひらと舞っていた。黄みがかった枯葉色をしたところへ黒い斑点のある、なかなかに美々しい蝶である。タテハチョウの仲間でもあろうか。

 「こんなところまで…」と、私はちょっとびっくりした。吉祥寺稽古場は井の頭公園のすぐそばの、マンションが林立している一角にある。
 ここは9階で、鳩はよく飛んでくるのだが、蝶々がここまで上がってきたのは初めて見た。奥の窓はちょうど、Lの字形のマンションと別棟のIの字形に囲まれてコの字形になっている角のところで、吉祥寺公園通りを挟んで、ヒッチコックの『裏窓』のような景色になっている。
 たまたま、稽古場の窓の外は、上昇気流が生まれる地点というか、吹く風が、うまい具合に交差して、通り過ぎずにぶつかって渦を巻いて、上か下かへ逃れていく空間なのだろう。

 安西冬衛の「てふてふが一匹、韃靼海峡を渡っていった」という詩を、すごく久しぶりに思い出しながら、何となく、ふわふわ、ひらひらと舞う姿にしばらく見とれていたら、かのものが、不思議な動きをしていることに気がついた。

 たいがいの蝶は脈絡なく、ただふわふわと漂っていくだけのようにみえるのだが、そのキタテハは、何やら、規則正しく舞っているのである。
 最初は、らせん状に円を描いて廻り灯篭のように降りていくのかと思ったが、よく見ていると、そうではなくて、Cの字の形に円弧を描きながら往ったり来たりして、徐々に下の階のほうへ降りていく。スカイダイバーのように。ふわふわ、ひらひらと。

 風を翅に受けて、気持ちよさそうに、楽しそうに、ふわふわ、ひらひら。

 なんと、川風を受けて水路を往ったり来たりする燕のように、車輪で遊ぶハムスターのように、きゃつも遊んでいるのである。

 本能に任せてか、風の吹くままにだか、いつも心許なく、ただ漂流しているように飛んでいるという以外に、意思の在り処など考えもしなかった蝶々が、遊んでいるのだ。
 あそぶ、という知恵を持っているのだ。

 これこそまさに梁塵秘抄の、遊びをせんとや生まれけむ、というやつだ。

 すっかり感心して、急いで窓を離れて用事を済ませて、また窓際に戻ってきたら、先生、お隣のベランダに咲いている、紫色の花穂にとまって、ひと休みをしている。

 どうするのかなぁ…と、そっと覗いていると、また、例の遊びの続きをはじめた。

 ……蝶も遊ぶのだなァ。

 私は、昔観た、手妻師のあやつる紙の胡蝶の舞を想い出したり、『連獅子』や『鏡獅子』『英執着獅子』などの石橋ものの、戯れる蝶の合方のメロディを思い描いたりしながら、まったくもって、本当に、生き物の面白さに感服して、しばらくのあいだ息を詰めて、窓辺に佇んでいた。


 
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