長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

ツルの日

2018年09月26日 09時26分26秒 | 落語だった
 「つるのふたせんさんびゃくろくじゅうごばん…」
 毎月26日が鶴の日かどうかは知らないけれど、水屋の富とか、富くじの噺を聞かなくなったなぁ…と思ってみたものの、考えてみたら、わたくし自身が落語を久しく聞いてなかったことに気づいた。
 それにああいう宝くじの話は歳の瀬に聞くのがシーズンというものでございましょう。
 
 八月の間、お稽古が夏休みだったりする一方で、この季節ならではの講習、午前中に子ども教室…キッズ伝統芸能体験、へ伺う。常日頃では行かない街を訪れるのは愉しい。ホリデー快速なんという、登山支度の乗客で賑わう車両の中、まだ午過ぎの早い時間に仕事が終わって、私もついうかうかと、遊びに出掛けたい心持ちになっていた。
 この時間からこの、ついふらふらしたい気持ちを昇華させるとすると…

 先ほどの教室で、素敵な手ぬぐいを見かけた。紅色で、亀甲つなぎに鶴の丸。
 いいなぁ。赤の鶴の丸といやぁ、泣く子も黙る国営の航空会社のトレードマークでしたね。
 つーーーーーっ、と来て、る、と留まるのが、ツルってもんですね。
 さて、鶴ならぬ身の落としどころは何処。

 湯島の天神下の交差点に、つる瀬、という甘味処、あんみつ屋さんがあって、この時季はなんてったって、かき氷なのだ。練乳白玉のおいしいことといったら。杏も載せたかったのだけれど、予算オーバーになるのでやめて、デリーのカレー屋さんに行列ができてるのを横目で見ながら…本当は私、すし初さんに行きたかったのです。
 このお鮨屋さんはもう30年来の想い出の場所なのだった。そのころ取引先だったデザイン事務所が、塗師屋の二階に間借りしていて、お昼時間を外れた私が案じながらまだ折れていない暖簾をめくったら、恰幅のいい河津清三郎似の旦那さんが、ちょうど若い衆と交代するところで…
 それから上野方面に用事があると出来うる限り立ち寄るようにしていた…といっても時分時にこの辺りに来ることは滅多になかったのだが。父が生きてた頃、一度だけ連れてきたことがあって…その時は男前の大将は他界されて、女将さんが相手をしてくださった。
 父と女将さんとは、学徒動員で駆り出されて、川崎の東芝の工場まで働きに行った話で盛り上がっていたのだ。

 だから女将さんはご健在かと、店の様子が見たかったのだ。もう10年ぐらい、暖簾をくぐっていないのだった。
 中途半端な時間帯なのと日曜で、お店は閉まっていた。休日の広小路に至る春日通りは閑散として、みつばちとデリーに行列ができて、不思議な雰囲気。

 久しぶりに、鈴本に入った。
 前座さんが「つる」を掛けたのだが、どうしたはずみか加減でか、とちってしまったのだった。それが場内の苦爆笑を呼び、そんなことがありながら淡々と番組が進み、中入り前だったかしら、喬太郎さんが「極道のつる」をかけた。
 これはある意味禁じ手かもしれないけれど、そんなこたぁどうでもいいのだ。
 あまりにも可笑しく面白かったので、身もだえする程に笑った。
 隣席の若き青年が、「…すごい無茶苦茶だ…」と呆然として番組表に何か書きつけていたが(落研ですか?)、いやそれは違うなぁ、無茶苦茶どころか、なんと緻密に計算され尽くしたパロディな「つる」でありましょうか、君はまだ若いなぁ、とおばさんは思いました。
 落語は研究して論ずるものではなく、仕手が実践したものを味わえばよいのです。

 さらっと書いてしまったが、下がれ下がれ、下がりおろう! このお方を誰と心得る、今や日本中で一番チケットが取れない落語家とその名も高き柳家喬太郎師匠であらせられるぞ…とひいきの皆さまに怒られたらどうしよう…と不安になるのですが、寿限無を暗唱する一般的昭和の小学生だったわたくしは、長ずるに及び、昭和の終わりごろ落語と名の付くもの…高座はいうまでもなく、速記本、漫画、映画に至るまで見聞き尽くしていたマイナーなギャルになっていたのでしたが、毎日が落語だった私が見ていたのは、喬太郎さんの師匠が若手と呼ばれていた時代だったのです。そんなわけで……

 思えば、私は喬太郎さんの大驀進をそんなに見ていない。
 中野芸能劇場で殿は国入り…だったかしら、細川のお殿様が総理大臣だったころ、リアルタイムで江戸のかわら版ニュース実況中継のような新作を見た記憶があるのだ。
 昭和の終わりから落語がなけりゃ夜も日もあけぬ私だったのに、平成の5年頃を最後に、私はバッタリと寄席に行くのをやめてしまった。
 その理由はいつかお話することもあるかもしれないけれども。
 だから、師匠と敬称をつけるべきフィーリングがこと喬太郎さんに対しては無いのだった。
 そして、喬太郎さんを喬太郎師匠、と呼ぶと、私の中の落語世界はウソに転じる気がするのだ。そんなわけで…ごめんなさい。
 
 有楽町のマリオンの前で、うっかり空を見上げたら、ビルを凌いでものすごい速さで流れていった雲とか、銀座セブン寄席の薄暗いガスビルから外へ出た銀座通りの眩しさとか、椀屋寄席の、店内を区切る御簾の中途半端なぶら下がりの丈とか……
 …きっと同じ景色を見ていたのに違いないような気がして、旧友と昔話をしているようでなつかしい。喬太郎さんを媒介に私はあの時代にタイムトリップできるのだ。 
 昭和の終わりからのダントツに景気がよくて、でも、非力な若者が過ごした青春の裏通りを多分、同じような気持ちで見ながら過ごしてきたのじゃなかろうかと…
 何の噺だったか、「池袋の人間が表参道へ行ったら撃たれるんですよ」という、言葉の端々が、もう、自分の分身じゃないかと思えるほどである。

 それから私は寝た子を起こされ、どうにか日程が合った池袋演芸場の喬弟仁義に行ってみた。
 そこでまた、これでもかという演題に廻り合わせていただき、笑い転げるしかなかった。
 エンターテイナーが持つ、これほどまでにやってしまうのか…!というインクレデヴィルなサービス精神。先代の澤瀉屋を想い出した。
 客席を観ながら、今日のお客さんにはどんな料理を出してやろうという、客のニーズを読み取る手練れならではのピタリの選球眼。

 そんな喬太郎さんの独演会の切符が手に入るとも思えない。そしてまた、行きずりの寄席で、一期一会の、今日は果たして何を聴かせてくれるのかな…という緊張状態でもって巡り合いたいので、私は敢えて切符争奪戦に参加しない。
 いつまた寄席に行けるかわからないけれど…ちょっとマカロニウエスタンなBGMが私の耳をかすめた。

 それにつけてもほんの出来心で、つーーーーーーーっと来て、るっと着地した場所で、こんなに鶴尽くしの目に遇うとは……
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二の字

2018年02月02日 02時00分22秒 | 落語だった
 雪が降るとめちゃくちゃ嬉しい。吸血鬼に魅入られた美女のようにふらふらと散歩に出かけた時の、まつげや頬にふうわりとまとわりつく氷の粒の感触と湿った空気の匂い、鼻の奥に迫ってくる一種独特なトンガリ感。心身共に重力に従う年回りになっちゃったのか、戌年の今年に在っても庭を駆け回らずに窓から幾たびも雪の降りっぷりを眺めていた私は、感触の記憶を反芻する楽しみに浸る。
 雪は降る、雪は降る…雪を冒して出かけなきゃならない方は、そりゃー皆さん不要不急じゃないに決まっている。
 今日は絶対、寄席で誰かが雪てんをかけるぞ…いや、かけるかなぁ…かけてほしいなぁ……てか、かけて!
 
 寄席の愉しみは、公共の放送にのせられないお噺を、即時性でもって聞くことである。
 世の中のニュースのどうにも納得できないこと、あんな悪人づれが大手を振って横行し、正直者たる弱者が泣きを見て、頼みになりそうな偉い人々はほっかむりして知らん顔して…正義の味方はもうどこにもいないのか。神も仏もないものか、黄門さまや大岡越前は今の世にはいないのか…誰かこの無法状態の現在を糾して糺して、正して…という、無力の民草が胸に抱えた青春の焦燥を、誰かが必ず高座で揶揄して代弁してくれた。
 しかも、今感じたこと、思ったことを今日只今、他人の口から聞けるのだ。共感できた時のジャストな快感。
 
 さてねぇ、そんな大がかりな社会の有態にかかることだけじゃなくて、些末な、天候気象のほんの小さな出来事やなんかの、世間話を聞く心の余裕が愉しいのである。もう久しく寄席に行けないけれど、今も雪の日に雪てんをかけてくれる落語家はいるのかなぁ…二の字二の字の下駄のあとって…お客さんも共感できなきゃ笑わないだろうから、21世紀ではどうなんだろう。
 演者自身もそんな体験がなきゃ自分の噺としては話せないもんなぁ…

 雪の日に、雪下駄をはいて出かけることの爽快さときたら! 積もった雪にサクサクっと歯が刺さって、推進力の凄いこと、陸上選手でなくとも駅までのタイムが幾分縮んでいるに違いないことの歓び。雨下駄より歯が薄いので、よく雪を噛んで一歩一歩が心強い。そんなわけで長年、天気の悪い日には下駄を愛好してきたのだった。
 それが、である。その爽快感までもが記憶の反芻でしか得られなくなってしまったのだ。

 …というのは一昨年の暮れ、歯に引いてある滑り止めのゴムが減ってきたので、雪下駄の歯を直してもらおうと履物屋さんに持っていったら、今はねぇ直せないんですょ、前は歯ごと交換してたりもしたんだけど、漆を塗れる職人もいなくなっちゃったから、すみませんねぇ…と、いろいろくふうして下さって、応急の手当てはしてもらえたのだが、そうなるとこの雪下駄が愛おしくて履き倒すわけにもいかず…さらば、雪下駄の日々よ……

 ビニールの爪皮が一体化した雨草履のダサい感じが嫌で(ごめんねアマゾーリ)、ずっと回避してきたのだけれど、昨春、名古屋の円頓寺商店街で、衝撃の価格でさりげない色合いの品のよい雨草履を手に入れたので、住めば都、履けば雨草履も雪草履、重宝している。

 そいえば、この間、久しぶりに拵えた眼鏡屋さんの眼鏡ケースは、ひどく不格好なものだった。サービスでつけてくれたのだから仕方ないが、そうか、昔の日本の、こうした身の回りのこまごまとした様々なものが、高品質であるのに廉価で手に入った常日頃というものが、改めて考えてみると、奇跡の世の中だったのだ、といまさら気がついた。それは、そうした物事を日常的に供給できる労働人口、人々の不断の努力、就労があってのことなのだった。
 現日本にはそうした技術を持つ人々がかろうじて絶滅せずに残っているのかもしれないが、もはや日常を彩るものではなく、そしてまた、それらを提供される人々は、一般の庶民ではなくなっているのだろう。

  …かくて雪の朝の、二の字の風物は滅びぬ。


 
 小学何年生だったか…お正月に雪が降って、叔母が駅前の洋品屋さん(後期昭和風に言えばブティック)で福袋を買って、可愛がられていた姪の私は、金色の環がぶら下がったイヤリングを頂いた。
 早速、ぅわーーーい、と言いながら耳に下げて、家の脇の雪の積もった道で、そのまま雪合戦に興じた。
 気がつくと、片方のイヤリングがなくなっていた。叔母の好意を無にしてしまった、しかももらった当日に…という罪悪感と自己嫌悪と反省の気持ちは、当時の概念、福袋の中身というものは、お店の売れ残りばっかりで要らないものしか入ってないからなぁ…という叔母の呟きに幾分和らげられたのだけれども。

 それから雪がほとんど溶けて、でも路肩には雪の塊がちょっと汚れた形で残っていた、一週間も経たぬうちの朝の登校時間のこと、家の脇の道をまっすぐ学校に向かって歩いていた私は、町内を曲がる手前の、アスファルトの舗装道路の上に、ピカリと光る金色の円い環っかを見つけた。
 驚くまいことか、先日の雪合戦の折紛失したイヤリングだったのである。おそらく先日の雪合戦古戦場から百メートルほども離れていただろう。
 雪には何かしら…茶目っ気というものが備わっているのではないかと思ったりもする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白無垢鉄火

2010年09月09日 02時03分00秒 | 落語だった
 いや、驚きましたねぇ。
 何がって、昨日は旧暦の八月一日、つまり八朔だったんですが、江戸時代、この日を、別の呼び方で「あらし」と言った。

 平成の世のアラシちゃんのことじゃないですョ。
 『坊っちゃん』の山嵐先生のことでも、『姿三四郎』の必殺技でも、ましてや『ゲームセンターあらし』でもないんです。

 嵐、野分、つまり台風。
 台風が来やすい日月なので、そう呼ばれることになったらしいのですが、まさにドンピシャ。都内は朝方から大雨、暴風雨でした。

 異常気象、気候分布の変動期…などといわれている昨今ですが、なんとまぁ、月の暦は、日本の気候風土にマッチしていることでしょう。

 ちなみに天正十八年の八月一日、西暦でいえば1590年ですから、今から420年ほど前のこの日は、豊臣秀吉に疎まれていた徳川家康が、大加増の大栄転だとか言いくるめられて(…というか、言いくるめられるふりをして)、中央の京都から遠く離れた、ただの蘆の原っぱでしかなかった江戸に入府した日です。

 八月の朔日、つまり一日ごろは、稲の花が咲き、米となって、労働が結実するころ。田が実る…田実(たのみ)の節句とも言われて、農耕民族には重要な日にちだったのが、そういうこともあって、江戸ではさらにお祭り化し、大奥でも吉原でも、白い小袖を着たそうなのです。

 北国三千人の遊女たちが、白衣をまとったさまは、さぞかし壮麗だったことでしょうね…これこそ八月に降る雪、秋の雪。
 そんなわけで、秋の雪…という川柳をどこかで見かけたら、あぁ、八朔の吉原のことだと、思ってくださいね。

 そういえば、白無垢鉄火という言葉があります。
 外見は、総身に純白の衣装を着ているので、品がよくおっとりしているように見えるけれども、あにはからんや、内面如夜叉、神経が太い、ずうずうしいヤツのことを、そういうそうです。
 ちょっと、川島雄三監督の『幕末太陽伝』の、花魁の取っ組み合いの大喧嘩を想い出してしまいました。……あれは「居残り佐平次」のエピソードですから、品川宿の話だったけれど。

 ところで、嵐ちゃんといえば、昭和の歌舞伎マニアには、紀尾井町、当代松緑です。
 初代辰之助が亡くなった時、嵐君はまだ学生服を着ていたつぶらな瞳の少年で、皆泣きました。

 おっと、忘れるところでした。
 九月九日は重陽の節句ですが、新暦で考えるのは義経にしておきましょう。
 菊の花がなきゃ、お節句の出来ようがありませんからね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蓮を聴く

2010年07月21日 10時50分01秒 | 落語だった
 橋本明治の『蓮を聴く』という絵がある。盛夏のきもの、薄物を着た女性が二人、耳を澄ますような風にして、デッキチェアに座っている。画面左側に、ほんのちょっとだけ、よく育った一群れの蓮が顔を覗かせている。

 夏のまだ涼しい早朝だったか、夜明け間近だったろうか…とにかく、無明の闇の中で蓮の花が開くとき、ポンという音がする。
 それがために、蓮の開花を愉しむのを「蓮を聴く」という。私が子どもだった昭和の三十年か四十年代、まだ日本の夏の気候がこれほど高温化していなかった当時、よく聞いた話だった。観賞会があって、「蓮の花を聴きに行く」とかいうのである。…風流でんなァ。

 泥池に生まれながら、それらの汚濁から超絶して、すーっつと細い茎を伸ばして、天女が婉然たる笑みのように、蓮の花は咲く。薬屋さんの看板キャラクターの、斜めになって裳裾をたなびかせ、天空を漂っている中将姫か仙女のようだ。
 碧き雲海の如き、蓮の葉の大海に浮かび、ほんのり紅色でひときわ白い。
 芥川龍之介『蜘蛛の糸』のイメージがなせる業か、私の頭のなかの蓮の池はまさに、極楽の岸辺、彼岸なのだった。梅雨が明けて、人の身の丈よりも高く、青々とした蓮の葉が生い茂る、上野の山下の不忍池。お釈迦さまが毎朝散歩する、極楽浄土、天国の蓮池って、まさにこんな感じなんじゃなかろうか…。

 多分に心象世界的、精神的要素を含んだ寓話のような世界。
 子どもだった私は、「蓮を聴く」という、そういうオトナ文化に、限りない憧れを抱いていた。いつの日か、ぜひとも、その音を聴きたいものである、と、愛読していた芥川龍之介の世界観に重ね合わせ、深く願った。
 それから蓮の花に魅了された私の、心の旅は続いた。中学生になって読んだ夏目漱石の『夢十夜』のような幻影世界に強くひかれ、かつて愛した女が何世紀も隔てて或る世、花開く顔となって再生する話は、SF『トリフィドの日』と融合し、心の渾沌はますます昆明池のごとく、混迷の度合いを増して行った。

 1970年代後半から80年代前半、世を挙げてのスーパーカーブーム。なぜか対極にいる私のようなものですら、富士スピードウェイにグランチャンを観に行った。違う意味で、ロータスの轟音を聴きに行ったのだった。
 F1でロータス。熱風と轟音のなかで、私は涼しげな夏の朝と、上野不忍池の生い茂る蓮の群れを恋しく思った。
 ♪夏になると想い出す~場所は、私にとって、はるかな池の端、花はハチスなのだった。

 それから何年も過ぎた平成ひとケタ時代。今はもうない雅叙園美術館所蔵の、橋本明治のこの絵に出会ったときは、子ども時代のその憧憬の世界と、昭和の市井の人々の生活文化の記憶が綯い交ぜになって思い起こされ、じわじわとした感動の淵に、私は浸されていった。

 大正から昭和にかけての日本画の世界は、その時代の女性の風俗を映していて、私は好きだった。これらの絵は長いこと一部好事家のものになっていて、あまり大がかりな展覧会が開催されることはなかった。若かった私は、美術館や博物館に行っては、ひとり感慨の淵に浸っていた。
 このころの絵には、日常に着物を着ているご婦人の姿がたくさん描かれており、着物で生活するに於いての心得、きものファッションに対する感覚のヒント…というようなものを、たくさん頂いた。
 『蓮を聴く』も、たいへんキッパリとした短髪の、現代風の美人(昭和時代における、現代風であるが)二人が、大柄の麻の葉と、蚊絣の大きな…トンボ絣ぐらいある大柄な上布を、ゆったりと着ている。

 昭和の終わりごろ、景気のよかった世間とは隔世の感があった、ちょっとしょっぱい、人気のない寄席通いに味をしめた私は、寄席若竹にも通っていた。今は亡き先代圓楽が、東陽町に円楽党の本拠地として建てた寄席である。
 ここで、当時二つ目だった三遊亭五九楽が、「ライク・ア・パラダイス」と銘打った勉強会(と、記憶している)を行っていた。私は当時、マイブームの一環だった友人との謎かけ遊びに格好のネタだ…と、心のネタ帳に書き込んでいたのだ。
 これは、寄席若竹と三遊亭五九楽を知らなくては整わない、多分にギャラリーが限定された超レアなマニアネタで、公開する前に近世文学通の友人も早世してしまったので、この二十数年というもの、自分の心のうちで何度も繰り返すのみだった謎かけだ。
 「上野忍ばずの池とかけまして、三遊亭五九楽の独演会と解きます」
 「そのココロは?」
 「ライク・ア・パラダイス…極楽みたい…五九楽観たい」

 先週、時々行くスーパーで、蓮の花を売っていた。それが、作り物ではなく、生花コーナーに、しかもすーっと伸びた茎の先端に、固く結んだ莟がついている、その状態で一本だけ売られていたのである。
 これは、珍しいものを見つけた…! 私は雀躍した。いくらお盆とはいえ、こんな状況で、活きた蓮の花にお目にかかるなんて、そうそうはない。いやいや、スーパーの生花売り場で蓮のつぼみに出会える機会なぞ、金輪際ない…と言っても過言ではない。
 蓮の花はいつも気高くて、遠い池の向こうのほうに、すーっと立っている。
 よく観ると包装紙の値札分類は、「お盆小物」になっていた。活花でも小物で売っちゃうんだ……と、奇妙な感慨に打たれた私は、このまま無事開花するのだろうか、という危惧を抱きながらも、三井の大黒、浅草は三社様の宮古川から網にかかって引き揚げられたご本尊。千載一遇、一期一会のこのチャンスに、蓮の花を手放せようはずもなく、いそいそとレジへ進んだ。

 壺に一本挿した、ハスの莟。スッと伸びたその茎は、蓮の身上である。なんて、カッコいいのだろう、と惚れ惚れして翌朝目覚めたら、あにはからんや、蓮は青ざめた顔をして、ぐったり折れていた。
 葉がない生花は水の吸い上げが悪い。この固く結んだつぼみが、その開花まで持ちこたえられるとも思えない…と、思いつつ買ってしまったのだが…案の定。
 どうやら、莟の自重で、茎が持ちこたえられなくなったようなのだった。ちょっとハスに活けたので、その微妙にズレた重心の、重力のかかり具合がよくなかった。
 驚いたことに蓮の莟は、冷たいプールに飛び込んでぶるぶるしているクラスメートの唇の色のような、紫色になっていた。
 まさに、青ざめたつぼみなのだった。

 天国から地獄へ急転直下。
 なんだか、一夜で天女に去られた男のように、さめざめとした気分になって、私は蓮の救命に躍起になった。…と言っても出来ることは、折れた茎の上で短く切ることだけだったのだが。

 そのとき、ビックリしたのは、蓮の茎が糸を引く、ということだった。そうだ、レンコンは蓮の根だもの、やっぱり茎も糸を引くんだ、と改めて感じ入った。

 その糸は、お釈迦さまが下界へ垂らした、蜘蛛の糸の、現し身のようだ…と、私は思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お膝送り願います。

2010年06月28日 21時30分05秒 | 落語だった
 かつて、景気のよかった時分の、就業人口が極度に高かった朝夕の電車のラッシュは、こんなものじゃなかった。
 でも、今、電車に乗ると、そんなに乗客が多いわけでもないのに、やたらと乗りづらいのだ。
 そんなとき思う。「つめなきゃ」。もうちょっと詰めてもらえませんかねぇ…。

 公共の場所で、自分の家のリビングにいるように、気ままにふるまわれても困る。まあ、そう思っても、自分自身、憎まれっ子になる腹も据わってないから、いじわるばあさんのように叱りつけることができるわけぢゃなし、あぁ、この人は自分の家に居場所がないから、こんな電車の中なんかで存在感をことさら示しているわけね…と憐れんでみる。
 そう思って溜飲を下げようとしている自分も忌々しい。

 昭和の50年代後半のこと。まだまだ沿線に田園が多く、田舎の電車といった風情があった井の頭線に、平日の昼下がりに乗った。ガラガラの車両の中に入ったら、ドア付近のイスに、若者が長い脚を組んで投げ出して座っていた。
 しばらくして、その若者の座るすぐわきのドアから老紳士が入ってきた。退役軍人のように背筋のピィンとした、鷲鼻のキリッとした、矍鑠としたその紳士は、無言で、持っていたステッキで、ポーンと、その若者の脚を叩いた。
 若者は自分の所業に恥じたように、ササッと居住まいを正して、椅子に座り直した。

 ひゃあぁぁ~~その鮮やかな老紳士の動作に、私は惚れ惚れした。今なら、なんだその暴力行為は!と問題になるかもしれないが、チョーかっこよかったのだ。
 威厳があるとはこういうことなのね。刑事コロンボに出てくる超タカ派のUS海軍のキャプテンみたいだった。あきらかに、戦争を知っている、いや、戦ってきた年代だったんだろう。

 あれから三十年近くが過ぎて、そういう大久保彦左衛門のような、いかにもうるさ型のご老体というキャラクターは、めっきり見かけなくなった。虚構世界のドラマの中でさえも、みんなやたらと物分かりがいい。
 …それにつけても、街なかに多少の規律があってもいいんじゃないかと思う。のんべんだらりとペタペタ天下の大道を歩いてて、なんだか腑抜けたことはなはだしい。もうちょっとしゃっきりしたほうがいいンじゃなかろか。

 平和なのはもちろんいいことだけれど、警戒心がなさすぎる。危険なことが起きると何でも他人のせいにして、少しは自分の不注意さ加減に恥じ入ったほうがよいのじゃあ…ござんせんか。
 平和ボケしている世の中を揶揄して、天敵がやってきて、毎日何人かずつ人が食べられちゃう話って、1970年代に星新一だったか、筒井康隆が新聞のコラムに書いていたけれど。
 こりゃー、韓国の兵役みたいに、軍隊でみっちり仕込んだほうがいいよ…とまでは言わないけれど、この野放図な、限りなく、ぐにゃぐにゃした背骨と気骨、どうにかならないのか。
 まったく、人間って、振り子みたいに、極端から極端に走っちゃうものらしい。
 中庸を実践することの、いかに難しいことだろう…。

 ところで、昔の劇場や寄席は椅子席ではなく桟敷だったので、込み合ってくると観客にそう言って、詰めてもらったそうである。
 昭和の終わり頃、私がよく通っていた桟敷席の寄席は、建て替える前の池袋演芸場と、上野広小路の本牧亭だった。
 しかし、あいにくとその頃の寄席は、バブル前夜に突入していく世間に忘れ去られた、アンダーグラウンドな空間だったので、えらく空いており、そう言われたことは一度もなかった。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神酒所/猿の巻

2010年06月06日 01時40分00秒 | 落語だった
 「山王の桜に三猿三下り 合いの手と手と 手手と手と手と」
 東京かわら版という、たぶん、日本国内で唯一の演芸専門情報誌があって、ひところの私は、この月刊誌がなくては夜も日も明けぬ寄席通いをしていた。
 お正月号には恒例の新年懸賞クイズがあって、10問だか20問だったか、落語や講談、芸人関連のクイズが出る。成績優秀者には寄席の招待券やら、うれしいプレゼントがあるのだが、昭和の終わりごろのある年、私は自分でも予期せぬことに2位になって、先代正楽師匠の紙切りの「藤娘」の色紙をいただいた。
 そのとき、分からなかった問題がこの、「山王の桜に××三下り…」の伏せ字部分に言葉を埋める問いだった。しょっちゅう耳にする句だったのだが、何だったか思い出せない。いろいろと心あての速記本を探してみたが、あいにく見当たらなかった。改めてテープを聴き探る時間もなく、後日、先代金馬のテープか何かで気付き、雑俳だった~~~っと頭を抱えたのだった。悔しかったので、今でも覚えている。
 それからしばらくして、NHKで、正楽師匠原作の『晴れのちカミナリ』が、まだ初々しかった渡辺謙と黒木瞳共演でドラマ化された。あまりTVドラマを観ない私には珍しく、毎週ビデオに録って、まるで自分ごとのように、二人の恋心の行方を案じていたのだった。その直後だったか、売り出し中の渡辺謙が発病したと聞き、たいそう吃驚した。

 先週から、内堀郭内界隈の街角のいたるところに、山王祭の神酒所ができている。各町内、神輿や山車を辻々に飾り、いつだったかの年は、祭囃子が麹町や番町のビジネス街にも流れて、なにやら心が浮き立った。
 もう十年以上前、外出先でお昼を食べ損ねた私は、未の下刻になって、京橋の大通りに面したビルの二階にあった、老舗のフルーツパーラーで、サンドウィッチを食べていた。そのころは今のように夕方までランチをやっている店もなく、時間がずれるとデパートの食堂か、喫茶店で食べるしかなかったのだ。
 ふと、通りに目をやると、トラックに神輿のようなものが載っていて、祭囃子を流しながら、中央通りを走っている。神田祭は五月だし、今時分、何のお祭りだろう…??と不思議に思い、お店のお兄さんに伺ったら、「山王さまのご祭礼なンですけどね、このあたりの氏子は不精だから、あぁやってトラックに神輿を載せて、町内をぐるぐる回ってるンですよ」と、ちょっと照れくさそうに教えてくれた。
 へえぇぇ~~~。トラックに載せて神輿渡御してても、町内の祀りごとを忘れずに執り行っている、今どき、それだけでもエライってもんですョ。
 それよりも、私が驚いたのは、神田にごく近い、京橋のこの辺りも、日枝神社の氏子だったということだ。あとで調べてみたら、銀座、京橋、日本橋の一部も山王権現の氏子だった。すごいなぁ。さすがに将軍家鎮守だっただけのことはある。

 ♪猿は山王、まさる目出度き…長唄に「外記猿」という面白い曲がある。外記節の「猿」という意味合いで作曲されたのを、キムタク、ブラピのように略して通称となっている。
 この曲の前弾き(曲冒頭の唄に入る前の三味線だけの演奏部分。俗にいうイントロのようなもの)は、「辻打ち」という、太鼓が入る賑やかなメロディで、寄席の出囃子でもよく使われている。見世物小屋で使われていたメロディを、猿回しの登場するイメージに当てはめたそうだ。飄逸で愉快で、♪トテテントテテン…という弾き出しが、心浮き立つ。

 先日、久しぶりに入った池袋演芸場で、外記猿の出囃子が流れた。そして、中入りののち、再び外記猿が流れた。不思議に思っていると、同じ噺家さんが上がった。そこで、何の気なしに入ってしまったのだが、若手の勉強会だったことに気がついた。
 二つ目の噺家二人が自主公演をしていたらしい。…しかし、いくら出囃子とはいえ、昔の落語会は、同じ出囃子を二回続けて使うことはなかったように思う。独演会ではなおさらで、そんな味気ない体験をしたことはなかった。
 番組構成的にも、曲がないではないか。たしか、トレードマークの出囃子とは別に、上がりの順番とかによっても使う出囃子があるはずだし、二つ目さん用に使う出囃子もあったはずなので、別の意味で、曲がない、というわけでもないだろう。二人が交互に出るのでやむなし…なのか、繰り返しの笑いをとる実験をしているのか…笑える時もあるけれど、あいにくその時は笑えなかった。

 冒頭に挙げた句「山王の…」の、テテトテトテト…は太鼓の音とも、口三味線とも取れて、リズミカルで面白い言葉遊びになっている。口三味線でいえば、テンは三の糸の開放絃で、トンは二の糸の開放絃だから、「三三二三二三二…」。
 一方「外記猿」の前弾きはトテテントテテン…ですから、「二三三、二三三…」。
 さあ、これであなたも、外記猿の出囃子が弾ける……かも。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幾代餅

2010年03月15日 00時01分29秒 | 落語だった
 五街道雲助の、ルックスと雰囲気が好きなのである。
 誰かに同意を求めたことはないが、文楽三味線の野澤錦糸に似てる、と私は思っている。お二方とも、憬れのお人である。
 しかし雲助師匠は、長いこと私にとっては「君の名は」的すれ違いの落語家だった。
 寄席と言わず落語会と言わず、いつ、どこへいっても高座に接することができない。出ているはずだと思っていくと、すでに出番が終わっている。これからだ!と思って待っていると、逆に私の用事で寄席を後にしなくてはならなくなる。
 そんなことが度重なり、しかし、その不遇を克服して師匠の高座を何度かは観ているのだが、私にはもはや師匠の高座姿より、お江戸日本橋亭がハネて、楽屋口からシャツ姿でふらりと出てきた雲助師匠の、柳に風の爽やかな雰囲気しか思い出せないのである。
 そこで今日、この曖昧な記憶を再確認するために、九識の会へ行ってみた。
 3月14日は、松の御廊下内の刃傷、および塩谷判官が切腹したばかりではなく、年が明けたらあなたのもとへ、きっと行きます断わりに…じゃない、幾代大夫の年季奉公が明けた日なのでした。これは偉大なる逆ホワイトデーというやつなんでしょうか。
 これがために、今日高座にかけたという雲助師匠。そういうところが好きだな~~。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立川談志

2010年03月14日 23時16分34秒 | 落語だった
 こども時代からアラ厄のころまで、私がどれだけ立川談志を好きだったか、知ってる人は少ない。
 芸のことは私が言うまでもなく、昭和30~40年代、キュートなルックスと、なによりもあの、反骨精神と毒舌が、こども心をシビレさせた。
 日曜日のテレビ番組は正午から、大正テレビ寄席、ズバリ当てましょう(買いましょうだった??)、家族そろって歌合戦、そして、笑点だった。星の王子様で売り出していた円楽は、こどもの目線ではカッコイイとは思えず、いくら笑っていても目が笑っていない、何となく好かん人だった。
 私のオッカケが本格化したのは、談志が落語協会を飛び出して野に下った以降だ。ある時は多摩川線に乗り込み、鵜の木寄席というお寺に詣で、またあるときは東陽町は寄席若竹へテープマニアの集いという、当時TBSラジオの早起き名人会からスピンオフした企画集会へ、またあるときは千人規模のホール観衆となり…。独演会の切符があまりに取れないので、姿を観たいがために日暮里サニーホールでの漫談までも通った。
 小よし時代を知っている親戚は「源平」を絶賛する。私のリアルタイムでは…談志なら何でもよかった。ある時期はやたらと「野ざらし」ばかりかけてたこともあった。も一度聞きたいのは「桑名舟」。
 あの、立て板に水の名調子と、客をいじる機転の素晴らしさ。ことさら偽悪的な気風のよさ。好きだったなあ。
 21世紀になってから、落語も寄席も、一時ほどの熱狂を私に与えてくれなくなった。
 談志は高座で「業」を強調するようになった。私は、観客として、拘束よりも解放を欲する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする