長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

疑惑

2021年07月27日 22時26分07秒 | 凝り性の筋




 蝉しぐれが殊の外こころにしみる令和三年の夏、それにつけてもよくもまあ行方知れずになった我が子の旅立ちにめぐり合えたものだ…能や歌舞伎の「隅田川」(長唄で言えば『賤機帯~しずはたおび』)に申し訳ない…桜川であった有難さよ…と廻り合わせの不思議さに、今朝も物語を紡ぎだしてくれる植木たちに水を遣りながら、

 ベランダから目を移すと、疫病か熱中症か見分けもつかず、入院も出来ない人々が巷に放り出されるという、とても西暦を二千年以上数えた、この日本の現実のこととも思えない世相が展開されているのである。黒澤明の羅生門の1シーンが目に浮かぶ。

 植木鉢に小さいハエが湧くのを防ぐのは、培養土の上2センチぐらいをゴッソリ取り除くといいですよ…と花の好きなお弟子さんが教えてくれたのを、思い付きでコバエ除けを目論んで鹿沼土を薄く敷いてみたが…映画ファンタスティック・プラネットを連想してしまう旺盛な生命力を持つ細かい生き物への、無情な対処も徹底できぬまま、
 
 …ふむ、この土壌ではワラジムシは棲息できないものであろうか、酷暑の夏は死滅したかと思われたが、昨年、白露の秋を迎えてから水を差すと再び、吃驚したようにわらわらと蠢き出してきて可愛かったのに…線が細く蚊にも似た蠅は、相変わらず薄黄の土粒上空をちょこまかと飛ぶ。

 そんなふうに、しげしげと植木鉢の植生を眺めていたら、何年目かの檸檬の、幹から生えてきた下枝の葉っぱが、改めて気に懸かる。
 …あら、新しくこんなところから生えてくる葉っぱは、形が違うものなのね…と深く考えずにやり過ごしてきたが、どうもおかしい。
 本稿一枚目の写真をご覧ください。

 葉の形が違いましょう、疑惑の主は三つ葉である。同じ株の上の方の新芽と比べてみても、明らかである。




 この異形の枝は、ひょっとすると、ヤドリギなのではないか…?
 という、今まで芽生えたことのない疑念が私の胸を支配した。
 しかし、檸檬らしい棘も生えてはいる。
 さっそく調べてみたが、寄宿する植物…寄生樹の資料が少ないのである。
 折悪しくオリンピックの特別番組とかで、夏休みの子供電話相談室はお休みとのこと。
 目下のところ自助で調査中である。

 夏は夕暮れ。




 スダチを薄い輪切りにして夏蕎麦。




 檸檬の花から実が生ずるまで。




 台風が来るというので、植木たちの心配をして、ベランダの片付けをしていたら、あにはからんや…
 植木鉢をどけてみたら、思い掛けないところに、この間からの、「一体みどり丸たちはどこで蛹になっていたのだろう…???」という、もっとも知りたかった答えが出現した。



 みどりご達が埴生の宿たるレモンの鉢から一間半ほども離れた、お隣との国ざかい…境界間際のスチールの柱、床上20センチ程の静謐とした物陰に、脱け殻はあった。
薄暗い空間に、サナギを支え固定する糸が、太く白く光っていた。
天下は麻の如く乱れていたが、我がベランダでは快刀乱麻、昆虫観察の一部始終が解決、完結したのであった。

 台風一過とはいかなかった大暑のあした。


【追記 2022.01.12】
レモンの鉢の土にそこはかとなく繁殖している、蚊に似た、しかし蠅ではない感じもする小さい羽のある虫がとても気にかかっておりました。
思い立っていろいろ調べたところ、コバエという種類の蝿は学術的にはおらず、ショウジョウバエ、チョウバエ等を総称して、慣用的にそう呼ぶとのこと。
その中に、私が探していた虫の正体を発見、クロバネキノコバエ(黒羽茸蠅)という虫でした。
植木鉢の粘菌などを食す模様でありますが、生態は殆ど知られていないとのこと。
私が子供の頃の昭和40年前後まで、猩々蝿は割と身近な研究素材で、吉村公三郎監督1956年大映「夜の河」でヒロイン山本富士子に惚れられる大学教授の上原謙が研究していたのも、ショウジョウバエでした。
生物学研究をこころざす若人よ、これからはキノコバエが狙い目かも。
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釣狐

2018年02月11日 23時50分00秒 | 凝り性の筋
 何と嬉しや、憧れの『釣狐』を演ずる機会が私にも訪れた。
 …と申せども、狂言ではなく長唄の舞台である。



 あまりに嬉しかったので、堺の白蔵主稲荷へ詣でた。
 ♪…姿は伯父の白蔵主 見えつ隠るる細道…



 余りに愉しい曲なので、様々なことを申し述べたいのであるが、稽古に励んでいるうち、なんと明日が本番になってしまった。(現在、2月25日深夜)

 そんなわけで、来たる2月26日月曜日、日本橋蛎殻町の日本橋公会堂にて、第7回伝統長唄伝承の会がございます。
 皆さま、何とぞよろしくお願い申し上げます。

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霜夜狸

2017年11月04日 00時40分45秒 | 凝り性の筋
 ※まずは、話の前段として、昨年11月11日付で書き起こしつつもアップできずにいた原稿からお届けすることをお許しくださいませ。


 このところの私のひそかな愉しみは狂言方、山本東次郎さんの追っかけである。
 山本東次郎さんは、昭和12年、大蔵流の狂言方のお家に生まれた。我が愛する杉並能楽堂にお住まいである。
 日和が好い折の催し物は必ず束になってやってきて(世間的な好日は1か月に4日しかない日曜日、そこに夥しい量の集中するという悲劇…)、生業とする演奏会と重なったりして、自分が見たい聞きたい…!!と思う舞台にはなかなか行けない。それを潜り抜けて訪う心の充電、充足時間は甘露のひと時である。

 能楽には三味線がないので、とても癒される。どうしても三味線が付随する舞台だと職業意識で聴いてしまうので、純粋に趣味的な立場で味わえることがない。
 そして私の大好きな、古き美しき、やまとかなぶみ…日本の言葉の数々。
(能とのかかわりは本稿「蟇股(かえるまた)」をご参照いただけましたら嬉しく存じます)

 20世紀はぽちらぽちらと、21世紀になってからは足繁く通う能楽堂。私の個人的趣味とは別のところに、昭和から平成にかけて狂言ブームというものが何度かあった。しかし、私にはどの狂言方の舞台もさして面白く思えなかった。ゆえに観能の合間の休憩時間として席を外していることが多かった。それが、である。
 
 西暦2000年を過ぎて間もなくのこと、千駄ヶ谷の国立能楽堂で(当時は、国立らしく安価で能と狂言1番ずつという手軽に鑑賞できるシステムがあった)、山本家の「土筆(どひつ)」に廻りあった。
 かつてないほど、私は狂言を面白く感じた。
 それ以来、山本東次郎さんの名を目にすると、あまり触手の動かない会でも出掛けていくようになったのだ。


 ※※さて、ここまでが、「月見座頭の展開」というタイトルで下書き保存していた部分であります。何を書きたかったのかは、はっきりこの頭に蘇ってきたのですが、きちんと纏め上げるには時間がちょと足りない。なぜ足りないかといえば、今日の余韻をまずは書き留めたい、というわけで、「霜夜狸」のお話をすることをお許し下さいませ。

 
 東次郎さんは、虚空に世界を創出する名手、魔術師である。
 あるときの杉並能楽堂での「木六駄」で私は、東次郎さんの太郎冠者が指す手に、曇天にちらほらと舞う小雪を見た。
 近い記憶では去る6月観た「鎌腹」の道行でも、東次郎さんが科白で景色を口にするとき、魔法のように私の目の前には同じ風景が広がるのだ。
 これは同じ科白を、日々弛まぬ鍛錬をして精進している最中の壮年期のものでもなかなか現出できない、修業とともにあるご自身が、年を重ねて涵養され、身の内に積み重なった部分からそれと巧まずして顕れてくるものなのだと思う。

 うららかな11月3日文化の日、冠婚葬祭のすべてを家人に託して、私はいそいそと丸ノ内線に乗り換えた。
 杉並能楽堂での山本会。本日は狂言が3番。

 最後に上演された「霜夜狸」は、原作が宇野信夫(実はもう25年以前、歌舞伎座と前進座とで偶々近い期間に上演された「怪談蚊喰鳥」の印象深い余談があるのだけれど、それはまたの機会に)、それを故あって一昨年新作として東次郎さんが改作、初演なさったものであった。今回二度目の上演である。私は今日が初見だった。

 霜月の寒い晩、野守(山番)の東次郎さんのところに、囲炉裏の火に当たらせてくれと狸が訪うてくる。そこで山守は20年前に戦で亡くなった息子に化けることを所望し、平重盛が狸を助けた話などをしつつ、四月一冬を仲良く過ごす。日が温み芽吹き時の春になると狸は仲間のところへ帰って行った。そしてまた霜月の凍える晩にやって来て、山守の小屋で一冬を過ごす。
 こうして、山守老人が太郎と呼ぶ狸と心通わせるようになって三度春が過ぎ、四度目の木枯らしが吹く冬を迎えたが、今日来るか明日来るかと待つうち、太郎狸は来ぬまま、とうとう春になってしまった。

 どうしたかなぁ…と太郎狸を案じつつ、清々しい春の気配を含む若々しい野山に出で、風に舞う花びらを見つける。おや、こんなところに桜の木があったかしらん、と、のどかな春の訪いをことほいで、東次郎さんの山守は、古今集の紀貫之の歌、
   吹く風と 谷の水とし なかりせば  深山(みやま)隠れの 花を見ましや
 を口ずさみながら、野山の谷の湧き水を汲むのである。

 そのとき私は、たぶん、志ん生を呼んでは大津絵を聞いて号泣していたという晩年の小泉信三になっていた。
 もちろん、東次郎さんは別に声を震わせるでもなく悲しい顔をするでもなく、きちんと狂言の様式にのっとって、ただ古歌を詠いながら、淡々と温水を汲むのである。
 その、溌溂とした朗らかな春の日差しの中にあって、老人が独り抱え込む壮絶な孤独感を思うと、私はたまらなくなって泣いてしまったのだ。
 一度息子を失い、今また息子の化身でもある太郎狸をも失ってしまった…と思う老人の絶望感。
 明るい春の光を浴びながら水を汲む、その対比の中で老人の心の無残は酷なほど際立ち、私は終演後またまた化粧室にて顔を直す羽目になった。
 くだくだしい心理描写や説明の科白を持たない狂言だからこそ、なおさら、観る者の胸に迫ってくるのだ。
 
 終盤、物語はさらなる展開を見せ、数多い狂言の番組の中でも、自分は能よりの狂言が好きである、と東次郎さんがおっしゃった面白い趣向で、見所の者にさまざまな想いを残して終演する。

 杉並能楽堂の蟇股は、桃太郎に似ている。
 我が幼年期よりの心の友・武井武雄の、桃から勢いよく飛び出したところの桃太郎の絵に…それが正しい記憶なのかは不明であるが、両手両足を天の字にかっぱと広げて、現世に飛び出た姿によく似ているのである。
 この能舞台を太平洋戦争の空襲から死守された御父君とのエピソードを、山本会や講演などで伺っていた私には、ここを揺籃として育ってこられた東次郎さんの「霜夜狸」を、この杉並能楽堂で見られたことは、さらに一入の感慨でもあった。

 
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とら・とら・とら!

2013年02月18日 17時27分23秒 | 凝り性の筋
 たしかに、先日、常日頃たいへんお世話になっている若柳の先生の御一門の新年会に呼んでいただいた際、宴会の余興に和藤内の虎退治拳が出たが、その話ではありません。
 このところキナ臭いけれど、山本五十六の話でもありません。12月8日もとうに過ぎたし。

 今月の国立劇場・文楽東京公演は3部制で、朝の部に『摂州合邦辻(せっしゅう・がっぽうがつじ)』の通しが出ている。
 (ときに、せっしゅう=摂津の国、と打とうとして「接収」としか変換できなかったのは、私の前振りのせいでもあろう)
 歌舞伎好きには『合邦』。世間的にはこの話は、能『弱法師(よろぼし)』、現代劇でいえば寺山修司→蜷川版『身毒丸』ですよ、と言ったほうが通りがよいだろうか。

 歌舞伎では物語の収束部分である「合邦庵室の場」しかやらない。
 私の記憶の中では、7代目梅幸as玉手御前、17代目羽左衛門as合邦が、鮮やかである。
 薄暗い舞台に浮かび上がる、梅幸の玉手の白い面は、何やらなまめかしく妖しく、それに対する羽左衛門の実直な合邦が印象的で、その時、俊徳丸も浅香姫も誰が演ったのか想い出せない。
 いや、想い出す必要はないのかも知れない。
 玉手御前の死に様を観る、芝居であったからだ。

 であるから、私は「朝イチから玉手御前…」と、朝食にステーキかうな重を食べに行くような心算で、ちょっと覚悟して国立劇場に向かったのだ。
 ところがである。
 今回の公演はその前段である「万代池(ばんだいいけ)の段」からの上演だった。

 多くは申しますまい。文楽ブラボー!!
 こんなに面白く愉しく、合邦を観たことが今まであったろうか。
 (理由が知りたい方はぜひ劇場へお運びくださいませ。今月25日までやってます。)
 
 それで私は、あぁ、この話は説教節だったなぁ、と、この物語の本来へ思い致すことができた。
 仏教を拡めるため、また、信者たちへ教義を織り込んだメッセージ性のある祝祭劇のようなものでもあったわけだ。
 冒頭、貴種流離譚の手本がごとき顔が崩れる病を得た俊徳丸が、四天王寺に乞食の態となり身の上を嘆くところへ、梅の花びらがはらはらと散りかかる。

  ♪…折節 さっと春風の すげなく誘う梅の花 袖や袂に降りかかれば…
 床の清友さんの三味線はやわらかくて、馥郁たる梅の香がした。
 
 しみじみとしていると次には気分転換ができるように、楽しいチャリ場があったりする。
 日本の伝統芸能は、長い年月多くの人の手を経て再演され続けているから、サービス精神もちゃんと磨かれているわけで、気が利いているのだ。
 見もしないで難しい…と言うことの愚を知ってほしい。
 合邦が寄付金を募るため、勧進ダンスと名付けたい念仏踊りでひとしきり賑やかになる。人形ってこんな時、シュールで愉しいのだ。生身の人間がやると、このほのぼの感が出ませんからね。

 こうした前段の後で、庵室の場を観ると、印象が全く違う。
 文楽はやはり、大阪の芸能だ。
 歌舞伎ではあっさり幕引きとなるが、文楽は、早く飲ませないと生き血じゃなくなるんじゃー…と、観客が心配するほどこってり、泣かせつつ笑わせる要素をも入れ込んでいる。

 玉手御前はホントはやっぱり、俊徳丸に恋慕していたんじゃないの…?というのが、よく取り沙汰されるが、今回の合邦を観て私は気がついた。
 そんなことはどうでもいいのだ。あまり大筋と関係ない瑣末な考察だ。
 これはたぶん、因果応報を説く、仏教のお話なのだ。
 ならぬものはならぬ…という場合は諦めなさい、と言っているのだ。

 人間は、自分にしかできないこと、自分でしかなり得ない存在を求めて、生きていく。
 仕事でそういう者になり得たスペシャリストは伝説の人になり、プライベートでそういうものになり得た人は、父や母になる。
 妻や恋人、人間関係にはいろいろな関わり合いがありますが、血縁関係…自分を生み出した両親は、子どもにとっては、唯一無二、たった一人の特別な人である。

 玉手御前は、寅の年・寅の月・寅の日・寅の刻に生まれたがために、俊徳丸の窮地を救うという、彼にとってはたった一人の人となる。恋愛という限定的なものじゃなく。
 彼女はどれだけ誇らしい気持ちで、死んでいったことであろうか。
 恋を勝ち得た浅香姫より何より、彼女は俊徳丸の特別なひとになったのだ。

 さて、実は私は、寅の年寅の月寅の刻に生まれた女なのだ。
 だからずっと、私が生まれた日は何だったのだろう…と気にかかっていた。
 もう20年前、カタギの会社勤めをしていた頃、社内の先輩がその話を聞いて、暦を調べてくださったことがあった。あまり親しいわけでもなかったのに、気にとめて下さって、ほんとうに私は嬉しかった。
 私は、寅の年、寅の月、午(うま)の日、寅の刻に生まれた女だった。

 嬉しく思いながらも…ぅぅむ、伝説の女になり損ねた、と、私は軽く歯がみした。

 
 
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土に食いつき 泣きゐたり

2012年05月25日 15時35分45秒 | 凝り性の筋
 たぶん、日本人は、お腹がいっぱいになるより、胸がいっぱいになるほうが好きなのだ。

 人形浄瑠璃・文楽、東京公演。ここ十年ほど、欠かさず観に行く。
 文楽の義太夫の素晴らしいことといったら、昭和の終わりごろ聴いた素浄瑠璃の会でわかってはいたのだが、若い時は「アタシ、生身の人間のほうが好きなンです」とか言って、多いときには同じ演目を月に7回、歌舞伎ばっかり観ていた。

 しかし、なんだか、四十を過ぎたら、もうピュアな芝居の心というのでしょうか、ただウソ偽りのない、藝の力というもので観客を魅せる技芸員…砕けて申せば、大阪のオッサンたちの生みだすミラクルな藝境、そして浄瑠璃作者の訴えたかったであろう言葉がまっすぐにこの胸に響いてきて、もう、お芝居ときたら、歌舞伎座が無くなってここ数年、人形浄瑠璃ばかり観ているといっても過言ではない。

 正しくは、文楽は聴きに行くものである、という慣用句があるが、私は人形も楽しみなのでとにかく、観に行く。

 俳優が一人いれば事足りるものであろうに、わざわざ三人の人間が一体の人形を遣う。日本人ってもともと、ペイとか原価率とか損益分岐点とかいう言葉とは無縁なのだ。
 しかし、それだからこそ生み出される、たとえようもなく素晴らしい演劇空間が舞台上に現出される。
 人間って、悲しいもんでしてね、どうしても生きてる限り生々しい。
 一個の俳優が演じていると、本人が意図せずして、あざとかったりえげつなくなってしまう瞬間がある。若い時は、ことさらリアルで生々しかったり、品がない不良っぽいものに何となく心惹かれてしまうものだが、年ふりそういうものに現実社会で実際に見聴き触れてきた身には…もうお腹いっぱいです、遠慮申し上げます…という心境に至ってしまうことも事実なのだ。

 それが、なのである。文楽は、人形という物体を介在させることによって、まごうことなく人間が演じているものであるのに、人間が直接演じるよりも、芝居の本質が顕らかになっているのである。
 つまり、役を演じているものが、芝居というものの魂を演じきる、「或るもの」になっている。
 それは人間でもないけれど、人形でもない。
 なんと申しましょうか…あらゆるものを超越しつつ、あらゆるものを内包している何か。

 そんな素晴らしい、何ものかになる可能性を秘めている舞台だものだから、そうたびたびそんなミラクルな瞬間にお目にかかれることがないこともまた、事実である。
 LIVEであるからこその邂逅。当然、演目、日によって、技芸員の技量によって、当り外れはあるのである。
 しかし、そんな目に多く遇っているだけに、かくも宝石のような舞台に出会えたときの嬉しさときたら。日本人てどれだけ、素晴らしい芸術を生み出してきちゃったんだろうと、観るたび涙が溢れる。
 もちろん、そういうわけでアタリハズレがありますから、ァーなんや、今日の芝居はぼちぼちでんなぁ…と堺衆の如き呟きを発しながら劇場を去ることもある。大阪市長の初感がそうだったのは、お気の毒、と言うしかない。

 昨晩、私が聴いたのは「吃又」。歌舞伎では、ほとんど、出来の悪い旦那と口数の多い妻の夫婦漫才のように繰り広げられる。奥さんのしゃべくりと「かか、ぬけた」という空っとぼけた夫のやり取りで笑わかす、コメディみたいな芝居。
 そして長唄に関わるものとして特筆すべきは「藤娘」という定番曲の、大津絵・藤娘の姿絵の産みの親である、ということぐらい。なんでこんな面白みのない芝居をしょっちゅう歌舞伎の舞台にかけるのか、いままで不思議ではあった。

 しかし、また再び、私は奇跡に遭遇してしまった。
 弟弟子に追い抜かれ、免許皆伝の許しも得られぬ、絵師又平の悔しさ。ひとつのことに一生をかけて精進する世界に身を置くものには、この屈辱の痛さが身にしみてわかる。仕事を持ち、社会に身を置いているものなら、みな身に憶えがあろう。
 何とか免許皆伝のお許しを頂きたいと、師匠に懇願し平身低頭する浮世又平夫婦。その台詞のあとの地の詞章。
  ♪…土に喰いつき 泣き居たり

 竹本住大夫のこの語りで、私は突如涙腺が決壊した。
 人様にお願いをする土下座だよ。いまの人はシャレ程度にしか思ってないかもしれないけど、自分の人間性、誇りを捨てて、地べたに頭をすりつけて、口の中に土くれが入るほどに、歯噛みしながら泣いているのである。スポ根のど根性ものでもあるじゃん。負けて悔しい。泣きながら詰める甲子園の土だょ。…多少たとえが違いますが。
 そして、どんなに努力しても、人に認められることのない、ツルツルの氷の壁に四方を遮られ、心に冷たい棘が刺さるような疎外感。
 なんだか、歌舞伎では、太平楽な画家夫妻程度にしか感じていなかったこの浮世又平と女房おとくが、たとえようもなく可哀想に思えてきて、思わずもらい泣きしてしまったのである。

 ミラクルを生み出せる芸域に達するまで、人はどれだけの苦労をし、年を重ねてきたことであろうか。
 資本なんかどうでもいいのだ、とどのつまり、結局。
 人はたかだか50年…西暦紀元後二千年をも数えるようになれば、多少は生存条件がよくなって70年、そんな一瞬の星の瞬き程度しか生きられないのだ。
 自分の心の中に飼っている、理念や信念、そんな、何ものにも穢されることのない自分だけの誇りというものの気が済み、まっとうされれば、それで静かに、生きていた、と思えるものなのである。

 三度の飯より好きなもの、一生をかけて打ち込める仕事。それさえあれば霞を食って生きていけそうな気がする…のが日本人なのである。だからさ、精神性より実を取る人々にはさぁ、こんな不可解な日本人の心根はわかるはずもないのである。
 そしていつの間にか…たぶん横文字の合理主義で芳しき双葉のころから育てられるようになって、日本人の心根は絶滅しようとしているのだ。
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蘭蝶

2010年11月22日 00時00分30秒 | 凝り性の筋
 「蘭蝶」で泣いた。久しぶりに聴いた。劇場で聴いたのは正しく十年ぶりだった。
 三越劇場から出たら、東の空にぽっかりと月が浮かんでいた。そうだ、今日は十五夜だった。
 日本橋の大通りを、息もつかずに南へ歩いた。こんな気分のときは、丸善でビールを飲むのだ。休日の日本橋はすいているから好きだ。普通のビヤホールでは嫌だ。一間三尺四方にひと気がない空間で、このじわじわとした感慨を反芻しながら、のどの渇きをいやすのだ。

 今日のこの新内の会は、成駒屋が立方で出るというので、番頭さんに取ってもらった切符だった。新内のとあるお家元の弟子たちの披露目も兼ねた会、ということで、特に期待もしていなかったのだ。
 歌舞伎長唄、という言葉があるように、舞台の地方(じかた)の演奏は、素の演奏会とちょっと違う。役者の邪魔にならないように演奏するのだ。
 おなじみの曲に新趣向を組み入れた番組もご愛嬌、なんと八十回を重ねるという記念公演の、会主の口上も爽やかな、和気藹々とした会場の甘い雰囲気に、古典芸能の世界のいつものことだ…と、高を括っていた。だが、甘かったのは私のほうだった。

 終曲は「蘭蝶」だった。すでに鼻をぐすぐすいわせていた観客が、声をかけた。
 よっぽど思い入れがあるのだろう…と、そのときも私は冷静だった。

 私がこの曲に思い入れがあるとするならば、九代目澤村宗十郎、丸にいの字の紀伊国屋が、歌舞伎座で最期に勤めた芝居、というだけだ。
 あのころ私は仕事が忙しくなって、もうあまり歌舞伎座に行けなくなっていた。たしか、二十世紀最後、極月の歌舞伎座で、自分で手配したのではなく、知人が行けなくなったから、と、三階席の切符をくれたのだった。私はこの知人を、今でも恩人だと思っている。
 そしてそれが、私が紀伊国屋を観た最後の舞台になった。

 …そんなことをぼんやりと想っていた。ところが、で、ある。
 後半の山場のクドキ、「♪縁でぇぇこそあれぇ…」と、会主が一声、語ったとたん、場内の空気が変わった。そして、私の料簡も。
 三味線の調子がちょっと狂っていた。でもそんなことはどうでもいい。
 そんなことは問題にならないほど、私は一瞬にして、大夫の語る声のそのたゆとう世界に連れて行かれた。……これが芸というものだ。大夫はおそらくこのクドキを、何千回となく語っているだろう。

 「蘭蝶」は、恋にすべてをかけた女が、でも、更に、その男に命をかけて尽くしている女に義理立てして、その恋を思い切る話だ。
 しかし、私はそんな理屈をすっかり忘れていた。もう、ただただ聴き惚れて、そしてただただ、感動していた。
 理屈で感動するのじゃない。感性だ。
 聴く者の感性を揺さぶる大夫の語りに、心の芯を掴まれて、私はただただしみじみとその声に聞き入っていた。これが芸の力だ。何年もかけて、積み重ね蓄積してきた、一朝一夕にはできない、芸の力量というものが、これなのだ。
 幕が下り、また上がり、会主が終演の挨拶を述べたが「もう胸がいっぱいになってしまって…」と言葉少なに結んだ。福助も涙をぬぐっていた。

 顔を直すのに化粧室へ直行した。こんなふうに、観劇終了後、お手洗いでしみじみと泣いたのは、たぶん、アン・リー監督の「グリーン・ディスティニー」以来だ。
 あのとき私は、あの主人公の一途さに、もう胸がいっぱいになってしまって、観ている間は何ともなかったのに、今は亡き新宿松竹の、ひと気のないお化粧室で、やはりしめじめぐすぐすと泣いていたのだった。あれもやはり、二十世紀最後の年のことだった。
 それからしばらく、サントラ盤を毎晩聴いて就寝していた。ヨーヨー・マのチェロの響きが、私を果て知れぬ余韻の岸辺へ誘うのだった。
 そして、映画の中のチャン・ツイイーが演じた主人公がそうであったように、私も自分の身の落とし所に迷いかねて、砂漠をトホンと眺めていた。明日は白い霧の中にあった。

 土曜日の丸善の喫茶室はすいていた。私は一間三尺四方に人のいないソファに身をもたせかけて、気持ちよくビールを飲み干した。
 …さあ、早く帰って、私も三味線を弾かなくては。

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蟇股(かえるまた)

2010年11月14日 14時40分00秒 | 凝り性の筋
 四十前後ぐらいだったろうか、あれほど好きだった歌舞伎がなんだか私の血をたぎらせてくれなくなった。
 好きだった役者もあちらの世界へ旅立ったり、舞台世界の様子が少しずつ変わって来たり、泣くべきところで笑う観客が増えて来たりして…安直にたとえれば、贔屓の花魁が遣り手婆になっちゃって、なんか、足が遠のく…とでもいうのでしょうかねぇ。
 いつまでも惚れたはれた、切った張ったでもなかろう、という気持ちになってきたのだ。
 つまり、歌舞伎にシンクロできなくなってきた。
 逆に、能の主人公の、あのころはよかった…的な心境が、とても身にしみて共感できるようになってしまったのだ。

 長唄は能によく似ている…というか、題材を能から頂いているものが多い。
 二十~三十代のころは、能を観ながら、何か別のことをぼんやりと考えているのが好きだった。なにしろ、歌舞伎に行くと、五感が歓び過ぎて、アドレナリンが発散されすぎて…まぁ、要するに若者がロックフェスに行くように興奮してしまうのだが、能楽堂へ行くと癒される。
 歌舞伎座で聞くお囃子はもうとにかく心が浮き立ってワクワクして仕方ないのだが、能の調べは厳かな感じがして、芸能世界のリビドー的情動や俗世間にまみれた世俗の垢とは隔世の隔たりがあって、声明のような謡と四拍子のシャワーに、私は身も心も清められたような気になりながら、能楽堂のすみでぼんやりしていた。

 ところがである、四十を過ぎてそんな具合に、歌舞伎から♪バイバイ、love…というような塩梅で自分の棲みなれた世界に別れを告げる「オール・ザット・ジャズ」のロイ・シャイダーのように…つい数年前には「ジョーズ」でサメと格闘してやたらと凄かったのに…この感覚って、能の修羅ものに似てるなぁ、と今改めて思いましたが……揚幕を開けたら、私の目の前には花道ではなく、橋掛りが開けていたのだった。

 でもね、これは、枯れたとか年取ったとか老境に達したとか、そんなことじゃあ、無いンです。
 昔、市川雷蔵の「新・鞍馬天狗」を観たとき、雷蔵の倉田典膳が、「鞍馬天狗」を低く謡いながら、鞍馬山の山中に消えていった…ぅぅぅ…あまりのカッコよさに私はうめいた。
 これだ!これを私も絶対やってやるのだ!と、三十ちょっと前だった私は、強く心に誓った。

 その願いがかなったのは、その映画を観てから十数年近く経っていた。
 長唄には謡がかりという技法があり、そのためにも謡をよく知っていなくてはならない。
 心にかなう先生を見つけるまで、私はほうぼうの能楽堂へ出掛けた。ご流儀の好き嫌いなく。好き嫌いはまず、自分の目で確かめなくては。

 この、ご流儀というもの、古典芸能に携わると、必ずどのジャンルにもある。それはどんなものかよく聞かれることが多いが、要するに、演出の違いとでも申しましょうか。
 分かり易く現代劇に当てはめてみますれば、脚本を変えずに「ハムレット」を、俳優座や文学座がやるのと、唐十郎がやるのと、つかこうへい事務所でやるのと、劇団四季でやるのと、野田版やクドカンでやるのとの、それぞれの違いみたいなものですね。
 私が心を入れ替えて、ウロウロしていた21世紀初頭の能の観客は、九割方が、自分も謡か仕舞を習っている、その筋に心得のある方々だった。だから、客席でぼんやり観ていると、詞章のある部分までくると、一斉に謡本のページをめくる音がする。…教会で賛美歌うたってるみたいやなぁ…と私は思った。
 お稽古をしている方々は、どうしても勉強という観点から舞台を見るので、自分の習っているご流儀以外の舞台を観ない。
 でも私は部外者の自由な観客だったから、流儀によってどう演り方を替えるのか、そんなところも面白く、ウキウキとしていた。

 無論、退屈で死にそうになるほど耐えられない舞台を観たこともある。
 洗濯一つするにも、川でドンブラコと、桃が流れてくるのを長閑に眺めていたのと、全自動でパパッとやっつけちゃうのと、どうしたって室町時代と現代とでは、時間の流れに対する感覚が違うから仕方ない。

 とにかく、自分がこの人だ!と見込んだ好きな謡の先生に教わりたい、と思って、自分なりのメガネでほうぼうの能を観に行き、一生懸命探していたとき、とあるご流儀のご宗家の仕舞を観た。そのとき、意外なことに、私が今まで観てきたイメージの能楽とは違っていて華麗に舞台でパシッと飛んだ。そんな風に飛んだりするんだ、とビックリして、なんかそれが忘れられなくて…と、そのころ偶然にも面識を得た、とある大学の能楽研究をしていらっしゃる教授にご相談申し上げたら、
 「それは、惚れちゃったンだわねぇ」と、その先生はおっしゃった。
 ……え、そ、そーなんですかっ!?
 
 そんなこんなで、かつて、能舞台の上のほうの、蟇股をぼんやりと眺めていた私が、今は、シテのマーベラスな演技に胸ときめかせ、血をたぎらせているのだった。枯れちゃったよね…と思っていた能舞台のほうが、私をワクワクさせる要素が潜んでいるのだった。
 
 人間、歳月を経ると、今まで何気なく観てきたものに、突然シンクロできることがある。
 謡曲の「山姥」の終章。
…山また山に、山めぐりして、行方も知らずなりにけり。
 そんな老婆に、私も成りたい。
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美容院ジプシー

2010年10月17日 01時30分00秒 | 凝り性の筋
 きものを着こなす、いちばんの要、ポイントは何だと思いますか、みなさん。
 着物姿のポイントは、帯です。…いいや、帯締めです。んにゃ、着物の柄です。いえ、色合いですョ…と、皆さん、さまざまなご意見をお持ちであろうと思う。
 着物姿のポイントは、なんといっても、TPOをわきまえた程のよい取り合わせなのだが、本当はもっと大切なところがある。
 それは、おぐし。頭、髪形である。

 とくに観劇の際の着物のおしゃれは、髪形ですべてが決まる、と、力強く断言したい。
 どんなに凝った帯や着物を身につけていても、観客の場合、劇場で過ごす9割方の時間は、椅子に座っている。いかに芝居のテーマにマッチした風物のコーディネイトをしていようと、贔屓の役者に関連した紋やキャラクター文様で決めていようと、桟敷に座らない限り、ほとんど目立たない。
 バストショットより下は、ないも同然なのだ。

 しかし、この髪形というもの、今やまっとうに拵えようと思うと、幻の麦わらストローを求めるように、大変なことなのだ。
 吉祥寺稽古場に至る吉祥寺通りのわずか200メートルの間でさえ、美容院が十数軒、妍を競って軒を連ねている。別に髪結い横町というような、特別な場所なわけではない。
 しかし、それらはすべて、今様のニーズにお応えになっているという点で、私には無縁の美容院なのだ。今日的な美容院で、うっかりカットしてもらうと、自分でアップにしたときに全然まとまらない。
 心得のある美容師さんにカットしていただくと、梳いてあろうが段がついていようが、キチンとまとまる切り方をしてくれた。そしてその上、洋装のときでもしゃれて見えたものだったのだが…。

 21世紀になってここ10年ほどというもの、美容院、ビューティ・サロンの傾向はエアリーなカット、ということで、カットの技術を先鋭化させることに腐心し、髪を結いあげる技術というものが廃れてしまったのだ。
 カラーが退行したら部分染めだけしてくれるとか、シャンプーにアロマが、とか、マッサージがうまい、とか、リラクゼーションタイムという点では、本当に素敵な美容室ばかりなのだが、違う。ワタシのと違うんだなー、これが。

 以前私は、大変腕のいい美容師の先生を知っていた。何の変哲もない住宅街の昭和な美容院だった。何より手早く、すべてお任せで、私の顔に合うように、前髪の上げ具合から、左右のサイドの膨らみのまとめ方といい、すべて可笑しくないようにしてくれた。
 人それぞれ、鬢の膨らませ方と髷のトップの来る場所が、その人の顔の形に合う場所というのがあって、それがちょっとでも違うと、ぜんぜん違って、ヘンになってしまう。
 それを30分程度で、パパッと結い上げてくれるのだ。まさにプロ。この、何の気なしにアップができる腕、というものは、もはやたいへん貴重な技術なのである。

 …しかし、その美容院の先生は、ある年、今度二世帯住宅に建て替えて、孫の面倒を見るから…アタシももう、来年で七十なんですよ…とおっしゃって、引退してしまった。

 そうして、私の流浪の旅が始まった。
 この、大仰でなく程よくまとめて、自分の顔の形に合ったように結い上げてくれる美容師さんを求めて、幾年月。私はあちこちを彷徨った。
 そういう技術を持った美容師さんは絶滅種なので、商店街のしもた屋風のビルの、階段を上がった二階にあったりする。…女が階段を上るとき。昭和なのだ。
 でもやはり、そういう前時代の価値観で成り立っている業態のものは、やっとの思いで探し当てても、ほどなくお店自体がビルの建て替えで立ち退き…というような悲しい別れに至り、再び私は、旅を続けることになるのだった。

 しかし、気をつけなければならない。あるとき、お店の名前が○×美粧院とかいうので、よしっ!と思って入ったら、パーマをかけられすぎて、サザエさんのようになってしまった。
 あれは漫画だからいいわけで、現実に自分の頭がああなったら、情けないもンですョ…正月早々気が滅入ることこの上なかった。
 …まあ、髪の毛は、直しがきくからいいんですけどね…。

 いまどきの美容師さんはアップもそつなく手早にやってくれるのだけれど、違うのだ。洋服や浴衣には合うのかもしれないけど。外国から見た日本の国を紹介する教科書に載ってる人みたいになっているのだ。スターウォーズに出てくるお姫様とか。
 それでは、黒紋付に合わないのだ。
 さて、私、どこの美容院へ行ったらよいのでしょう…美容院を求めて三千里。

 ……とか悲観的になっていたのが、今年の梅雨時。「髪結新三」なんてお芝居が観たくなる時分でしたが、ありがたいもんですねぇ。
 おとつい、いつものように美容院探訪に出かけて、初めてのお店で結い上げてもらったら、あにはからんや…というよりも、案の定、やっぱりスターウォーズのような、頭を扁平な棕櫚団扇で挟んだような、仏さまのような髪形にされてしまった。
 それでいつもは自分で直していたのだが、ちょっと心持ちを替えて、翌朝、なでつけし直してもらったときに、昔の(といってもほんの10年前なんですが)着物の本を持って行って、さらに、やってほしい髪形のポイントを図解した。

 考えてみたら、ここ10年ほどの着物雑誌の髪形も、今風に変化していて、若い美容師さんは、古典的な髷のフォルム…われらが美しいと感じる価値基準を知らないのだ。

 後生畏るべし。
 やっぱり、現代っ子の年若い美容師さんでも、餅は餅屋。本職さんだ。私の望むところをたちどころに理解し、サラリとやってのけた。感動した。
 美容師さんには「カントク、これでどうです?」とか言われてしまったが、いやー、嬉しかったですねぇ。

 日本の文化を担う技術者がいなくなったと嘆いてばかりいないで、老人たちには育てる義務があると、痛感した。
 若い才能は、それを体得するだけの可能性を秘めている。


追記:この記事を読んで下さってか、吉祥寺の美容室で、
古典芸能業界の髪型にアップしていただけるお店をご紹介いただきたい、というご連絡を頂いた。
申し訳ないことに、本稿でご紹介した美容師さんは、この記事の2、3年後に産休で退職なさり、
その後私もこの美容室には伺わなくなってしまったので、ご期待に沿えないことをここにお伝えいたします。
あしからずご容赦くださいませ。
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忌地(いやち)

2010年06月25日 09時30分50秒 | 凝り性の筋
 先日、所用で琵琶湖西岸北部へ赴き、そういえば…と思い出して、海津の浦を訪ねた。義経一行が、奥州落ちの旅路のはじまりに、月の都(京)を発ち出でて、舟で渡りついたところである。「竹生嶋」という地酒を商っている蔵元のご主人が、「義経の隠れ岩」がある、と教えて下さった。
 おぉ、近江の地にも義経の隠れ岩があったのか。以前、屋島を訪れたとき同名の岩が海岸にあった。いや、あれは「義経の舟隠し岩」だったかしら…。とにかく、義経はよく隠れる人なのだ。あんなに活躍したのに、可哀想に。…もっとも、屋島のときは戦略上のことで、溌剌として隠れていたのであろうから、状況がずいぶん違うけれども。イタリアも負けちゃうし、栄枯盛衰は世のならい、ってことなんでしょうかね。 
 その酒屋さんには「ヨキトギ」というお酒もあった。ご主人が「よき」は上代語で「斧のことです」とご説明くださったので、おお、よきこときくですね、と言ったら、「犬神家の一族ですか」と切り返された。さすが湖西の旧街道沿いで蔵元をやっていらっしゃるだけあって、歴史に造詣の深い、お話の面白いご主人なのだった。
 蛇足になるが、斧琴菊の本来は、歌舞伎の尾上菊五郎のキャラクター文様である。

 浅井三姉妹の次女・初が嫁した京極高次も居城としていた大溝城へ至る道が分からず、どうにかこうにかそぼ降る雨の中を辿りつき、途上の地名のいちいちに戦国武将でおなじみの土豪の氏を見出しては感動しつつ、朽木渓谷を越えてゆけば、北近江に隣接する町々一帯のところどころに、すでに来年の大河ドラマのヒロイン・お江の関連商品が置かれていた。
 高島市の菖蒲園へ行ってみたところ、花菖蒲を株分けして売っていた。旅先で植木や花の美しいのを見ると、つい欲しくなってしまう。後先のことがあるのでいつも諦めていたのだが、珍しく買ってみることにした。
 園内をざっと観たところ、三笠山という肥後系の花菖蒲の濃き紫が実に美しいので、求めると、この売り場に置いてあるのは咲いてみないと分からない、すみませんね…という、鄙らしい長閑な話だった。開けてみないと分からないとは、博打みたいなもんですね、こりゃ。酔狂だからのってみるか、と、葉っぱの威勢よく四方に思い切りよく伸びている株を選んだ。

 さて、近江の菖蒲を江戸に移して数日。若緑の花芽は徐々に花弁を顕かにして、蕾の端から顔を覗かせていたのは紫色だったが、花開いてみると、二藍(ふたあい)とでもいおうか、薄い紫のような、浅黄色というか、裏はまさに花色木綿。薄い花色、水色なのだった。
 お手本のような紫色を期待していた私にとっては意表を衝かれたことだったが、これはこれで清々しく、美しい。梅雨空に時々のぞく、雲の晴れ間の淡い空色みたいで、いいじゃないの。わがものと思えば軽し笠の雪、ってなもんですョ。
 そしてまた、なんとまぁ間のよいことに、次の日曜日の朝、偶然テレビをつけたところが、NHK「趣味の園芸」で花菖蒲特集をやっている。これぞまさしく渡りに舟。
 明治神宮の菖蒲苑から、花菖蒲の種類、育て方から管理の仕方まで、懇切丁寧にレクチャーしてくださり、私は園芸科一年生の真剣な面持ちで、放送に見入った。
 明治神宮で栽培されていた三笠山は、濃い紫ではなく薄紫だったのも、新発見。近江の地と江戸の地で、当然土壌の性質が違うから、色の出方も違うのかなぁ…。

 それにしても六日のアヤメ、とはよく言ったもので、きれいに咲いたなぁ…と嬉しく見とれていると、咲いた翌日ぐらいまではもっているのだが、三日目には花弁の先が丸まって、すぐにしぼんでしまう。…三日天下??
 しかし、驚いたことに、菖蒲は一茎に一輪限りではないのだった。その花のすぐ下脇に、もう一つ花芽が、蕾というより、花芽と呼びたいような、茗荷の花苞の様な形をしている花芽があるのだった。…柏の葉のようだな、と思った。新しい葉が出てから古い葉が落ちる柏は、そんなわけで、家代々累代栄えるめでたい植物として好まれる。
 同様に、菖蒲の花は、ひとつが萎れても、お次が控えているのだ。これはまた、武家っぽい話ではないか。

 こうして日々仔細に菖蒲を観ていたら、「武士道残酷物語」を想い出した。南條範夫の残酷ものが流行って、次々と映画化、舞台化されたのは昭和の三十年代だろうと思う。私は昭和六十年ごろから、自分が生まれる以前に制作された日本映画黄金期の作品群の魅力にすっかり取りつかれて、むさぼるように観、原作本を読んだりしていた。
 南條範夫原作の『第三の影武者』は市川雷蔵が主演なのだが、影武者が、武将本人が負傷するにつれ同様に身体を損傷させられていくという身の毛もよだつストーリー性に驚愕して、通常のカリスマ的雷ちゃんキャラは影をひそめ、市川雷蔵を観た、という印象よりも、南條範夫の残酷もの映画、なのだった。
 歌舞伎では『燈台鬼』というのがあり、私が平成ひとケタ時代に歌舞伎座で観たのは、先代松緑の追善興行で、当時二代目辰之助だった当代松緑が演じた。彼の地で行方知れずになってしまった遣唐使のお父さんを探す主人公。奴隷として売られた父は、生きながらにして宮廷を彩る人間燭台にされていた。
 …人間の尊厳、という根本的な命題を突きつけられ、観客はただただ打ちのめされる話なのである。このとき、紀尾井町親子の逆縁に思いを致し、物語を梨園の孤児的立場になっていた新旧二代の辰之助の身に置き換えて、観客はさらに泣いた。

 この芝居を観たとき、久生十蘭の全集の中にあった、世界残酷物語ともいうべき一連の作品群を想い出した。読む者は衝撃の滂沱の涙で、文字の後先が見えない。…もう目が見えぬ…という、太功記十段目、瀕死の十次郎的状況だ。
 そんな物語が流行ったのが昭和の三十年代で、たぶん、戦争が終わって十年以上経って、そのときのことを思い起こす気持ちのゆとりが多少、高度成長期を迎えようとする日本に訪れたのだろう。戦争中の、自分の存在を脅かす慄然とする衝撃を、虚構の世界のものとして体験する。現在の現実ではなく、過去のものとして安堵しながら、映画館の暗闇の中で反芻してみる。

 ところで、菖蒲の咲き誇る姿を観るにつけ、この剣のような鋭角的な性質は、やはり関東のものが好んだような気がする。杜若…琳派のカキツバタは、なんとなく京風で姿が優しい。丸みを帯びた曲線で図案化されている。色も高貴な紫一色。三河は池鯉鮒の八橋とともに描かれている風雅の極みとでもいうべきあの植物も、カキツバタだ。尾形光琳の燕子花図屏風もあった。
 …燕子花。たしかに、燕のヒナの、親鳥が餌を銜えて戻ってきたとき、巣の中で大きく嘴を開けて、まだ羽根の生えない上肢を折り曲げてピヨピヨ叫んでいる姿に、花の形がそっくりだ。…こういうと、ちょっと世話場な感じもしますけれどもね。

 それから、思わずメモしてしまったのだが、趣味の園芸の先生のおっしゃっていたことには、菖蒲には忌地性という性質があり、ずっと同じ地べたで育てているとうまく育たなくなってしまうらしい。へえぇぇぇ…。だから、何年かしたら、新しい土に入れ替えるとか、近くてもいいからちょっと違う場所に植え替える必要があるそうだ。
 …ううむ、これもなんだか武将っぽい。替え地をさせられたり、新しい領国を求めたり。スーッと伸びた茎と葉といい、わずか一両日咲いてしおれる花質といい、潔すぎる。
 菖蒲=尚武=勝負、という単純な図式だけではない、武運長久を祈念するに、菖蒲が好まれる理由が、その性質にもあるように思う。

 花菖蒲に、ある意味、明治以降につくられた幻影ともいうべき、武士道のお手本のような中世期の武将の姿を見た。…そして、引っ越し魔ともいうべき、葛飾北斎のようなその気風に、江戸っ子ウケする気概も感じた。
 上方はカキツバタ好みで、菖蒲は江戸好み。古今集の歌で「五月のあやめ草」と、ことさらにことわっているからには、これはやはり旧暦四月に咲くアヤメ・カキツバタのことではなく花菖蒲のことなのだろう、と、ひともとのあやめ草から想いはさらに株分かれしていくのだった。

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条件反射的メロディ

2010年05月23日 23時20分03秒 | 凝り性の筋
 昭和の終わりの深くなりつつある秋の日に、友人が若くしてこの世を去り、その訃報を聞いた日に、私は一日中、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いていた。
 その友人は下町生まれで、学校では近世文学を専攻していた。とくに『醒酔笑』など、江戸のお笑いについて研究していて、電車の中で謎かけをしたりしていた。当世流行の「なぞかけ」であるが、そのころは、何年かごとにやってくるお笑いブームの狭間のような時期で、世間にははばかられる、ちょっとシブイ遊びだった。
 友人は地下鉄銀座線をこよなく愛していたが、その当時の車両が、次の駅に着く直前、電流のスイッチの切り替えか何かで、車両のランプが一瞬全部消えることをたいそう嫌がっていた。今、銀座線には、そんなタイプの車両はもう走っていない。
 そんなわけで、メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルトを聴くたびに、私は街路樹の木の葉が風に渦巻いて飛んでいく、秋のあの日が思い浮かぶ。そして、ねづっちが「整いました!」と言うたびに、あの車中での謎かけ遊びと、瞬間的に点滅する電光に、シルエットになった友人の横顔を想い出す。

 降る雨に打たれたように、心も体もしんなりと疲れた夜。家路を辿るときに聴きたいのがマーラーの交響曲第5番である。
 あのメロディを、いかに明るく健康的な初夏の陽光の下で聴こうとも、目の前には、すぐさま、ベルベットのカーテンやソファ、レースの襟飾り、紫煙、琥珀色のブランデーグラスと氷が触れる音のする、薄暗い室内が広がる。
 ヴィスコンティ「ヴェニスに死す」のせいばかりとはいえない。私の瞼の裏には、トーマス・マン『魔の山』が映画化されたときのBGMもこの音楽だったような気がするし、三島由紀夫『豊饒の海』も、夢野久作も江戸川乱歩も、あの、たゆとうようなメロディのうねりに、のみ込まれていく。
 20世紀前半、世界中を暗雲で覆った二つの大戦の狭間の、明日なき者たちの、あだ花のような空虚な繁栄と絶望感。ドイツ第三帝国やら、栄耀栄華を極めたものたちが終焉する前夜の、貴族の館を彩るのが、マーラーの交響曲5番なのだ。
 退廃的な、すべてを諦めたような、いいんだ、このまま崩れていこう…というような没落志向の、脱力状態、気力のなさを許してくれる、ありがたい曲だ。
 誰しもヘタレ込むとき、激励の言葉を聞きたくないほど疲れきって、心神耗弱の瀬戸際にあるとき、そのまま崩壊していくことを容認してくれる、マーラーの第5番が必要なのである。
 堕落と退廃をうっとりと官能的に肯定してくれる。…この管弦の甘やかなメロディの谷間に落ち込んで、崩折れて朽ち果てることをにっこりと、受け入れてくれる。いいじゃないの…とことん墜ち込んでそのまましばらくしていると、何となく、生まれ変わったようになって、明日に立ち向かっていこうという、勇気が湧いてくるから不思議だ。

 先日、父君を亡くした友人の激励会で、堺正章「街の灯り」を歌った友人が、ぽつりと、やっぱりこの曲がダメだ、いちばん泣ける…と呟いた。
 一番泣ける曲…。条件反射なのに、無条件でいちばん泣ける曲。
 それは私にとっては「埴生の宿」である。もう、イントロの、三音目ぐらいで泣いている。あのメロディが流れてくると、「みずしまぁ…、いっしょに日本へ帰ろう…!」という内藤武敏だったか、三國連太郎だったかの兵隊さんたちのセリフがかぶさってきて、もはや私の平常心は修復不可能。これはすべて、『ビルマの竪琴』、そして故・市川崑監督のせいである。リメイクされるたび、CMが流れるたびに、それだけでもう、涙腺が決壊していた。
 芸のためでも何でもなく、私を泣かすには玉ねぎもいらず、埴生の宿が三音あればよいのであった。
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