むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

椎谷陣屋(新潟県)

2021年10月29日 | 陣屋・館
椎谷陣屋しいやじんや
別名
構造陣屋
築城者堀直央
築城年代1715年(正徳5年)
指定史跡県指定史跡
場所新潟県柏崎市椎谷2074 地図

椎谷陣屋は江戸時代に椎谷藩が設けた陣屋で、藩祖の堀直之は江戸町奉公や神社奉公などの重要な役職に就いた
歴代の藩主も若年寄や大番頭、秦者番などの要職を務めています。
当初は、超願寺を仮陣屋としていましたが、椎谷に陣屋を設け五代直孝の時代に現在の地に移りました。
陣屋は慶応4年5月に戊辰戦争で水戸藩の浪士によって焼失、残念ながら当時の建物は残されていません。



北国街道

国道352号線(北国街道)沿いにある椎谷陣屋跡入口です。
江戸時代に天領の出雲崎から信州を経て江戸へ佐渡の金銀を運んだ重要な道でした。


大手門跡

東屋のある辺りにかつて大手門がありました。


案内看板

車道から入ってすぐに案内看板が設置されています。


東屋

この東屋のある場所に大手門がありました。
東屋の中には椎谷陣屋や馬市などの説明などが掲げられています。
まずはここでパンフレットを入手して散策へと出かけましょう。


陣屋入口

こちらの階段を登って陣屋へと入ります。



この草の生え具合、あまり歩いた感じがしない。


虎口

登りきったところに表門があったようです。


表門跡

土塁の上に看板があります。


砲術稽古場

表門から入ってすぐに砲術稽古場跡があります。
看板の周囲までは草刈りがされていますが、砲術稽古場は見渡す限り藪です。


馬場跡

ここも看板は確認できますが奥の方は藪になっています。


案内看板

立派な看板があります。
寄贈者を見ると、椎谷堀家22代目の方です。
しっかり陣屋の遺構を守られていらっしゃるんですね。


縄張図

これを見ると周囲に土塁が残っていると想像出来ます。
その部分は草に覆われて、近くで確認することは出来ませんでした。


藩邸跡

先ほどの看板の図と神社の位置が違っているようですが
この神社の右側にある石碑のあたりが藩邸だったようです。


石碑

椎谷陣屋の歴史を物語る石碑がある、この付近に藩邸があったようです。


虎口

搦手側の虎口です。
虎口から出たところに武器蔵跡や長屋跡があるのですが
現在民家が立ち並んでいるので撮影は遠慮致しました。


役所跡

武器蔵から階段状になって郭があります。
役所跡には民家が建っていません。


長屋跡

海とは反対側に下りきった平地が長屋のあった場所です。
長屋は藩士の居住区で、海側を除く三方に陣屋を取り巻くように上級藩士のが置かれていました。


武家屋敷跡

道路の左手の低い方が武家屋敷跡になります。
この道を進むと廻り込んで大手に出ます。



大手から入ったので、戻って搦手から出ようと思います。
ここをまっすぐ登って行くと裏門(搦手)へ出ます。


裏門跡

内側から見た裏門跡です。
海が見える見晴らしの良い場所です。
つまり、下から登って来る人が良く見える場所でもあります。



外から見た裏門跡です。
左手に見える民家のある場所が武器蔵跡とされる場所です。
ここで敵が見えたら、すぐに武装出来そうですね。


搦手口

下ってみると、国道(北国街道)へ出て来ました。


椎谷の馬市跡

搦手入口には「史跡 日本三大馬市椎谷の馬市蹟」の碑があります。
初代藩主が良馬育成と馬匹改良を奨励し、農民に種馬を貸し与え駿馬を買い取っていました。
その後、一般にも馬の売買が許されると椎谷の馬市が開かれるようになりました。
安芸の広島、奥州の白河、そしてここ椎谷の馬市が「日本三大馬市」と言われています。


馬市居小屋

道路の両側の民家や海岸の砂浜などに馬を繋ぐための柵や小屋が設置され、
北は青森、南は愛知から馬の売り手と買い手が多い時は1万人も集まったと言います。


遠景

少し離れたところから見ると、丘陵地に造られた椎谷陣屋の姿がよく分かります。


椎谷は戦国時代に守護代長尾為景と関東管領上杉顕定が戦った地でもあり、
軍事拠点としては重要な場所でした。
今は穏やかで、平和ボケしている私には海がきれいだなあなんて呑気な考えしか
出来ませんでしたが、形が残っていることで改めて考えさせられることも多いです。
新潟は陣屋跡が数多く残っているので今後も足を運んでみたいと思っています。


令和3年7月18日訪問


今回の参考本



勝山城(新潟県)

2021年10月20日 | 百名城以外の城
勝山城かつやまじょう
別名滝谷城
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡村指定史跡
場所新潟県刈羽郡刈羽村滝谷 地図

勝山城は、日本海側から攻撃して来る敵に対して構築された山城で、
詳細は不明ですが、野呂一伯の居城であったと伝わります。
没落後は佐々木氏の一族である竹俣氏が在城するとところとなりましたが
その後は上杉氏の番城となり、斉藤下野守朝信の居城であった赤田城の支城となりました。



駐車場

城址散策路入口には、駐車場も備えられていて気軽に行ける山城です。


散策路

駐車場から車道を渡り、散策路へと入ります。
遊歩道になっているので整備もされていて歩きやすくなっています。



朝の涼しい時間帯を狙って散策です。
このように整備されています。



途中、別れ道がありますがとにかく城址を目指します。


堀切

堀切が見えて来ました。
ここまで来ると、辺りは山城らしい景色になっています。



もうちょっとで、頂上へ出るようです。


主郭

主郭に到着です。
途中蜘蛛の巣はあるものの、夏でもここまで楽に訪れることが出来ます。
但し、遊歩道を外れると藪です。


ミニチュアの城

なんと、こんな山城に天守のある城があるではないか!
な~んて、実はこの「ミニチュアの城」が見たくてやって来たのです。
写真だと大きさがいまいちよくわからないので、実際にみてみたかったのです。



本当は、もっと小さいんじゃないかと思っていました。
そして、大きな天守に見せる写真の撮り方が出来ないかなあと思っていろいろな角度からトライしてみました。
…が、私にはそのような腕はなかったようで、見たままの大きさでしか写真に収めることは出来ませんでした。
ブログをご覧に皆さんを騙したかったのですが残念。
まだまだ未熟者です。


案内看板

斎藤氏、野呂氏と言えば、群馬でも馴染みの一族です。
繋がりのある人物ではないかと想像してしまいます。



ここから、日本海を望むことが出来ます。
とにかく海が見えるのが羨ましいです。


眺望

佐渡も見えるらしいですが…霞んでいてわかりません。
心の目で見てみて下さい(^^;



西側の下段に郭が見えるので行ってみましょう!


公園

キリンとリスとウサギの遊具があります。
キリンの滑り台で遊んで行こうかしら…お尻がハマってしまいそうなのでやめておきました。
というか、子供でもここで遊ばないかな。。。



朽ちた鉄棒やブランコの放置よりは
遊んで欲しそうな眼差しで見ているリスさんの方がまだ許せるかな。



再び主郭へ戻って来ました。
周囲に小さな郭があり、いくつか小道もあるのが確認出来ましたが
覗いてみると、やはり藪で突き進む気力もなく引き返して来ました。



当時も使われていたかどうかわからない道。
郭の破壊を避けて遊歩道にした道なのでしょうか。
そろそろ主郭を後にしてここを去ることにします。


サクッと行って来られる山城です。
天守?もあって、海も見られて初心者には良い山城ですよ。
こういうところから山城体験はじめると良いかも。
そして、藪の中の郭散策は上級になってからのお楽しみということで。。。


令和3年7月18日登城





ラジオ塔(前橋城)

2021年10月18日 | ラジオ塔
名称旧ラジオ塔
城址前橋城(北の空堀跡)
設置者NHK・東京電燈(東京電力)
設置年代1933年(昭和8年)
指定史跡国登録有形文化財
場所群馬県前橋市大手町3-16-3 地図




前橋市中央児童遊園(るなぱあく)



旧ラジオ塔



案内看板





春日古城(長野県)

2021年10月18日 | 百名城以外の城
春日古城かすがこじょう
別名美篶の春日城・大島城
構造丘城
築城者春日河内守昌吉
築城年代1492年唐~1500年(明応年間)
指定史跡
場所長野県伊那市美篶上大島3758 地図

春日氏は室町時代より高遠城に属していました。
後に伊那部の春日城へ移ったとも言われています。
天正年間に、武田勝頼の命により高遠城の城主となった仁科五郎信盛(武田信玄の五男)が、
武田征伐にやって来た織田の大軍と対峙、仁科五郎信盛に従っていた春日河内守昌吉は
激戦の中で討ち死にしました。
春日河内守昌吉は忠臣十七士のひとりとして名を残しています。



天神広場

信州伊那アルプス街道から円応院へ向かって南に入った突当りにある天神広場が
大島城(美篶の春日城)跡です。
この道もかつては城址から見て北側の堀になっていたものです。


駐車場

ゲートボール場になっていたようで、広場日は数台停められる駐車場もあります。
かなり低いが、土塁の名残も見られます。


天神ひろば

大塔合戦に参加した武将の中には大島河内守の名が見え、
戦国期、大島氏の居城であったことが窺えます。


堀跡

現在は埋め立てられてますが、東側の空堀跡です。
この堀は南側にある参道へと落ちています。(写真はピンボケになってしまったのでまたの機会に)


土塁

北西に残る土塁。
この西側には堀切もあります。
かつてはこのような土塁が全周していたと考えられています。


案内看板

稲荷社の脇に案内看板があります。


稲荷社

稲荷社には春日氏の氏神である春日社が合祀されています。
現在も子孫の方々でお祀りしているという。


円応院

城址の麓には元亀3年開基の円応院があります。
ここには城主の位牌が安置されています。



たまたまこの道を通って別の場所へ移動をしようとしていた旦那。
ピンポイントにこの場所に向かって信州伊那アルプス街道から脇道へ逸れたので、
私はここの城址があることを知っていて、この城址目指して来たのかと思ったのですが
通り過ぎようとしたところ、「ちょっと待ったあ!!」と急遽登城となりました。
周囲は既に薄暗く、私の苦手とする夕刻の撮影となりピンボケ写真ばかり。
案の定、堀切の写真はひどいものでここに掲げられるものではないので
今回はお話のみに留めておきました。またの機会に。。。


令和3年10月10日登城


今回の参考本



雑賀崎城(和歌山城)

2021年10月11日 | 百名城以外の城
雑賀崎城さいかざきじょう
別名
構造山城
築城者雑賀孫市
築城年代1573~1592年(天正年間)
指定史跡
場所和歌山県和歌山市雑賀崎 地図

雑賀崎の西南で、紀州の青石とよばれる結晶片岩が海岸に露出した断崖絶壁で、
鷹がこのような絶壁の岩穴に巣をつくることから「鷹の巣」とよばれています。
この崖の下に「上人の窟」とよばれる洞窟があります。
1580年(天正8年)に、教如上人が織田信長との石山合戦に敗れ、
大阪の石山本願寺から紀州の鷺ノ森に逃れ、その後、和歌浦から舟でこの洞窟にたどり着き、
隠れて難を逃れたと伝わります。



雑賀崎漁港

まずは雑賀崎漁港へやって来ました。
正面に見えている緑地が雑賀崎城跡と伝わる場所です。



雑賀崎漁港の駐車場から見た雑賀崎城跡です。
こちら(海)側から登るのは今も昔も無理というもの。
という訳で、ここでは下から見上げて別のルートで灯台の所まで行ってみたいと思います。



堀切のようなこの交差点で左に曲がります。
上に見える橋がひとつのポイントになるのですが、そもそも雑賀崎城は伝承の城で解明されてはいないので
これから行く雑賀崎灯台のある鷹ノ巣と呼ばれる場所に雑賀崎城があったのかどうかは不明なのです。
そして、もうひとつの雑賀崎城のあった場所と推定される場所が、この頭上の橋を渡った先にあります。
雑賀崎小学校があった場所ですが、今は空地になっています。(現在小学校は別の場所に移っています)
車で行ける場所ではないようなので今回は確認に行っていません。


雑賀崎灯台

多くの方がこちらの鷹ノ巣と呼ばれる場所が雑賀崎城跡と認識されているようなので
灯台目指してやって来ました。
この日は晴れていてとてもきれいな海を眺められて最高でした。


案内看板

看板を見て真っ先に「織田信長」の文字が目に飛び込んで来ました。
教如上人が石山本願寺を追われて雑賀孫市が匿ったとされる
「上人窟」と呼ばれる洞窟が崖下にあるようですが、残念ながら道が荒れて現在は行く事が出来ません。


鷹ノ巣

灯台の脇には、昭和35年3月31日に和歌山市が観光用の展望施設を整備した
記念の場所があります。
海上保安庁が灯台も設置しています。


展望広場

瀬戸内海国立公園の入り口にあり、紀伊水道に沈む夕日も観賞できる景勝地として
日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」として平成29年4月に文化庁から認定されています。



紀伊水道に寄せる波や、海面に映る夕日をイメージしたデザインになっているとのことです。
そして奥に霞んで見える陸地は四国方面で淡路島です。
江戸時代には番所ノ鼻に置かれた遠見番所が、この鷹ノ巣に移され、
番所ノ鼻(番所庭園)には異国船監視の台場が築かれていました。


鷹ノ巣遊園

かつて観光施設があったのですが、「たかのすセンター」というカフェになっているようです。
駐車場は有料で500円です。(カフェで使える200円券付き)
この先が城址らしいのですが立ち入り禁止になっているのでここで入城は断念です。



城址の方は立ち入り禁止になっているので、灯台から眺めてみることにしました。
そもそも遺構はないということなので藪漕ぎするよりこの方が良かったのかも…。



灯台から北側を眺めると、番所庭園(元番所台場)と雑賀崎台場(カゴバ台場)が見えます。
番所庭園(元番所台場)は鉄砲付の防備で、現在トンガの鼻と呼ばれる場所にある雑賀崎台場(カゴバ台場)は
石垣の上に土塁が囲み「のろし場」の痕が残されています。


番所庭園

ズームして庭園の様子を見てみると、海に浮かぶ庭園なんてそんなに無いでしすよね。
これは行ってみたくなりますよ。
時間はあまりないですが、ちょっとだけ!ということでいってみることにしました。
(記事は別枠で紹介します)



番所庭園側から鷹ノ巣を眺めてみました。
確かに鷹が住みそうな立地ですね。


雑賀崎城…調べ始めたら城址の場所について灯台のある鷹ノ巣なのか、旧小学校跡地なのか、
はたまた、城そのものがあったのかどうかもわからなくなってきてしまいました。
これについては引き続き調べて行きたいと思っています。
灯台へ行く途中にあった灰干しさんまのお店がとても気になりお取り寄せをしました。
こちらも後日報告したいと思っています。
それにしても天候に恵まれたので、とてもきれいな海を眺めて良い時間を過ごすことが出来ました。
とても心霊スポットとは言い難い癒しのスポットです。


令和3年7月31日登城