むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

南条毛利館(新潟県)

2021年08月26日 | 陣屋・館
南条毛利館なんじょうもうりやかた
別名南条古城・南条館・佐橋荘南条館
構造平山城
築城者毛利氏
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所新潟県柏崎市南条834 地図

鎌倉時代、源頼朝の重臣である大江広元の孫にあたる毛利経光が
越後国佐橋荘南条に移り住み、四男時親を安芸国吉田庄を与え分家しました。
安芸国の毛利氏と言えばとても有名ですが、その毛利元就のルーツがここであることこが
佐橋神社の境内にある石碑に刻まれています。




丘を登りきると、館があったであろう平地があります。


毛利氏供養塔

わりと新しめの毛利氏供養塔があります。


毛利家供養塔建立の趣意

関氏は、鎌倉時代に佐橋庄を支配した毛利氏を多くの人に知ってもらいたいと
この供養塔を建立しました思いが記されています。


佐橋神社

鎌倉時代、この丘に佐橋庄の地頭毛利氏の館がありました。
子孫は各地に分散し、この地に残った一族は南条氏と言い上杉氏に仕えていました。
(経光の子孫はそれぞれ北条、安田、石曽根、善根の毛利氏となっています。)


石碑

石碑を見て驚いた。
毛利氏と言えば安芸だよなあと思っていたのがぶっ飛んだ瞬間です。
そうだったのか…。


神楽

柏崎では越後国守護上杉房能の自刃後、この地へ逃れて来た妻の綾子によって
古くから舞や狂言など郷土芸能が伝承されています。
佐橋神社でも春季大祭には里神楽や子供神楽が奉納されます。


本堂

1598年(慶長3年)に廃城となりましたが、江戸時代になって城址を保護するために
館跡に佐橋神社が建立されました。
また、佐橋神社と呼ばれるようになったのは慶応年間になってからのことです。


参道

杉並木の間にある道が、佐橋神社へ参拝するための参道です。






佐橋神社石碑

石段を登り切った場所に佐橋神社の石碑があります。


石段

本来は、ここから石段を登って参道を通り、
神社へお参りするというのが道筋なのですね。


妙姫庵跡

ここは妙姫庵があった場所です。
1844年(弘化元年)藍澤南城の妹佐和47歳が出家して玄妙と名乗り、妙姫庵を開いた。
玄妙・妙真・貞順・厚順・良仙・仙宗が在庵し、通称観音堂と呼ばれた。
1971年(昭和46年)以降に仙宗が小出に去り、廃庵となる。


いにしえロード看板

このような説明の書かれた看板がいくつかあります。
南条毛利館跡では「⑤毛利氏の城館址と佐橋神社」・「⑥妙姫庵跡」・「⑦城址殉難者碑」をみつけました。



城址殉難者碑の看板には佐橋神社の境内から出土した頭蓋骨が
毛利経光のものではなかとも書かれています。
もちろん、断定されたことではない話なので期待は膨らみます。


虎口

堀跡?と思ったのですが、どうやらかつての虎口らしい。





ごぼう庵

日曜日と月曜日だけ営業している農家カフェ。
廃寺をリノベーションしているとのことで建物の造りも見て楽しめそうですね。


安芸の毛利元就ルーツが柏崎にあったとは、驚きました。
毛利氏はずっと中国地方の一族だと思っていたので以外だったのと、
私が無知だったので、元就の祖先は柏崎だよという話があまり聞こえて来ないのか、
これは、もっと大きな声で主張しても良さそうなことだよ!
と思ってしまいました。
でもこれって、毛利氏が好きな人にとっては当たり前の知識なのかな。
ほんと、歴史って、知れば知るほど面白い。


令和3年7月18日訪問





琵琶島城(新潟県)

2021年08月18日 | 百名城以外の城
琵琶島城びわじまじょう
別名宇佐美城・枇杷島城
構造平城
築城者宇佐美氏
築城年代南北朝時代
指定史跡市指定史跡
場所新潟県柏崎市元城町 地図

琵琶島城は、鵜川が大きく蛇行した地形を生かして築かれた平城です。
かつては、周囲を高さ2〜3メートル・基底部4〜5メートルほどの大土塁が囲み、
東に大手・西に搦手の虎口などの遺構も残っていましたが、近年の河川改修や
農地改良、農業高校の建設などによって、多くの遺構は失われしまいました。
琵琶島城が築かれた起源は不明ですが、江戸時代に廃城となっています。



柏崎総合高校

高校の敷地内に城址碑があるということなので、職員室に一声かけて
見学させていただきました。
ちなみに、この辺りに大手門があったのかなあと推測します。


開学之碑

先生がこちらの碑も見て行ってね!とおっしゃったので
覗いてみたら、「開学之碑」でした。
学校にとっては大事な石碑ですよね。
近くで碑に刻まれている文字を見ようと思ったら、立入禁止になっていたので
ここからの撮影だけにしました。


駐車場

まるで見学者のための駐車場とも思えるスペースがあったので
車はこちらに置かせて頂きました。
ちなみに、この道路が昭和初期まで
土塁が残っていたという場所ではないでしょうか。


標柱

城主は上杉謙信の軍師とされる宇佐美氏という説があります。
元々は伊豆国を本拠としていた宇佐美氏は、
南北朝期に祐益が越後に入部し、近世まで活躍が知られています。


城址碑

御館の乱では琵琶島城主に琵琶島善次郎や前嶋修理亮の名前が見られ、
上杉景虎方として戦った琵琶島善次郎がその名の通り、
琵琶島城の城主であったとい考え方もあります。



鵜川の蛇行部分に出来た勝島と呼ばれる場所に本丸、
福島と呼ばれる場所に二の丸、そして
琵琶島に三の丸が配されていて、各郭は周囲よりも高くして
単独の要害としていました。



遺構は残されていないというものの、何か残ってないかなあと見渡してみました。
なんとなく土塁?と期待したくなるような土盛りが畑の中にあるのですが
期待し過ぎですかね🤣(ただの畑)


橋の名前や信号機にある地名なんかを見ると、城に関わる名前が見受けられます。
土地改修されて遺構は残ってなくても、地名として残されているんですね。
あるいは、もっと時間をかけて周囲を散策すれば、何か残っているものが
発見できるのかもしれませんね。


令和3年7月18日登城


今回の参考本



岩野城(新潟県)

2021年08月16日 | 百名城以外の城
岩野城いわのじょう
別名水無城
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所新潟県柏崎市土合 地図

岩野城は日吉小学校より北側に位置する八王子神社を配する丘に構築されています。
その歴史の詳細は不明ですが、郭や土塁、堀跡らしき遺構が残されています。



案内看板

八王子神社の入り口に2台ほど車が停められます。
史跡 戦国期 岩野城跡と記された看板が立っています。



ここを登ったところが神社の境内で、岩野城の郭になります。


鳥居

階段を登り切ったところに朱色の鳥居が立っています。
まずはいつものように参拝からです。


八王子神社

郭の中央には、こじんまりとした八王子神社が祀られています。


土塁

神社の背後には土塁があります。
この更に奥にも城域が続いているということだったのですが
この時期なので、ちょっと覗いて侵入を断念しました。
蜘蛛が大嫌いなもので…💦
※いつも蜘蛛の巣払いの足軽先行隊は旦那に任せています😅😅😅



かなり手軽に立ち寄れる城址でした。



ため池になっていた場所は、優良な用水を確保するための整備を行っていて、
現在は、ため池の水が抜かれているようです。
別名「水無城」と呼ばれるということは、
そもそもため池を作って水の確保をしなくてはならないような
土地柄ということなのでしょうか。


遠景

だいぶ小振りで趣向を凝らした造りとは言えないですが、
あまり資料が無いのでどんな意図が仕込まれていたのか知る由もなく、
もう少し手掛かりが欲しいところです。


柏崎周辺のお城さんぽをしていたところ、お友達(ほむほむ氏)からこちらを紹介されたので
予定になかった城ですが、急遽訪れることになりました。
検索をかけるとすぐにみつかったので陣地取りにやってきました。
次はぜひ、おいしいラーメン屋さんとセットで行きやすいお城を紹介していただけたらと思います!


令和3年7月18日登城





柿の葉すし

2021年08月10日 | グルメ
🍣柿の葉すし



柿の葉すしは奈良県の中南部・吉野地方の郷土料理で、
塩で〆た鯖を薄くスライスし酢飯の上に載せ、柿の葉で包んだものです。
福井と京都を結ぶ鯖街道とほとんど同じ理由で誕生しています。
海が無い奈良へ海から魚を運ぶという保存が利く御馳走です。
使われる魚は主に鯖ですが、鮭・鯛・鯵・海老など種類は豊富です。

さて、北陸の方では包むものに笹が使われています。
奈良では柿の葉が使われているのが特徴です。

柿の葉は、抗酸化作用や殺菌作用のあるタンニン・ビタミンなどを豊富に含んでいます。
へたの部分が漢方薬として用いられるほど、効能があるようです。

食べてみると、柿の葉ってこんなに香りがあったんだっけ?
と柿の実の部分とはまた違った味と香りが楽しめます。
明らかに北陸方面のもと風味が違う。(食べたことが無いとわからないかも)

秋になると紅葉した柿の葉が使われることもあるようなので
紅葉の時期には目も楽しませてくれそうですね。







大和高田城(奈良県)

2021年08月09日 | 百名城以外の城
大和高田城やまとたかだじょう
別名
構造平城
築城者当麻為貞
築城年代1432年(永享4年)
指定史跡
場所奈良県大和高田市旭北町2 地図

高田城は、1432年(永享4年)に室町幕府六代将軍・足利義教の命により、
当麻為貞が築城したと伝わります。
織田信長の命により郡山城のみを残し、大和国内の諸城は破却され、
更に、筒井順慶の侵攻ににより1587年(天正15年)11月に、
高田氏(当麻氏)は滅びることとなりました。



常光寺公園

大和高田市立片塩小学校と常光寺の間にある小さな公園に
城址碑と案内看板があります。



常光寺・常光寺池・市立片塩小学校・幼稚園の敷地が
正方形になっているのが地図で確認出来ますが、そこが城跡とされています。
半分ほどが常光寺池になっていますが、かつてこの池の面積は今の3分の1ほどで、
近年になるに従い、徐々に池が広げられて来たようです。


案内看板

ここに書かれている以外にも、1447年(文安4年)に越智・古市・布施氏が高田城に攻め入った際、
5重の木戸を4重まで破られながらも、なんとか撃退したという記録が残っています。



公園から小学校とJR和歌山線の間を入る道を見ています。


常光寺裏まで来ていながら、墓地を見学していないのも無念ですが、
通りすがりで思い付きのちょい寄りだったので御勘弁を。
万歳城なんかも併せて見て来たいところですがこちらもお預けということで…。


令和3年8月1日登城







筒井城(奈良県)

2021年08月07日 | 百名城以外の城
筒井城つついじょう
別名筒井順慶城・筒井平城
構造平城
築城者筒井順慶
築城年代14世紀中期
指定史跡
場所奈良県大和郡山市筒井町 地図

大和から河内への交通の要所で中世の軍事施設としては大規模な城郭でした。
16世紀になると筒井氏の勢力は益々拡大し、周囲の豪族との権力争いを重ねていましたが、
1559年(永禄2年)松永久秀が大和に侵攻すと、筒井城は落城し松永氏の支配下に入りました。
その後織田信長の大和進出に伴い、筒井城が拠点となりましたが天正8年に
大和の城は郡山城以外は破却せよという信長の命令により、筒井城も廃城となりました。



二の郭

この辺りが城の中心部となります。
東側にある菅田比売神社が三の郭に位置します。


案内看板

主郭に立てられている案内看板。


縄張図

(案内看板より)
城域の西側(虎口側)に南北へと伸びる吉野街道には北市場、南市場が設けられていますが、
市場・農村部・宅地が城域に取り込まれているという縄張というのも面白い。


堀跡・カワラケ・井戸跡

(案内看板より)
城址からは発掘調査により、このようなものが出土しています。
井戸においては筒井順慶や島左近も使ったであろう井戸といわれ、
近年、発掘された石組みの井戸としては日本最大級の規模とも報じられました。



この道路正面突当りのお宅の門構えもお屋敷を思わせる造りだったので
きっと古くからこの城内に住まう方のお宅なんだろうなあと思います。
このお宅より北側が大型の宅地割で、筒井家の重臣が住んでいたと考えられていることから
もしかしたらそのような方の末裔がお住まいなのかもしれません。
個人のお宅なので撮影は控えましたが城域である雰囲気…良い仕事をされています。



時間が無くて、車を降りたのはここだけです。
車では周囲を一巡りしていますが、本当に「見た」だけです。
帰宅時間を逆算しての残り時間はほぼゼロ状態なのに、
寄ってみたかったので本丸だけ攻めてみました。


令和3年8月1日登城





飯垣城(和歌山県)

2021年08月03日 | 百名城以外の城
飯垣城いいがきじょう
別名秋月城
構造平城
築城者国造紀俊連
築城年代文明年間
指定史跡
場所和歌山県和歌山市秋月 地図

耕月寺の北西、国道145号線の北側に秋月城がありました。
近年まで堀跡などの遺構がわずかに見られましたが都市開発が進み、店舗が立ち並び
遺構はほぼ消え去りました。
日前国懸両神宮保護の目的で築かれた城で、飯垣周防守に守らせたと伝わり
地元では「飯垣城」と呼ばれています。



耕月寺

まずは、耕月寺に土塁が残っているとの情報を得てこちらにやって来ました。
耕月寺で庭の手入れをされていた方に挨拶がてら城跡のことを伺ってみました。
ここにお城があったと聞いて来たのですがと尋ねると、「飯垣城ならここじゃないよ」との返事が。
「いや、秋月城があるって聞いてここに来たのですが?」と返すと、
秋月はここの地名で「飯垣城」って言うんだよと教えてくれました。
場所もここではなく国道の向こうで薬屋さんの方だよと、親切に教えて下さいました。



周囲を流れる小川も堀の名残か?という話も見かけたので
この辺りも城域だったのかと思いましたが、どうやら先ほどの方の話だと違うようです。
城郭大系では城址は耕月寺と日前宮との間の「城の内」と呼ばれる場所にあったと書かれています。


国道145号線(宮街道)

わりと最近まで、この道路の右奥が田畑になっていて、土塁や堀跡が残っていたようですが
現在建設中の建物を含み、景色は一変しています。
但し、今ならGooglemapで「秋月城」の場所を見ると建設前の田畑がある城址が見られます。
更新されてしまったら見られなくなってしまうことでしょう。


秋月遺跡

日進中学校入口にある案内看板です。
日前宮周辺には古墳時代から人が暮らし、寺院と集落が古くからあったことが分かります。
そして、のちに太田城・飯垣城と周囲を守る軍事施設も備わって行ったのでしょう。


近くにある秀吉の水攻めで知られる太田城の出城として活用され、秀吉軍が攻めて来た際、
この城を捨てて太田城へ集結して戦ったと思われます。
時間が許すなら、もっと探求してみたいところですが、今回別の用事で訪れていたので
時間の隙間をぬっての訪問となり、ちょっと後ろ髪引かれる思いでの登城となりました。


令和3年7月31日登城