むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

尾引城(長野県)

2021年02月24日 | 百名城以外の城
尾引城おびきじょう
別名尾引古城・横尾城・三日城
構造山城
築城者横尾采女正
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所長野県上田市真田町長横尾 地図

尾引城は、横尾城または三日城とも呼ばれ横尾来女正の城と伝わります。
横尾氏は1400年(応永7年)の大塔合戦に真田氏、曲尾氏と共に参戦していたことが
記録されています。
しかし、1548年(天文17年)に横尾氏が上田合戦で討ち死にすると、
尾引城は、後この辺りを支配した真田氏の支城となりました。




登城口となる入り口に案内看板があります。
ちなみに駐車場はありません。


案内看板

案内看板には縄張図もしるされているので
ここで縄張りを確認して、いざ出発です!



主郭にある秋葉社への参道ともなっている大手道。
入口も分かりやすく、ひたすら登るのみ!



まず目についた、畑にも使われている石垣。
このような石積が、この先段郭にも見られることもあり、
どこまでが当時のものか判別が出来ません。


ベンチ

ひたすら登っていると、そろそろ疲れた~と思っているところへ
眺めの良い位置にベンチが設置されています。


段郭と石積

こちらの斜面は多数の段郭が築かれています。
先程小休止したベンチのある場所も段郭が利用されています。


鳥居

ようやく、鳥居が見えました。
この上が主郭です。


主郭虎口

主郭虎口から見る秋葉社と、手前に見える盛土が見られます。


案内看板

この図にも記されているように、正面には真田氏本城や天白城が見えます。
そして根小屋城、砥石城米山城まで見えて、目の前は山城だらけ。
ちなみに、途中の腰郭から富士山も拝めます。


秋葉社

建物奥に秋葉社が鎮座しています。
いつものように、まずはお参りして散策します。


土俵

この土盛は何だろう?と思っていたのですが宮坂氏の「信濃の山城と館」によると
土俵とされています。
ここで相撲を奉納したとの説もあるようです。



主郭から一段下がった腰郭から秋葉社の背後に回ることが出来ます。
そこから搦手方面へと進みます。



秋葉社への道は歩きやすくなっていましたが、ここからは少し足元が悪くなります。
夏場は藪になっていそうです。


虎口

かつては遊歩道になっていたのかなという感じですが
崩れかけ、道も狭く、落ち葉で埋もれ歩きずらくなっています。
虎口と書かれた標柱があるものの、どこのことを指しているのか…よくわからない。


二重堀切

秋葉社の背後には、この城跡での見所のひとつ三重の堀切があります。
しかし、ここの標柱には二重堀と記されています。
白ペンで横棒を一本書き足したくなりました^_^;(そういう悪戯はしてはいけません)


堀切

少し歩くとまた堀切の標柱があります。
ここは単独で一筋あったようですが、かなり浅くなってしまいます。



尾根上をしばらく歩きます。
良い感じの道が続きます。



副郭が見えて来ました。
遊歩道らしく手入れがされています。


土塁

ちょっとした高まりに低い土塁が残る、かなり小振りな郭があります。
城域はここまでで、搦手の最初の守りはこの郭と堀切となります。


堀切

副郭の北側の防御として切られた堀切です。



その後も北へと尾根道は続きます。



分岐点へやって来ました。
更北へ進んで行くと、尾引城の水の手方面と、長尾城へと続く道の分岐点に到着します。



本日は長尾城へは向かわず、このまま尾引城の東下の水の手方面へ。



大手側から登るより、こちらの搦手側から登る方が体力は消耗しません。



じめっとしたこの辺りのどこかに水の手があったのでしょうか。
水の出ている場所は今回特定出来ませんでしたが、湿り気のある場所です。



車でここまで来ることも出来るので長尾城への登城の際は、またここへ
来ることになりそうです。
水の手の特定はそれまでの宿題とします。


南側は傾斜に腰郭群、北側は堀切での防御が施された古い時代の分かりやすい格好の縄張です。
主郭からの眺め、尾根道の風景がさんぽするのにとても気持ちが良く、
引き返すことを忘れるほど先へ先へと歩きたくなりました。
登城口にある案内版のように1週すると良い運動になります。


令和2年12月6日登城


今回の参考本



和田下之城(群馬県)

2021年02月18日 | 百名城以外の城
和田下之城わだしものじょう
別名
構造平城
築城者長野業繁
築城年代1568年(永禄11年)
指定史跡
場所群馬県高崎市下之城町394−1 地図

1561年(永禄4年)箕輪城主長野業政が病没すると、和田橋付近に在ったとされる
和田城主和田業繁は武田信玄の家臣となり、出城として和田下之城を築き
箕輪城の防衛線のひとつとして弟の正盛を城代としました。
その後、西上州は織田氏、北条氏と支配者が変わり1590年(天正18年)の
北条氏滅亡と共にこの城も廃されることとなりました。


下之城町児童公園

下之城町児童公園へやってきました。
周囲は宅地化され、当時の面影を感じるのは難しい状況にあります。


案内看板

錆びて読みずらくなった看板があります。
このような状態でも撤去されずに頑張っている錆びれた看板。


縄張図

見えずらいとはいえ、
現地に縄張図があることは非常に有難いことです。



広場の隅に、城址碑があるのが見えます。
近くに行ってみましょう!


城址碑

立派な城址碑と案内看板、道祖神が片隅で児童公園で児童を見守っているようです。
看板には、先ほどの古い看板の内容が掲示されています。



城址碑の裏に回って見ると、解説が刻まれています。
この城址碑は城址内堀改修の際にたてられたもののようです。



本丸を囲むかつての堀の名残。


内出

児童公園周辺の道路は、堀と土塁があった場所の名残と思われ、
何気ないこの食い違いも、まっすぐに通っていない道がその名残であろう。


宅地化され、ほぼ遺構は失われていますが縄張図越しになんとなく見えて来る堀跡。
今回訪問していないのですが、近くにある徳昌寺には和田氏一族の墓があるという。


令和3年2月7日登城





前橋城大手門見学会

2021年02月16日 | イベント・行事
前橋城 大手門の石垣



江戸末期の1867年に再築されるより以前の遺構が見つかったという一報をSNSで知りました。
その後上毛新聞に記事が掲載され、見学会が行われると知ると、
居ても立っても居られず、再開発ビルの工事現場へやって来ました。
場所は前橋本町一郵便局の裏手になります。



見学会は2月15日の午前10時~正午と午後1時~3時まで希望者は現地へ直接来場
ということで10時丁度にやって来ました。
すると、既に見学可能な状態になっていて、大勢の見学者がいました。



う~ん、思ったより混んでます。
平日だし、雨降ってるし、人が少なくてチャンスなので✨はと思っていたのですが
次から次へと見学者がやって来ます。



ようやく最前列に出られました!
傘を持ちながらの撮影は辛い。
手ブレでうまく撮れていないものが多い。
意図しない場所にピントが合ってしまっている😖


絵図

酒井家に伝わる絵図にある大手門。
前橋城は、1500年代~1600年頃の厩橋城と呼ばれた時期の城と
酒井氏によって整備された1660年前後の頃の近世の城と
江戸後期の松平氏によって整備された再築前橋城の3つに分けられます。


大手門石垣

地表から約1.5m下で見つかった石垣。
現在目にすることが出来る遺構のほとんどが、
一番新しい時期の再築前橋城のもですが、
今回見つかったこの石垣は二番目の酒井氏の時代のものと考えられています。


車橋門跡

ちなみ、こちらは地上に残る車橋門跡の石垣です。
こちらの石の方が小ぶりで、今回出土した大手門の石が車橋門の石より
大きいことがわかります。
今回大手門の石垣を見られなかった方は
ぜひ車橋門跡の石垣を間近で見て想像してみてください。
場所は前橋市大手町2丁目5−14 地図


水堀跡

この水溜まりは、雨水が溜まったものではなく、
ここにあった水堀で、今でも水が湧いているそうです。
また、堀跡からは「右三つ巴紋」が描かれた軒丸瓦など瓦も大量に出土し、
破却された際に投げ込まれたと思われる建造物の一部が
見つかったそうです。
ということは、再築前橋城では櫓門が再建されていないので
酒井氏の頃の門の跡と推定出来ます。


切込接

隙間なくきれいな形で積まれています。



この角の合わせ目を見てください。
こんなにきれいに石と石が接しています。



この下にまだ1段は石垣の部分が埋まっていると考えられています。
しかし、この後掘り進めるかどうかは工事の工期や
この水堀の状態など課題があるため検討中とのことでしたが
おそらくこのまま埋め戻しということになりそうです。



現地では、短いですが絵図で場所の説明と状況のお話がありました。
もう少し詳しい話を聞きたかったなあ。
それでも現場公開してくれただけでもありがたいことです。



報道のカメラもいて、インタビューされている人も居ました。
NHKのニュースでは、自分にしか判別できないところに映り込んでいました😅



石垣側から上部を除いてみました。
石垣の上にはかつてレンガ造りの建物があったそうで、
建物を造る際に石垣の上部一段を削り取られているとのことです。



石垣側の上から見下ろしてみました。



この水堀跡はヘドロ状で緑色の液状のものも出ているそうです。(臭いも有るらしい)
ポンプが置いてあるので、水を吸い上げながら調査を行っているのでしょう。



コロナ禍なので短時間での見学となりました。
名残惜しいですが、これにて退散致します。


見学会と言えば、いくつか参加していますが発掘中の現場での見学会は今回がはじめてです。
なかなかリアルタイムで平日参加できることが無いので今回は時間が作れてラッキーでした。
今後このようなチャンスは、私にはあまりないと思うので貴重な時間を過ごせました。
そのうち、ここには建物(ビル)が建つこととなりますが
敷地内で出土品の展示を検討していただいているようなので、
公開されたら、ゆっくり見学に来たいです。
その頃にはコロナも落ち着いていると良いな。。。


令和3年2月15日登城





明治天皇高山御小休所(岐阜県)

2021年02月12日 | その他
明治天皇高山御小休所めいじてんのうたかやまごこやすみどころ
別名深萱英次宅
構造御小休所
年代18880年(明治13年)
指定史跡
場所土岐市土岐津町高山 地図

行在所、御小休所などは、全国に377ヶ所ありましたが、国指定史跡に指定されたものの
「史跡の指定が新憲法の精神にそわない」と認められ、
1948年(昭和23年)6月29日に国指定史跡を解除されました。
指定解除後、建物は解体され、記念碑が残されています。



看板

この場所は、昭和11年11月2日から昭和23年6月29日の間、
明治天皇高山小休所として国の史跡に指定されていたところです。
明治天皇は、明治13年、中仙道を通り京都までの巡幸の際、
同年6月29日午後2時半頃、御小休所と定められた
ここ深萱英次宅に到着され、天皇は建物奥の庭に面した12畳の間に、
皇族・太政大臣・供奉員らは隣接した4室に入り小休されました。



明治天皇が陶器造りの実演をご覧になり、休憩されました。
この時、近郊から集まった住民たちが
街道をゆく約3千人もの従者の行列を圧倒されながら見送ったとされています。


令和2年6月27日訪問




高山宿(岐阜県)

2021年02月11日 | 関所・宿場
高山宿たかやまじゅく
街道名下街道
設置江戸時代
廃止明治時代
指定史跡
場所岐阜県土岐市土岐津町高山 地図

下街道は、中山道恵那槙ヶ根追分から名古屋城下を結ぶ脇街道で、
高山宿は下町街道の中間地点にあたる場所になるため、馬継場・宿場町として栄えました。
中山道よりも峠が少ないため利便性が良く、善光寺参りや御岳参りのほか
伊勢神宮へのお参りの人々も往来していました。
信州・美濃・尾張などから出荷される荷物が牛馬によって輸送され、通りは賑わっていました。
また、戦国期には高山城が武田信玄・勝頼親子と織田信長の天下取りの合戦場となりました。





朝、名古屋を出発すると夕刻には高山宿に到着するため、多くの人がここでの宿を利用しました。
馬や駕籠の交代する場所としても位置されていました。
やがて、中山道よりも下街道の方が通行量が増えるのを懸念して
中山道の各宿場が尾張藩へ、下街道の通行止めの訴えを起こしていました。
しかし、当時の高山村は天領だったため、幕府に訴えることで宿場としての権利を守ることが出来ました。



明治になると高山村に郡役所が置かれ、峠の少ない下街道が鉄道や国道、高速道路のルートの基となって行き
今の交通事情となっています。


令和2年6月27日訪問









今井城(群馬県)

2021年02月10日 | 百名城以外の城
今井城いまいじょう
別名
構造平城
築城者斎藤氏
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県前橋市今井町城山 地図

今井城は、大胡城の支城で斎藤氏が在城していました。
荒砥川とその支流の間に挟まれて築かれており、氾濫のため東面は原形が失われています。
現在は主郭を囲む堀跡と外郭が残されています。



曲輪橋

曲輪橋と名の付く太鼓橋のように盛り上がった橋を渡った先に今井城跡があります。



広場には標柱があります。



史跡には手付かずの竹藪がつきもの。
という訳であやしげな竹藪が見えます( ̄▽ ̄)
土塁っぽい段差も見えます。


外郭跡

北側から見た外郭跡です。
奥の一段下がった場所は、主郭の北と東の堀があった場所です。


水堀

外郭と新沼の間の道を西へ進むと、水堀の跡が見られます。
この水堀は西側の守りをしながら主郭入口、大手側まで伸びています。



堀跡と主郭の土塁がはっきりと見て取れます。



西側から見ています。
竹藪が外郭、竹藪の更に左が新沼、右側の宅地が主郭になります。



大手道へやって来ました。
なんと大手道の入口の住宅には長屋門があります。
古いものではありませんが、ここが城址と言わんばかりの門構えです。
個人宅なので正面からは写しませんが立派なそれらしい門です。


大手道

先ほどの長屋門のあるお宅のコーナーに取り付く北に延びる道が大手道です。
主郭の南端に寄居山と呼ばれる高さ2m程の櫓台があったそうですが、今は見当たりません。
その西側に食い違いの虎口があったようですが、それも失われています。
(この一本道は主郭=個人宅へつながっているので行けませんでした。)



曲輪橋から今井城を眺めておさんぽ終了。


標柱があるだけだろうとあまり期待していなかったのですが、街中や住宅街ではないので
周囲をぐるっと巡ってみたら、結構名残を感じられたので収穫がありました。


令和3年2月7日登城





徳川慶喜の愛した将軍珈琲

2021年02月04日 | グルメ
将軍珈琲


徳川将軍珈琲の歴史
フランスと連携し、幕府再生に取り組んだ徳川慶喜は、実弟の昭武を将軍名代の代理として1867年パリ万国博に派遣しました。
次期将軍として処遇され、皇帝達と華麗なる幕末最大の外交行事である宮廷外交を行うことになりました。
そこには、フランスからの近代化資金の調達、という狙いもあったのですが、
その直後、明治維新により昭武は帰国を余儀なくされました。
そんな中渡欧した際、昭武は珈琲に出会いました。
パリ万博への船中やシェルブールの海岸で珈琲を味わい、
昭武や随行した渋沢栄一、杉浦譲たちは珈琲を愛飲していたました。

将軍珈琲は、徳川慶喜家4代目当主(慶喜のひ孫)に当たる写真家・徳川慶朝さんが
2002年、松戸市戸定歴史館とサザコーヒーと協力して過去の記録などを参考に当時の珈琲を再現しました。


松戸城へ訪れた際に将軍珈琲に出会いました。
史実に基づきモカをフレンチローストで仕上げたという珈琲を戸定が丘公園の茶室「松雲亭」でいただきました。
今はコロナ禍でおうち時間が増えた中、お取り寄せにてサザコーヒーの「将軍珈琲」を家で味わって
歴史ロマンに触れてみてはいかがでしょうか。

戸定が丘公園の茶室「松雲亭」:地図










阿岨城(群馬県)

2021年02月02日 | 百名城以外の城
阿岨城あそじょう
別名阿曾の砦
構造崖端城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡村指定史跡
場所群馬県利根郡昭和村橡久保384 地図

沼田城団の一つとして作られたといわれ、
1573年(天正元年)沼田万亀斎は、幕岩城から蔵内(沼田)城へ移ったが、
万亀斎の愛妾ゆの女の子金子美濃守にこの城が与えられました。
1582年(天正10年)北条の兵2千騎の夜討ちに遭い、
金子美濃守は騎馬もろ共谷を滑り落ち、蔵内城へ逃れました。


虎口

平らで判りずらいのですが、ここが二の郭の入り口、虎口になります。


石碑

阿曽城は、沼田城下を一望できる橡久保原の崖端に位置し、
当時の城郭はもっと大規模であったことが記されています。


標柱と案内看板

この上が主郭とされていますが、崖側が浸食により当時よりかなり狭くなっています。


二の郭

二の郭は、縄張り図を見ると現在とは一部を残し改変されているようです。
周辺の様子からみると、農地化されていてもおかしくないので
かつて、農地だった時代もあるのかもしれません。


眺望

ここに立つと、沼田城と沼田城下が一望出来る立地にあることが、わかります。
加沢記によると、北条の兵三千騎の夜討ちに遭い、金子美濃守は騎馬もろとも谷を滑り落ち
蔵内城(沼田城)へ逃れたと伝わります。
しかし、ここから下を覗くと、滑り落ちというよりは身を投げるような崖です^_^;
当時はもう少しなだらかだったのでしょうか。



郭側へ振り返ると、広い畑が広がり駐車場もあってアクセスしやすい場所です。
こちらから攻められたら、崖に追われてしまうのも納得です。



二の郭は一部しか残っていませんが、当時は堀が堀としてわかるように
一段高い状態が、もっと長く続いていたようです。


堀切

二の郭の外堀です。



削られてしまったようですが、ここも先ほどの二の郭からの続きで
一段高くなって、主郭との間に堀があったはずですが、現在は堀を埋めて平らになっています。



南側に残る外堀跡です。



当時は幅も深さもある堀があったと想像できます。


上杉・北条・武田と三つ巴の争覇の地地であった沼田では越後と関東を結ぶ
重要な拠点として争いも激しい場所でした。
それにしては随分とシンプル過ぎる縄張りで、崖を下って逃れるしかなかったことが容易に想像出来ます。

令和3年1月16日登城


今回の参考本