むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

子王山城(群馬県)

2020年05月29日 | 百名城以外の城
子王山城こおうざんじょう
別名
構造山城
築城者柴崎景家
築城年代
指定史跡
場所群馬県藤岡市下日野 地図

子王山城は、平将門の家臣柴崎景家が築いた城と伝わります。
1552年(天文21年)長尾景虎による平井城奪回の際に、
甥の長尾喜平次景勝が入城したとされ、喜平次の城とも呼ばれています。



みはらし茶屋

みはらし茶屋の駐車場を利用して登山です。
みはらし茶屋まで藤岡市コミュニティバス「めぐるん」が来ています。


バス停

バスは1日3本来ているようで、ここで折り返しています。



みはらし茶屋から道路を渡っていざ!登城です。
ここからだと、頂上まで近いように見えますが、角度がキツそう…。


城址登山道

久しぶりの山城に、運動不足で体力が無いうえに、暑い



下から登れば、二千階段とも呼ばれるのですが、歩くのは出来るだけ避けたい。
というわけで、今回も車で登れる限界まで来たので残り500段弱の所からの登城です。


200段

斜面の角度がキツイので距離は短いのですがヒイヒイ言いながら
やっと200段の杭までやって来ました。



遊歩道だけあって整備された登山道なので安心して登れますが
とにかく疲れます^^;


おんな坂

キツイ階段、長い階段のある山城には付きものの「女坂」も
ちゃんとあります。
左手の小道を行けば、少し遠回りになりますが階段ではなくゆるく登ることも可能です。


300段

疲れはするものの、結局階段を選んでゆっくりマイペースで登ることにしました。
しかし、数えながら歩いても杭の数字より少ない??
まあ、多くでるより喜ばしい気分ではあるのですが…だいぶ段数が少ない気がします。



400段手前は崩れて階段が無いところもあります。お気をつけあれ。
これは昨年の台風19号の影響だそうで、階段数が少ないのも
こうした影響で段数が減ってしまっとのことを地元の方?から伺いました。


400段

ここでま来れば、もう一息で頂上です。
ここで、まっすぐ登らずに朱色の社が見えたのでそちらに回り込んでみたいと思います。


稲荷

この社の下でおんな坂と合流します。



尾根が見えて来ました!


二の郭

登りきると見晴らしの良い場所に出て来ました。
細長い場所なのでまだ道中かと思いきや、ここは既に二の郭でした。


眺望

展望台のようなところで、望遠鏡まで設置されています。
もちろんタダです


平井金山城

眼下には平井金山城が見えます。
ここからならまる見えですね。


一郷山城

西側を見ると一郷山城も見えます。
ズームしてみると、こちらも緊急事態宣言の解除により車や人がいるのが見えます。



細長く、あまり広くない郭で、眺めだけは抜群なので
城というよりはまるごと物見のようです。


案内看板

二の郭にある案内看板です。
これを読むと、越後の面々の武将の名前が連なってますが…だとしたら
もっと有名になっていても良いような気がします。


土橋

主郭と二の郭を結ぶ土橋からの眺めも良いです。
ここを登ればいよいよ主郭です。


主郭

主郭にやって来ました。
主郭と言っても、物見のようなサイズです。


子王山山頂

城址というよりは、ハイキングに来られる方の方が多いのかな。
春は桜でいっぱいになるようなので、桜の時期に来るべきだった…。
でも今年は緊急事態宣言が発令されていたのでどのみち今年は無理だったかな。



「子王山の峯よりはるかふじのさと」と石に歌が書かれています。
はて?だれの作でしょうか。


腰郭

主郭の北東一段下に腰郭があり、そこから北へ尾根伝いに細長く郭が延びています。
しかし、もう薮になって来ているのでそちらまでは入って行く気になれず、断念。
この先は冬場の方が良いですね。



写真ではわかりずらいのですが、郭があるのは目視だとわかるのですが…。
この先に堀切もあるのですが根性無しなので今は行きません
そろそろ帰ります。


眺望

必至で登っていたので周囲をあまりよく見ていなかったのですが、
帰りは周囲を眺めながらお気楽に。



まるで虎口?のように道の両側に岩があります。



ところで、日野側(県道175号線)から下日野神田線(県道176号線)へナビが案内するケースがありますが、
日野側からの下日野神田線は使えないものと思った方が良いです。
現在は遊歩道として使用されているので車が通ることが想定されていないので
舗装されていないうえに、昨年の台風で荒れていて通り抜けるのは小型RV車でないと困難です。
ナビで案内されてしまった場合は引き返して、高山社側の176号線へ回って下さい。


新型コロナウイルスの影響で1カ月以上自宅に籠城していましたが、
まずは県内で人気のないところで身体を動かすことに。
この日はまず、箕輪城へ行ったのですが暑さと運動不足でへとへとに。
山城は諦めて近くの平城巡って帰ろうとしたら…とある言葉に火が付いて
結局予定していた子王山城へ引き返すことに。
それにしても運動不足を痛感させられました。


令和2年5月17日登城





山子田城(群馬県)

2020年05月25日 | 百名城以外の城
山子田城やまこだじょう
別名桃井西城
構造館城
築城者土屋義清
築城年代南北朝時代
指定史跡
場所群馬県北群馬郡榛東村大字山子田852 地図

山子田城は、桃井城より西に約1kmの位置にあり桃井西城と呼ばれていました。
東の桃井城(大藪城)とは別城一郭とされていますが、それより以前は
和田義盛と共に滅んだ土屋義清の居館がこの地にありました。



稲荷社

土塁の上に稲荷社と寒大神、石碑と案内看板があります。
ここを目印に、まずは案内看板を見て、周囲の散策開始です。
もちろん、お参りも忘れずにね


案内看板

縄張図を頼りに、遺構が残っている場所がないか探してみます。


記念碑

将来の農耕の発展を願い、この地区の農耕地としての整備事業完成を
記念した石碑のようです。


延明寺屋敷跡

案内看板のある土塁の上から南を眺めています。
ソーラーパネルのある場所はかつて段状に区切られていて、
東側が延明寺屋敷になっていました。
よく見ると地面は名残があるように、区切られています。


土塁

南の稲荷社のあるところから、北へ秋葉山大神の石碑があるところまで
西側の土塁がしっかりと残っています。
また、この土塁から西側の宅地はかつて湯浅屋敷です。
実際にいってみると、おそらく子孫の方とお見受け出来るお宅があるのですが
現在もお住まいなので写真は撮影して来ませんでした。


倉屋敷

秋葉山大神の石碑があるこの辺りの土塁から東側(道路の辺り)が倉屋敷と呼ばれる場所です。


本郭

この辺りは、平安時代は百井の荘と呼ばれる荘園でした。
農耕が盛んで開発も進んでいましたが、鎌倉時代になると
桃井城として足利氏の支流で桃井氏の居館が築かれました。



南城寺川とはこの小川のことでしょうか…。
午王頭川との合流地点でもあり、東と南は川の水を利用した水堀とされていました。
当時はもっと川幅もあり、土塁が築かれていたことでしょう。


堀跡

この道路に沿って群馬用水があるのですが、
この辺りが堀のあった場所と思われます。
この道を境に左が主郭、右が二の郭にあたり、
この先を進んだ左手に御堀の五輪塔があります。


御堀の五輪塔

五輪塔は中世(鎌倉時代~室町時代)の地侍層の墓石として造立されたもので戦国時代や、
その後の長い歳月のなかで消滅したものが多く、
この村に残っているものは、ほぼ完形のもの十数基、部分のみのもの五十基程である。
完形のものの中で大きいのが、御堀の畑の一隅にあるもの、大川の田の一隅や、
八之海道富沢家墓地にあるものなどで120cm前後の高さがあるが、いずれも無銘である。
~榛東村役場HPより~


追手道

この先の追手虎口があった場所には、かつて枡形の名残があったようですが、
探してもそのようなものはみつからず、
残念ながら、追手虎口は既に農地改良によって消滅してしまったようです。



その他にも秋葉山と呼ばれる場所も名残を探してみたのですが、
高まりを見つけることは出来ませんでした。
こうして、城内は昔も今も農耕地に適した場所であったのでしょう。


ここより先に訪れた桃井城(大藪城)より、こちらの桃井西城(山子田城)の方が
歴史は古く、百井の荘があった場所です。
戦国時代の城としての機能は桃井城(大藪城)が中心となり、
桃井西城(山子田城)が居館となっていたのでしょう。
しかし、城郭大系には桃井直常のものではないと記されていて
この桃井氏とは?という疑問が湧いて来ました。う~ん。。。


令和2年5月17日登城


今回の参考本



桃井城(群馬県)

2020年05月21日 | 百名城以外の城
桃井城もものいじょう
別名大藪城・桃井東城
構造丘陵城
築城者桃井直常
築城年代南北朝時代
指定史跡
場所群馬県北群馬郡吉岡町大字南下187  地図

桃井城は足利氏ゆかりの武将桃井直常が居城していたところと伝わります。
隣接する山子田にも桃井西城(山子田城)と呼ばれる城と密接な関係であったとされています。
桃井氏は足利氏に従い、京都の六波羅探題を滅ぼしています。
現在城跡は公園や農地開発が進み、殆ど原型は残されていません。



駐車場

吉岡町城山みはらし公園と化しているため、駐車場は大小豊富にあります。
どこから登るにしても駐車場に困ることはなさそうです。


第一郭

先人たちのブログで見るような自然の状態はまったくありません。
案内看板にある第一郭とされている場所はもう少し左の薮の中のようですが…。


物見台

こちらは前方後円墳形した物見台になっています。
城郭としての物見台の姿とはまったく違った格好に変化しています。



1本の樹木と案内看板だけは残されているようですね。
大藪八幡古墳の上に物見台…ということは下は古代のお墓ってことかあ。
古墳にお城を築いてしまうこともよくある。
なぜそこを選ぶのか…。


案内看板

自宅に資料が無いので貴重な資料です。
山崎氏の本は3冊持ってはいるものの、本格的なものは高価で手が届きません


眺望

天気も良く眺めが良いです。
さすが物見台です


第二郭

奥にはかろうじて残された土塁がありますが、
この光景を見るともはや遺構とは思えない印象です。


大藪不動尊

南側に下ってくっると、大藪不動尊と上八幡神社があります。
南曲輪にはかつて金剛寺(現:大藪不動尊)があり、室町時代の宝篋印塔があります。
城域にあるため、桃井氏ゆかりのものと思われます。


下曲輪

下曲輪には上八幡神社あり、桃井氏が守刀を奉納したのが
この神社のはじまりと伝わります。
注意:車道ありますが、入って行くと路面ガタガタ、くの字に曲がるので普通車以上は困難です。


この日は箕輪城の御城印を入手すべく出掛けたのですが、日頃の運動不足と暑さにやられて
この後山城へ向う予定を変更して、思いつきでやって来ました。
下調べもなくやってきたので、資料も揃わず後ほど書き足すような内容になってしまいましたが
この後向った桃井西城との関係性もなかなか興味を惹くもので、
どんな物語があるのか調べるのが楽しみなところではあります。
現在再放送中の大河ドラマ「太平記」を視ながら、
ボチボチと調べて行きたいと思います。


令和2年5月17日登城







高山社(群馬県)

2020年05月19日 | その他
高山社たかやましゃ
別名養蚕改良高山社
構造養蚕用家屋
創始者高山長五郎
年代1884年(明治17年)
指定史跡国指定史跡
場所藤岡市高山237 地図

高山社は、高山長五郎が養蚕技術普及のために先祖伝来の屋敷を壊し
通風と温度管理を大切に工夫した「清温育」の養蚕法を確立し理想的な構造の蚕室へと変え、
その飼育方法を日本全国から、中国や朝鮮半島にまで 広めた養蚕の教育機関です。
絹産業遺産群として富岡市の富岡製糸場とともに世界遺産に登録されています。



住居兼蚕室

長屋門の奥に住居兼蚕室がありますが、現在観覧中止なので
中の様子を見ることが出来ません。
1891年(明治24年)に田島弥平から学び、建てられました。
「越屋根」は、煙抜きのための小さな屋根をのせた屋根のことで、養蚕が盛んな地方では
今でも古民家には多く見られる構造です。
そのほか、換気のための大きな掃き出し窓はもちろん、欄間や蚕棚の下の通気口のほか、
天井や、囲炉裏、火鉢置き場などで温度調節をしたり、床面に通気口などが造られています。


石碑

高山社正面にある高山社跡の石碑です。
路線バスの転回所にもなっています。
案内看板やパンフレットもここに置いてあります。
パンフレットを後でもらって帰ろう!と思っていたらうっかり忘れて来てしまいました


観覧中止について

今のところ5月31日まで観覧中止のようです。


長屋門

江戸時代に建てられたもので、養蚕道具や農具の保管に利用されていました。



これは積み直したところかな?
石のひとつひとつにナンバーが貼られています。


駐車場

川の向こう側は、高山社情報館の駐車場です。
高山社情報館や竹林の中を歩く遊歩道もありますが、こちらも現在は5月31日まで休止してます。


子王山城の帰りに立ち寄りました。
高山社ならいつでも行けるなんて思っていたらなかなか行かず、
通りすがりに寄ってみたら休館中^^;
開館したら今度はちゃんと見学したいと思いますので続編書きます。
ちなみに、富岡製糸場は富岡陣屋なのでこちらもちゃんと行き直ししなくては。
といつも思っていてなかなか行かない…。ダメですね

令和2年5月17日登城



岩室観音堂(埼玉県)

2020年05月15日 | その他
岩室観音堂いわむろかんのんどう
別名
構造寺院外仏堂
年代810年ー824年(弘治年間)
指定史跡
場所比企郡吉見町北吉見459 地図

岩を削って穴を堀り、観音像を祀ったことから岩室観音堂と呼ばれています。
松山城主が代々信仰し、護持していましたが1590年(天正18年)
豊臣秀吉の関東平定のため石田三成が松山城を落城させた際兵火に遭い
当時のお堂は焼失してしまいました。
現在のお堂は、江戸時代に再建されたもので懸け造りになっています。



お堂

観音堂の一階の奥には岩室観音堂の胎内くぐりがあり、ハート型になっています。
ここで胎内くぐりをすると、 子宝・安産・子育ての願いが叶うといわれています。
二階に上がると、正面にご本尊様が奉られています。
一枚一枚に般若心経の276文字の一文字づつが書かれた折り紙が置いてあり、
その折り紙で折り鶴を折って奉納し願いごとを祈願すると、
その願いごとが叶うと言われています。


案内看板

ここは龍性院の境外仏堂で、龍性院は観音堂から車で2~3分、
徒歩なら約10分程のところにあります。
岩室観音堂の御朱印も龍性院へ行くといただけるようですよ。


岩室観音

代々松山城主が信仰し、守って来ました。
また、ここにある観音様は八十八体あって、四国八十八ヶ所の寺の本尊を模していて
ここに居ながら四国八十八ヶ所をお遍路したことになるという。
なんと便利な場所なんでしょう!という所です。


案内看板

松山城の麓にある岩室観音堂は、国指定史跡の吉見百穴とも近くにあり、
吉見百穴は岩穴にある古墳時代の横穴墓群です。
太平洋戦争中の地下軍需工場跡があったりと、松山城をぐるりと一周していると
寄り道したくなる場所が隣接しています。
松山城と一緒に、岩場の地形を利用した神秘的な場所を訪れるのも良いものです。


平成29年1月7日訪問






元八重垣神社(島根県)

2020年05月13日 | その他
元八重垣神社もとやえがきじんじゃ
別名八頭
構造神社
年代1661年(寛文元年)
指定史跡
場所仁多郡奥出雲町佐白 地図

高天原を追放されたスサノオノミコトは、出雲の国の鳥髪(今の船通山)にやってきました。
そこで、一人の娘を囲んで泣いている老父と老婆を発見しました。
泣いている理由を尋ねると、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)がやってきては、
毎年娘たちを一人ずつ食べて行ったとのことです。
そして今年もまたヤマタノオロチがやってくる時期が来たので、
八人いた最後の娘である奇稲田姫をも食い殺されてしまうかと思うと悲しくて、
涙が止まらないとのことでした。
ヤマタノオロチは、一つの胴体に八つの頭、八つの尾を持ち、巨大で、恐ろしい風貌をしています。
スサノオノミコトは、
「あなたたちの娘・奇稲田姫を嫁にくれるなら、ヤマタノオロチを退治してやろう。」と言うと
娘の命が助かるならと思い、老父と老婆は頷きました。
まずは奇稲田姫の身を守るために、彼女を爪櫛の姿に変え、髪に挿しました。
垣根を作り、その垣根に八つの門を作り、門ごとに八つの棚を置き、その棚ごとに酒を置いておくと、
そこにヤマタノオロチがすさまじい地響きを立てながらやって来ました。
そして、八つの門にそれぞれの頭を入れて、ガブガブと酒を飲み始めました。
すると、酔っ払ったヤマタノオロチはイビキをかきながら眠り始めました。
スサノオは刀を振りかざしてヤマタノオロチに切りかかり、体を切り刻み始めました。
刀がオヤマタのオロチの尻尾に差しかかると、何かが刃先に当たりました。
中を裂いてみると、剣が出てきました。
その剣とは、天叢雲剣です。
不思議に思ったスサノオノミコトは、姉にこの剣を献上したと伝えられています。



参道入口

八重垣神社の参道入口です。
この先には八重垣神社跡と長者屋敷跡があります。
長者屋敷は奇稲田姫の両親のテナヅチ、アシナヅチの住居跡と伝えられ、
現在八重垣神社は、伊賀武神社へ移築されています。
スサノオノミコトは、ヤマタノオロチを無事退治し、この出雲の地が気に入り、
ここに奇稲田姫と住むための宮殿を造ることにしました。
そして、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」
スサノオノミコトが詠んだ歌が、日本で初めて詠まれた和歌として神話に残されています。


元結掛けの松

スサノオノミコトの妻となった奇稲田姫が長髪を束ねるために松の枝に
髪を掛けたと言われる松がありました。
江戸時代には一里松とされていましたが、
1959年の伊勢湾台風で倒木してしまったため、
現在は切株が残り、代替わりした松が植えられています。


案内看板

八岐大蛇を退治した後に二人は結婚してご夫婦としてこの地にご鎮座したとして
縁結びのパワースポットととして訪れる人が多いようです。
また、スサノオノミコトと奇稲田姫の間には多くの子どもが誕生し、
そのうちのひとりが、因幡の白兎でも有名な大国主命と言われています。
神社の奥の森にある池は、稲田姫命が隠れている際に飲料水とし、
姿を写して鏡として使ったことから鏡の池といわれています。


月山富田城へと向う途中、「何か看板あったんですけど?」と車を止めてもらうと
元八重垣神社跡でした。
ヤマタノオロチの話は耳にしたことがあるのですが、ここの話だったんですね。
出雲の話とは思っていたものの、偶然ながらの伝説の場所に来られたの何かの縁。
我が家の娘たちも健やかに育つことを祈るばかりです。
因みにこの後、こちらも偶然に、鳥取の「因幡の白兎」の場所も
通りすがりに同じノリで立ち寄りました^^;


平成30年1月5日訪問




親不知・子不知(新潟県)

2020年05月11日 | その他
親不知・子不知おやしらず・こしらず
別名
構造海岸
年代不明
指定史跡
場所糸魚川市大字外波 地図

天下の険として知られている親不知、子不知海岸には、
一部が国名勝「おくのほそ道の風景地 親しらず」に指定されました。
北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻み、波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、
子は親を顧みる暇がなかったことから親知らず・子知らずと呼ばれるようになりました。



親不知記念広場

国道8号線の改修を記念して造られた広場には展望台や愛の母子像があります。
この母子像の台座には、相馬御風の
「かくり岩に 寄せてくだくる 沖つ浪の ほのかに白き ほしあかりかも」
の歌が刻まれています。


展望台

断崖沿いに見える道は、親不知コミュニティロードとして、
北陸地方の産業、経済の発展に貢献したことを後世へ伝える
貴重な土木遺産であるとされ、遊歩道として使用されるようになりました。
晴れていればもっとはっきり見えるのでしょうが、奥の方にうっすらと
能登半島が見えます。



地名の由来にはもうひとつの説があり、
平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、
2才の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまいました。
この時、悲しみのあまり「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」
と詠んだ歌が由来になったという説もあります。


中学生の頃、合唱コンクールで「親知らず子知らず」を歌ったことがあり
ちょっと思い入れがありました。
普段は北陸自動車道で通過してしまうところでしたが、この日は
夜中に出発し、七尾城へ行く前に日本海の海沿いをドライブしながら行きました。
一度、寄ってみたいと思っていたところだったので立ち寄ってみました。


平成29年9月16日訪問






銭形砂絵(香川県)

2020年05月09日 | その他
銭形砂絵ぜにがたすなえ
別名
構造砂絵
制作者地元の古老
年代1633年(寛永10年)
指定史跡
場所観音寺市有明町14 地図

1633年(寛永10年)に、江戸の将軍徳川家光から讃岐巡遣使を派遣するとの知らせを受け
丸亀藩主、生駒高俊公が領内巡視をすることになりました。
その知らせを聞いた地元の古老が、大きな「銭形砂絵」を一夜にして完成させ、藩主を歓迎しました。
そして、この砂絵を見れば健康で長生きし、お金に不自由しないと伝えられています。



銭形砂絵

間近までやって来ました。
う~ん、これではよくわからない


案内看板

展望台のある琴弾公園内の山頂へやって来ました。
第1駐車場へ車を置いて展望台へ。
健康で長生きし、お金に不自由しないと書いてありますよ
御利益がありますように…。


琴弾公園内の山頂展望台

「寛永通宝」の形が見えました!
近くで真横から見ても分からなかったのですが、ここからならバッチリです!


すでに日が暮れてしまっていたのですが、ライトアップにはちょっと早く、中途半端な時間になってしまいましたが
この日最後の旦那からのサプライズでした。
これは子供の頃視た時代劇「銭形平次」の光景ではないか!!
と、喜んでみたものの、子供たちにはまったく伝わらず「ほら、ほら有名な銭形平次の!!」
と言っても子供たちからは「早く帰ろう~」の声。
そして、このような古銭も今は博物館でしか目にしない。
私の子供頃は瓜の種取り道具として祖母がいくつも持っていたし、
銭形平次の真似して投げて遊び道具となってどこかへ消えて行きました。
あの銭はどこに行ったのだろう…。^^;


平成27年12月28日訪問





舘山寺(山形県)

2020年05月08日 | その他
舘山寺かんざんじ
別名
構造寺院
年代1721年(享保6年)
指定史跡
場所米沢市舘山5-2-39 地図

舘山寺は、江戸時代の医者で米沢藩の藩医として勤めた、堀内素堂の墓があるお寺として知られています。
前座仏の虚空蔵菩薩は、伊達政宗公が朝鮮出兵の際に持ち帰ったとされ、
智能財宝の御利益があるよ伝えられています。
本堂には狩野派の版画なども納められています。



入口

山形の城めぐりを終え、群馬へと帰る途中、舘山城を横目に
「次来る時は行かなくちゃね~」なんて車を走らせていると、看板が目に飛び込んで来ました。
「今のは何?伊達政宗って見えたけど?」とUターンして確認しに
戻って来ました。


堀内素堂

蘭方医学を杉田立卿(杉田玄白の子)に師事し、日本で最初の小児科医書を著作するなど
医学書を多く残しています。
また、高野長英が蛮社の獄の際、脱獄して米沢に潜行したときに
伊東祐直と共謀してその逃亡を手助けしたことも知られています。
堀内素堂の墓所がこちらにあるということです。


虚空蔵菩薩

虚空藏菩薩は館山城の本内御堂に安置されていた秘仏で藤原経衡が寄進したものです。
もう一方の前座仏は、伊達政宗が中国霊山から勧請しました。
財宝満願の虚空蔵菩薩だそうなので、しっかりお参りしましょう!
それにしても、一瞬でこの看板にある「伊達政宗」の文字が見えてしまうのは…重症です


本堂

山門の先に本堂があります。
今回は、ちょい寄りのため外から眺めるだけでした。
お時間の許す方はぜひ貴重な住職の話を聞いて来ると良いと思います。


石碑

舘山城と縁深い米沢市の舘山寺が、
500年近くの間受け継いできた伊達家の歴史の象徴として、
2010年に「独眼竜政宗 揺籃苑」と刻まれた石碑が建てられました。



これを読むと、はっきり何所とは記されていませんが、
館山城にあった城内の寺跡が火災や土砂崩れにみまわれていたことがわかります。



舘山寺から正面に館山城が見えます。


舘山城

この日は、この山が舘山城かあ~と見ながら帰りました。


そして、1年後にちゃんとリベンジしました。
この時には、藪で入って行けない寺跡を眺めたものですが
移転したお寺がここだったんですね。
それにしても、舘山城は「たてやま」と読むのに舘山寺は「かんざん」と読むのは
なんだか違和感あります。
なぜだろう…と疑問を残したまま、そのうちわかったら記そうと思います。


平成30年9月29日訪問