むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

館山城(千葉県)

2019年09月30日 | 百名城以外の城
館山城たてやまじょう
別名
構造山城
築城者里見義康
築城年代1588年(天正16年)
指定史跡
場所館山市館山 地図
御城印館山市立博物館

館山城は、里見義頼が重臣に築城を命じ、1588年(天正16年)義頼の子である義康が
築城しました。
昭和57年に三層四階の模擬天守が建てられ、館山市立博物館になっています。


駐車場
麓には無料の駐車場とトイレが完備されています。


里見茶屋

前回来た時にはあったのかなあ?
全く気付かなかったお団子屋さんなのですが、テレビで見て寄ってみたかったのですが
朝なのでまだ開いていません。



孔雀園に行く道です。
台風15号の影響で立ち入り禁止になっていましたが、現在は開通しているようです。



本丸への道も立ち入り禁止とされていましたが現在は通ることが出来ます。


彫刻の径

台風15号により倒れた木です。


館山市立博物館本館

ここは、「館山市の歴史と民俗」をテーマとする博物館です。
日曜・祝日は甲冑の体験着用ができます。
※現在台風15号の影響により休館中です。10月1日より開館予定



本来は企画展をやっていて、館山駅開業100周年記念展「鉄道がやってきた」というテーマの展示をしていたそうです。
館山駅のお花の管理をされている女性の方が見て欲しかったなあと残念そうに語ってくれました。



こちらも災害時帰宅支援ステーションになっています。



道に倒れていた桜の木も徐々に撤去したりされているとのことです。


つばきの径
頂上へと続く「つばきの径」は、階段沿いに約900本の椿が植栽されています。


駐車場
本丸から一番近い駐車場です。
一般用ではなく、身体の不自由な方専用の駐車場が設けられています。


茶室「雁月庵」

茶会だけでなく会議や行事など多目的に利用が可能な会場です。



この階段を登って、いざ、本丸へ。
ちなみに正面の道はまだ立ち入り禁止のままです。


本丸跡

朝、ラジオ体操をするために地元の方々が集まって来ます。
いろいろな城跡を朝に巡っていると、ラジオ体操をしている光景をよく目にします。
これがとても羨ましい。


浅間神社


千畳敷

千畳敷と呼ばれる本丸の広場。


里見桜の由来

この桜は、里見氏が国替えとなり里見忠義の最後の地であり、
里見八犬伝の発祥の地である鳥取県倉吉市との交流として、
里見氏発祥の群馬県有志らと一緒に植えられたという桜の木です。


城跡碑
城跡碑の隣には説明の書かれた石碑と、里見の千万猿の像があります。


館山城(八犬伝博物館)

こちらも10月1日からの開館となる予定です。
以前訪れた時は里見八犬伝の話をして下さいました。


天守からの眺め

こちらは以前訪れた時のものです。
この時は晴れていました。



海無し県から来ると、やっぱり海は良いものです。
しかも、天守からこんな景色が見えていたのかと思うと良いよなあ


恋人の聖地
関東の富士見100景に選ばれている場所です。
館山市が、プロポーズにふさわしいロマンティックなスポットとして「恋人の聖地」
としても選定されています。
いつからあるのか知らないですが、こんなところがあったとは、
知っていたらここでプロポーズされるってもいいかなあ。
ちょっと、ここでやりなおしてくれないかなあ



結局この日は富士山は見えませんでした。
ラジオ体操終了とともに地元の方と一緒に下山することに。



途中に居たにゃんこ。
こちらの城主さまかと伺ってみましたが、そうではないとのこと。
普段見かけない迷いにゃんこだそうで…。


台風の被害に遭いながらも、ラジオ体操をするために本丸に集まる地元の方々といっしょに
ラジオ体操に参加させて頂きました。
みんな元気にしているかどうか、確かめ合っているかのようでした。
被害に遭われた方々も行政のもどかしさを責めるような発言をせず、むしろいろいろ言われて
大変なんだし、自分たちよりもっと大変な人がいっぱいるんだから…と言い、
毎日ゴミ拾いをしながら帰るんだよと話してくれました。
今回、桜の名所でもあり80年ものの桜の大木を沢山失ってしまったことを悲しんでいました。
復興と言っても東日本大震災や熊本地震などあちこちの自然災害での復興の遅れを
どうしてあんなに時間がかかるんだろうと思っていたけど、実際自分が被害を受けてみると
その理由が分かった気がする。時間がかかるものなんだって実感してると
おっしゃっていました。
もっともっと個人的なお話をしてくれた方などもいらっしゃいましたが、
ニュースを見ているのと、現地の生の声を聞くのとでは随分違うなあと感じました。
私に出来ることと言ったら話し相手になるとか現地のお店で金を落とすことくらいしかないですが
それでも歓迎してくれる温かい方が多いことに感動しました。
どこへ行っても、また来てねと言ってくれるのがとてもうれしかったです。
落ち着いたらまた必ず訪れますね!



平成18年1月1日登城
令和元年9月15日再登城



図説 房総の城郭
千葉城郭研究会
国書刊行会



高松城(埼玉県)

2019年09月25日 | 百名城以外の城
高松城たかまつじょう
別名武蔵高松城
構造山城
築城者長尾氏
築城年代戦国時代
指定史跡
場所秩父郡皆野町下日野沢 地図

高松城は、戦国時代北条氏邦の家臣逸見若狭守が居城した城です。
秩父盆地に最後に残された上杉側の拠点といわれていますが、
1561年(永禄4年)高松城に立て篭もる上杉勢を威嚇して、
城の明け渡しを要求、北条側の鉢形城を中心とする秩父制覇を成し遂げました。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻めの際に本城である小田原城落城と共に終わりを告げることとなりました。



入口

どうやらここが高松城への道がある場所のようです。



しかし、工事関係者以外立ち入り禁止になっていてこれ以上進むことは出来ません。



残念ながら、ゲートもあって完全に入ることは出来ません。


農山村具展示館入口

攻城団での攻城メモによると「皆野町農山村具展示館に出土物や模型が展示されているようです。」と
唄方さんが書いていたのを見て、何か手掛かりがないものかとやって来ました。



ここは高松城から少し離れた場所で、皆野町の中心部を挟んで反対の山にある
美の山公園へ行く道の登り始めのカーブの入口です。
入口がカーブの途中だったので、最初は通り過ぎてしまいました^^;


本日開館中!

開館しているのは毎月第四日曜日のみです。
その他に埼玉県民の日の11月14日は開館しているとのこと。
開館していると、このように「開館中」と表記しています。


駐車場
道路の入口から矢印の看板に従って進んで行くと駐車場へ到着。


皆野町農山村具展示館

駐車場の一段下に皆野町農山村具展示館の建物があります。


玄関

玄関を入るとすぐに職員の方が声を掛けて下さいました。
高松城のことを調べに来たことを告げると、いろいろ説明して下さいました。


模型
ありました!高松城のジオラマ模型です。
ありし日の高松城の縄張りが確認することが出来ます。
というか、今はもう削られて形が変わってしまった城域はこのような形であったことを知る
材料はここでしかないのかなと…ちょっとさみしいことですが仕方のないことです。


古銭
昭和49年、珪石鉱山として開発されるにあたり発掘調査がされました。
その発掘調査で出土したものが、こちらで展示されています。
武具や生活用具、穀物類など出土しています。
柱穴や井戸跡、炉跡などの遺構もあったようです。


CD

受付のところに置いてあるチラシなどの資料とともに、こちらのCDもいただくことが出来ました。


チラシ
こちらの資料には発掘前と掘削されたあとの写真で違いをみることが出来ます。
とても残念なことですが、私有地だったために遺構を残すことは出来なかったそうです。



本来この皆野町農山村具展示館は「皆野町有形民俗文化財収蔵庫」と言って
考古資料や民族資料を保管しておくための倉庫だそうで、
重要文化財を含め、多くの重要資料が保管されています。
しかし、保管しているだけではもったいないということで月に1度だけ
このように公開しているそうです。
入館無料なのでぜひ、月に1度の貴重な第四日曜日を狙って訪れてみてはいかがでしょうか。
ちなみに、私有地でもある高松城跡には行くことが出来ないし、
城跡碑はもちろん標柱や案内看板なども設置されていないのでどこをもって
攻城としてよいのかわかりませんが、高松城のことに触れるとしたら
今のところ、皆野町農山村具展示館を訪れるしかないのかなと思われます。


令和元年9月22日登城


参考本
日本城郭大系〈第5巻〉埼玉・東京 (1979年)
平井 聖
新人物往来社



関東の覇者 戦国北条騎馬兵Tシャツ 侍気分戦国Tシャツ (L)
クリエーター情報なし
メーカー情報なし


阿左美氏館(埼玉県)

2019年09月23日 | 陣屋・館
阿佐美氏館あさみしやかた
別名阿左美館
構造居館
築城者阿左美左馬助
築城年代1694年(元禄7年)
指定史跡町指定史跡
場所秩父郡皆野町下日野沢 地図

日野沢川左岸の山腰に築かれた居館は、今も見事な石垣が残っています。
二重、三重に巡らされた石垣の角には、三ヶ所の食違い門が設けられていました。
戦国時代、鉢形城主北条氏邦に仕えていた阿左美氏は1569年(永禄12年)に
武田信玄が派遣した甲州勢を追い返し、その時の軍功により名字を朝見に改めました。




駐車出来る場所が無いかと辺りを見渡すと、入口付近のバス停向いの路肩に
待避スペースがありました。
乗用車サイズ以上になると道路にはみ出してしまいますが、軽自動車なら
ギリギリ路肩に停められます。


入口
標柱があるのでここから坂を登って行きます。
けっこう坂がキツイです^^;


虎口

館の虎口にやってきました。
この先は民家なので入れません。
しかし、実際はこの民家の奥にも見事な石垣が見えます。



民家入口には案内看板が立てられています。


案内看板

一番大きな石垣の脇に添えられた案内看板。



この石垣の折れがたまらん(*^_^*)



南面の西側にも草に埋もれてますが立派な石垣が確認出来ます。
段々になっているんですよね。


庭園

この奥、ちらりと見えてる池がお分かりになりますでしょうか?
民家の敷地内にある庭園は昔からあるものらしく案内看板にも
そのことが記されています。
民家真下にあるので撮影はかなり控えめに。



それにしても見事な石垣です。
ちなみに、このように同じ石で積まれた石垣は集落のあちこちで見られます。
但し、このように高く積まれたところはやはりここだけでしょう。
石垣の高さや囲い方で威厳や格式が見えて来ます。



一番上の段の石垣です。
良い石垣なのですが藪になっています。



とても素晴らしい石垣です。
ぜひ、みんなに見て欲しい三段構えの石垣です。
何分民家(子孫の方がお住まい)があるのでそうも言えないのですが
い~仕事してますよ
個人的感想ですが、七尾城や岩村城とは言わないにしても
全体が見えたらそのくらいの見応えがあるのでは
ないかというほど迫力十分の造りです。


令和元年9月22日登城


参考本
日本城郭大系〈第5巻〉埼玉・東京 (1979年)
平井 聖
新人物往来社



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横山城(長野県)

2019年09月20日 | 百名城以外の城
横山城よこやまじょう
別名善光寺横山城
構造平山城
築城者不明
築城年代南北朝時代
指定史跡
場所長野市長野 地図

善光寺を見下ろす位置にある横山城は、軍事的施設として重要視された城郭で
南北朝時代には守護所が置かれていました。
周囲には 旭山城や葛山城を拠点とした戦場でもあり、
武田信玄と上杉謙信が対峙した川中島合戦も繰り広げられた地域です。



駐車場

こちらの駐車場に停めさせていただきました。


長野市立城山公民館

城山公民館のある場所も二ノ郭になります。
こちらの駐車場を利用させてもらうために受付へ行ってお願いして来ました。
あわせて、パンフレットか資料が無いか尋ねてみたのですが残念ながらそういったものは
置かれていませんでした。


案内看板

城山公民館入口に掲げられている案内看板。



主郭から公民館の方まで続いていた二ノ郭はこの道路で分断されてしまっています。
一見堀切のようにも見える道路ですが、単に二ノ郭に道路を通してしまっただけです^^;



道路を渡って、彦根別神社の境内へ。


二ノ郭

二ノ郭は公民館の方まで続いていたことを思うと、
かなりの広さ(長さ)があるように思います。



では、神社のある主郭へと行ってみよう!


彦根別神社拝殿

善光寺よりも高い場所に位置する神社が主郭です。
善光寺を見下ろしてしまうなんて!


主郭(西側)

西側は木が無い状態だと善光寺平が覗き込むように良く見えたことでしょう。
実際は善光寺にも布陣したり、城域として使われていた記録も残っています。


主郭(東側)

明治天皇駐蹕之処碑があります。


階段

東側の階段を下って再び二ノ郭へ。



この奥は先には長野地方気象台があります。
長野県民には馴染み深い、よく天気予報などで聞く観測所はここにあったんですね。


小郭

東側は段々の小郭で、ここから攻めて来る敵を狙い撃ちして
防御していたものと推測されています。



主郭の北側は土塁で高く盛って背後の防御としています。


善光寺
西側の眼下には善光寺があり、横山城と善光寺が一体となって
軍事的な場と政務の場として利用されていました。
背後には葛山城、旭山城が聳えます。



今度は公民館の南側にやって来ました。
二ノ郭南側にあったとされる横矢枡形の下の郭です。


帯郭

南側から東側にかけて帯郭で敵の侵入を防いでいます。
ここでしばし、城下を見下ろしていたら…熱中症になってしまいました。
故障していることに気付かずに、白とびするカメラと
ずっと炎天下で格闘していて日射に負けました


善光寺へは小学校4年生で社会見学に来て、お階段巡りでワクワクドキドキしたのを覚えています。
その後、大人になってからそのドキドキを再び味わいたく訪れたのですが
子供の頃には真っ暗だった縁の下も、行燈が灯り明るくなっていてドキドキ感は薄くなっていました。
それ以来、門前にある七味の八幡屋磯五郎へは行ったのですが善光寺には寄ってませんでした。
それにしても、こんなすぐ隣に城跡があったとはね



令和元年8月11日登城


参考本
信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版

白浜城(千葉県)

2019年09月17日 | 百名城以外の城
白浜城しらはまじょう
別名
構造山城
築城者白浜氏
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所南房総市白浜町白浜 地図
御城印南房総市道の駅とみうら「枇杷倶楽部」・南房総市道の駅三芳村「鄙の里」

15世紀後半、関東管領上杉氏の勢力がこの地を領有していました。
房総里見氏初代とされる里見義実が安房に入り、最初の城がこの白浜城でした。
麓の青根原神社周辺は居館があったと思われる地名が残されています。
前期里見氏の有力家臣である木曽氏の子孫とされる人々が集住しています。
また、城跡は第二次世界大戦中に軍用地として使用されました。



遊歩道入口
大手道とされるのは青木観音堂とされていますが、
今回はみつけやすかったこちらの「じょう山展望台入口」の方へやって来ました。


案内看板
この案内看板は丈夫だったようで健在です!


白浜里見古道

足元には壊れた看板枠があり、看板は土手下へ飛ばされていました。


櫓口
台風15号の影響で、道には篠が覆いかぶさり、道の奥を覗くと薄暗く、
とても先へ進む気にはなれませんでした。
きっと途中には倒木もあることでしょう。
危険そうなので踏み込むのは断念しました。
展望台から海を眺めてみたいので、またの機会ということで
お楽しみはとっておきましょう。


稲村城でお会いした地元の方にお城好きの方がいらして、白浜の方にも被害が出ているので
困っている人が居るかもしれないので、そちらの方に行ってみては?と教えていただき、
「そこにも良い城跡があるよ(^_-)」とも教えてくれました。
そして白浜城へ来る前に南房総市 白浜コミュニティセンターにも寄ってみました。
電線にビニールハウスのビニールが引っ掛かって停電している地区があると聞き
場所を教えていただいたのですが、既にそこも復旧されていたので
白浜城の入口を確認だけして引き返すことにしました。
こちらの城跡も安全が確認できるまで、しばらく登城は控えた方が良さそうですね。
無理して怪我でもしたらかえって地元の皆さんに迷惑や心配をかけかねないですからね。
一日も早い元の生活に戻れることを心よりお祈り申し上げます。


令和元年9月15日登城



天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)
磯田 道史
中央公論新社

岡本城(千葉県)

2019年09月16日 | 百名城以外の城
岡本城おかもとじょう
別名
構造平山城
築城者岡本氏
築城年代不明
指定史跡
場所南房総市富浦町豊岡 地図

もともとこの土地の豪族である岡本氏の居城で、1570年(元亀元年)に
里見義弘の要請により岡本氏は城を譲渡し千代村に移ると
義弘は岡本城の改修をして弟であり養嗣子の義頼を置きました。
義弘の死後義頼と実子梅王丸との間で抗争になり里見氏は衰退しました。



登城口
旧道から細い道を入るとトンネル手前に「里見氏城跡 岡本城跡」の看板があります。



台風15号の影響で、付近はまだ停電したままでした。
信号機は発電機により点いている場所もありますが、まだ消えている場所もありました。
館山、白浜の方まで行ってみたのですが、岡本城のあるこの辺りは特に被害が大きいようです。
建物の破壊も激しく、大変なさ中にもかかわらず、登城道を整備されている地元の方々が
いらっしゃいました。
もちろん、登って行ける状況ではないことは一目でわかる状態なので登城は遠慮しましたが
地元の方は「落ち着いたらまたぜひ来て下さいね」とおっしゃって下さいました。
館山城の方々、稲村城の方々、岡本城の方々、みなさん自宅が被災しているというのにお城の整備を
してらっしゃるのには、ほんとびっくりしました。
地元自治体の決め事とは言え、自分たちの管轄する役務を全うするという
姿勢と責任感が、話していてすごく感じられました。

必ずまた行きますからね~(^o^)/


令和元年9月15日登城


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荘田城(群馬県)

2019年09月13日 | 百名城以外の城
荘田城しょうだじょう
別名和田屋敷
構造段丘
築城者沼田景泰
築城年代1247年(宝治元年)
指定史跡市指定史跡
場所沼田市井土上町386−8 地図

沼田氏発祥の地で、利根氏は平将門討伐戦に加わり、平氏一人を伴ってこの地に戻り、
井土上の和田に館を建てて住まわせ、庄田氏・沼田氏を称しました。
七代の経家と孫の大友能直と重縁の三浦氏が北条時頼に亡ぼされた際、
一族の一人が逃れてきて、沼田景泰と称し城郭を築いた。
小沢城に移るまでの8代158年間の居城で、往時は城跡外に荘田沼がありました。
現在、熊野神社がある場所が本郭跡になります。



駐車場

熊野神社脇に駐車場があります。
上段から車で来ると、道下に駐車場が見えますがダイレクトに行くことは出来ません。
神社入口のある下段から入って下さい。



駐車場から見た神社裏にある小川は堀の名残と思われます。


本郭跡

本郭は眺めの良い上段かと思いきや、
下段の神社があるこの場所にあるのが以外でした。
予想を裏切られた感があるので、もっと詳しい縄張りが知りたいところです。


案内看板

案内看板と標柱が熊野神社入口にあります。


熊野神社

まずはこちらでお参りを。



完全に公園化されているのでもはや見るものは公園でしかありませんが、
冠木門が見えたので行ってみることにします。


冠木門

冠木門はあれど、公園のモニュメントのひとつでしかないような感じです。


荘田城址の歴史

荘田城の発祥から移り変わりが年表になっている看板です。


牛石・馬石

右側が牛石、左側が馬石です。
沼田景泰が小沢城へ移る際、乗っていた牛や馬が景泰との別れを悲しんで
石に化けたという言伝えがあります。


古代体験広場

ここでは井土上町下区長の許可を得れば、バーベキューをすることが出来るようです。



上段に登る道です。
上は公園になっているのでこの他にも上に繋がる道があります。
ちなみに、駐車場からも上の道に出る道があります。(3本ほど上に登る道があります)


時計台

公園の上段へやって来ました。
こちらは荘田城というよりはそれよりずっと前に築かれた
古代の様子が再現されていたようです。


物見櫓跡

以前はここに物見櫓があったようですが、現在はこのように建物部分は撤去されています。


堀跡

古代の溝跡とされている場所が復元されています。
この奥に、以前は竪穴住居が復元されていたようですが
こちらも現在は撤去されています。


トイレ

公園に設置されているトイレ。


荘田城公園入口

上段の道から入る入口ですが、この辺りには駐車場がありません。
この入口には公園の案内看板も設置されています。



入口にある案内看板は木の陰に埋もれています。^^;


荘田城址公園案内図

上段だけが公園かと思っていたら、上段、下段とも合わせて
荘田城址公園だったんですね。


あずまや

公園らしく遊具が設置されています。
ここからは木々が無ければ眺めが良さそうなので物見に利用したであろうと
推測出来ます。



公園として整備されているので比較的行きやすい場所だと思いますが
城跡としてはあまり遺構は残っていないのと、手元に資料が無いので
詳しい所(縄張り)がよくわからなかったのが、ちょっとモヤっとしているところです。
もう少し城郭の情報が知り得たら書き足していこうと思います。


令和元年7月6日登城



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参考書
群馬の古城―歴史散歩してみませんか強者どもが夢の跡 (北毛編)
山崎 一
あかぎ出版

須坂陣屋(長野県)

2019年09月11日 | 陣屋・館
須坂陣屋すざかじんや
別名須坂藩御館
構造陣屋
築城者堀直升
築城年代1617年(元和3年)
指定史跡
場所須坂市須坂 地図

須坂陣屋は須坂藩一万石を堀氏が14代に渡り治めて来た須坂地方の陣屋です。
堀氏は元々奥田姓を名乗っていましたが、秀政が信長に仕えていた秀吉に
堀氏を名乗ることを許されたことで奥田氏から堀氏へと改姓されました。
現在跡地には須坂小学校と奥田神社があり、須坂小学校北側に石垣、
神社境内に鐘楼が残されています。


鳥居

大手道から見た奥田神社です。
駐車場は教育会館の駐車場を利用しました。


案内看板

鳥居をくぐって、左手にある案内板です。


須坂藩 館の図

江戸時代末期に描かれた須坂藩館の図です。
版籍奉還後に東京鎮台の所轄となり、廃城となりました。


詞碑

須坂町役場から上高井教育会館と使用され、役目を終えたたことの記念碑です。
堀氏の御館時代から長い間藩政の中心であり、近代まで町政の要の場所でした。


手水

結局この日は周辺散策のせずに奥田神社へ参拝して次へ。
いつもながら急ぎ足の訪問となりました。


由緒の石碑
上高井招魂社の由緒が書かれた石碑です。


上高井招魂社

戊辰戦争での戦没者とシベリア事変、支那事変、日支事変、大東亜戦争の将兵の
英霊を合祀し、「須坂護国神社」とされ臥竜山にありましたが、明治12年4月に
この地へ移祀しました。


奥田神社
奥田神社は、堀氏のもとの姓である奥田氏の神社で
初代藩主直重と13代直虎を祀った神社です。


鐘楼

教育会館敷地内にある「時の鐘」は、須坂藩第8代藩主堀直郷公が造り、館の北西隅に建てたと伝わります。
しかし、鐘は第二次世界大戦で供出してしまったため、現在の鐘は平成12年に寄贈されたものです。



奥田神社を「叒譜の杜」に。
江戸時代に描かれた桜の図鑑が市の指定文化財として市の博物館に所蔵されています。
その直虎公が描いた図のように境内を「叒譜の杜」にしようという計画のようです。



最初、小学校側の石垣を「見事だなあ~」と見ながら歩いているところに
犬の散歩をしている女性が歩いて来て、私を不審そうに見ていたので
そのまま何もなかったかのようにあいさつしながらすれ違い、奥田神社へ行きました。
相手からの返事は無く…とてもカメラを構えられる状況ではなかったので、
石垣をカメラには納めることなく、通り過ぎて来てしまいました。
石垣はカメラには納められませんでしたが、小学校と神社の間には確かに石垣と水路が残っていることを
この目で確認出来ました。
カメラ2台持ちはやっぱり異様なのでしょうか…余程関わりたくなかったのでしょうね
何もしてないんですけど


令和元年8月11日訪問



こちらの本を参考にしています
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
宮坂 武男
戎光祥出版

福島正則館(長野県)

2019年09月09日 | 陣屋・館
福島正則館ふくしままさのりやかた
別名福島正則屋敷・福島城
構造居館
築城者福島正則
築城年代1619年(元和5年)
指定史跡県指定史跡
場所上高井郡高山村高井 地図

関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が広島城を福島正則に明け渡し萩城へ移ったのですが、
台風被害で崩れた広島城の石垣など修復した際、幕府に無断で石垣を改築したと武家諸法度の法に触れ、
1619年(元和5年)改易となりました。
その後、信州高井郡2万石と越後魚沼2万5千石の合計4万5千石を与えられ、高井野の地に住居を定めました。
しかしここでの生活は短く、わずか5年でこの世を去ることになります。64歳、病死でした。
信濃に来た正則は、検地や治水、新田開発と民政に尽くしたと伝わります。



火の見櫓と標柱

県道沿いに見える火の見櫓。
その脇に見える標柱には「福島正則屋敷跡」とあります。
その下には立派な石垣もあります。


石垣
古そうな石垣、これは屋敷の石垣だとすぐに分かりました。
間知ブロックと違ってひとつひとつの石の形、大きさが違うのがそそられます。




県道から石垣に沿って西側の道を入って来ると高井寺の入口に来ました。
石垣はまだ南へ続いていますが、とりあえずお寺の正面からお邪魔しようと思います。


案内看板

門の手前右側には「福島正則屋敷跡」の案内看板があります。
広島城を改易になった話は有名なので知っていたのですが、
恥ずかしながら、その後長野に来ていたことを知らずにここへ来てしまいました。^^;




朱色の屋根が印象的です。
福島正則が居館としていた期間の前後は高井野陣屋が置かれていました。
陣屋が廃された後に、この地へ高井寺が移って来ました。


本堂

現在屋敷跡には、どのような経緯があったのかはわかりませんが
1785年(天明5年)に移転してきた高井寺が建っています。
北の道路側にあった空堀はこの移転して来た頃埋められたと思われます。
こちらのお寺にはいつ誰が描いたのか分かりませんが福島正則肖像画と、
「義助」と銘の入った槍先、仏舎や掛軸などの貴重な資料が残されているようです。


寺紋
浄土真宗本願寺派の寺紋のようです。
西本願寺の宗派だそうです。


境内

この写真の左奥(筆塚の裏)に車が置けます。
道路は狭いので車はこちらに置かせていただくのが良いと思われます。



正則没後は、幕府役人の検死を受ける前に荼毘に付したことを問われ、
御家断絶、所領没収となりました。


筆塚

地元文人らの筆塚と記念碑があります。
筆塚は、寺子屋などで文字を習ったりして使い古した筆を
供養するための塚だそうです。



この南面と西面の石垣は1855年(安政2年)に築いたことが
記録されていて、古城跡はこの石垣を築く時の改修によって失われたことも記されています。



左の住宅地はかつて馬場があった場所です。


城之内御判屋(高札場)
館跡の周囲を散策していると、城之内の南側に高札場がありました。
この建物は昭和59年に復元されたものです。
長野県内では最大級のものとされています。



現存する高札7枚は、高山村歴史民俗資料館に保管されています。


本堂裏に残る土塁を見逃して来たようです。
周囲を一周してみたのですが、道から入った場所にある場合いは
見逃してしまいます。
先に情報が頭に入っていないと残念なことになっちゃいますので
この後訪れる方、本堂裏の祠のある土塁を見て来て下さいネ


令和元年8月11日訪問


こちらの本を参考にしています
縄張図・断面図・鳥瞰図で見る信濃の山城と館〈8〉水内・高井・補遺編
宮坂 武男
戎光祥出版

遠照寺(長野県)

2019年09月07日 | その他
遠照寺おんしょうじ
別名
構造寺院
造営者最澄
造営年代821年(弘仁11年)
指定史跡市指定史跡
場所伊那市高遠町山室2010 地図

遠照寺は、桜の名所で有名な伊那市高遠のはずれの山間にあります。
1200年ほど前に薬師寺が建立されたことが始まりと云われています。
昭和58年に亡くなられた住職を弔うために植えられた3本の牡丹苗が増え、
今では「牡丹の寺」としても大変有名です。
江戸時代の大奥で起きた絵島生島事件で高遠に流刑された絵島の分骨墓があります。


駐車場

駐車場に車を置きます。
ずいぶん久しぶりにやって来ました。


山門

山門をくぐると、両脇には檜の大木があります。
これはなかなか立派なもので、国内産だし、売買するとなると相当高値がつくだろうなあ…なんて
煩悩全開で散策開始


梵鐘

境内入口付近にある梵鐘。


本堂

まず目に飛び込んで来たのは「井伊の家紋!」なぜ???でした。
しかし、これはお寺では家紋とは言わず寺紋というもので井伊家の家紋ではありませんでした。



小学生の頃にこちらに夏休みの宿題?だったか
友達数名で住職に取材をさせていただいたことがあります。
その時に見た小堀遠州の流れを汲む「亀島庭園」や、織田軍が高遠城攻めの際持ってきたという「陣太鼓」、
姫が載ったという駕籠があったのを思い出します。
現在これらは拝観申し込み所で申し込んでから拝観出来るようになっているようです。


南無庵

こちらでは拝観の申し込みや、十割そばを食べることが出来ます。



看板猫?がお出迎え。


日蓮宗の寺紋

先に口走った「井伊家の家紋!」は日蓮宗の寺紋です。
日蓮上人の家紋がこの井桁に橘という井伊家の家紋にそっくりなものですが
そもそも日蓮上人は井伊家から分かれた家系なんだそうです。



改修してまだ数年しか経っていない感じですね。
昭和の改修では私の祖父が改修を行ったと子供の頃から聞いています。
そこから?十年…改修されてたんですね。
そして、いろいろ話をして下さった住職が亡くなってぼたん寺となっていたんですね。
時が流れるのが早いと感じてしまうのは年を重ねた証拠ですね。


釈迦堂

入母屋造りの釈迦堂は1538年(天文7年)の建立で、
中には1502年(文亀2年)の建立の多宝塔が安置されています。
大工は高遠の鉾持に住む池上左衛門太夫政清とその一族であることが
塔内部に墨書で記されていることで判明しています。

実は、ここより上にある七面堂にある天井絵や欄間を見に来たはずが見つけられず、
この後「記憶違いか?」と別のお寺に行ってしまいました。
次はちゃんと見せてもらうように申し込みしてみよう。


薬師堂

1473年(文明5年)日朝聖人によって天台宗から日蓮宗に改宗され妙朝山遠照寺となりました。


眼病御守護の日朝様

日朝聖人は日蓮聖人の再来と崇められ、眼病御守護の日朝様として崇拝され、
「山室の日朝様」と近郷広く仰がれた名僧です。


絵島様分骨の墓

薬師堂の隣にある絵島様分骨の墓です。
高遠に流された絵島は、最初の6年間を長谷村の非持にある囲み屋敷で過ごしました。
漢字の書を借りたことが縁となり、遠照寺へ参拝するようになりました。
遠照寺では藩の許可を得て「絵島の間」なる一室を設けて絵島を迎え入れました。
こうして、絵島にとって上人の説法を聞いたり、上人と碁を打つことが唯一の楽しみとして過ごしていました。
そんな縁もあり、この墓には絵島の歯と髪の毛が納められています。
ずっと囲み屋敷に閉じ込められていたのかと思っていたら、
出掛けられることがあったんですね。



お寺で手打ちの十割そばが食べられるのですが、以前食べたのは
20年近く前のことだったでしょうか。
冷たい麺類が苦手な私が、ここで食べた蕎麦が美味しいと思い、
それ以、来冷たい蕎麦も食べられるようになりました。
その時に蕎麦湯もいただいたのですがここで頂いた時の蕎麦湯が
今でも忘れられず、ここの蕎麦湯を超えられるものにまだ出会っていません。
今もここで蕎麦が食べられることが確認出来たので、次は家族を連れて食べに来たいです。



令和元年8月15日訪問



高遠藩 (シリーズ藩物語)
長谷川 正次
現代書館

六川陣屋(長野県)

2019年09月05日 | 陣屋・館
六川陣屋ろくがわじんや
別名椎谷藩六川陣屋
構造陣屋
築城者堀著朝
築城年代1792年(寛政4年)
指定史跡町指定史跡
場所上高井郡小布施町都住101-1 地図

六川陣屋は椎谷11代藩主堀著朝の代から六川に陣屋が置かれ
明治の廃藩置県まで続きました。
支配領地は、六川・中子塚・中条・清水・羽場・中山田・奥山田・草間・大熊
中御所・問御所の11ヶ村でした。
藩祖は堀直之で、藩祖の父堀直政は主家堀秀政の与力大名として活躍しました。



小松軍治翁碑

六川通りにやって来ました。
陣屋の御門があったであろう場所付近に石碑です。
御門跡とでも書いてあるのかと思って近寄ってみると「小松軍治翁碑」と記してあります。



小松軍治翁碑の道向かいにも何やら石碑がありました。
木に埋もれて何の石碑なのかわかりません。
田畑に水を引き込むための水門でもあった場所なのか・・・?
小松軍治という人物もわからないのでどちらの石碑ももう少し調べて
分かったことがあったらまたここに書き込もうと思います。


六川大庄屋(寺島家)

寺島家は代々六川村の名主役を務めていました。
椎谷領となってからは元締として大庄屋役となり、寺島家からは椎谷藩代官も務めました。
俳人「小林一茶」が訪れたことでも知られています。



この先、奥に神社と高札場、六川陣屋の案内看板があります。
※駐車場はありません。



椎谷藩領となった際、陣屋が置かれ寺島善助をはじめとする豪農4人が
六川役所勤めをしていました。


標柱・高札場

復元された高札場と六川陣屋跡の標柱があります。
長野市内では多く見られる高札場で、見慣れて来ました^^;


案内看板

高札場の向いには案内看板があります。


縄張図
慶応4年現在の新計画縄張図。
新計画とあるのでこの図のようになっていたのかは不明です。
点線で記された御殿や奥御殿の辺りが新計画の部分でしょうか。


一茶の句碑

よ~く見たら、小林一茶の句碑でした。
陣屋跡の一棟に邇言学校を設置、文化人が江戸から集う土地柄だったようです。


奥田神社(稲荷)

神社になっていることでここだけは公共の場となっていますが
周囲は宅地になっているため、陣屋跡を散策というわけには行かず
その面影は残念ながらあまり偲ぶことは出来ません。


民家の中にある神社。
車で走っていると見落としそうな場所です。
それでも六川通りを注意深く、きょろきょろしていると石碑や看板があるので
見落としを含めるとまだまだ散策の余地がありそうです。


令和元年8月11日訪問



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