むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

一乗谷城(福井県)

2019年08月31日 |  百名城
一乗谷城いちじょうだにじょう
別名
構造山城
築城者朝倉孝景
築城年代築城年代 1471年(文明3年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所福井市城戸ノ内町 地図
スタンプ設置場所「復原街並」入口(南・北)
御城印復原町並南入場口受付
城郭検定出題あり

一乗谷全体を城郭とし、越前朝倉氏の居城でした。
山麓の居館部と、詰城としての中世山城の一乗城で構成され
連郭式の縄張りで織田信長の侵攻に備えられた畝状竪掘群が見られます。
山麓では町屋や武家屋敷など復原されています。



案内看板

一城谷朝倉氏遺跡資料館にある案内看板です。
こちらで予習をし、パンフレットを入手していざ一城谷へ!


下城戸跡

一乗谷へ入ると石碑の立つ下城戸跡が見えて来ます。
これより特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡となります。


土塁

土塁と外堀、矩折形の城戸口があります。


木戸口

この敵の侵入を防ぐ、直角に折れている石垣がなかなかの迫力です。


平面復元地区

多くの家、屋敷が密集していたのがわかります。
一区画(一軒)はあまり大きくないですが、その数はかなりの戸数あると思われます。


井戸

とにかく井戸の多いこと。
各戸に井戸が設置されていたようです。
こんなに沢山の井戸が見られる場所はかつてあっただろうか…。
井戸があると必ず覗いてしまうのが性ですが、さすがにこの数は覗ききれません^^;



こんな井戸跡もあります。



この時代、各家庭に井戸があるなんて贅沢じゃないですか?
もちろん復元されているのは井戸だけでなく、便所や墓地といったものまで
復元され、町の様子や暮らしぶりが想像しやすくなっています。


御屋形橋
一乗谷川に架かる橋です。


堀と土塁

館を堀と土塁です。
右奥は「中の御殿」があり、朝倉義景の母である光徳院の屋敷跡と伝わります。


柳の馬場

「越前朝倉万灯夜」の開催期間に訪れたので、周囲は朝から準備に追われているようです。
また約15000個のキャンドルでライトアップされてるということで
歩く場所に沿ってキャンドルが並べられています。
この日は戦国時代行列で攻城団団員の瀬戸浩太郎さんが足軽として出陣するとのことでした。(団員総会談)
時間の都合でお会いすることは出来ませんでしたが活躍ぶりはネットを通して見られました


唐門

江戸時代に松雲院の山門として建てられた唐門は一乗谷城のシンボル的な門です。
本来ここには朝倉館の西正門が建てられていました。


朝倉館跡

館の柱跡、位置が分かるように復元しています。


蔵・武者溜・井戸

中門に向かって蔵・武者溜・井戸があります。


井戸

館内にある井戸は、しっかり残っているため
中を覗き込むと、今でも水が湛えられているのが見えます。


謎の宝箱
この宝箱…どこかで見たことあるような…。
そう、昨年11月に訪れた岐阜県の苗木城です!
このような謎解きイベントがあちこちで開催されているのでしょうか。
ちなみに、調べてみたら「戦国宝探し」という参加無料のイベントを9月23日(月祝)まで
行っているようです。
ファミリーで訪れた方はここで遊びながら散策するも良いのではないでしょうか。


朝倉義景公墓所

福井藩主松平光通によって江戸時代に建てられたと伝わります。
ここには当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれましたが、
義景の法名をとり「松雲院」となり、発掘によりそれぞれ移転し、
現在松雲院は心月寺と統合されています。


常御殿

手前の長方形の花壇が日本最古の花壇遺構です。
ちなみに残存花粉の調査から、キク科、ユリ科、アブラナ科の花が植えられていたようです。



建物跡には礎石群が露出展示されています。
本当は山の上にある一乗城へ行きたかったのですが、今回も断念しました。
いつになったら行けるのでしょう…^_^;


復原町並

発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、
柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて復原されています。



以前訪れた時はこちらでお抹茶を頂きました。
しかし、この日はまだ入れる時間ではなかったため見学できませんでした。


復元された町並み

城下町の町並みや、武家や民の暮らしぶりが再現されていて
当時を偲ぶことができます。


甲冑着付け体験

大人用、子供用が揃っています。
段ボールで出来ていて実際の甲冑よりもかなり軽く出来ているので
子供でも楽に着ることが出来ます。





陣屋

以前訪れた時に宿泊した民宿です。
一城谷の中にあり、一乗谷川のせせらぎが聞こえるほど静かで長閑な場所です。
この日は御好意で二間貸していただけて広々と宿泊出来ました。
戦国時代の遺跡の中に建つ古民家だけあって雰囲気はバッチリですね。



とてもきれいな城祉風景です。
かつてソフトバンクのCMでも使われた場所です。
戦国時代にタイムスリップしたような城下町の復元は、異国に足を踏み入れたような
感覚になります。
現代を忘れて散策すると一乗谷の雰囲気を楽しむことが出来ます。
今回は一乗城に挑戦するつもりでしたが、急遽娘の用事が出来て
急いで帰宅することとなりました。
またもやお預けとなってしまいました。
しかしながら、前日登城したという攻城団団員のひよどり下総守さんに頂いた地図を見て
ちゃんと入口だけは下見しました。次回のお楽しみということで…。


平成24年5月3日登城
令和元年8月25日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

北の庄城(福井城)

2019年08月28日 | 百名城以外の城
北の庄城きたのしょうじょう
別名北庄城・柴田氏北ノ庄城
構造平城
築城者柴田勝家
築城年代1575年(天正3年)
指定史跡
場所福井市大手 地図

北の庄城は、柴田勝家が1575年(天正3年)に築城した「北の庄城」と、
その跡地に結城秀康が1601年(慶長6年)に改築した「福井城」とがあります。
1583年の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻のお市と共に自害すると、
城に火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失してしまいました。



北の庄城址・柴田公園

柴田公園には柴田神社や北の庄城址資料館が隣接しています。
今回訪れた時間が朝だったので北の庄城址資料館は閉館していますが、
前回ここも訪れています。
前日が攻城団の団員総会を丸岡城で開催しているので、ここで団員のまるさん御夫婦と
再会しました。


九十九橋

この橋が架けられていたという記録は朝倉時代にもありますが、
半石半木の橋として架けたのは、文献、絵図などから勝家公だと考えられています。
また、江戸時代には半石半木の珍しい橋として全国的にも有名でした。


案内看板

柴田勝家、お市、浅井三姉妹の説明と、柴田勝家の築いた北の庄城の想像図があります。


城址碑

7年前訪れた時は、この城址碑の奥に天守復元模型がありました。


天守復元模型

この写真は7年前のものです。
この天守は撤去されてしまったのですね。残念。
※この模型は大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の放映時期に合わせた2年間限定の
展示品だったようです。


土居

かつては百閒堀に面していたという日向門の枡形を構成する土居です。


日向門礎石

日向門は、福井城三の丸の南側の曲輪の南東隅に位置する門です。
北東に漆門(鳩の門)があったため、日向門は主要な門ではなかったようです。


柴田勝家

鬼柴田と呼ばれ強面の柴田勝家はこんな感じの方だったのでしょうかね^^;
見た目は強面でもお市をも添い遂げさせる心優しい人物だったと思いたいです。
ビジュアルは置いといて、強くて優しい男性に憧れますよね
あ、ビジュアルは置いとけない…う~ん。。。。さて、次へ





堀と石垣

福井城三の丸南に位置する曲輪の石垣です。
当時は今の石垣より高く積まれていたようです。


柴田神社

柴田神社は、柴田勝家とお市を祀る石祠を福井城内の神祠として祀ったものが最初で、
明治23年に旧福井藩主松平春嶽らにより、柴田神社が築かれました。
そして、もちろん参拝です。


美(モテ)祈願
天下一の美女といわれたお市に肖り、「モテ祈願」なるものがありました。
異性はもちろん、同性や同僚、友人や家族など様々な人から
「モテる」ことを祈願することが出来るそうです。


三姉妹神社

お市と浅井長政との娘、茶々・初・江の浅井三姉妹を祀る境内社・三姉妹神社が創建されています。


拝殿下の石垣

柴田神社と三姉妹神社の間に発掘調査で出土したままの状態の遺構が展示されています。
中を覗いてみたのですが…あまり良く見えません。(ごめんなさい)


銅像

柴田一家の銅像がこの一枚に収まっています。


三姉妹

茶々・初・江の浅井三姉妹の銅像です。


お市
三姉妹とは別に隣にあるお市の銅像です。


鳥居

こちらが、柴田神社、三姉妹神社へ参拝する際の正式な入口です。



以前訪れたのは、NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」を放映の翌年でした。
私がNHKの大河ドラマを見始めたのは「江~姫たちの戦国~」からだったので、
柴田勝家に興味を持ってこの地を訪れたのがとても懐かしいかったです。
この時も写真を沢山撮ったはずなのですが、マイクロSDカードを紛失してしまい
写真がわずかしか残ってなかったのでまた訪れたいと思っていました。
昨年福井城まで来ながら時間の都合で訪問出来なかったのですが、
今回は登城計画に組み込んでの訪問。
ようやく念願叶いました。


平成24年5月3日登城
令和元年8月25日再登城


日本酒 梵 艶つや 越前旬純米大吟醸 山田錦 720ml 加藤吉平商店
加藤吉平商店
加藤吉平商店


第3回団員総会(丸岡城)

2019年08月26日 | イベント・行事
第3回団員総会

今年で3回目の攻城団「団員総会in丸岡城」が8月24日開催されました。
1回目は二条城、2回目は名古屋城、3回目は丸岡城での開催となり
丸岡城国宝推進室の方によるレクチャーや丸岡城のガイドさんによる天守見学、
テーブルごとのトークや歓談と、回を重ねるごとに充実した内容になっています。



一筆啓上茶屋

集合場所は「一筆啓上茶屋」です。
すでに数名の団員さんが到着していたので、その方々と合流して
福井駅から出る「攻城団御一行」バスで来る皆さんの到着を待ちました。
すると、一台の観光バスがやって来ました。
「まさか、マイクロバスじゃなくて大きい観光バスのお迎えか!!」
VIPなお迎えで、ちょっと羨ましく思っちゃいました。


ランチ

団員総会は午後1時からなので、今回は一筆啓上茶屋で12時より昼食を
一緒に食べよう!ということで、希望者はランチ会からの参加となりました。
そして、福井名物の「越前おろしそば」を注文しました。


団員総会

午後1時になりました。
一筆啓上茶屋の二階にある和室にて団員総会のスタートです!
攻城団の福団長コースケさんから挨拶が始まりました。
その後、丸岡城国宝化推進室の方のレクチャーでは手元の資料とスライドで
先日行われた調査の経緯と経過をお話していただきました。
松江城が国宝に指定されたのを受けて、「丸岡城も国宝に」というのがきっかけとなり
学術的な価値を再検証するために有識者や建築史による調査研究を行いました。
細かい構造調査や測定、材木を加工した際に出来る刃痕の調査、絵図や個人所有の資料の調査など
専門家による調査の結果、なんと日本で最古の天守…ではなかったことが判明したという
ニュースに驚いた人も多いと思います。
しかし、この先も国宝化に向けた取り組みに変わりはないということなので
今後も調査は続けられます。
古い石垣の発見など新発見が続々出ているようなので今後も期待されます。
※今後、本やパンフレット、イベント等いろいろ企画しているそうなのでチェックしてみてください。



歓談の時間では、話したいことのテーマでテーブル分けされていて
私のテーブルはメンバーを見渡すと…濃い~感じ^^;
ちなみに話す内容は、土の城、山城の話で盛り上がりました。
グループ分け解除になっても、誰も私たちの居るテーブルには来てくれる人は無し…。
獣や爬虫類、虫や藪と戦う城には一般ウケしないということは分かっているけど…。
楽しいですよ、山城。。。



今年2月に東京の坂井市のアンテナショップでで行われた「城がたり」でも
漫画家の大久保ヤマト先生と河野団長のトークでも話題になった
スーパーガイドさんにガイドをしていただけるということで楽しみにしていました。
早速、外に出て丸岡城天守へと移動です!



まずは外から丸岡城天守の造りを眺めながら漆を使わないシンプルな造りと
日本一短い手紙と言われる一筆啓上の話や石瓦、福井震災で落下した笏谷石の鯱の話など
丸岡城ならではの特徴を説明してくださいました。



この場所は、丸岡城国宝化推進室の方からの説明があった場所です。
発掘調査により新たな石垣がみつかっています。
今後の解明が楽しみな場所です。
ここから、天守台の石垣をよ~く見ると転用石がはまっています。



天守内での様子です。
福井地震で一度倒壊しているのですが、火災が無かったために
元の材木を使って組み直しています。
また、人柱「お静」の伝説も有名ですが、こちらも調査した際には
柱の下からは何もみつからなかったそうです。

日本海まで見ることが出来るという、360度見渡せる良い眺めです。

まだまだいっぱい見所があるので現地でガイドさんの話を聞いて下さい。



外に出てきてみんなで記念撮影です。


17:00ちょっと時間が押しましたが、団員総会は無事終了。
ここで解散となりました。


その後福井駅に向かい、希望者で夕食会を行いました。


福福茶屋
団員のAichirouさんが予約をしてくれていたので到着した時には注文しておいた料理も
準備されていたので、こちらも段取り良く夕食がいただけました。
ちなみに私は福井名物がこの一善でいろいろ食べられるという「福井名物定食」を注文しました。

食事の場所が福福館内にある階段教室風の個室「福福小屋」で、
これは「反省会をしろということか!?」という雰囲気の部屋でしたが、
攻城団のサイトの各人の利用方法とか評価の付け方など、普段自分の利用の仕方と比較したり
「そういう使い方もあったのか!」と思うことも聞けて有意義な食事会となりました。


福井の地酒

福井の人気地酒飲み比べセットも注文してしまいました!
攻城団の方々の手前での飲酒は初ですが、これがとても美味しいお酒でいい気分になりました


へしこ

二次会では団員のCLADさんお勧めで酒の肴に「へしこ」を注文していただきました。
聞いたことはあるけれど、食べたことがなかったので食べてみました!
これがお酒に合うのなんの。
福福茶屋で呑み比べた黒龍大吟醸が美味しかったのでまた注文して呑んじゃいました。

翌朝、地元の福井新聞に大きく団員総会の記事が載っていました。
ホテルで確認して、早速コンビニへ新聞を買いに行きました。


団員総会やイベントなどで顔なじみの団員さんも増えて、
ネット上だけでない良い出会いが出来たと思います。
ネットやSNSでの出会いはちょっと怖いなという中で、運営側の管理のもと
公式で安心して語り合える場があるというのが良いですね。
新しい出会いもあり、若い人たちにも安心してお城に興味を持ってもらえたらと思います。
そして年齢を超えて共通の楽しみが語り合える喜びを実感した楽しい一日となりました。


令和元年8月24日参加


黒龍 大吟醸 720ml
黒龍酒造
黒龍酒造



鯖のへしこを一つ一つ丁寧に切り身にしました「へしこ切り身」【へしこ】【福井】【福井名物】【保存食】【発酵食品】22720
越前そばの里
越前そばの里

小布施陣屋(長野県)

2019年08月22日 | 陣屋・館
小布施陣屋おぶせじんや
別名一ノ木陣屋
構造陣屋
築城者江戸幕府
築城年代1701年(元禄14年)
指定史跡町指定史跡
場所上高井郡小布施町小布施975-1 地図

ここは江戸時代中期の1701年(元禄14年)から15年間陣屋(代官所)が置かれた場所です。
竹風堂の駐車場あたりにあったという陣屋の主屋は46坪ほどで、
役人の武士や足軽などのほか、下働きの者など20名ほどが働いていました。



駐車場入口

国道403号線沿いの竹風堂の駐車場入口です。
この先有料駐車場になります。


日本のあかり博物館
竹宮堂と日本のあかり博物館の間を入った有料駐車場と、日本のあかり博物館のあたりに
陣屋はありましたが建物が立ち並び、陣屋の遺構はほとんどありません。


案内看板

駐車場側から見える案内看板です。



駐車場側から見えるこの小道の先に祠が見えるので行ってみました。


標柱

標柱のあるこの場所には稲荷が祀られており、この近くには
犯罪容疑者用の留置場もありました。



小布施の領地は六川・清水・中子塚・松村新田・雁田・福原新田・大島・小布施の8村で
この陣屋が管理した領地は、小布施の他に中野市(8村)と須坂市(16村)と高山村(5村)にもあり
その石高は19000余石であったと記録が残されています。


陣屋小路

陣屋小路と呼ばれる小道は通りから陣屋へ通じる小道が配されていました。
塀との境には石が並んでいるのが見えます。


竹風堂

小布施と言ったら栗菓子!もちろん「栗かの子」です。
実はここに来るまでに熱中症ぎみで、バテバテ状態だったので二階の喫茶で休憩することにしました。
もちろん、おみやげに「栗かの子」も購入しました。


衝立

休憩していたところで目に付いたのが、この衝立。
「この衝立は江戸時代徳川家の貴重なものです。お手を触れぬようくれぐれもお願いいたします。」
と書いてあります。
早速店員さんに撮影許可をいただき、写真を撮らせて頂きました。



狩野派の作品でしょうか。
こんなに間近に見られることはあまりないかなと思い近くで見てみました。


クリーム栗あんみつ

栗おこわや栗みぞれなど、どれにしようか迷いに迷って「クリーム栗あんみつ」にしました。
アイスクリームは抹茶かバニラが選べます。


遺構はあまり残ってませんが、小布施の町並みが、風情があって散歩するには良いところです。
和を感じる観光地で周辺には浮世絵師である葛飾北斎の美術館や造り酒屋など見所がいっぱい
なので城めぐりとは別に散策しに来たいです。


令和元年8月11日訪問


竹風堂小型詰め合せ1号
竹風堂
竹風堂

坂木陣屋(長野県)

2019年08月19日 | 陣屋・館
坂木陣屋さかきじんや
別名坂城陣屋
構造陣屋
築城者板倉重種
築城年代1682年(天和2年)
指定史跡
場所埴科郡坂城町坂城6402-1 地図

坂木陣屋は、江戸時代初期に坂木五千石の支配役所として
八郎右衛門屋敷に代官所および陣屋が置かれました。
北国街道の宿駅であり、横町・立町・新町・大門を宿場とし
幕領後は中野預かりとなりますが、引き続き代官陣屋が置かれていました。



坂城駅前

坂城駅前にやってきました。


案内看板

坂城駅前にある案内看板です。
この案内看板によると東側の石垣が遺構のようですが…。



東側にある石垣と言ってもこれ?


石垣

新しいように見えるので、遺構と言われなければ
ほとんどわかりません。



宅地にあるこちらの石垣の方が遺構のように見えます。
位置から見てもおそらくこれも陣屋の石垣と思われます。


堀跡

駅前の案内看板に記された石垣上の稲荷社を探していると堀跡らしき場所に出ました。
陣屋稲荷はどうやら別の場所に移されたようです。
調べてみると、陣屋廃止後、村人によって中条神社へ遷座されたことが
坂城町北国街道マップに載っていました。


北国街道

北国街道は、江戸時代に江戸と北陸を結ぶ街道で
ここには宿場町がありました。
それが坂木宿です。
坂城町北国街道マップ」を入手して散策するといろいろ観光出来ます。
※私はふるさと歴史館で入手しました。


善光寺道名所図会

駐車場にある案内看板に記された善光寺道名所図会です。
善光寺参拝のための道中案内記で、江戸から善光寺までのガイドブックのようなものです。
その一部で坂木宿が描かれた部分で、ふるさと歴史館で展示されています。


駐車場
ふるさと歴史館の駐車場です。


ふるさと歴史館

昭和4年の建物が建つ坂木宿ふるさと歴史館は、本陣である宮原家のあった場所です。
参勤交代の際には北陸と北信濃の諸大名が利用し、加賀百万石の大名前田家も
数千人の家臣を従えて坂木宿に宿泊しました。
本陣は宮原家、脇本陣は中沢家が務めていました。


坂木宿本陣表門

この門は、1767年(明和4年)に焼失した坂木陣屋の門を移築したものです。


表門内部

門の中を覗いてみると、家のような造りになっています。
囲炉裏まであります。


本陣宮原家跡

北側に二階建ての疑洋風建築を増改築し、
戦後は「春日医院」として病院を開業しました。
先生が亡くなると、遺族の方々が土地、建物とも町に寄贈しました。
おかげでこうして見学することが出来ます。
では、入館料を支払って見学してみたいと思います。


玄関

玄関を入ると、豊富なパンフレットと山城関連のチラシに目が奪われます!
玄関入ってすぐの居間のような部屋が診察室だったそうです。



資料やパンフレット、本の販売など充実しています。
特に山城のパンフレット(印刷物)などが豊富に置かれているのには有難い



中は思った以上に資料が充実しています。
しかも撮影もOKなのでこれもありがたいです。


村上氏の展示

1階は、信濃村上氏のあゆみと村上義清の生涯を紹介しています。


甲陽軍鑑

ご存知の方が多いと思いますが、甲陽軍鑑です。
武田信玄・勝頼の2代の甲州武士の心構えや事績・合戦・戦法・裁判などが記されている書物です。
著者は小幡景憲と高坂昌信と云われ、武田流の軍学が幕府に公認され
軍学書として写本、版本され武士一般に広く読まれることとなりました。



清和源氏の流れをくむ村上氏は坂城町を発祥とし、
名実ともに信濃を代表する北・東信濃最大の戦国領主となりました。
上田原の戦い、砥石合戦と2度にわたり武田信玄の侵略を食い止め、撃退しています。


川中島合戦屏風

村上義清は越後の上杉謙信に援けを求め、5回あったとされる川中島の戦いのうち
最大の激戦といわれる第4回の戦いまで参戦しました。
そしてこの川中島合戦屏風絵(複製)は上杉側から描いたもので
この中には村上義清の活躍も描かれています。
ぜひ、探してみてください


お手洗い
便器を置いただけの状態なのでとても使用できるものではないので
みなさん、イメージだけしてみて下さい
男性の方は竹を想像するデザインでだと思うのですが。
あ、でも花挿しにも見えるのでそこにお小水はちょっとかも。


信濃村上氏と村上水軍

ここでは信濃村上氏と村上水軍の山と海の両村上氏について
解説しています。
直接の関係は定かではないのですが、両家の村上氏を結びつけたい
心理はとても共感できるし、興味深いものです。


坂木宿と和算展示

二階は、坂木宿と和算の展示がされています。


本陣札

この本陣札は、中沢家の表門の下に掲げられたものです。


模型

陣屋と本陣、脇本陣の位置が確認できました。



江戸時代後期から明治時代にかけて、和算が普及するのですが、
近代化に向けて数学力を高めるために洋算が学校教育に採用されるようになってきました。


算額奉納

江戸時代の半ば頃から和算を木製の額に書いて、絵馬のように神社仏閣に奉納する
風習が全国的に広がりました。
算額は全国で1000面ほど確認されていて、長野県には66面が現存しています。



坂木宿からも近い村上義清公墓所へも足を運んでみました。


村上義清公供養塔

坂木村が越後高田藩領だった頃、代官であった長谷川安左衛門が
村上氏の支族「出浦氏」の土地に建立しました。


村上義清公墓所

場所
村上氏と出浦氏の子孫が守って、現在はこのように整備されています。



坂木陣屋の遺構はあまり残っていないので、遺構を探すためにも
ふるさと歴史館へ行ってみたのですが、思いの外楽しめる施設で
展示物も複製を含め、興味深い情報が沢山展示されていて充実していました。
受付の方にお話しを伺うと、快くこちらの施設の説明もしていただけました。
坂木陣屋を訪ねた際には、ぜひふるさと歴史館へも寄ってみて下さい。
周辺の山城の資料も入手できますよ

受付の方曰く、坂城町産のシャインマスカットも名産とのこと。
とても甘い葡萄なので、いちど食べたら虜になってしまいます。
今度はシャインマスカットを買いに行こうかな。。。


令和元年7月20日訪問



村上義清とその一族 (坂城町信濃村上氏フォーラム記念誌)
坂城町,笹本正治
信毎書籍出版センター


村上義清と信濃村上氏―坂城町信濃村上氏フォーラム記念誌
笹本 正治,坂城町
信毎書籍出版センター

桂泉院(長野県)

2019年08月17日 | その他
桂泉院けいせいいん
別名法幢院・龍澤山桂泉院
構造寺院
造営者月哺禅師
造営年代1353年(正平8年)
指定史跡梵鐘(県宝)
場所伊那市高遠町東高遠2322 地図

高遠城主であった高遠太郎家親が月哺禅師の高徳を聞き、城の鎮護の寺として開山したと言われます。
1592年(文禄元年)に上野国松井田の補陀寺の住僧であった荊室広林が来た際、
どんな人でも出入りができる城外に移すよう勧め、清い泉の湧き出る桂の木の傍に移し、
龍澤山桂泉院と称するようになりました。
当初法幢院は高遠城内にありましたが、1621年(元和7年)に現在の地に移りました。



山門
駐車場は本堂がある境内の方にあります。
車は境内側に置かせてもらい、立派な山門を見るため、階段を下りて来ました。


本堂

高遠城内に在った頃には、織田勢によって落城させられた際には法幢院で法要が営まれた。
現在は城外で静かに佇んでいます。


位牌堂

位牌堂は、昭和56年に仁科五郎盛信公400年遠忌を記念して建立されたものです。
ここには仁科五郎盛信・小山田備中・渡辺金太夫・諏訪はな・諸士の位牌が安置されています。


梵鐘

この梵鐘は、1582年(天正10年)織田信忠の大軍が、
高遠城へ侵攻する際に飯田市の開善寺を焼払い、鐘を奪い取って
陣鐘として打ち鳴らしながら運んで来たものです。
その後勝利した織田軍は鐘を、当時城内にあった法幢院(後の桂泉院)に
鐘を残して行きました。
1355年(文和4年)に藤原朝長によって作られました。



飯田から引きずって来たために、突起物が取れてしまっています。
擦り傷もいっぱいあります。
中学生の頃、住職さんからお話を聞きました。
ここに来るのはそれ以来でしょうか…。


桂水

ある晩、荊室広林和尚の夢の中に老人が現れ、清泉の湧き口を教えてくれました。
すると桂の木の根元から清水が湧き出しました。
やがてこの水は「桂水」と呼ばれ、高遠城内の黄金水と満光寺境内の檜水と共に
高遠の三名水と云われています。


高遠城懐古の碑

「三峰の碧水 兜城を護り 月蔵山頭 弦影明らかなり 
数万の織軍 犇めいて 塁に迫る 五郎自若として 忠誠を貫く」
と書いてあるらしいですが、もちろん、私には読めません^^;


五郎山

ここから見える五郎山の山頂には、武田勝頼の実弟である仁科五郎盛信の墓があります。
高遠城が落城した際、壮絶な死(自害)をした五郎盛信の屍を、
地元の人々が焼け跡から持ち帰ってこの山に埋葬したことから五郎山と呼ばれるようになりました。
子供の頃、遠足に行きました。
五郎山もまた、あらためて訪問したい場所のひとつです。


桂泉院には武田信玄の父である信虎のお墓や、山本勘助が高遠城を再構築するために、
ここから眺めて縄張りしたという記念の勘助桜もあります。


ここには私の中学生時代の同級生が居たことから、同級生のお父さん(住職)から
野外学習の一環としてお話を聞いたことがあります。
そして梵鐘のことがとても印象に残っていたので?十年ぶりに訪れてみました。
当時は歴史が苦手だったのであまり覚えていなかったのですが、改めて来てみると
見所いっぱいで、住職にもっとちゃんと話を聞いておくんだったなあと後悔して
しまいました。
住職も学校の先生をされていたのでお休みの日に、時間を作っていただいたことを
覚えています。
いつでも来られると思っているところほど、なかなか足を運ばないもので^^;
みんな元気にしているだろうか…。


令和元年8月15日訪問


高遠藩 (シリーズ藩物語)
長谷川 正次
現代書館

大峰城(長野県)

2019年08月13日 | 百名城以外の城
大峰城おおみねじょう
別名大峯城・大峰山城
構造山城
築城者大峰氏
築城年代不明
指定史跡
場所長野市長野大峰山 地図

善光寺の背後の山に築かれた大峰城は、天守型の展望台が建っています。
この展望台は現在閉鎖されており、周囲も木々で覆われ望見することは出来ません。
昭和37年に鉄筋コンクリートで造られた展望台建設時に逆「卍」の中に「鬼」の文字が
四つ墨書きされたカワラケが出土し、築城に際しての呪術的な儀式に使用されたものでは
ないかとされています。
遺構は一部破壊されているものの、土塁や堀切などの遺構が残っています。




終点の駐車場に到着しました。
駐車場から振り返った写真ですが、バードラインから大峰斎場方面に入り
大峰斎場から先はこのような道を登りあげますが、
道は路肩が崩れたり、穴が空いていたり、木の枝が出たりしているので
小型のRV車向きの道です。


二の曲輪

二の曲輪は駐車場になっています。
広場にはなっていますが、あまり車が往来している感じはありません。


案内看板
本来は善光寺平が見下ろせる眺望の良い場所なのですが、
視界は木々に遮られ眺望は得られず…。
確かに看板に書いてあるように緑ゆたかな森林に囲まれおります


石垣

一見、遺構なのかと思ったのですが
これはおそらく展望台建設とともに見た目を良くするために造られたものでしょう。



立派な門がありますが、その先を覗き込むと…引き返そうかと思いました^^;


展望台
シャッター付きです!
閉店ガラガラ~ですね



東側へと下る道があります。
この先横堀と曲輪に出そうですが行ってみる気になれません



主郭土壇へと登る道があります。



奥に襟のように見える土塁が残っている遺構です。


チョウと自然の博物館

1981年に収集家の方によって蝶の標本が寄贈され、約3000種類もの蝶が展示されていました。
1階と2階が博物館、3階には大峰城の紹介と出土品の展示、4階は展望台になっていたようです。


階段

本曲輪と二の曲輪を繋ぐ階段です。
草が生い茂っているわりには虫が少なく、蜘蛛の巣もありませんでした。



二の曲輪(駐車場)にはあずまやとトイレがあります。
このあずまやの裏から下る道と、曲輪が段状に続き、大手道があります。


堀切

二の曲輪にある堀切です。
右側は石垣も少し見えて、本曲輪の高い壁になっています。
この堀中は雨水を溜めておく窪地になってるそうですが、
藪に突入するのは遠慮したい。ので、中の様子の確認はしていません。



西側の曲輪と曲輪の間を区切る堀切がはっきり確認出来ます。



さて、帰ろう!と思ったところで山へ行くには虫に襲われまくるぞという
ラフな格好の男女が歩いて来ました。
一番近くても斎場だし、どこから歩いてきたのやら???
車を停められる場所も途中には無いし、車も見当たらない。
やっぱり斎場から歩いて来たのだろうか…「足はあったよね?」と確認。
「こんにちは」とはすれ違いに言ってみたけど返事は無し。
この時期ある意味、熊より怖かったぞ。



閉館になっていることは知っていましたが、見栄えの良い模擬天守があるものだと思って
とても期待して行ったのですが…夏行くものではないとわかってはいたのですが残念過ぎました。
期待していなければそれなりだったのでしょうが、見た写真がとても良かったので
久保田城伏見城を想像しながら行ってしまったのが大間違いでした。
そんな勘違いを除けば本当は、遺構も残っているし、構造や善光寺の絡みや、
川中島の戦いなどからみても面白い城跡なんですよ(^^)


令和元年8月11日登城


参考資料
信濃の山城と館〈第2巻〉更埴・長野編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版


甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館


久米城(茨城県)

2019年08月05日 | 百名城以外の城
久米城くめじょう
別名竜貝城
構造山城
築城者大掾氏
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所常陸太田市久米町2035 地図

久米城は、佐竹の分家である佐竹北家が本拠とし、山入氏と対抗していました。
本城、西城、南城の3城からなる複合城郭で南へと続く尾根上には南の出城も構築されています。
鹿島神社付近を本城とし、切岸で郭を区切り尾根筋に郭を築き
山麓には平時の居館があり、屋敷と城下町を構えていました。



駐車場

久米城駐車場があります。
案内板や縄張図などが設置されています。


鹿島神社鳥居

鹿島神社の鳥居のあるところから登城します。



順路に従い登って行きます。
誘導の案内看板があるので道はわかりやすく、道も整備されています。
しかし、この道のコンクリートはとても滑りやすいので雨が降った後は
注意して歩かないとすってんころりんです^^;


田楽場

朱色の鳥居を目前に郭が見えて来ました。
神社の前にあるので、ここで舞を奉納したのでしょうか。


鹿島神社鳥居

緑の中に朱色の鳥居が見えて来ました。
ここでどこから散策しようかと迷いました。
順路は左へ行くようですが、ここはまず鹿島神社へご挨拶をしてからということで
鳥居をくぐって進むことにしました。


鹿島神社

東の城へやって来ました。
ここには鹿島神社があり、まずは参拝。



周囲にはいくつかの祠もあり、すべての祠にご挨拶。



鹿島神社の裏側に回ると、また順路の看板があったので
導かれるようにその方向へ進みます。


虎口

東の城本城前の虎口です。


本城

登りきったところに久米城本城跡の標柱が見えて来ました。



本城から西側を覗き込むと…深い谷です



本城から北側を覗き込むと、西の城の方向へは堀切が


角館の枝垂れ桜

秋田県仙北市から角館の枝垂れ桜が2本寄贈されました。
この枝垂れ桜は久米城を本拠とした佐竹氏が秋田に移封された後、
京の公家の娘を嫁に迎え、嫁入り道具として京都から3本の桜の鉢植えを
持ってきたというのが始まりで、佐竹氏ゆかりのこの地に
宇宙を旅した桜の種から育ったという角館の枝垂れ桜の苗木が贈られました。



順路に従い、東の城から西の城へ向かおうと思います。


虎口

東の城に入る虎口のひとつで、当時は木戸などの門があったと思われます。
虎口は土塁と壁に囲まれ、折れた構造になっているので一段上からの攻撃が可能です。



本郭から覗き込んだ堀切を経て尾根伝いに西の郭方面へと向かう道が続いています。



ここを下りきると大堀切、更にその先を登るとテレビ塔のある西の城です。



下りきって堀底に来ると西側の広い堀底に朽ちたジープがあります。
良い目印ではありますが、なぜここに?と疑問に思う。


堀切

東側を向くと西側とは大違いの幅の堀切になっています。
つまり東の城と西の城との間の大堀切の起点になる場所とも言えます。



堀底からジープの方へは後で行くとして、まずは西の城へ登る道を進んでみましょう。


テレビ塔

登りきると平場に出ました。
テレビ塔の建つこの郭が西の城になります。


西の城

この郭は「竜神平」とも言うようです。


二の曲輪(西の城)

西の城には二重堀と言われる二本の堀切と竪堀が残っています。
この堀切は右側の崖地の方に向かって竪掘になっています。


三の曲輪(西の城)

二の曲輪と三の曲輪の間にも堀切があり、北側は切立っているうえに土塁で防御しています。


土塁

順路ではこの土塁の上を歩くのですがよろけて外側に転んだら…
ちょっとこわい場所です。
まだ先は続くようですが、時間の都合で三の曲輪で引き返すことにしました。



テレビ塔の裏に物見台があるようなので行ってみようと思います。


物見台

物見台にはなんと親切に双眼鏡が設置されています。
最初は何が入っているのだろう?と思ったのですが箱を開けたら双眼鏡でした。
箱にはマジックで何か書かれていたようですが、もう文字が薄くなっていたので
箱を開けて「おお~!」と宝箱を開けた気分になりました。


眺望

これだけの眺望がありますからねえ。
そしてこの方向の奥の中央左側には、山入氏の山入城があります。
久米城は一時期山入氏に奪われ佐竹義治が奪還しています。



物見台から見た北の出城方面です。


北の出城

物見台から続く尾根伝いに進むと北の出城へ行くことが出来ます。
ちょい寄りのつもりがどんどん引き寄せられて結局物見台まで誘われて来たのですが
北の出城まで行ってるだけの時間に余裕が無く物見台からズームで見てみました。


今度はジープのあった大きな堀を西に向かって下ってみたいと思います。


ジープ

草の生えたジープ。
どうやってここまで来たのだろう???
テレビ塔があるということは、当然その資材を運んで来たであろうから
工事用の道があったということかな。
置き去りになってるのがジープってとこがちょっと軍事っぽくて
まったく似合わないというほどではないように見えてくる。



左上は本城、右上は西の城です。
しばし幻想的な空間を下って行きます。


垂直の崖

道の左側が崖になっているところまで来ました。
岩肌が見えています。


二つ目の崖

岩盤の急崖でV字谷を形成されています。


谷底

写真では高さ(約8メートル)が表現しきれてなにのですが、落ちたら確実にヤバイです!
水がちょろちょろ流れていて、水量がある時は滝のようになるのかな?と想像します。


ロープ
垂直の崖底を覗きに行くためには危険な場所を通るため、ロープが設置されています。
足を滑らせて転落したら…
ということにならないように、油断せず、しっかりとロープを握りながら歩きましょう。



二つ目の崖から引き返し、本城の東下を通って戻ることにします。


三の曲輪(本城)

主郭の東側にある本城の三の曲輪です。


堀切

主郭と三の曲輪の間には堀切があり、そこを通路(順路)としています。
鹿島神社の朱色の鳥居のところまで戻って来ました。


参道

参道まで戻って来ました。
普通のスニーカーで来てしまったので滑る滑る^^;
カメラを守るの必死でヨチヨチ歩きで下って行きました。
そろそろ登山用の靴も買わなくちゃかなあ。。。
ともかく苔と落ち葉でも滑りやすくなってますのでお気をつけあれ。


正念寺

正念寺の駐車場へやってきました。
ここにも案内看板が設置され、正念寺の裏から南の出城へと散策できるルートが
整備されています。



久米城全体を撮影出来る場所を求めて車を走らせていたら神社と案内看板を見かけたので
何か関連があるのかな?と思い寄り道してみました。
すると、こちらも鹿嶋神社でした。
こちら側からも登れるのか?と思ったのですが、距離的にも別の神社でした。


鹿島神社

こちらの鹿島神社は全国に約600社あるという鹿島市の鹿島神宮を総本山とする神社で、
江戸時代に徳川光圀(水戸黄門)が大平村の鎮守として創建したと伝わります。



この階段は182段あるそうです。
見上げただけで、引き返す^^;


眺望
電柱がだいぶ傾いて写っていますが、心配なかれ。
広角レンズで久米山全体が入るように撮影した結果なので異常ではありません^^;
大堀切の部分のシルエットもはっきりわかりますね。


久米城は想像以上に広くてメリハリのあるとても面白い城でした。
案内看板や印刷物、順路などよく手入れされていて管理が出来ている良い城跡です。
ちょっと時間が足りませんでした^^;
急いで回る城跡ではなかったですね。
これを見たら、山入城にも行ってみたくなりました。また楽しみが増えたというものです。


令和元年7月13日登城


図説 茨城の城郭
茨城城郭研究会
国書刊行会