むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

稲荷山城(長野県)

2018年09月28日 | 百名城以外の城
稲荷山城いなりやまじょう
別名 勝間城・勝間反砦・桜井山城・田古屋城
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所佐久市臼田町稲荷山 地図

千曲川に架かる臼田橋を渡り始めると、稲荷神社の朱色の鳥居が見えて来ます。
稲荷山城の名の由来となる稲荷大明神です。
城郭の中心部は現在コスモタワーという宇宙に関する施設がある公園になっています。



稲荷公園

公園への遊歩道と、鳥居を沢山くぐりながら稲荷神社へと続く階段と
どちらから登っても山頂に出られます。


稲荷神社

石段が約200段あるという稲荷神社への階段です。



鳥居のトンネルのようです。
この朱鳥居は全部で130基立てられています。


拝殿

中世には勝間城鎮守の神とされ、武田信玄も緋の玉垣を奉納しています。
ここでお参りをします。
お稲荷様だけにおあげがお供えされていました。



ここまでが神社の敷地で、この先は稲荷山公園域になります。


石碑

このおっちゃんは誰??


本丸

奥に見える建物が配水場で、立ち入ることが出来ない場所が本丸跡になります。


初代管理者像

本丸にあたる配水場の前にある初代管理者と書かれた「井出幸吉翁」像。



右は本丸の配水場
左は千曲川に接する崖地になっています。
この小道を抜けてコスモタワーのある宇宙公園へ。


コスモタワー

高さ35mの宇宙ロケット型展望台「コスモタワー」があります。
遠くからも見えるこのロケットは以前からずっと気になっていて、一度見に来たことがあります。
もっと古くは、二十歳くらいの頃に友達とドライブに来たような…。


滑り台

この長い滑り台は、宇宙基地をイメージして造られているそうです。
この日も孫を連れたおじいちゃんがこどもを遊ばせていました。


城山
コスモタワーの周辺には、銀河鉄道や月面クレーター、
宇宙基地に見立てた長いすべり台や花木園などがあります。


扇岡

宇宙公園をサクッと散策して、また神社方面に戻って来ました。
稲荷神社の上の曲輪になります。
コスモタワーが建つより以前には、かつてここに塔が建てられていたそうです。


島崎藤村歌碑

島崎藤村は、稲荷山の下から北に流れる千曲川の眺めを最も好んでいました。
千曲川旅情の詩
小諸なる古城のほとり(小諸碑の詩)
千曲川のほとりにて(臼田碑の詩)
という姉妹詩を残しています。
ここなある歌碑が「千曲川のほとりにて(臼田碑の詩)」です。
そして、藤村の最愛の末娘柳子さんは、昭和10年に井出家に嫁いでこられたことから
島崎藤村と臼田はとても縁が深く、稲荷山が気に入っていたことがわかります。



物見のような曲輪跡のようにも見えます。
樹木が無ければ相当見晴らしが良いと思われます。



先程の場所の下には段状で腰曲輪のような造りのスペースに社があります。
この辺り一帯は稲荷神社内にあるので付帯される社でしょうか。


井出吉次君碑

稲荷神社から肥前曲輪の方へ移動中にあった陸軍曹長であったという井出氏の石碑。
この辺りは井出姓が多いようで、この稲荷山を散策していると多くの井出氏を目にします。


眺望

真下には臼田の町と、遠くには浅間山連峰が見えます。


眺望

臼田橋の方には山の麓の方には龍岡城と、奥には平賀城が望めます。



段々になった幾つかの腰曲輪のような場所を通り肥前曲輪の真下へ。


肥前曲輪

この上のゲートボール場が肥前曲輪になります。









古そうな狛犬も居ます。



ここから道路に出ることが出来て、
稲荷山に登る道は北から西にいくつか選んで登ることが出来るようです。
(臼田橋袂の参道入口から西へ約80m)



昨年だったか、いつもこの辺りを通る度に地名からして城跡がありそうだなと言って
公園散策に訪れたのですが、それを示す石碑や案内看板がみつからなかったために
そのまますっかり忘れていました。
攻城団に登録されて、やっぱりそうだったかとあらためて訪れてみました。
しかし、現地には城跡であったという記述のあるものはみつからず、かろうじて
臼田橋袂の稲荷神社入口にある稲荷神社 御由緒の看板に勝間城と触れているものがあるだけでした。
公園と住宅化で遺構はあまり残っていないようですが、形や臼田の城下の様子が
それらしい雰囲気を残しているようです。


平成30年9月23日再登城


信州観光パノラマ絵図 鳥瞰図でたどる大正~昭和初期の鉄道・山岳・温泉
信濃毎日新聞社出版部,今尾恵介
信濃毎日新聞社

記念公園(新潟県)

2018年09月26日 | その他
記念公園きねんこうえん
別名まいづる公園
構造武家屋敷
創建者
創建年代江戸後期
指定史跡市指定文化財国指定重要文化財(旧若林家住宅)
場所記念公園 地図・旧若林家住宅 地図

雅子妃殿下のご祖母・静様の父方の実家にあたる武家住宅・旧嵩岡家住宅の他、旧岩間家住宅、旧藤井家住宅の3棟の武家屋敷が一般公開されています。



まいづる公園

記念公園は、皇太子殿下・皇太子妃雅子様ご成婚を記念した公園で
雅子妃殿下にゆかりがある旧家が移築されている場所です。


表門

舞鶴城(村上城)の石垣をイメージして石垣を取り入れた公園になっています。


旧嵩岡家住宅

江戸後期築の中級武士の住宅で、直屋・寄棟造りの茅葺きの住宅です。


玄関



居室

玄関を入るとすぐに、囲炉裏のある茶の間があります。
客間と居室の区別が無い座敷であることが特徴的です。


塩引き鮭

村上の町屋には、冬が訪れると沢山の鮭が軒下に並ぶそうです。
首吊りを連想させないために鮭の頭は下に向けて吊り下げています。
この日訪れたのは夏なので1尾だけ見本のように吊り下げられていました。
でも普段目にすることのない光景だったので真っ先見に行ってしまいました^^;


旧岩間家住宅

旧岩間家住宅は、直屋・寄棟造りの茅葺き住宅で、
長屋形式だった足軽などの下級武士が住んだ一軒の建物を
1858年(安政5年)に須貝勝太郎の屋敷として一戸建に建て替えられたものです。
その後、昭和23年に岩間氏が取得しました。
下級武家屋敷の遺構として貴重なことから。村上市指定有形文化財に指定されています。


取次の間

玄関からすぐが取次の間です。


次の間と座敷

取次の間の隣に次の間、その奥には座敷があります。


居室

囲炉裏のあるこの部屋は茶の間になります。
他の部屋とは仕切られていて居住空間になっています。
出入りも玄関ではなく土間の方から出入りします。
土間の隣には台所があります。



続・100名城のスタンプを求めておしゃぎり会館の方へ行ってみました。
そこには中級武家屋敷の旧若林家住宅があります。


三の丸記念館

三の丸記念館は、明治40年に村上銀行本店として建築されました。
昭和57年まで現在の第四銀行村上支店の位置で店舗として活用されていました。
外観こそは古風な佇まいですが中は鉄筋コンクリートで出来ています。
この建物を保存展示するために現在の地へ曳家で移動して来ました。


旧若林家住宅

三の丸記念館の隣にある旧若林家住宅は、
村上城下の中級武家屋敷の様子を残すもの貴重な建物として
昭和52年(1977)に国指定重要文化財に指定されています。



家族の生活区画と仕事の区画に分かれ、玄関もそれぞれ別になっています。



日本の古き良き風景を村上城下では観ることが出来ます。


こうしてみると古い日本家屋(武家屋敷)が沢山保存されている地域です。
雪の多い地域なだけにしっかりとした造りだったのでしょう。
時間があれば、城祉だけでなく城下町・武家屋敷を散策して歩くのもまた
楽しいものです。


平成30年7月21日訪問


永徳 塩引鮭 半身 姿造り 4kg前半の半身
株式会社 永徳
株式会社 永徳

御殿のお月見会(楽山園)

2018年09月25日 | イベント・行事
御殿のお月見会~楽山園~
小幡陣屋

織田信長の次男織田信雄が7年の歳月と数万両を投じて築いた御殿跡と大名庭園があります。
十五夜ということで楽山園ではこの日に「御殿のお月見会」が開催されました。
今回で7回目となるお月見会は、今年は祭日と重なり賑わっていました。


庭門

提灯の灯りがお出迎え。


昆明池

幻想的な夜の大名庭園が目の前に広がります。
これを写真に納めたいと意気込んで来ましたが…。
とにかく夜の撮影は苦手で上手に撮れません。(>_<)


梅の茶屋と腰掛茶屋

仕事が終わってから来たのでちょっと出遅れたかな。
「梅の茶屋」と「腰掛茶屋」にはすでに大勢の人がお月見してます。


腰掛茶屋

腰掛茶屋からの眺め。
月は…雲に隠れたり顔を出したりの繰り返しでここからのお月さまは御縁があらず。
園内ではろうそく灯籠約500個が通路や池の縁に灯っている様子が見えます。


中島

腰掛茶屋から中島へ降りて来たところでお月さまが顔を出しました!


泉水

出た出た月が~♪
そして、足元の池の水はとても奇麗で月明かりの中覗き込んで見ると
メダカやカニが見えました


十五夜お月さん

私のデジカメではこれが限界ですかね^^;


お抹茶とお菓子

庭園を散策した後は、凌雲亭で「邦楽の夕べ」が行なわれ心地よい演奏を聴きながら
先着100名(400円)でお抹茶とお月見オリジナルのお菓子で大名気分を味わいました。
「月と庭園とお茶」の組み合わせはなんと贅沢な時間なんだろう…。



このお月見会があることを二日前に知って、雨で中止になってしまうのではないかと
心配していたのですが「晴れ女」の娘が一緒に付き合ってくれたので雨の心配も無く
行って来られました。




はじめて参加したのですが、なんて幻想的で、大名庭園て素晴らしいんだろうって感動しました。
お城に行くと、月見櫓を目にしますがお月見が出来るって贅沢~って思えてしまいました。
こんな贅沢もありですね(*^^)v
さすが織田さんちの庭園だ。
次は紅葉狩りや雪の季節にも庭園を訪れてみようと思います。
めっちゃ、楽しかった。来年もお月見に来よう。
誘ってくれた旦那様に感謝です<(_ _)>
そして…カメラ…グレードアップ出来てたらいいな。
やっぱ一般的なデジカメでは限界があります。いよいよ欲しくなって来たな。眼レフ


平成30年9月24日訪問


城下町小幡 純米吟醸 720ml
聖徳銘醸
聖徳銘醸

新潟城(新潟県)

2018年09月22日 | 百名城以外の城
新潟城にいがたじょう
別名舟山城・白山城
構造平城
築城者新発田重家
築城年代永禄年間
指定史跡市指定史跡
場所新潟市中央区一番堀通町地先  地図

戦国期にあったと伝わる新潟城は、現在の新潟市中央区にあったと推定されます。
現在の白山神社および白山公園にあたります。
遺構はまったく残っていないため、その所在は定かではありません。
しかし、地名にそのヒントが隠されているのではないかと思うような地名がそこにはあるのです。


白山公園

白山公園へやって来ました。
このは白山(はくさん)=城山(しろやま)と読めませんか?
こじつけのように思える読み方ですが城山であることを隠しているように思えてなりません。


白山神社

公園の中にある白山神社。
1585年(天正13年)白山島には上杉景勝と新発田重家が戦った白山城(新潟城)があり
上杉景勝が戦勝の帰途に、鏡と啓を白山神社に寄進し、
必勝祈願のお礼まいりに訪れたという記録が残っています。
城内に白山大神をおまつりし、商人であふれ賑わっていたという記述が管窺武鑑、北國太平記に見られます。
白山神社の本殿は、長岡藩主牧野氏が造営、監督し、現代になって公園を造る際には
白山神社の境内に点在していた神様を本殿にお遷しました。


戊辰の松

1868年(慶応4年)に鳥羽・伏見で始まった戊辰の役は、
やがて全国に広がり新潟の中心部でも激戦が繰り広げられ、
白山神社境内でも砲弾が飛び交いました。
その時の弾痕を大きく留め、皮一枚になって生きていた松が「戊辰の松」と呼ばれ、
1965年(昭和40年)に台風で折れるまでここにあり、往時を偲ばせていました。


中尊寺・奇跡のハス

平安後期の4代藤原泰衡の首桶から採取された蓮の種子を培養し、
平成10年に甦らせ開花させた「中尊寺蓮」「泰衡蓮」とも呼ばれる貴重な古代蓮です。
約800年の眠りから覚めた蓮ということから「奇跡の蓮」と言われています。


楠本正隆像

新潟の文明開化の都市基盤整備政策を行った人物で、
太政官布達の公園設置を先取りし、白山神社境内に公園の造成をした人物です。


美由岐賀岡碑

この碑は明治45年に建てられたもので、明治天皇が御巡幸の折りここで御休憩をされ
信濃川や弥彦山を眺望されました。
そしてこの美由岐賀岡碑の隣には当時の昭和天皇が皇太子時代に地方を見学された際に、
明治天皇も眺望されたこの地を偲んで松をお植えになりました。


獅子山

ここは、獅子山と呼ばれる公園を造る際に盛土された築山で、
白山神社境内にあった狛犬や灯籠を一か所に集められています。


道しるべ

この道しるべは江戸時代に泉屋宗平により奉納されました。
京都へ600km
大坂へ652km
江戸へ380km
松前へ600km
会津へ128km
米沢へ128km
善光寺へ220km
仙台へ300km

新潟市中央から京都と松前が同じ距離とは…そうだったのか。。。


さて、遺構の残らないこの場所は新潟城であるかどうか確定出来てないのですが
なんとな~くここじゃないかなあと思う。
堀の付く地名などは堀があったからに違いないと信じたい。
よって、この公園と神社付近は新潟城があったということでいいんじゃないかな^^;
(希望もこめて)


平成30年7月21日登城


新潟「地理・地名・地図」の謎 (じっぴコンパクト新書)
新潟郷土史研究会
実業之日本社

織田の御馳走門

2018年09月20日 | その他
織田の御馳走門おだのごちそうもん
別名
構造薬医門・四脚門
築門者織田氏
築門年代江戸時代初期
指定史跡町指定史跡
場所甘楽郡甘楽町大字造石105 


織田信長の二男信雄に大和国宇陀郡3万石と上州小幡2万石が与えられ、
1616年(元和2年)に信雄の子信良が福島の仮陣屋に入りましたが、43歳で死去。
嫡男信昌が2歳で相続しましたが、幼い為信雄の四男織田出雲守高長が後見役となりました。
3代信昌は1629年(寛永6年)に福島から小幡への移転し小幡陣屋を築きます。
その福島仮陣屋時代に長岡家が米や塩の補給を行った為そのお礼に建てられたと伝わるのが
この織田の御馳走門です。


織田の御馳走門(薬医門)

門はこの「薬医門」と、奥にもうひとつ「四脚門」があります。
江戸時代初期に築かれたと推定される門の南側には石塁の跡が残り、
城郭の門のような形式をとっていたと考えられています。
柱の材質はクリ材を使用しています。


案内看板

織田氏が福島殿町の仮陣屋に居を構え、小幡に陣屋を築くまでの間、
長岡家が米・塩などの補給によく努めたので、その返礼に建てた門といわれる。
福島の仮陣屋は現在の上州福島駅付近にあったとみられます。

また、上州福島駅付近には1840年(天保11年)から小幡藩が瓦製造を始めた「福島瓦」が
地場産業として定着し、現在に至っています。
この窯元では世界遺産登録された富岡製糸場の建築用煉瓦、屋根瓦を焼成していた地域でもあり
以前主人に連れて行ってもらった笹森稲荷神社の道沿いには瓦店もあります。


民家の中にある織田の御馳走門は手前の薬医門は道路から見ることが出来ますが
奥の四脚門は敷地内にあるため容易には見ることが出来ませんでした。
引き戸式になっていたとはめずらしい。
これはぜひ見てみたいので機会をみつけて見せてもらいに行ってみたいと思います。

平成30年5月27日訪問


城下町小幡 純米吟醸 720ml
聖徳銘醸
聖徳銘醸

石垣山城(神奈川県)

2018年09月18日 | 続百名城
石垣山城いしがきやまじょう
別名石垣山一夜城
構造山城
築城者豊臣秀吉
築城年代1590年(天正18年)
指定史跡国指定史跡
場所小田原市 早川 地図
スタンプ設置場所石垣山一夜城駐車場内トイレ付近
城郭検定出題あり

本来この山は「笠懸山」と呼ばれていました。
天下統一を目指す豊臣秀吉が北条氏の小田原城攻めのために大人数をかけて短期間で築いた
「石垣山一夜城」として伝説を残した城です。
このことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。


関白道

ここに到着するまでに「石垣山に参陣した武将たち」という案内看板を見ながら登って来ます。(8人)
以前はとてもひっそりした道でしたが、多くの人が歩いて行き来していることに
驚きました。
続100名城の影響ってすごいですね!


駐車場

以前訪れた時もこの駐車場を利用しましたが、整備される前だったので
こんなに奇麗になっていてびっくりです。


スタンプ設置場所

続100名城のスタンプは駐車場にあるトイレの建物に設置されています。


登城口

石垣山城入口(登山口)です。


大手口

南曲輪と東曲輪の間にある城道で二通りある城道のうちのひとつです。


東口外門

関東大震災により崩れた石垣。
南曲輪と東曲輪は石垣造りでしたが関東大震災によって大手道に崩れています。



崩れた大手道ではなく、整備して歩きやすくなっている東曲輪の中の道を進みます。


二の丸(馬屋曲輪)の石垣

穴太衆を連れて来て積み上げた野面積みの石垣が出迎えてくれます。


二の丸(馬屋曲輪跡)

二の丸から見た本丸。(平成23年6月12日撮影)



とても広々とした曲輪です。(平成30年9月8日撮影)


櫓台跡

現在は木々で下界を望むことは出来ないのですが
当時は木が切り倒されて見通しが良かったのでしょうね。


北口中門

今回訪れた目的の、前回見逃した井戸曲輪跡へ行ってみましょう!


井戸曲輪案内看板

もともと沢のようになっていた地形を利用し、石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。
この井戸は「淀君化粧井戸」とも「さざゑの井戸」とも呼ばれています。


井戸曲輪跡

ここに降りて来るまでにこの石垣を見てめっちゃ感動~。
というか、圧巻ですね。
これは凄い!
これを見逃して帰った私はなんと愚かだったことか…。



残念ながら案内看板に書いてあった「今でも湧き出る水を見ることが出来ます」というのは
無かったです。



それにしても素晴らしい石垣です。
石垣に囲まれた風景は石垣好きにはたまらない空間です。


北口の城道

井戸曲輪への道の途中にある北口の城道。
こちらの道を進むと三の曲輪(北曲輪)に出ます。


馬屋曲輪展望台

さあ、ここから小田原城を見下してみよう!!



…と思ったら、以前訪れた時には見えた小田原城は…今回は木が邪魔をしていて見えません!
せっかく晴れたのになあ。残念。


トイレ

二の丸の北側に設置されています。


本丸の石垣

穴太衆による野面積みが見事です。



二の丸から本丸への北側の道を登ります。


北門跡

登りきったこの場所に北門があったと思われます。


本丸(本城曲輪)

眺めの良いところに本丸があります。
ここから見る景色は、確かに秀吉は淀君に見せたいと思うような場所だったに違いない。
かなりロマンチストだったのではないでしょうか^^;


物見台(展望台)

小田原城方面を指し示す方向は…


物見台(展望台)からの眺め

相模湾からは船を使って小田原を包囲していたのが、ここから見えていたことでしょう。
ここからの眺めはいろいろと考えさせられるものがあります。



前回訪れた時の写真です。
曇っていたので少し靄ってますが上下で写真を見比べると新しい道路が出来た影響か、
町の変化が見えます。(平成23年6月12日撮影)


東門

この林の中に塀や櫓を骨組みだけ造り、白い紙を張って白壁のように見せかけ、
周囲の樹木を一気に伐採し、一夜にして城が浮かび上がる様を見て
小田原城では将兵が驚き士気を失ったと言われています。


天守台跡

正面から緩やかな高まりになっていますが、背後は切り立っていて
石垣造りになっています。
どこまでも、とても短工期とは思えない造りです。



この辺りからは年号の入った平瓦が出土されており一夜城と呼ばれるものの、
かなり本格的なものが築かれていたのではないかと思われます。




そして、ふと足元を見ると…マジ瓦!
本物???転がってる?…訳ないよね…どうでしょう。




古そうでないのに何が祀られているのか分からない。
鳥居は無いので神社ではないようです。



東門と中門を繋ぐ道。


西曲輪虎口

櫓台跡ということは櫓門があったのでしょうか。
しかし、櫓台の石垣は崩れてしまっています。


西曲輪跡

櫓台のある門跡を進むと西曲輪に出ます。
天守台の西側真下にある曲輪で、娯楽施設的な山里曲輪のような機能を果たした
曲輪ではないかとも考えられています。
こちらも天守台の下は野面積の見事な石垣が見られます。


南曲輪跡



南曲輪からの眺望

相模湾が青く美しい。
どこの曲輪からも海が見えて、宿泊したくなるような立地です。
総石垣の城で絢爛豪華、聚楽第や大坂城にも匹敵する城で茶会かあ。





南曲輪の石垣

高石垣が良い状態で残っています。


大堀切

南曲輪と出曲輪の間の大堀切は道になっています。


早川石丁場

石垣山城に登城口の前に展示されている大きな石は、
平成17年度に実施された広域農道建設に伴う発掘調査で上記の大堀切の他に
江戸時代の石切り作業の痕跡を示す石が多数確認されました。
江戸城移築用の石垣の石を採取した石丁場があり、
「早川石丁場群」と呼んで、ここにも採取された石が展示されています。



一夜城とは言うものの、実際は4万人で約80日ほどかけて築いた城です。
それでも3ヶ月足らずでこれだけの城郭を造り上げる秀吉の力というものは
現代の技術を持っても凄いことだと思います。
当時にしてみてもこの規模の城郭だとかなりの工期を要すると思うのですがまさにあっぱれですね。



平成23年6月12日登城
平成30年9月8日再登城


7つの魅力でとことん楽しむ! 日本100名城めぐりの旅
萩原 さちこ
学研プラス

殿島城(長野県)

2018年09月14日 | 百名城以外の城
殿島城とのしまじょう
別名本城
構造平山城
築城者殿島重国
築城年代1532年~1555年(天文年間)
指定史跡
場所伊那市東春近7300-160 地図

天文年間に殿島大和守重国が1500石を拝領して殿島城を築城しました。
殿島城は天竜川東岸の一段高い河岸段丘上に築かれており、東西約250m、南北約450mの規模です。
昭和40年前半に開田のため外郭は消滅し、現在は本郭と付属部分が残るのみとなっています。
また、武田信玄が伊那へ進行してきた際に徹底抗戦し敗れた上伊那の八人衆の一人として知られています。
この時殿島重国は伊那市狐島において処刑されたと伝わります。
墓は長谷村黒河内の艮城の八人塚にあります。


入口

北側の住宅地から郭内に入るとすぐに堀切が見えます。
駐車スペースもあるのでこちらの空き地に乗り入れましたが、公園ということで
誰でも出入りできるだけあってまさかの遺構に廃車の不法投棄?でしょうか。
なんと見苦しいことか…残念です。


二重堀

廃車の奥にはこんな見事な二重堀があります。



堀底には道が出来ていて石碑もあります。
ハイキングコースみたいな小さな看板も見受けられますが降りてみてないので確認出来ず。



主郭下、北側の堀です。
北側の堀はなかなか見応えたっぷりです!
そして、これら堀の造り方は水を流しながら掘られたもだそうで
発掘調査の結果、堀底からは砂利層がみつかり室町中期に掘られたものだと考えられています。


駐車場

北東の公園入口(虎口)前に駐車場があります。
こちらに駐車して主郭散策です。


虎口(北東)

この両側は堀になっています。



虎口前左側の堀。
主郭東側の外堀はこんな感じで失われた二の郭まで続いています。


模擬櫓門

石垣もありますがこれも模擬櫓門の建設とともに造られたもの。
城跡であったことの象徴として造られていますが実際にはここに櫓門はあったかどうか…。
雰囲気は伝わります。


主郭

広い主郭です。
郭の周囲は土塁で囲まれていて一目で主郭であることがわかります。


案内看板

模擬櫓門をくぐって右手に案内看板と城跡碑が見えます。
案内看板に書かれた縄張り図をみてみましょう。


縄張り図

右側に見える二の郭へのアプローチの道は今でも地元民の近道として
使われているようで、今も残されています。
ちなみにこの図にある石垣らしき絵の所を見に行ってみたのですが石垣は見当たりませんでした。
探し方が下手だったのかもしれないので時間が出来たらまた探しに行ってみよう。


北の土塁

四方すべてに土塁が残っています。



避暑地のような雰囲気の散歩に良さそうな自然な公園。
朝さんぽだったのですが、やはり地元の方もさんぽにやって来ていました。


遊具

公園らしく遊具とあずまやがあります。
水飲み場もあります。(井戸ではない)


東の土塁

土塁にトンネル!!
埋門かと思ったら公園のトイレでした。
ちょっとびっくりです。


西の土塁

こちらの土塁は、西側が急斜面になっているせいか補強のため?
それとも景観重視?なのか土塁に手が加えられています。



土塁を利用したアスレチックな建物。


崖地

西側は崖地になっていてこの斜面を登ることは容易ではなく要害としていました。


南西の角地

きれいに土塁もカーブしています。
このラインが良いです。


虎口(南)

南側の虎口です。




南の虎口を出た主郭と二の郭との間に残る堀です。
ここより南側は宅地になってます。


城址碑

城跡碑から模擬櫓門を見ています。
この角度なら公園と言うよりは史跡っぽく見えるかしら?



土塁の上からの模擬櫓門。
わりと高さのある土塁であることがわかります。
ちなみにこれだけの高さがあるということで東側の土塁のうえには
櫓台があったようです。


朝食前にちょっと城さんぽに行って来る!と実家から出掛けて来ました。
夏休みだったので小学生がラジオ体操をしに集まって来るところだったのかな?
明るくて人の集まりやすい公園だったのでとても散歩しやすい公園でした。
何よりも期待を裏切った幾重にもある堀が見事でびっくりでした。
模擬櫓門は画像で見たので「ああ、公園ね。」くらいにしか期待してなかったので
住宅地から公園入口に入ったところで堀が見えた時には衝撃的でした。
いいじゃん!って感じの、二重ではなく花丸の堀でした


平成30年8月15日登城


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版

栗木田城(長野県)

2018年09月12日 | 百名城以外の城
栗木田城くりきたじょう
別名栗田城
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所】伊那市高遠町長藤栗田 地図

高遠から杖突峠の間、藤沢と長藤の境目となるかつての栗田宿のある集落の
東側もみ沢の尾根状台地に栗木田城があったとされています。


観音堂

栗田の集落の国道152号線の四ツ角を藤沢側方面(東側)に入ったところです。
赤い屋根が見える場所が観音堂で、かつて香竜寺(のちの広勝寺)のあった場所です。


観音堂裏

観音堂裏に少し広い平場があります。
現在は営林署の所有地で木が植えられています。



観音堂の裏手には土塁や石垣が見える場所でもあり、かつてお寺があった名残があります。
この観音堂あたりには香竜寺があったのですが兵火で焼かれ、別の場所に移りましたが
移った先でも焼かれてしまい、藤沢地区の台の城山とされる場所に広勝寺と名称を変えて
移って行ったとされています。


神社

観音堂から更に道を進むと左手にもみ沢が見えて来ます。
その沢の先に位置する尾根状台地が栗木田城です。
道下からは神社とされる建物が見えるのでここを目印に登り上げると城跡ですが
この時期はご覧の通り草で覆われているので肝心な城跡の散策は今回見送りです。


栗田宿

国道152号線、高遠藩領、鳥居氏時代に藤沢街道の宿駅として整備されていた栗田宿です。
伝馬役は南隣の四日市場宿と朔交代で勤めていました。
街道の両側には旅籠や馬宿数軒、問屋2軒が並び井筋を溜めて馬の飲み水や
旅人の洗い場として利用されていました。
藤沢街道2位の賑わいになると鍛冶職も4人となり石工も7人に増え
幕末から明治の頃には養蚕も業とされるようになりました。


香福寺

観音堂と反対側(西側)の香福寺へやって来ました。



ここへ来たのは何十年ぶりだろう…。
お寺はすっかり朽ちています。


石碑

古い石碑が並んでいます。


遠望

正面の真ん中の尾根が栗木田城になります。


現在の広勝寺がある藤沢地区の台にも栗木田城と呼ばれる台の城山があります。
お隣の殿垣外という地区もかつては栗木田村だったのでこちらが栗木田城であるという
説もありどりらが本当の栗木田城か断定されていないのが実情です。
こちらの城跡の散策にも行ってみたいのですが七面様のお札を受けに?行ったことのある
五郎姫神社より奥地にあるのかあ…ちょっと手強そう。
それでも七面天女が祀られているという社があるので行けないことはない。と思う。



平成30年8月15日登城



信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版



中古でしか手に入らないですがとてもおもしろい大辞典です
角川日本地名大辞典 (20) 長野県
「角川日本地名大辞典」編纂委員会
角川書店

洞口城(長野県)

2018年09月10日 | 百名城以外の城
洞口城ほらぐちじょう
別名北の城
構造丘城
築城者春日河内守工藤左近亮
築城年代1593年(文禄2年)頃
指定史跡
場所伊那市美篶10241 地図

洞口城は、三峰川の河岸段丘を利用して台地の先端部に築かれています。 
現在の下川手中原集会所とグランド、集会所東側の民家敷地が城跡と思われますが
城域としてはどこまでなのか定かではありません。


下川手中原集会所

国道361号線から下川手の信号で北側へ登ります。
登りきったコーナーにグラウンドが見えて来るのでそこが城域となり
下川手の中原集会所があります。


グラウンド

ここが城館とされる場所になります。
古町古城や春日城に近いことからみても春日氏の関連城館であるとみられます。
また、ここより高遠寄りの青島にある洞泉寺がかつてはこの城内にあったと伝わります。


土塁

グラウンド西端の土塁はあまり高くないものの、よく残っています。



土塁と、その西側は断崖で下からは登れそうにありません。



土塁から下を覗き込むと、かなり急斜面であることがわかります。


物見

西側の先端にはわずかなスペースがあって、ここからの眺望が良かったものと思われ
物見のような役割を果たしていたものと思われます。
この先端からは東春近、富県方面、春日城のある西春近方面まで見渡すことが出来たことでしょう。



中原集会所と古城園の間に一区切りとされる川が流れています。
この川は城を囲むようにの西側へ流れています。


古城園

現在は宅地となっているのでこちら側を散策することは出来ません。


この一角以外遺構があまり残っているように見えないので単郭のようにみられているのですが
東側の宅地の中には小さな鳥居と祠があります。
一段下の国道から入って突き当たりに下川手 御社宮司社があり、その脇に獣道のような
地元の人だけが利用する近道用の小道がついていることからも
この御社宮司社の真上まで繋がっていて、城域だったのではないかと私は思います。
周辺の神社との関連は次回の課題としておきます。


平成30年8月15日登城



信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版

結城城(茨城県)

2018年09月08日 | 百名城以外の城
結城城ゆうきじょう
別名臥牛城
構造平山城
築城者結城朝光
築城年代1183年(寿永2年)
指定史跡市指定史跡
場所結城市結城 地図

結城城は結城朝光が築城したとされていますが定かではありません。
関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家11代氏朝は、
持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。
これが結城の名を不朽にした結城合戦です。
豊臣秀吉の小田原攻めでは逸早く通じ、秀吉の養子である徳川家康の次男秀康を養子に迎えいます。
その後秀康は関ヶ原の戦いの戦功で越前福井城に移封になると結城城は一時廃城となりました。
1700年(元禄13年)水野勝長が結城城を再興し、幕末まで結城藩として存続しました。


縄張り図

城跡公園入口の大きな空堀に設置された案内看板にある縄張り図です。
公園を含み、かなり広い縄張りであったことがわかります。


大堀と案内看板

今でこそ埋まってしまってゆる~い傾斜のついた浅い堀ですが、かなり幅のある大空堀です。
この堀の袂に案内看板があります。


聰敏神社

結城藩水野日向守勝成を祀っている聰敏神社の入口で、城跡公園内に本殿があります。
公園入口に隣接して神社入口もあります。


城跡公園

現在150本のソメイヨシノが咲き、お花見スポットとして市民に親しまれている城跡公園は
かつて結城家の館があった場所です。


案内看板

公園入口にある案内看板です。
結城氏と言えば…思い浮かんだのは福井城。もしやと思って案内看板を読んでみると、
やはり話は繋がりました。



江戸時代の水野氏の頃には本丸として機能していました。


結城百選

選定対象とする名所は、神社仏閣、史跡・文化財、自然景観・都市景観や、生活空間とされています。


聰敏神社

公園内から見た聰敏神社の拝殿です。


記念碑

結城合戦タイムカプセル埋設記念碑と書いてあります。
「結城合戦」540年記念として昭和56年11月3日にタイムカプセルを埋設し、
「タイムカプセル」埋設
2041年4月16日に掘り起こす予定だそうです。
いったい何が埋められているのでしょうね。その頃も生きていたら見てみたいものです。





蕪村句碑

「ゆく春や むらさきさむる 筑波山」と刻まれているこの句碑は
俳人であり、画人でもあった「与謝蕪村」が青年期に結城の俳友の砂岡雁宕を頼り、
この地に10年近く住んでいたことがあり、結城市制10周年と与謝蕪村誕生250周年を記念して
建立されたものです。
ちなみに、弘経寺には襖絵と板絵が残されているそうです。


鳥居

鳥居の先には…何も無い???
祠でもあるのかと探してみたのですが何故か鳥居だけです。
なぜここに?


表忠之碑

戊辰戦争で戦死した新政府軍の兵士の忠霊碑です。


城跡耕地整理記念碑

城跡を農耕地に整理した記念碑なのか?
いつ整備されたのか記録として残る碑ではあるのだが…
あまりうれしくない碑です。


顕彰碑

松平(結城)秀康が越前福井に転封され水野勝長が入封し、
明治に至るまで水野家の居城となった水野家の顕彰碑です。


トイレ

公園なのでトイレと休憩所が完備されています。


三日月橋

橋が架かっていたので堀かとおもいきや…きれいな庭園?
「結城家埋蔵金」を掘り当てようと城内を掘り起こした名残だそうです^^;



三日月橋から見ると両側は庭園の池といった感じですが…埋蔵金は出て来なかったんですね。


土橋

空堀に架かる土橋は実城と中城を繋ぐ橋です。
この土橋からは両側に残る空堀が見られます。



土橋から見た空堀です。



公園になってはいるものの、遺構が残っているのでホッとしました。
公園下の駐車場から見上げてみたり、結城用水や、川の方から見てみたり
散策の為所は広範囲に見られます。
また、この辺りには「結城家埋蔵金」が隠されているという説もあり夢がありますよね。
群馬にも「徳川埋蔵金」伝説があるのでどちらも埋蔵金が出土したらおもしろいですよね
正直、私は隠すほど財政が潤っていたのかちょっと疑問なので見栄で流した埋蔵金伝説ではないかと
思っているのですが夢は見ていたいので語り継がれて行って欲しいと思います。



平成30年8月5日登城


改訂版 図説 茨城の城郭
茨城城郭研究会
国書刊行会

中久喜城(栃木県)

2018年09月05日 | 百名城以外の城
中久喜城なかくきじょう
別名亀城・栃井城・中岫城・岩壺城
構造平城
築城者小山政光
築城年代1155年(久寿2年)
指定史跡国指定史跡
場所小山市中久喜 地図

中久喜城は祇園城と結城城の中間に位置し、三つの曲輪から構築されいます。
小山義政の乱の際戦うための拠点のひとつとされた城で祇園城、鷲城とともに国指定史跡に指定されています。
小山義政の乱の当時の資料には「岩壺城」として登場し、「岩壺城」呼ばれていたようです。
その後結城氏の時代になると結城晴朝の隠居城として「中久喜栃井城」として名が出て来ることから
「栃井城」とも呼ばれていました。
結城氏が越前福井城へ転封になると中久喜城は廃城となりました。




県道264号線に出ている看板に従って路地を入ると、城跡碑のある物見の前に出て来ます。
ここは城祉碑のある物見の土塁下の堀です。


城跡碑

宅地と農耕地を結ぶ道の端に城跡碑と案内看板があります。
とともに土塁や堀も見えているのでここで散策開始です!
線路より北側は曲輪Ⅲとされ、その西側が曲輪Ⅱになりますが宅地と農耕地と化しています。


物見入口

国指定史跡とはなっていますが駐車場が無いので、
この物見入口の前に出来るだけ史跡側に寄せて駐車しました。
この写真の左側には民家があり、周辺は農耕地でハウスが建っています。
※民家が写らないように物見寄りに撮影してます。


物見台

人の出入りがあったと思われる物見の入口を登ってみると、
その先には祠が見えます。


石祠

この祠の向きからみると、どうやら私は正規の道を登って来たのではなさそうです^^;
ちゃんと階段の付いた参道?が奥の左側に見えて来ました。


物見の尾根

土塁は線路に向って細長い道になっています。
本来は本丸側からこちらの高台に来られるように造ってあったのでしょうね。



しか~し、この先はJR水戸線の線路で分断されています。


本丸

物見の反対側にやって来ました。
目の前に広がる農地が曲輪Ⅰあたり、城の内(本丸)になります。
カーナビは更にこの橋を渡って真直ぐ行けと申していますが車はここまで。
この先は…どうする?と言ったものの草が生い茂っているので今回は突き進むことを断念することにしました。
無理に進んでも土塁がわかる写真が撮れる気がしないので…。(技術も無いし)



結局城跡を2周してみたのですが国指定?という感じで遺構は残されているのでしょうが
見所の整備はされていないんだなあという場所でした。
でも、指定史跡にしないとどんどん遺構は破壊されていくのでしょうから
見せる見せないはともかく、遺構を保存という点ではこうすることがベストですよね。


平成30年8月5日登城


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館

鷲城(栃木県)

2018年09月03日 | 百名城以外の城
鷲城 わしじょう
別名小薬城
構造平山城
築城者小山政光
築城年代不明
指定史跡国指定史跡
場所小山市外城 地図

鷲城は東国を揺るがす「小山義政の乱」の舞台となった城で国指定史跡に指定されています。
空堀と土塁によって画された内城と外城からなり中心部には鷲神社を祀っています。
南北朝時代の城として祇園城跡・中久喜城跡と共に小山氏の主要な居城跡です。


城跡碑

鷲神社入口に城跡碑や案内看板があります。


虎口

鷲神社の参道入口です。
この辺りは東側の虎口で、文字がだいぶ薄くなってきていますが看板もあります。


案内看板



参道

本丸にある鷲神社までまっすぐに延びる参道。


堀と土塁

草でよくわからないのですが、肉眼で見ればそこが空堀であることは
わかります。



右側に堀が見えたあと、公園のような遊具を置いた郭のようなスペースが見えてきます。
ここにひとつの区切りがあることがわかります。



内城は平らな部分が多く屋敷でも構えていたかのような広場もありますが
遊具が見えることも考えると公園の一部として使用されていたあとなのかと…。



参道を歩いていると畑の奥の方に土塁が見えます。



神社は目の前です。


おもしろ看板

案内看板かと何気なく読んでみると…これは大変ユニークなことが書いてあります。
これはユニーク過ぎて効果あり!なんじゃないでしょうか。
※ここには恥ずかしいので文章が書けない^^;


拝殿

武蔵国太田荘の鷲宮神社から小山義政がこの城に勧請し、
それにちなんで鷲城と名付けられたとされている城の名前の由来ともなっている神社です。
この神社の狛犬は、狛犬の子供や毬を抱えている様は微笑ましいというか
ちょっとほっこりする子供にやさしい狛犬なのかなと思わせるものです。


末社と石碑

石碑を見ると熊野神社・八幡宮・愛宕神社・水神社・雷電神社・三峯神社・耳治神社の
全部で7社が祀られていることが刻まれています。



神社の庭から北側へ延びる道があります。


横矢

小道を入ってすぐの右側のこんもりした土塁の上に小さな石祠があります。
そこには「横矢」の看板があります。
ここから横矢を掛けていたのですね。


土塁と虎口

この斜面は虎口や土塁、堀といった「西戸張口」と呼ばれる防御を固めた出入口だったと思われます。
草に覆われていてその姿はとても見ずらいのですが、この辺りが一番の見所だと思います。


土橋

下りきったところの堀に架かる土橋。
この辺りは少し水が湧き気出ているのか足元がジメジメしています。
すぐ下には水堀を思わせるような水路もあるので水気が多いのかもしれません。


小山総合公園

小山総合公園へ降りて来ました。
天気が良いのですぐ近くでバーベキューをしていたり、とても大賑わいでした。


そして外城方面へ

堀と土塁

道路から堀と土塁らしきものが見えたので周辺を散策してみました。
ここは外城の堀と土塁にあたります。



堀を辿って裏側にまわってみると立派な石垣。
おお~と思ってみたけど明らかに現代の石垣です。
この造りは民家の方の粋な計らいでしょうか。雰囲気が出て良い仕事してます


16年前にこの付近にマンションの建設が予定され保存運動が起こり
小山氏の城址の重要性が広く認識され国指定史跡になったそうです。
こうして遺構が残されていて我々城好きが史跡に触れられるのも地元の方の熱い熱意に
よるものでその努力に深く感謝したいと思います。


平成30年8月5日登城



関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館