むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

藤崎城(青森県)

2018年05月30日 | 百名城以外の城
藤崎城ふじさきじょう
別名
構造平城
築城者安倍堯恒
築城年代1092年(寛治6年)
指定史跡
場所南津軽郡藤崎町藤崎 地図

「前九年の役」で戦死した津軽の豪族、安倍貞任の遺児の高星丸が藤崎に落ち延び、
成人すると安東姓を名乗り、藤崎城を築いて本拠地としました。
藤崎城跡は国道7号で断ち切られ、道路からは台形状に切断された盛土(土塁)の上に
2基の標柱が建ち並んでいるのが見えます。


八幡宮入口

藤崎城跡は現在の八幡宮の境内が城域の一部にあたります。


案内看板

八幡宮の入口には案内看板があります。
~前九年の役(1056)に敗れた安倍貞任の次子高星丸が寛治6年(1092)藤崎城と同時に、
領内の鎮守として、領民の安堵と安東氏の武運を祈願して創立したのが、この旧村社八幡宮である。~



ちょっとした庭園状になってます。
江戸時代には、堀の跡は水田の苗代として使われ(堀苗代)土塁や建物のあった場所などは畑となり、地形はそのまま残されました。

狛馬

狛犬ならぬ狛馬か!
これはめずらしいと思っていたら、このあたりではそうめずらしいものではないようです。
青森では他の神社でも目にしました。
余談ですが、狛馬を調べていたら、各地にはいろいろな動物の狛があるようです。



狛馬はちゃんと対で二頭向かい合っています。
二頭を一枚に収められなかった^^;
でもこの奥には狛犬もちゃんと居ますよ。


境内

とてもきれいにされています。
戸締り等、管理が行き届いているように見えます。


馬頭観音

この社の中には馬の神様が祀られています。
馬はそうとう大事にされていたのでしょうね。





宮神天宮稲荷



手水

御丁寧に蓋が付いてます。
水が汚れずに良いですね。


松の碑

おそらくここに樹齢八百年の松が植えられていたという記念碑と思われます。
隣に植えられている松の木はだいぶ若いですが何代目?かの松なのでしょう。
大正六年六月十五日 初老記念幸田幸次郎氏が建てたものと書かれています。


拝殿

お参りをしようと思ったら、賽銭箱がありません。
きっと中にしまわれているのでしょう。
それでも一応ここに来た報告をしました。


本殿

少々小振りな本殿です。





安東氏顛末記

この石碑には安東氏の発祥の根拠が書かれています。
脇には猿田彦大神の碑もあります。


板碑

土塁の上にやって来ました。二つの石塔婆があります。
ここ以外の遺構は、江戸時代には堀の跡は水田の苗代(堀苗代)として使われ、
土塁や建物のあった場所などは畑となり、道路が拡張整備される前までは地形はそのまま残されてました。
しかし、残っていた土塁は埋め立て等に使われほとんどが削り取られてしまいました。
ここに残る土塁は貴重です。


二十三夜塔と金剛界大日種子石塔婆

二つ並ぶ石塔は手前が二十三夜塔、奥が金剛界大日種子石塔婆です。
境内より発掘されたもので南北朝時代前期のものです。


藤井氏の墓

安東氏の後胤 藤井大和守氏の墓石と一族の墓があります。
その中には志氣姫の墓もあります。
「藤崎城誌」を表した藤井氏の関係の墓でしょうか。



国道側からはここから鳥居をくぐらず境内に出入り出来ます。
バス停からすぐアクセス出来ます。
但し、車で訪れると駐車場がありません。結構困りました(^-^;


船場角バス停前

八幡宮の脇から国道に出るとすぐにバス停があります。
平川と浅瀬石川が合流する位置で、かつてはこのあたりに船場があったそうで
この地の地名が名残となっています。


藤崎城土塁跡と標柱

道路で切られた土塁の形がとてもよくわかります。
土塁がのこっているこの場所は城域のほんの一部でしかなく、周囲の城域は現在は宅地となっています。


安東氏は津軽氏にこの地を追われた後に秋田県に移り住み、安東から秋田姓に変化しています。
安東氏と秋田氏がいっしょだったとは驚きです。
最初は続100名城のスタンプをと浪岡城へ向かっているところ、「安東氏発祥の地」「藤崎城祉」通過…
いや、通過しちゃダメでしょ!というわけで浪岡城から引き返して寄ってみました。




平成30年5月6日登城



東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田
飯村 均,室野 秀文
吉川弘文館

沼田城(群馬県)

2018年05月28日 | 続百名城
沼田城ぬまたじょう
別名倉内城・蔵内城・霞城
構造平山城
築城者沼田顕泰
築城年代1532年(天文元年) 
指定史跡市指定史跡
場所群馬県沼田市 地図
スタンプ設置場所沼田市観光案内所(冬期)9:00~16:00
御城印沼田市観光案内所
攻城団チラシ沼田市観光案内所

河岸段丘の台地を利用されて築かれた北関東の要衝の城、沼田城はかつて関東では唯一だった
五層の天守閣がそびえていました。
1532年(天文元年)、沼田顕泰によって築城され、上杉氏、武田氏、北条氏が争奪し合った拠点
でもあり、後に真田氏が治めた城として有名な城です。


沼田城祉碑

本丸堀跡手前にある城址碑。


沼田市観光案内所

今回はこちらに続百名城のスタンプを押しにやって来ました!※前回のブログに手を加え一部再編集しました。
上州真田三名城のスタンプラリー実施中。
三名城(沼田城、名胡桃城、岩櫃城)を巡って続100名城のスタンプを押すと3つ目のスタンプ設置場所で
限定クリアファイルがもらえます。
ぜひ挑戦してみよう!


ジオラマ

以前訪れた時にはなかったジオラマ。
パンフレットやおみやげ品など充実しています。
訪れるたびに展示品が増えて賑やかになっています。


沼田城模型

この天守が復元されることを祈ってます。
ぜひ実現してほしいものです。


真田信之公具足

大河ドラマ「真田丸」の出演者のサインや衣装も飾られています。


出土品

出土した瓦や陶器も少量ながら展示されています。


本丸

沼田城のシンボルとも言える「鐘楼」が本丸に復元されています。


本丸庭園

現在は公園として整備され、桜をはじめとするつつじなど、
四季折々の花が公園を訪れる人の目を楽しませてくれます。


鐘楼

廃城により、地元の寺が梵鐘としていたが明治には町役場の鐘楼となり市民に親しまれていたが老朽化のため現在は中央公民館に展示されている。



真田氏時代の沼田城はこんな感じ。
ほんと、天守があったらすごいだろうなあと想像しちゃいます。


西櫓跡

発掘調査で新たに出土した石垣と石段(復元)
石垣を埋めるために一緒に投棄されたとみられる鯱鉾や鬼瓦、陶器類も出土されている。



西櫓台のロープに沢山の蝉の抜け殻がありました。
おもしろいので思わずパチリ。今は平和な証拠ですね。


西櫓台の石垣

絵図によると、ここには二重櫓があったとされます。



この石垣は真田氏時代のものが残っています。


御殿桜

西櫓台に植えられた彼岸桜。
樹齢400年以上とも言われ公園のシンボルになっています。


拾曲輪跡

絵図を見ると古城とされている場所。
真田氏以前の沼田氏時代の城があった場所とされている。


天狗堂

中には大きな天狗のお面が奉納されています。
迦葉山は「天狗のお山」と呼ばれ、中腹にある迦葉山弥勒寺は日本三大天狗の一つに数えられているそうです。
迦葉山の大天狗の分身として面がここに安置されているそうです。


眺望ポイント

谷川連峰、武尊山、三峰山などの雄大な山々を眺めることが出来るポイントです。


村上鬼城句碑

高崎市ゆかりの俳人です。


沼田平八郎首石

真田昌幸が沼田平八郎の首実検をするため、首を乗せたといわれる石。
ガイドさんの話によると…出る、らしい…です(^^;


鳥小屋

クジャクやインコなどの大きな鳥から小鳥まで居ます。
他にもうさぎなどの小動物もいます。


天守跡

利根英霊殿のある場所が天守跡とされてます。
利根英霊殿近くに置かれたこの石。柱を挟んだのか水路にでも使用したのか意味ありげに二つ置かれて
いるのですが何に使用されたのか記されていないのでわかりません。

関東における五重の天守は江戸城と沼田城のみであり、最上階には高欄が巡り金箔瓦も使用されていたとされ、
関東では特別な城とされていたようです。


真田信之・小松姫像

ここで写真を撮ると二人のような夫婦になれるという夫婦円満のパワースポットだそうです。
以前訪れた時は無かったのですが、新しい名所となるのか見所です。


観光案内所

こちらでパンフレットを入手。
無料の水やお茶も飲めてお土産が売られています。
大河ドラマ「真田丸」の役者さんたちのサインも飾られています。

復元模型

軽トラックの上に展示されている復元模型は本丸御殿の内部まで再現されていて、天井部分も再現されており
鏡を使って映し出されよく出来た模型です。
軽トラックで青空展示しておくのはもったいないような気がしました。


駐車場

観光案内所前の駐車場。
大型バス3台、普通車53台駐車可能です。トイレも完備。

三の丸の土居と堀

ここには「侍屋敷」があったとされています。



本丸堀、石垣跡

幕府に提出した正保城絵図によると、本丸側に唯一石垣が積まれた堀です。


石垣跡

こちらも真田氏時代に積まれたと考えられる石垣が残る。


本丸発掘調査

平成27年に行われた本丸堀、石垣等の発掘調査では大量の瓦や金属製品、陶磁器などが
出土されました。
そして、現在もつづく発掘調査。

町の活性化につなげようと3Dアプリ(ぐんまのやぼうとコラボ)を作ったり、
今後は沼田公園に天守を再建しようという計画がされているようです。
再建には25億円とも言われているのですが、建設費用として現在約6700万円の寄付金が市民から
寄せられている。
どんな天守が出来るのか楽しみです。



平成25年8月4日登城
平成28年11月13日再登城
平成30年5月19日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


盛岡城(岩手県)

2018年05月25日 |  百名城
盛岡城もりおかじょう
別名不来方城
構造平山城
築城者南部信直
築城年代1597年(慶長2年)
指定史跡国指定史跡
場所盛岡市内丸 地図
スタンプ設置場所プラザおでって2F観光文化情報プラザ・もりおか歴史文化館
御城印もりおか歴史文化館
城郭検定出題あり

盛岡城は石垣造りの、東北三大名城(盛岡城・会津若松城・白河城)の一つとされています。
築城は南部利直の指揮のもと、五人の重臣が奉行を務め丘陵を本丸、二の丸、三の丸の順番で
掘り下げて整地され、堀出された花崗岩を割って石垣にしました。


盛岡城祉碑

日が暮れそうで焦っていたので一番近い表門の通りの路上駐車場(パーキングメーター)を利用して
制限時間40分、ダッシュで登城!
ちなみに公園地下駐車場普通自動車(車高2.0メートル以下,車長5.1メートル以下,車幅2.0メートル以下)には
高さ制限で入れなかった(>_<)


瓦御門跡

ここには表門として櫓門がありました。
他の建物はほとんど板葺きでしたが、ここだけは瓦葺きだったため瓦御門の名が付きました。



瓦御門の石垣は修復工事中でブルーシートが掛けられています。
崩落の恐れのある一部石垣の解体修復(積み直し)を行っています。


三の丸



不明御門跡の巨石

花崗岩がむき出しのまま、加工されずに石垣と化されているところは
自前の石です感があふれ出ています(^^ゞ


御台所屋敷跡



二の丸

本丸が狭いという理由で、二の丸には表御殿が設けられていました。
不来方城時代には土手だった斜面は盛岡城になると総石垣へと変わりました。


井戸跡

この辺りはかつて大書院から続く、料理之間があった場所で
料理をするのに近い場所に井戸があったと思われます。

廊下橋

現在は朱塗りの赤い橋ですが、築城当時は「御廊下橋」と呼ばれる屋根付きの
廊下橋が架けられていました。


空堀

本丸と二の丸は空堀でしっかりと区切られ、不来方城であった時代からも橋が架けられていました。


本丸

ちょっと手狭な本丸には、中奥と奥御殿が建てられいました。
入りきらない表御殿は廊下橋を渡った二の丸へ^^;


南部利祥中尉銅像台座

南部家42代頭主南部利祥は明治37年に日露戦争に従軍。
皇族軍人を守り楯となって戦死したと伝わります。
ここにはそんな南部氏の騎馬に乗った銅像が建てられたのですが、鋳で造られた銅像部分は
軍儒資材として献納され、台座しか残っていません。


天守台

あずまやの見える場所が天守台です。
天守台には天守が築かれることはなく、三階櫓が建築され天守の代用とされていました。
しかし、しばらくすると本丸の三重櫓は落雷が原因で焼失してしました。
その後に建てられた「御三階櫓」は赤瓦で葺かれていました。
これは会津若松城といっしょで、寒冷地仕様だそうです!


榊山曲輪

石垣の下を覗き込むと小さな曲輪が見えました。
降りることは出来ないのですが覗き込むと井戸跡が見えます。


腰曲輪(馬場)

腰曲輪の南側を馬場と呼び、南東角には二重櫓が建てられいました。
また、東側の腰曲輪は淡路丸と呼ばれています。


宝蔵跡

腰曲輪には土台だけが残る宝蔵跡があります。
いったいどんなお宝が入っていたのでしょう。
わざわざ蔵を建てるくらいだからすごい財産があったのかしら。。。


淡路丸

かつて南部氏の家臣福士氏の不来方城の淡路館・慶善館が存在した場所です。
秀吉の重臣浅野長政の助言により、南部信直は不来方城に居城の移転を決意し
この地に盛岡城を築いています。
その、盛岡城の前身となる不来方城の淡路館が由来の曲輪ということになります。


本丸石垣(東側)

慶長時代のものと思われる野面積みの城内では最も古い石垣。


淡路丸石垣

写真の真ん中、石垣の上の方に「蛇口」という排水溝が造られているのが見えます。



盛岡城の石垣は何度も普請が行なわれ、その都度石積み方法も移り変わって来ました。
そんなさまざまな技法が見られるのも盛岡城の石垣の特徴です。
小振りな石を規則正しく積み、隅は算木積みという
江戸中期の延宝年間に改修したものと思われます。


彦御蔵

城内に唯一現存する建物はこの土蔵のみで、江戸時代後期の建物です。
この蔵は、参勤交代用の道具蔵として使用されていました。
本来は現在地から100mほど西側の市道際にあったが、曳き家してこの地に移されました。


吹上坂

吹上門へと続く坂道で、長い石垣が連なります。


二の丸の高石垣

石垣の材料に適した花崗岩が豊富にあったため、東北地方では珍しい総石垣となりました。
城内でもここ二の丸の高石垣が最も高い石垣で打込接で積まれています。


桜山神社

江戸時代中期、盛岡藩八代利視公により盛岡藩初代信直公の御遺徳を偲び、城内淡路丸に神殿を建立した
ことがはじまりで、淡路丸のことを桜山と呼んでいたことから桜山神社と呼ばれています。


烏帽子岩

二の丸と同じ高さの土地を深く掘り下げた時に現れたのがこの烏帽子岩です。
烏帽子に似た形をしていたため、桜山神社の宝として崇められて来ました。


プラザおでって

プラザおでって2階、観光文化情報プラザに日本100名城のスタンプ設置場所があります。
時間も9:00~20:00ということで夕暮れ時ではありますが十分間に合う時間で助かります。


スタンプ設置場所

ここは日本100名城のスタンプ設置場所です。
日が暮れちゃいましたがここまで来た甲斐がありました(*^^)v
遅くまで開いているところは、ほんと、ありがたいです。



盛岡城も予定外の訪問で、日が暮れる寸前の訪問となり、
私が苦手とするトワイライトの撮影となってしまいピンボケ写真の多いこと。
沢山写真を撮ったつもりが厳選すると少なくなってしまいました。

さて、急遽ここに寄ったのは単にスタンプのためだけでなく、攻城団で新しく登録になったバッチのためです。
盛岡市が「東北三名城」の理由を探りに行きました。
このバッチが登録になった時に、そもそも東北は石垣造りが少ないとしながらも仙台城の石垣は見事だよね。
という話をしつつ、東北の石垣造りの城を思い浮かべた中で盛岡城…そうなの?という疑問が
旦那の中にはあったようでずっと引っかかっていました。
というのも、まだ自分の目で見たことの無い城なのでピンと来なかったのでしょう。
(東北は土の城のイメージが強いので)
だったら自分の目で確かめたらいい!ということになり急遽帰り道に寄ることにしました。
結果、この高い総石垣をぐるりとめぐって納得。一件落着となりました。


平成30年5月6日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

スタンプ帳付いてます!

名胡桃城(群馬県)

2018年05月21日 | 続百名城
名胡桃城なぐるみじょう
別名
構造山城
築城者沼田氏
築城年代1492年(明応元年)
指定史跡県指定史跡
場所利根郡みなかみ町下津 地図
スタンプ設置場所名胡桃城址案内所(午前9:00~午後4:00)
空撮 USHISUN Aerichan  提供 ushisun
城郭検定出題あり

名胡桃城は鎌倉時代から戦国時代にかけて、沼田氏が沼田城の支城として配していた城でした。
武田氏臣下の真田昌幸と小田原北条氏が現在の沼田市と吾妻郡一帯の領有をめぐって対立。
1589年(天正17)に、豊臣秀吉の調停により沼田城一帯は北条氏に、
名胡桃城を含む吾妻郡の一部は昌幸の領有となりました。
しかし、北条方の沼田城代猪俣邦憲(憲直)が策謀により名胡桃城を奪う事件が発生しました。
秀吉はこれを私戦を禁じた惣無事令違反として小田原の役を開始しました。
そして、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の誘因となった城として知られています 。



東側下からの名胡桃城

下から見る名胡桃城も良いものです。
とても甲冑着て登る気は起きないです^^;


駐車場

発掘により、掘っ建て柱による建物20ケ所が確認され、名胡桃氏の居館であったと推定されています。
この郭は現在駐車場となっています。


般若郭

かつて戦国時代にはこのような郭になっていたのではないかと想像されています。



名胡桃城址案内所

名胡桃城駐車場入り口と案内所(10時~16時)があります。
案内所には休憩場所とトイレ、続百名城のスタンプがあります。


スタンプ設置場所

続百名城のスタンプを押していると、クリアファイルとオリジナルボールペンとステッカーをくれました。
現在上州真田三名城(名胡桃城・沼田城・岩櫃城)の続百名城三ヶ所を巡ると
最後のスタンプ設置場所でクリアファイルプレゼントという企画を催しています。



少々の資料の展示や兜や陣羽織を着て撮影ができたり、パンフレットも充実しているので
ここでもらってから散策するのがいいでしょう。


名胡桃城址看板

道路からもよく見える入口にある木製の看板です。



木製の城址看板の奥にある案内看板。
まずはここから見渡して、いざ、登城です!


出入口

この日は上州真田三名城ウォーキングが開催されていました。
先に行った沼田城を出発してここ名胡桃城まで歩いて来るそうです。


馬出



三の郭

三の郭には三日月堀がありました。
今は埋め戻されていて、色が違う部分が三日月堀跡です。





二の郭南虎口

喰違虎口になっています。





二郭

名胡桃城で最も広い郭です。
ここでは西側で9棟の掘立建物が確認されています。





二の郭北虎口

柱穴4本を持つ構造の掘立柱建物がみつかっていますが、これは門ではないかと
考えられているようです。





本郭堀切

土橋や木橋を架けて連絡していました。


名胡桃城址之碑

本郭に入ってすぐの右手にある城址碑。


本郭

それほど広くはない本郭。


名胡桃城址之碑

本郭の正面に立つ徳富蘇峰筆の城址碑。


四阿

熊払いの鐘が置いてあります。
この付近で熊の目撃情報があるため設置されたようです。


ささ郭堀切通路階段

階段を使って一段低い笹郭へ渡ります。


ささ郭

眺めが良いです。
ここから沼田城が…ちょっと見えない。
かつては見えていたのでしょうね。



こちらは二年前の少し寒い時期の画像です。
ここにも門があったようです。





袖郭

この細道を下ると物見曲輪に行けるのですが、急で滑りやすく掴まるものも無いので足元要注意です。



写真ではあまりよくわからないのですが、かなり急です。


物見郭

物見郭とはありますが郭の中では低い位置にあります。
とはいえ、下から見上げると高い位置で先端部分にあるので木が無ければ広範囲が
見渡せる場所にあります。



現在このあたりは草ぼーぼーです。
袖郭から物見郭まではかなり草で見ずらくなって来ているので来城者も増えていることろなので、
手入れをお願いしたいところです。


名胡桃城址は、NHK大河ドラマ「真田丸」の放映に伴い、2015年(平成27年)6月から12月にかけて、
土塁などの一部を復元する保存整備工事が行われました。
その後、続百名城としても賑わってきたのでスタンプを押しがてら様子を見に来てみました。
最近は女性がたくさん訪れているなあと感じます。(自分も含め)




平成28年3月6日登城
平成30年5月19日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
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浪岡城(青森県)

2018年05月19日 | 続百名城
浪岡城なみおかじょう
別名
構造平城
築城者浪岡北畠氏
築城年代15世紀後半
指定史跡国指定史跡
場所青森市浪岡大字浪岡五所14−1 地図
御城印青森市中世の館
スタンプ設置場所浪岡城跡案内所(午前9時00分~午後4時00分)・青森市中世の館(午前9時00分~午後5時00分)・青森市浪岡交流センターあぴねす(午前9時00分~午後7時00分)
城郭検定出題あり

浪岡城は1460年代に浪岡北畠氏によってつくられた平城です。
15世紀初頭には最盛期を迎え津軽では大きな勢力を持っていたが、1562年(永禄5年)に起きた
北畠氏の内乱「川原御所の乱」が勃発、これを機に浪岡北畠氏は衰退してしまいました。
そこへ、1578年(天正6年)に津軽為信によって攻め込まれ浪岡城は落城。
後に廃城となりました。


浪岡城跡案内所

浪岡城跡案内所の駐車場は普通車24台・大型車3台駐車可能です。
休憩所にもなっていてトイレもあります。


スタンプ設置場所

続百名城のスタンプはこちらに設置されています。
パンフレットもいただけるのでここで準備を整えて、いざ散策です。
実は浪岡城のスタンプ設置場所は3ヶ所もあります。
そのわりには続百名城のアピールはほとんどされていません。なぜでしょう?


浪岡城跡全体図

浪岡城跡案内所の中にもパネルなどが展示されています。


行岳公園碑

浪岡城跡案内所の裏手の道を進むと石碑が見えて来ます。
この遊歩道を進んで行くと浪岡城を散策出来ます。


猿楽館

まず見えて来るのが猿楽館です。
ここは「能舞台」があったのかも?という場所です。


東館

大き目の堀を横目に坂道を登ると東館が見えて来ます。


立体模型

パンフレットを持っていない方はここで全体像を把握することが出来ます。



東館を振り返ってみてみると、やはりひとつひとつの館(曲輪)が広い!



内館・猿楽館・外郭・新館・東館・北館・西館・検校館の8つの曲輪は堀で区画され
二重堀、三重堀があり、堀には木橋が架けられています。


中土塁

二重堀と中土塁がはっきりと見えます。
この辺りは県道27号線沿いにあって、道路からもよく見えます。


二重堀

堀を二重にして、敵を中土塁に誘導すれば両側から攻撃出来る仕組みになっていたようです。


北館

北館の入口です。
北館は浪岡城で一番大きい曲輪になります。
この他に出入口は西側に行くと、西館に通じる虎口があります。



北館は迷路状に造られていて、現在は板塀で仕切られたり、見学用にわかりやすく
道が配置されていますが、当時は何を使って区画されていたかわかっておらず、
迷路状に道を造ることで本丸である内館に簡単には辿り着かないようにしていたようです。



家臣の屋敷や職人工房、下人住居や倉庫、井戸などが存在していました。



掘立柱建物跡は区画ごとに屋敷があり、井戸も数基存在したことから各戸独立した屋敷が
あったと思われます。



奥が西館、左が内館になります。


内館

北館から堀の向こう側に一段たかくなった内館が見えます。
今回時間がなかったので内館までは行っていません。
とにかく広くて全部歩ききっていませんでした。


検校館

ここは調査がされていないので何があったのかわかっていません。


城址碑

浪岡城の西、検校館の隣で住宅地との境目に位置する場所にこの城址碑があります。


前田翁碑

浪岡城祉碑の道向かいにある前田翁碑。


青森市中世の館

浪岡城跡から出土した遺物を中心とした資料展示室と文化ホール等を備えた複合施設です。
続百名城のスタンプがここにも設置されています。


スタンプ設置場所

写真ピンボケですみません。
午後4時を過ぎて浪岡城跡案内所が閉館してしまったら、
5時までに青森市中世の館に来られればスタンプ押せます。


旧坪田家住宅

こちらは江戸時代末期の古民家で坪田氏の住宅を移築復元したものです。
青森市中世の館に隣接しているのでお時間のある方はぜひ見学を。


青森市浪岡交流センターあぴねす

JR浪岡駅と合築した施設で、ここにも続百名城のスタンプが設置されています。


スタンプ設置場所

午後5時を過ぎてしまったら、最終手段!ここまで来ると夜7時までスタンプが押せます


続・百名城の幟を見ることはなかったので、本当にここ続百名城だよね?
って確認したくなるほど宣伝力弱っ!と思っていたらスタンプは3つもありました。

前の晩、五稜郭から弘前城へ向かう途中スタンプだけでも…なんて思っていたのですが
この付近を通過したのが午後7時5分頃で最終手段の浪岡駅でも間に合わず、結局翌日の朝訪れることに。
もともと浪岡城には登城する予定ではなかったのですが、つい欲が出て結局登城することにしました。


平成30年5月6日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
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弘前城(青森県)

2018年05月17日 |  百名城
弘前城ひろさきじょう
別名鷹岡城
構造平山城
築城者津軽信枚
築城年代不明
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所弘前市下白銀町 地図
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ
スタンプ設置場所緑の相談所
攻城団チラシ緑の相談所

弘前城は、津軽為信により1603年(慶長8年)に計画され、二代目信枚が1611年(慶長16年)に完成した城です。
当時は南西隅に五重天守あり、本丸御殿もありました。
しかし1627年(寛永4年)に落雷で天守焼失、本丸御殿も類焼してしまいました。
弘前城には築城当時からの三基の櫓(羊申櫓・辰巳櫓・丑寅櫓)と
五つの門(追手門・南内門・東内門・東門・北門)が現存しています。


追手門

1610年に建てられた築城当時の城門です。
寒冷地ならではの問題として、建物の瓦が凍ることで破損し雨漏りを引き起こすことから
現存する天守と城門の屋根は銅瓦葺きになっています。


城址碑

築城当初は北門が正門とされていましたが、1665年(寛文5年)に大手口となりました。


東門

1610年に建てられた築城当時の城門です。
他の城門と違って、ここだけは1階の番所と出窓が右側にあります。


東内門

1610年に建てられた築城当時の城門です。


日本最古のソメイヨシノ

旧藩士の菊池楯衛から1882年(明治15年)に寄贈されたもので、現存するソメイヨシノでは日本最古のもの。


石垣修理展望デッキ

二の丸には石垣解体・修復の各作業を間近で眺めることができる展望デッキが設置されています。



夜はここでイベントをやっていました。
私が見た時には堀底に金魚で真っ赤になっていました。
ちなみに堀には水が入っておらず、歩ける状態の場所にプロジェクションマッピングで
投影されています。


下乗橋

弘前城と言えば、この橋から天守を撮影するのが定番ですが
現在天守が移動しているためこの橋からの石垣の上には天守不在の状態です^^;
ここでの天守撮影は天守が元の場所にも戻ってからのお楽しみにとっておきます。


亀石

真ん中の大きな石が亀の甲羅を表しているそうです。
後ろを振り向くと、この亀石と対になって鶴の松があります。
が、私はこれに気付かず写真に納めることは出来ませんでした(>_<)



天守が見えて来ました。





天守入口

ぐるりと回って入口に来ました。
ここを入ったところで百名城のスタンプをお借りしました。


石落しと矢狭間

天守を建てることが許されなかった時代に天守代わりに作られた櫓で、
石落なんて必要なかったそうですが城主は石落を付けたかったらしいです。
鉄砲や大砲の時代に石…落としてもなあ^-^;
でも、気持ちはわかります。


台車

曳屋に使われた台車(レンドローラー)です。


駕籠

歴代藩主が使用した駕籠や小道具などが展示されています。



中は鉄骨で支えられています。


本丸未申櫓跡

雨が降ってきたのでここで雨宿り。





鷹丘橋



辰巳櫓

歴代藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列をこの櫓から見物したといわれます。
石垣に関しては積雪時に櫓の下部が埋没して維持管理が難しかったため、1821年(文政4年)に
石垣を積み石垣の土台に改修されたそうです。


南内門

1610年に建てられた築城当時の城門です。


未申櫓

二の丸にあるこの隅櫓は1610年(慶長15年)に建造された現存櫓です。
未申櫓の石垣においても積雪時に櫓の下部が埋没して維持管理が難しかったために
1852年(嘉永5年)に積み直しの工事が行われています。


北門(亀甲門)

1611年に大光寺城の大手門を移築したと伝わります。
築城直後はしばらくこの門が正門として使われていました。



解体した石垣は北の丸に並べられています。
立ち入り禁止場所もありますが見学することが出来ます。


西堀

ライトアップされた西堀を春陽橋から観ています。
うまく表現できていないのですが、ここの景色はすばらしかった。
ため息が出るほど「美しい」光景でした。


~さくらまつり出店~

ジャンボおでん

若い子たちが手にしている黒い四角いものは何だ!?
と気になって仕方ないので探し回ると…ありました!
黒い四角い食べ物の正体は「黒いコンニャク」でした!(^^)!


嶽きみ天ぷら

岩木山とうもろこしを天ぷらにしたもので甘くておいしい!



弘前城のさくらまつりに間に合いました。
毎年すごい賑わいなのでこんな時期に来られるとは思いませんでした。
桜はほぼ終盤で残り少ない桜ではありましたが、夜と昼と二回登城して観て周ることが出来ました。
次はタイミングが合えば曳屋に参加出来るといいなあなんて思っています。


平成30年5月5日登城
平成30年5月6日再登城



弘前城 桜の木で作った箸
弘前
弘前



城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社

五稜郭(北海道)

2018年05月14日 |  百名城
五稜郭ごりょうかく
別名柳野城
構造平城
築城者江戸幕府
築城年代1864年(元治元年)
指定史跡国指定史跡
場所函館市五稜郭町 地図
御城印ネット通販(戦国魂)コンプリートセット非売品 
スタンプ設置場所函館奉行所付属建物「板庫(休憩所)」・五稜郭タワーチケット売り場
城郭検定出題あり

星形の城郭は、防御側の死角が少ないなどの利点があり、
徳川幕府の命を受けた蘭学者武田斐三郎が設計を手掛けた西洋式城郭が五稜郭です。
「亀田御役所土塁」は、箱館の隣村・亀田村にある柳野と呼ばれる丘陵地にあります。
この地に、四方を土塁で巡らせた役所が建てられました。
この役所を囲む土塁こそが、「亀田御役所土塁」であり「五稜郭」です。



やって来ました北海道!
夜中にフェリーに乗って早朝函館に到着。
しかし、午後にはまたフェリーに乗って青森へ帰らなくてはなりません。(車は青森港でお留守番)
滞在時間6時間という短時間スケジュールなので今回の北海道城さんぽは五稜郭のみ!


城址碑と一の橋

タクシーにて五稜郭へやって来ました。
天気はいまいち。雨が降ったりやんだりです。
それでも傘は不要で何とか見て周ることが出来ました。


二の橋

半月堡は後ほどゆっくりということで、先に進みます。
この橋を渡ると奉行所内へと入城です。


函館奉行所入口

函館奉行所と書いてある門があります。
ここがいわゆる大手門にあたる場所です。


門番所跡

五稜郭内への出入口は3ヶ所あり、その三ヶ所には門番所がありました。
建物は6畳と5畳半の部屋と土間と縁側といった間取りで、外には便所が設置されていました。


門番所跡と桜

左側は門番所跡です。
五稜郭内の多くの桜はこの雨でだいぶ散ってしまいました。


武田斐三郎顕彰碑

五稜郭の築城100年記念に、1964年(昭和39年)に建てられた碑です。


板庫

ここには土蔵と板庫が建ち並んでいます。
文書や物品などを保管したり収納していた建物で、板庫は板壁造り、土蔵は土壁造りの建物です。
土蔵(兵糧庫)と板庫と土蔵の間は約2間ずつ離れて、3棟並んで建てられていました。
現在、復元された板庫跡は休憩所、土蔵跡は管理事務所として使われていてます。


函館奉行所

函館奉行所は、函館開港により江戸幕府の設置した役所で、
奉行所の防御施設として五稜郭が築造されました。
明治維新の際は戊辰戦争最後の戦いであり、榎本武揚や土方歳三が立て籠もり、函館戦争の舞台となった建物です。


車寄

奉行所は1871年(明治4年)解体されますが現代になって残された写真などを参考に
当時のままに復元されました。
ちなみにこの建物の復元工事を請け負ったのはあの竹中半兵衛の家筋の竹中工務店が手掛けたそうです。





見隠土塁と虎口

右の石垣(土塁)は、五稜郭の中の様子を見えなくするためのもので
出入口三ヶ所に設置されており、土塁を石垣で固めて目隠しにしています。


裏門橋

五稜郭内部に渡る橋のひとつで、表の大手門に対してこちらは裏門になります。


男爵薯を讃ふ碑

裏門橋の袂にあるこの石碑は、男爵薯は明治四十年頃時の函館船渠株式会社社長男爵川田龍吉氏が
アメリカ原産のアイリッシュコプラーを七飯村の農場に輸入したもので輸入者に因んで男爵薯と称したものです。
川田男爵の功績を讃え永く感謝の意を記念するために男爵薯保存協会が建立したようです。


橋跡

裏門から東側を進んで行くともうひとつの出入口跡に出ます。
現在二の橋と裏門橋の二ヶ所から出入りできますが、かつてはここにも橋が架けられていて
出入口は全部で三ヶ所ありました。



さらに時計回りに進んで行くと、小さい水堀?がありました。
小池か井戸サイズで、これをどう使うのか???と佇んで考えてみたけど
想像もつかず何のために作られたのか謎のままです^^;


陵堡

西洋式土塁の特徴のひとつです。
この先端が好きです(^^)


一万号記念桜樹碑と巖谷小波の句碑

函館新聞の1万号発刊記念に、五稜郭へ桜の木を移植し、
移植した桜の木が1万本に達したことを記念して建立された碑です。



半月堡入口

ここから半月堡へ入ることが出来ます。
本来は半月堡も五つ造られるはずだったのですが予算不足などから
ここだけしか造られませんでした。


半月堡先端

ここは何重にもなった角が見られます。


先端で下を覗き込むとこんな光景です。
上の角と下の石垣の角が合っています。


半月堡内側

三角の馬出塁にあたる場所で五稜郭の出入口を防御する役割を担っています。

余談ですが…
半月堡の土塁の草陰に、ここに住むカラスの食糧保管場所があるみたいです。
変な鳴き方をするカラスがいたのでずっと観察していたら、草陰からパンのような食べ物を
堀出して食べていました。
みつけてしまったカラスの食糧隠し場所ですが、観光客の入れない場所でした。


刎出

五稜郭の石垣にはこのような刎出(武者返し)が付いています。
上から二段目の石が外に張り出していて、石垣をよじ登れない構造になっています。


五稜郭タワー

人が少ないうちにと8時前に行ったら、チケットを買ったら8時前なのにそのままエレベーターに乗れました。
これもGWゆえの早い入場だったのでしょうか。


眺望

函館山が見えます。
いつかあそこから夜景を見てみたいものです。


半月堡

タワーから見下してみるとその形がよくわかります。


スタンプ設置場所

普段はチケット売り場窓口で声を掛けるようになっているみたいですが
GW中はチケット売り場ではなくチケット売り場近くのロッカー脇に設置されていました。






~函館朝市どんぶり横丁市場~

函館市電

タクシーの運転手さんから教えて頂いた市電を使って函館駅に向かいます。
道路を電車が走ります!


函館朝市どんぶり横丁市場

「歴史発見!城下町へ行こう」で視た「函館朝市どんぶり横丁市場」が楽しそうだったので
市電に乗ってやって来ました!


いか釣り

「歴史発見!城下町へ行こう」でいか釣りもやっていたので早速体験してみました。
この市場では何軒かいか釣りをやっていますが、まずはピエール瀧さんがやっていた
高田屋さんで体験してみました。
これが面白くて、この後別のお店でもいか釣りをしました^^;


いか刺身

釣ったいかはその場で調理してくれます。


いか焼き

刺身にしてくれるのですが…裁いた後も動いているのが切なすぎるので
焼いてもらいました。
少々小振りないかだったので料理になるとこのくらいでした。
美味しかったのであっという間にたいらげてしまいました。


思い立ってやって来た函館。
GWとあってフェリーも満員で乗船できる時間が限られ、初めてやって来た北海道滞在時間は
約6時間という短時間で、とりあえず北の大地を踏んだぞー!!って感じ。
滞在時間より船に乗ってる時間の方が長かった^^;
次回はちゃんと計画して城めぐりできるようにしたいと思います。
嵐のように過ぎ去った北海道城さんぽでした。


平成30年5月5日登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

福島城(新潟県)

2018年05月10日 | 百名城以外の城
福島城ふくしまじょう
別名福嶋城
構造海城(平城)
築城者1600年(慶長5年)頃
築城年代堀秀治
指定史跡
場所上越市港町2 地図

1598年(慶長3年)、上杉景勝が会津に移封となり替わって入封したのが春日山城主の堀秀治です。
福島城は春日山城の代わるものとして築城されましたが、その後堀秀治は改易となり
徳川家康の子である松平忠輝を信州川中島から入封。
松平忠輝は高田城を築き、高田城へ移ったことにより福島城は廃城となりました。



古城小学校

福島城の本丸には小学校があります。
その名も古城小学校。


校門

校門脇には福島城とあり、校門には古城小学校とあります。


駐車場

校門を入るとすぐ左手に城址碑や案内看板があり、
駐車スペースがあります。
小学校の敷地内ということで入りずらいのかと思ったのですが
近所の方の犬の散歩だったり、以外に自由に散歩されている方がいらっしゃったので
不審者容疑はかけられずに校門内に入ることが出来ました。
それでも、校舎の方へは行かず、公開部分を見学するだけにしました。


福島城祉碑

この城址碑の碑壇の石垣はかつての石垣に使われていた石だそうです。


案内看板

カラ―で奇麗な案内看板も設置されています。


福島古城の図

福島城を廃して高田城に移った理由は良く分からないとしていますが、
この図を見ての通り、海や川に囲まれていて雨期になると氾濫するために
別の場所に高田城を築き移ったとの考え方が出来るとされています。
地図の関川沿い左下に真田屋敷があったことが見えます。


越後上越三城物語

春日山城⇒福島城⇒高田城との移り変わりを記した案内看板です。
このジオラマ図を見ると私が今立っている場所も古城小学校も水堀の中です。


城址碑

周囲は水堀だったことを考えると石垣はもっと高く積まれていたのではないでしょうか。


城址碑側面

御館で見た城址碑と同じ形のものがここにもあります。
というわけでこちらも側面には案内文が刻まれています。



わりと広い駐車スペースが設けられているのでありがたいことです。
ここまでなら普通に出入り出来ます。
それにしても広い城であったことが案内看板から見ることが出来ます。
たった7年で廃してしまうにはもったいない気がしますが如何せん立地条件が…
河川氾濫の予測はできなかったものでしょうかね。
春日山では山の上に屋敷を配していたので生活が大変だったということでしょうか^^;
春日山城と福島城とでは真逆の地形ですね。


~船見公園~

御館から福島城へ行く途中で海辺に寄って軽く朝食。
やはり海を眺めながらのおにぎりとお茶は格別です。

まち歩きさんぽマップ

船見公園にある案内看板。


吉野秀雄歌碑

海辺を散歩しながら眺めの良い場所をみつけました。
道路から石碑が見えたので「何の遺構だ!!」とつい引き寄せられ、行ってみると…
歌碑でした。
ま、そんなもんだ。
しかし、やっぱり海はいいなあ


平成30年4月21日登城




甲信越の名城を歩く 新潟編
福原 圭一,水澤 幸一
吉川弘文館

御館(新潟県)

2018年05月07日 | 百名城以外の城
御館おたて
別名上杉館
構造平城
築城者上杉謙信
築城年代1555年~1558年(弘治年間)
指定史跡
場所上越市五智1-23-11 地図

御館は、関東管領上杉憲政が小田原の北条氏康に敗れ、越後に逃れて来た時に
上杉謙信が造営した館です。


公園入口

公園の周囲を一周してみましたが、公園用の駐車場はありませんでした。
ということでこの入口に私だけ降ろしてもらっての散策となりました。



御館は大規模な館で、現在の公園の約6倍あったとされています。



広いように見えますが、周囲の住宅地を飲み込むほどの広大な
敷地だったそうです。


記念碑

公園の記念碑でしょうか。
石の上にはかわいらしい花冠が置いてありました。
そこに子供の姿がなかったのですが子供が遊んでいたのかなと思って散策していたら
近所から女の子と男の子が出て来て花冠を作った主が解りました。
私も子供の頃はよく作ったっけ。と微笑ましい光景を目にしました。


関東管領 上杉憲政公顕彰之碑

この顕彰碑よく見たら群馬県藤岡市の平井城保存会が建てた碑だったんですね。
グンマー人からすると、とても親近感湧きます(^^ゞ


御館碑

シンプルな御館碑だなあと思ってよく見たら、脇に説明文が刻まれていました。


御館碑(側面)

ここは、戦国期越後府中の中心で上杉謙信の政庁であった。
謙信は関東管領上杉憲政をここへ迎いいれた。
その内郭は東西135メートル、南北150メートルの広さで二重の堀をめぐらした居館であった。
謙信の死後、家督相続をめぐって争われた御館の乱で天正7年落城した。


御館跡平面図

この図を見て、宅地内を散策してみましたが遺構らしきものは見つけることが出来ませんでした。



話としてはとても有名な御館ですが、今この地に立つと平和ボケしそうなほど
のどかな住宅街で跡目争いの戦場だったとは思えない風景でした。

そしてこの後、私は鮫ヶ尾城に行くことになんるのですが、
そこでは、景勝に負けた景虎が鮫ヶ尾城で自害することになるのです。
なんとも切ないお家騒動です。



平成30年4月21日登城



関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)
黒田 基樹
KADOKAWA

伴野城(長野県)

2018年05月04日 | 百名城以外の城
伴野城とものじょう
別名伴野館・伴野氏館・野沢館・野沢城
構造平城
築城者伴野時長
築城年代鎌倉時代
指定史跡県指定史跡
場所佐久市野沢中小屋 地図

鎌倉時代~室町時代に活躍した伴野氏の居館と考えられています。
戦国時代には館を兼ねた城として増改築されています。
16世紀末にの戦乱期に廃城となりますが、江戸時代になると官庫、陣屋、藩出張所などに使用され
明治以降になると神社や官公地へと移り変わり、現在は神社の境内は公園として炉用されています。



大伴神社

大伴神社の建っている場所がかつての櫓台です。


土橋跡

平成14年の調査で堀から続く石積みがみつかっています。


水堀

ここは池のような幅がありますが城の周りを小川のような水路が巡っています。


トイレ

公園らしくトイレ兼あずまやがあります。
この日は学生さんが本を読んでいました。


本丸

ここにはかつて館が建ち並んでいました。



周囲はしっかり、土塁が巡らされています。


土塁

南側の入口以外は全周していた土塁。
こちらも調査で下部を石積みにした土塁がみつかっています。


慰霊碑

公園や城址によくある、慰霊碑がこちらにも。


稲荷大明神

よく見ると「忠勇室賀兄弟之碑」と「八海山神社・御嶽山神社・三笠山神社」の碑が並んでいます。


井戸跡?

井戸跡のように見えて…神社の手水でもあったのか?といろいろ想像できてしまう。
ま、遺構ではなさそうです。


虎口

この辺り、民家の土塀が良い雰囲気を醸し出しています。
城下の町の雰囲気があります。



土塁の上から見てみました。
高い土塁と虎口と、この雰囲気城址っぽくて良い感じです。


土塁

結構高く盛った土塁です。


伴野氏館址碑

土塁の上にある伴野氏館址碑。
もう少し目立つ場所にあってもいいのかなと思うのですが、
それには建てられた当時の事情があるのでしょうね。


大木

道路の半分を占める御神木は、初めて来るとちょっとびっくり。
道路を造る時点で既にあったであろう御神木を切らずに、また道を曲げずに造ってあるあるのがおもしろい。



新たに攻城団に登録されていた未登城の城址だったので、龍岡城とセットで登城しました。
数えきれないほどこの周辺は通過しているのですが町中に入ったことが無かったのでここに城館があることに
気付きませんでした。
また、隣はぴんころ地蔵があったり、龍岡城の東通用門が移築されていたり見所が凝縮されています。
もっとゆっくり散策して来るんだったなあ。
でも、また来ればいいんだし。と急ぎ足で訪問しました。


平成30年4月14日登城




甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館

小机城(神奈川県)

2018年05月02日 | 続百名城
小机城こづくえじょう
別名飯田城・根小屋城
構造平山城
築城者上杉氏
築城年代15世紀以前
指定史跡
場所横浜市港北区小机町 地図
スタンプ設置場所横浜市城郷小地区センター2階
※GW期間、4月28日~5月6日まで2階から1階正面入口を入ったフロアーに変更しています。
御城印横浜市歴史博物館

小机城は永享の乱に際して関東管領上杉氏によって築かれたとも伝わりますが築城時期は定かではありません。
1478年(文明10年)の長尾景春の乱で太田道灌に敗れ落城しました。
戦国期になると、小田原北条氏によって城も改築、北条氏の重臣小笠原氏が城代となり
豊臣秀吉の小田原平定に際し、小机城は一戦も交えること無く小田原城開城とともに開城し、
徳川家康が関東入りすると小机城は廃城となりました。


遠望

小机城は鶴見川に突き出た丘陵上の要害で鎌倉街道の交通の要衝です。



市民の森を目指します。



住宅地の中を案内看板に従って登城口へ向かいます。


小机城のあるまちを愛する会

住宅地の途中にこんな場所がありました。


根古屋広場

自転車はここまでなら来ることが出来ます。
トイレがここにあり、その隣に自転車を置くことが出来るスペースがあります。


遊歩道

幻想的な竹林の中を散策します。



右へ行くと二の丸広場、左へ行くと本丸広場。



この先は本丸へ行きますが、二の丸から先に行ってみたいと思います。


空堀

かなり大規模な空堀で圧倒されます。



社のある小ぶりな曲輪。
手前には鳥居もありますが、ここは馬出?



幅も深さも大規模です。


腰曲輪

南側から東側にかけて幾つか見られる腰曲輪。



ここまで来たら、まさかのカメラがバッテリー切れ
この小机城の竹林は愛用のカメラがいい!絶対に!と思えど、やはりバッテリー残量なし…
ここからが曲輪があったり土塁や空堀、櫓台と見所満載なのにぃ~。残念すぎる。


井楼櫓跡

見張台や武器を保管する武器庫があったと伝わります。


櫓台登り口

櫓台への登り口は北と南の二ヶ所あります。
こちらは北側の登り口です。


櫓台

足元を見ると何やら建物が造られていた跡が。
櫓かあずまやでもあったのか?


東曲輪

東側の曲輪はとても広いです。


二の丸広場
東曲輪の中に二の丸の表示がされているのですが、小机城に関しての詳しい資料が
みつかっていないので縄張りの名称は推定となっています。



北側の堀底です。
小机城では一番お気に入りの場所になりました。
なんとか1枚!、カメラ復活するもやっぱりバッテリー切れに変わりない。


西曲輪(本丸)

ここが本丸かな?という西曲輪。(本丸とは確定されていない)


スポーツ広場

スポーツ広場だけに…。
ネットも張ってあったので??鳥よけ?と思ったら野球のボールを3つほどみつけました。
ここ、野球するには狭くないですか。
観光客も増えたことだしねえ。


案内看板



冠木門

この冠木門の脇にこぶりな城址碑があります。
低い木の陰にあるので見落とさない様に。


土橋

本丸からつなぎ曲輪へと架かる土橋をつなぎ曲輪の上から本丸へ見下しています。


矢倉跡

細長い曲輪にある矢倉跡。
ここは馬出ともつなぎ曲輪とも言われています。


虎口?



第三京浜道路

この登城口のすぐ脇を第三京浜道路が小机城を分断し、切り崩されているのがわかります。
ここにも曲輪が存在していたらしいですが今は見る影もありません。


出丸

第三京浜道路を挟んで道路の向い側に見える小高い場所が出丸です。
出丸側はこちらから見る限り藪になっているようです。


登城口

西寄りの登城口です。


JR小机駅

小机駅から小机城までパンフを持った人たちがぞろぞろ歩いていました。


城郷小机地区センター

ここに続・百名城のスタンプがあります。
駅からすぐ近くで周辺にはコインパーキングも点在しています。


スタンプ設置場所

GW期間中は2階に設置してるスタンプは1階の玄関を入ってすぐの場所に置いてあります。
ここのスタンプはシャチハタではなくスタンプ台でインクを着けて押すタイプで
意識して押さないと真ん中が薄くなる感じです。
試し押しの紙が用意されているので試し押ししてみた方がいいかも。



城郷小机地区センターが開く頃から人が来始めるようで、私はそれ以前に登城したため城内には
ほとんど人がいないので人が写り込むことなく写真が撮れました。
…が、しかし、充電したはずのカメラが数枚撮っただけでバッテリー切れになってしまいました。
そのため、急遽スマホで撮影することになりカメラとスマホでだいぶ色味が変わってしまいました。
今回の写真の色味の違いはこんな理由からです。
さて、午前9時を過ぎて10時近くなるとびっくりするほど人が沢山やって来ました。
私は人の流れに逆らうように駅の方へ向って城郷小机地区センターでスタンプを押して来ました。
ゆっくり散策したい人は9時より前に登城してスタンプは後まわしにするのが良いと思われます。


平成30年4月28日登城



 おぼえておこう!



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス