むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

別府城(埼玉県)

2017年12月31日 | 百名城以外の城
別府城べっぷじょう
別名別府氏城・別府氏館・東別府館
構造平城
築城者別府次郎行隆
築城年代平安時代末期
指定史跡県指定史跡
場所熊谷市東別府北廓777 地図


別府城は成田二郎行隆が別府の地に住み別府氏を名乗ることに始まります。
行隆の子太郎能行と次郎行助が領地争いをし、行隆の遺言により別府郷を
半分ずつ知行することになり、別府の地には城跡(城館)が三ヶ所伝承されています。
能行に引き継がれ11代長清まで続きましたが、天正18年豊臣秀吉の北条攻めで敗北。
別府城はその後廃城となりました。


入口

車はこの奥の空きスペースに駐車することが出来ます。


案内看板

東別府の館に能行、西別府の館に行助と相対して領地として分け与えられていたことが記されています。
近距離で館がふたつとは、兄弟の争いを丸く収めるための親心が垣間見られます。


石碑

東別府神社のあるこちらの場所が県指定史跡の別府城です。
隣接する香林寺境内にあるのが別府氏館跡になります。
更に西方に遺構は失われてしまったが、行助が居住したと伝わる西別府館跡があります。


東別府神社二の鳥居

東別府神社を正面に見る二の鳥居。
一の鳥居は石碑横にあります。


東別府神社

藤原鎌足の後裔であるところから別府氏の氏神として奈良の春日神社を勧請、
戦国期の廃城になるまで、城の鎮守だったといいます。
明治42年に春日神社から東別府神社と改称したといいます。



合祀された神社や神様たちが祀られています。
多くの神社が祀られているので鳥居の数も多いです。


八坂社・天満天神社・八幡社

八坂社・天満天神社・八幡社を合祀。


御嶽神社

御嶽神社も合祀されています。
「登山して参拝する」気分でお参りする場所ですね。


庭園

この庭園を造った当時はきっと池に水が入っていたのでしょうね。


東の鳥居

東虎口に建てられた鳥居。


東虎口

土塁がしっかり残っています。


横濠跡

濠や土塁の構築は15世紀から16世紀のものと考えられています。


横濠

防御としては浅いので廃城後ある程度埋められたのでしょうね。


濠と土塁

こちらも少し浅めですがはっきりと分かるほど遺構は残っています。



一番高い土塁で、ここで折れ曲がっています。





喰い違い虎口

見てすぐわかる、きれいな喰い違いの虎口。


西虎口

ここの土塁も良い感じの高さを保っています。
神明社の鳥居があります。


神明社

神明社は天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社と学んだのですが
神社にあまり詳しくないので東別府神社の境内にあるすべての神様がどのような神様なのか
また、なぜここに集結している(合祀されている)のかよく分かりません。
とにかく神様が沢山いらっしゃる城跡なのでここは凄いパワースポットなのかも!です。


標柱

西側からの入口には標柱が建てられています。


集会所に地元の方々が居て、カメラを持って歩いていた私(不審者に見えた?)に声を掛けて来ました。
城跡を巡っていることを話すと別府城の見所と別府城の他に中条(ちゅうじょう)氏館跡のことを
教えて頂きました。
「常光院というお寺なんだけど水堀や土塁が残ってるからそこに行ってみな」と
一生懸命説明して下さいました。
「近頃はスマホのアプリに出てるとかで来る人が増えてるんだよね」とおっしゃっていました。
ブログを書いていることを話すと、
「大勢の人に知ってもらって来てくれるのは良い事だからみんなに紹介してね」とも言われました。
地元の方には挨拶を忘れずに。これが良き情報源にも繋がります。
親切に教えて下さった地元の方に感謝です。ありがとうございました。


平成29年12月10日登城


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川
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吉川弘文館

中城(埼玉県)

2017年12月30日 | 百名城以外の城
中城なかじょう
別名猿尾城
構造平山城
築城者猿尾氏?
築城年代不明
指定史跡町指定史跡
場所比企郡小川町大塚354 地図


中城は戦国時代には腰越城の出城とされていました。
城主は猿尾太郎種直や斎藤六郎尉重範など名前が残されているようですが
伝承のため何時頃築城されたのか誰が築城したのかなど、多くのことはよくわかっていません。
また、江戸時代には旗本・金子伊予守の 陣屋が置かれたようです。


駐車場

陣屋沼緑地沿いにある駐車場。
軽自動車二台分のスペースしかない。
ここに車を置いて、いざ散策!沼地に向かって下ります。



この先は行き止まりで城郭への整備された道は無いのですが無理矢理近道として
歩いた跡が残っています。
ちなみにこの先を足跡を辿って真直ぐよじ登ると堀に出ます。


陣屋沼緑地

先程の行き止まりを無理矢理登らずに陣屋沼緑地を西に進んでみます。
この写真の車が写っているあたりまで行くと登城口があります。


登城口

いくつかある登城口のひとつです。
私はたまたま見つけた北西側の登城口から登城してみました。



もともと登城口ではないところに付けられた道のように感じます。



堀切に付けられた虎口?
それとも後世に造られた近道のために土塁が切られた?
とりあえずここから堀底を東西へ行来出来ます。



東側へ続く堀です。
この先廻り込んだ所に虎口がありますが
ここにも直接本郭内へ行ける小路が付いています。



西側へ回り込む堀です。
ここを進むと西側の虎口があります。



不精にも早く本郭に行きたいばかりに一番近い小路を選択。


本郭

出ました!本郭跡。



襟のような土塁が見事です\(^o^)/


案内看板

「仙覚律師遺跡」の案内看板があります。
仙覚は鎌倉時代の茨城県生まれの僧侶で、「万葉集注釈」の著者です。
「武蔵国比企郡北方の麻師宇郷の政所」と記されていることからこの地で仮宿し、
「万葉集注釈」をまとめたものと考えられています。
城内には手作りされた万葉集の絵札のようなものが沢山見受けられます。


石碑

仙覚律師の記念碑。


西の虎口

本郭から西側へ出入りする虎口です。


高い土塁

西の虎口を出ると見事な堀と高い土塁があります。
このあたりが土塁としては一番高い部分でしょうか。
お見事です!



西側は畑と住宅地になっています。


櫓台

沢山の石像があります。
一体一体見て行くといろいろな格好や表情で失礼ながら、おもしろいです。
仙覚律師堂のあるこの高台は櫓台跡と思われます。



櫓台から見下した堀と土塁。
高さもあってメリハリが良く、良い造りですよね。


標柱

春日会館側にある標柱。
実は中城の郭の半分以上はテニスコートになっています。
テニスコートにはフェンスが張り巡らされています。


北の虎口

テニスコートと石碑群との間にある北側の虎口。



帰りは、最初に見た行き止まりの道の無い所を無理矢理歩いた跡に沿って下って来ました。
近道しちゃいました^^;


期待していた以上に見事な堀と土塁があり、来てみた甲斐がありました。
伝承だけであまりよくわからない城跡というのがちょっと残念ですがこれだけの
遺構が残っていればとても魅力ある城跡だと思います。
今後何かの資料が出て来るとおもしろそうなのでそんな書物が発見されることを期待します。


平成29年12月9日登城



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山崎城(埼玉県)

2017年12月29日 | 百名城以外の城
山崎城やまざきじょう
別名
構造丘城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所比企郡滑川町山田1416 地図


山崎城は国営武蔵丘陵森林公園内にあり、山田城と隣接していて
山田城との間には古鎌倉街道が通っています。
そのため、山崎城は街道の関所的な役割も担っていたのではないかとも
考えられています。


古鎌倉海道

山田城から古鎌倉海道を進むと山崎城に行くことが出来ます。
アスファルトの道が歩きやすいのですが、その隣を古道が並行しているので
せっかくなので古道を歩いてみました。


案内看板

古道を歩いていると立て看板が見えて来ます。
「この道は中世に作られ、城と城を結ぶ軍路で鎌倉や小田原に通じていました。
かつては、熊谷次郎直実や畠山荘司重忠などに代表される関東武士が鎌倉に馳せ参じた古道です。」
と記されています。


地図

山崎城に到着しました。
まずはここで位置を確認します。
しかし、この案内板には山田城は記されているものの山崎城は記されていません。



郭内に造られた空堀と土塁が見えて来ました。
一見、公園としてのデザイン的な土手みたいに見えます。


五の郭

梅の花が咲いてる時期に来ると良かったなあと思ってしまうような日当たりのよいベンチで
一休みしながら攻城団の「団長公記」をチェック。
朝は寒かったのに意外に気温が上がり、ぽかぽかでお尻に根が生えてしまいそうでした(^-^;


土塁と堀

長~い堀と土塁が残っています。



堀を挟んで右が三の郭、左が四の郭です。


三の郭



梅林

右手の奥が城郭の主要部になります。


寺沼の紅葉

12月なのにまだまだきれいな紅葉が見られました。


寺沼

山田城落城の際、姫が入水したと伝わる沼です。
池や井戸、滝や沼といった水場には必ずあると言っていい哀しい言い伝えがここにも。


雅の広場

正面に見える林の部分が山崎城です。


鎌倉街道を調べると、主要となる「上道」「中道」「下道」のほかに間道や枝道が数多く存在します。
国営武蔵丘陵森林公園内を南口から入り、山田城跡⇒山崎城跡⇒中央口⇒西口へと抜けています。
このルートは鎌倉街道の本道とは別でもうひとつの鎌倉街道とされるルートです。
また、地図をよく見るとほぼ鎌倉街道に沿って関越自動車道が延びていることも見えておもしろい発見でした。
関越自動車道を挟んで両側に城跡が多いのも鎌倉街道があってのことか、
いずれにしてもとても重要な街道であったことがわかります。
山田城、山崎城と、国営武蔵丘陵森林公園内にあるのでファミリーで遊びに訪れた際は
ぜひセットで登城されることをお勧めします。


平成29年12月9日登城


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天神山城(長野県)

2017年12月27日 | 百名城以外の城
天神山城てんじんやまじょう
別名阿陀師野城・笠原城
構造平山城
築城者笠原平吾頼直
築城年代1336年~1339年(延元年間)
指定史跡
場所伊那市美篶南割 地図


この辺りは笠原氏の治める地として、近くに主要なる城「蟻塚城」と「守屋山城」があります。
天神山城は周囲を見渡すには格好の場所で、物見の砦であったと考えられています。



天神山はなだらかな山で、要害としてはあまり使えそうにありません。


天神山児童遊園

天神山城入口付近には天神山児童遊園があり、ここに駐車場があります。
地元の方に聞くと車は左右どちらに置いても構わないと云われましたが、
遊具がある方は地元の小さな子供が遊びに来ていたので十分注意が必要です。



鳥居と石碑が見える所から登城します。


鳥居

天神山はかつて天神様を祀っていたことから天神山という名前が付いたそうです。



上に延びる階段。
ここをどんどん登って行きます。



階段の先は細い道が上に向かって続いています。



右へ左へと折れ曲がりながら登って行きます。



中腹より少し上に鳥居が見えて来ました。




大きな岩の上に鎮座する祠。
ここからも眺めが良く下の集落を見下すことが出来ます。



更に上へと進みます。



またしても鳥居です。
その鳥居をくぐると主郭部になります。



鳥居を過ぎて、天満宮が見えて来ました。



石で出来たベンチ?


天満宮

天満宮の前はよく清掃されていて、足元の落ち葉は奇麗に掃かれています。



天満宮の背後には土塁が残されています。
蟻塚城の本郭ほどの高さに比べるとかなり低いものではありますが、
襟のように盛られた土塁がはっきり見られます。


高遠側の眺望

樹木で見渡すことが出来ません。木が無ければ高遠方面が良く見えるはずです。


東虎口

段状に突き出た東の虎口。
足元はこの郭で一番高い場所で、物見なのか古墳なのかちいさな盛り上りが付いています。
その上から郭の先端を見下して撮影しています。
一段低くなっている場所は堀切だったようです。
はっきりした痕跡は確認しずらいところです。



西虎口側の土塁の端です。
正面が虎口になります。



蟻塚城側の眺望ですが、こちらも樹木でよく見えません。
周囲の木を切り倒すと蟻塚城が見える状態になります。


西虎口

西虎口から下る道です。
尾根伝いに富岡古墳側に下る道のようです。
かつては堀切だったようですが名残程度にしか痕跡が見られません。



横矢を掛けられそうな地形です。
合戦場にはなっていない場所とは思うのですが
土塁と堀切のある場所としてはこの辺りで守りを固めているのかなと想像します。



鳥居のある歩きやすい天満宮への参道は城郭とは別に参道として造られた
道に思われます。



つづら折れになっている参道を戻り天神山城を後にします。


保科正光が第一次上田合戦に出陣している留守中に
信濃国府中の小笠原貞慶が高遠に攻め込んできたことがありました。
留守をしていた残りの保科勢は大軍であった小笠原勢を惨敗にしています。
この時、天神山は高遠の入口であり、物見として使用されたことが想像出来ます。


平成29年12月24日登城



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お城EXPO2017

2017年12月25日 | イベント・行事
今年も行きました!お城EXPO2017。


今年は会場前に「攻城団」のお茶会があり、普段お顔を拝見したことのない
団員さんたちと御対面!楽しく談笑してまいりました。

厳選プログラムのトークショーが昨年同様面白くて、
春風亭昇太さんと萩原さちこさん、千田嘉博先生の話を聞きました。

その後、夕方までいろいろなブースや展示物を見て歩きました。





今年も全国のお城のパンフレットを集め廻りました。
これが後に1年間ブログを書くための大事な資料になります。
まだ行ったことの無いお城のパンフレットが手に入る、私にとってはとて都合の良いゾーンです。
今年は沢山貰うためにトートバッグを持参、それでも足りず更にトートバッグを二つ入手して
がっつりパンフレットを戴いて来ました。



ジオラマは昨年より作品が増えていましたが
ちょっと急いで造ったのかな?という作品が多かったような気もします。




今年は続百名城の展示も増えているので多くのお城を知る機会が出来たことでしょう。
そして、これから発売になるガイドブックが先行発売されていました。
しかし、私はガイドブックをすでに注文してしまっていたので欲しかったのですが断念。
発売日に届くと良いのですが最悪、年明けまでお預けです。
先に入手出来た方がうらやましい!


発見!ニッポン城めぐりのキャンペーンコーナーではガラシャをゲット!

物販ブースでは、欲しいグッズや本があったのですが会計の長~い列を見て断念。

歩き疲れるまでお城EXPOを堪能し、帰りに近くのポケモンセンターに寄って帰りました。



平成29年12月23日

山田城(埼玉県)

2017年12月22日 | 百名城以外の城
山田城やまだじょう
別名城山
構造丘城
築城者小高大和守
築城年代不明
指定史跡
場所比企郡滑川町山田1912 地図


築造年代目的、形態からほぼ戦国時代の出城の一つとして考えられています。
伝承記録、創築年代は不明ですが、遺構、土塁、空堀は良く残っています。
忍の成田氏の被官の小高大和守父子及び贄田摂津守等が居城し、
平山城としての城郭を整えていたものと思われます。
天正18年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に前田利家によって陥落したと言われています。


国営武蔵丘陵森林公園駐車場

ここは城跡からは近いですが、有料の駐車場です。
駐車場代が痛かった。(620円)
そして公園の入場料(410円)を支払い登城です。
ちなみにここ以外の近隣有料駐車場は200円だったみたいです。


国営武蔵丘陵森林公園

さて、ここには何度か来ているのですが、目的がまったく違ったのでここに城跡があることは
数年前に知りました。
それ以前はというと…かれこれどのくらい前に来たのかなあ。



噴水右手に城跡入口があります。



ここで道が別れています。
なんとなく林の中から行く方の道を選んでしまいます。
でも、舗装路をまっすぐ進むのが本来の大手道だったようです。



大手側でなく、道しるべが示すように林の中へ。
林の中の小路を進むと堀と土塁が見えて来ます。
この階段を登ると主郭です。



主郭の周囲には堀が巡っています。


主郭

主郭は全体が平のように見えて、北側には堀が掘られています。
左側の緑の笹が見える所は堀で凸凹しています。



郭の渕を囲むように低い土塁が造られています。






大手口(東南側虎口)

左右は堀になっています。
土橋を登ると主郭です。



大手口(虎口)から見た主郭。
正面に案内看板が見えます。


案内看板

縄張図を見ると、卵型の郭の中は屋敷跡のように平地のように見えて
平地に堀切が掘られていて郭内を区切っていたかのようにも見えます。


枡形虎口(北東側)

散策してみると、虎口は4つあるように見えるのですが
実は鎌倉街道に見られる東側の二ヶ所だけがかつての虎口らしい。



外側の道から見た虎口。



虎口脇から延びる主郭を囲む堀。
きれいに形成されています。



堀底を歩いてみると主郭との段差を感じます。



主郭から北側へ抜ける道が出来ていますが本来ここには
虎口は無かったはずで、公園にした時にショートカット用に都合よく造ったのでしょうか。



この先は山田城を出て山崎城の方へ行くと思われますが
山崎城には枡形虎口を出て鎌倉街道から行ってみようと思います。


国営武蔵丘陵森林公園内には「山田城」と「山崎城」が含まれています。
公園になっているので歩きやすく安心して気軽に散策出来ます。
しかし、案内看板等が少なく一般の人が立ち止まったり興味を示すようなことは
無いのが残念なところでもあります。
せっかくお金を払って入園しているのだからもう少し紹介してもらえるといいのになと
思ってしまいました。


平成29年12月9日登城


[雪上でも安心] 滑り止めマット 3m
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田邊(タナベ)

花崎城(埼玉県)

2017年12月20日 | 百名城以外の城
花崎城はなさきじょう
別名花崎遺跡
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所加須市花崎北2 地図


花崎城は粟原城の支城として、細萱氏によって築かれた城です。
戦国期には北条方にあり、上杉謙信の小田原攻めの際に家臣の木戸宮内少輔に
花崎城を攻めさせたことが記録に残っています。
城主である細萱光仲は小田原城に詰めていた最中のことで、
花崎城は細萱光仲の子でわずか11歳の細萱泰秀が守っていましたが
粟原城とともに落城してしまいました。

公園入口

夕暮れ時に訪れた花崎城。
この写真が実際の暗さで周囲はすっかり暗くなっていました。


標柱

写真には納めずらい場所に立っています。
しかもフェンスの外はゴミ置き場…

堀切

公園内に入ると良い感じに堀が見えて来ました。
内堀は空堀になっています。



わりときれいに堀が残っています。



公園入口から真直ぐ進むと水堀が見えて来ました。



点在する堀に架けられた橋。


水堀

水量は少ないですが、外側を巡る堀は水堀になっています。



かつては湿地帯であったことを思わせるような水量を湛える水堀です。


あずまや

公園らしい休憩の場があります。



こちらもベンチが設置されています。



堀底には北条の城によく見られる畝も確認されています。



堀には橋が架けられており、その橋の上からは堀がよく見えます。






周囲は宅地に囲まれており、公園の周りを一周してみたものの
この公園を利用するための駐車場は見当たりませんでした。



住宅街とあって近所の方が利用する公園として造られているのでしょう。


1枚目の写真以降はカメラのシャッタースピードを下げてフラッシュを使用せずに撮ったもので
まるで昼間撮ったかのような明るさで撮影してあります。
シャッタースピードが遅い分、私の手振れが気になるところですが
せっかく出張帰りに寄り道したのでなんとか写真に納めたくて暗い中撮影してきました。


平成29年12月6日登城


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平賀城(長野県)

2017年12月18日 | 百名城以外の城
平賀城平賀城(ひらがじょう)
別名龍岡城
構造山城
築城者平賀義信
築城年代不明
指定史跡県指定史跡
場所佐久市平賀城平 地図


武田氏の佐久侵入は1504年~1520年(永正年間)であり、
その時には佐久には平賀城(笠原氏)、岩尾城(大井氏)、望月城(望月氏)、芦田城(芦田氏)など
20余の城が存在していました。

1541年(天文10年)諏訪口と佐久口の両方から武田晴信の信州攻略がはじまりました。
佐久郡の豪族は、北信の村上氏や関東の上杉氏の援助を得て武田軍に抵抗しましたが、
次々と制圧され、佐久の内最後まで抵抗した平賀城主笠原新三郎も、1548年(天文17年)に
武田晴信により落され、佐久全土が武田一色となりました。


佐久宝寿霊園

県道120号線から正安寺と佐久宝寿霊園の案内看板に従って脇道に入ります。
正安寺を通り越して更に道なりに佐久宝寿霊園目指して車で登って行きます。
佐久宝寿霊園の駐車場に車を置かせてもらい本丸へ最短で攻城してみました。



駐車場手前のカーブミラーが目印になります。
このブログを書いていて、たった今気が付いたのですが、手前に写っている木に黄色で矢印が書いてある!
実はこれが重要で、後から知ったのですが搦手の道はカーブミラーの左手の堀切から行くと道が本丸まで
続いていたのです。
私は間違えて右に下って行ったためにこの後大変な苦労をして本丸に辿り着くことになります。
ここでは私のように間違えないよう、堀切側に進んで下さい。
ちなみにカーブミラーの真上は出丸だそうです。


入口

カーブミラーの道下に道が見えたので、ここから侵入してみたいと思います。
(因みにこの選択は間違い)
それではいざ、出発!!


倒木

道に沿って歩き始めたら、道を塞ぐように倒木がありました。
倒木にも負けず、乗り越えて進みます。



ふと左側を見上げると、上に何やら建物が見えます。
えっ!もう本丸が見えているのか??



建物の見える場所を通り過ぎてどんどん道を進んだら、本丸らしき場所から
どんどん離れてしまったので、引き返して再び建物の真下まで来ました。
ここからが強行です!
上に登る道が見つからないので建物目指して無理やりよじ登る作戦に切り替えました!(馬鹿ですねえ)
※石垣には登らず、なるべく土も崩さないように歩きました。



下を見ると段々になってます。
てっぺんまでにはいくつもの段々をひたすらよじ登って行くことに。



上を見るとあと少しで頂上に出そうです。
あと一息、がんばるぞ!


三の丸跡

そして!よじ登った先は三の丸跡でした。
山城に登った感はたっぷり、でも距離は短い。
無理矢理~。


案内看板

段曲輪が厳重な防備と書いてあるが、私がここからよじ登ろうと思ったのは
段曲輪があったから登れると思ってしまったことからなんだけど
それは敵が待ち構えている訳じゃなかったからこそ攻められたのか^^;


案内看板と城跡碑

最短距離を選んで這うようによじ登って来たのに、
大手道から登って来たら容易に来られそうな道がちゃんと目の前にあります。
ですよね。普通に大手道も搦手道もある山城のはずなんですよね。


虎口

三の丸の虎口です。
この道が大手道なのです。


石段

三の丸虎口前は落ち葉で埋もれぎみですが、石段が付いています。


大手道

三の丸下は石垣があり、その先は大手道が続いています。
これを下って行くと帰りが大変そうなので道を確認して
本丸方面へ戻りました。


二の丸

三の丸を過ぎると二の丸です。



低い石積みがあるのがとても気になる郭です。
どんなものがこのスペースあったのでしょうね。


本丸虎口

ここを登るといよいよ本丸です。


あずまや

ちょっと大きめのあずまやがあります。
下から見えていたのはこのあずまやではなく、使えないトイレが見えていたようです。


本丸跡

物見が出来るほど眺めも良く、下を覗けば段曲輪や搦手曲輪が見えます。


眺望

八ヶ岳連峰の蓼科方面が見えます。


搦手道

搦手側にも道があります。



こちらの道は岩場に細い道、そして崖。
これは落ちたらちょっと痛そうです



振り返ってみました。
なんとも迫力とスリルのある小道です。
甲冑着てすれ違いはできないだろうなあ。



搦手道を下って行くと本丸から下に見えていた搦手曲輪跡の標柱が見えて来ました。


搦手曲輪跡

段曲輪の中でも広く間取りされているのが搦手曲輪です。
ここまで搦手道を下って来たのですが、ここから先は南東へ向って道が続いているのを
進んで行くのが怖いので、入って来たカーブミラーの所まで帰れるように
搦手道か外れて段曲輪を下りカーブミラーの所から入った道を探しながら下ることにしました。


搦手道入口

ガードレールが見えて来たのでそれを目指して下っていると、カーブミラーからの道に出られて
無事戻って来ることが出来ました。
これも後から分かったことですが、搦手曲輪からそのまま搦手道を下って来ると
少し廻り込んだ道だったのですが、この堀切に出て来ることが分かりました。


そもそもこの日は独りでの行動だったので岩尾城だけのつもりで出掛け、
山城には行かない予定だったのです。
それが、つい欲が出て帰りがけに以前から気になっていた平賀城の入口だけ確認して、
後日旦那と登城しようと思っていたのに、あまりに近い所に本丸が見えてしまったので
簡単に本丸まで行けるだろうと思ってしまい、無理矢理道の無い場所からよじ登るという荒技で
登城してしまいました。
帰りには元の場所に戻れるのか?とプチ遭難になりかけました。(実は私、方向音痴です)
山に登るにあたり、やってはいけない軽率な行動だと反省。
やはり城はこわ~いところです。
皆さんはちゃんと大手道か搦手道から登城しましょうね。


平成29年11月25日登城



真田幸村(信繁) 戦国免許証
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大戸関所(群馬県)

2017年12月17日 | 関所・宿場
大戸関所おおどせきしょ
設置1632年(寛永8年)
廃止1868年(明治元年)9月
指定史跡
場所吾妻郡東吾妻町大戸 地図


大戸関所は信州街道の要点をおさえる場所として重要な関所でした。
草津温泉をはじめとする湯治客や善光寺参りや武家商人の荷物、各地の産物の輸送路とされていました。
この道は江戸と北信州を結ぶ最短距離で中山道を凌ぐほどの活気を呈した街道にありました。


関所の門

関所の通行の門限は、明六つから暮六つ(午前6時から午後6時)までと定められていました。
通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破りは重罪として処刑されたようです。
死罪とは…とても厳しかったんですね。


石碑

大きな大戸関所跡の碑が建っています。
部分的にしか読めないのですが石碑横の看板の内容が書かれているようです。


案内看板

大戸、荻生、本宿の3ヶ村は要害地域を守る関所付の村として関所番人をを出し、
警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務づけられていました。
また、近隣の11ヵ村は関所普請村に充てられていました。


標柱

下の方に注目すると「想像復元」と書いてあります。
正直というか、わかりやすいというか…
以前訪れた時には御番屋という建物は無かったので
想像と言えど雰囲気が出ていいんじゃないでしょうか


御番屋



国定忠治がこの関所を破り、最後に磔になった場所として知られているようですが
私も名前だけは耳にしたことはあるものの、どんなお芝居なのか、どんな物語なのかを存じません。
「赤城の山も今宵限り」なんてセリフもこんにゃくのCMで聞いたことはありますが
関所破りや殺人などの悪事を働き、最後はこの地で磔の刑に処せられた江戸末期の博打うちで、
その一方で、天保の大飢饉の際に、私財を投じて民衆を助けた侠客とも伝えられています。
単なるヤクザ者か、それとも弱きを助ける侠客なのか真実はわかりませんが
いずれにしても現代ではあまり受け入れられない物語なので最近は耳にすることもなくなって来ました。
今回どんな物語なのかと調べてみて、お芝居としてでなく歴史として史実の方を語り継げられたら
良くも悪くもいつの世でも受け入れられるようになるのではないのかと思いました。


平成29年12月16日訪問



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成田氏館(埼玉県)

2017年12月15日 | 百名城以外の城
成田氏館なりたしやかた
別名
構造平城
築城者成田助高
築城年代1053年(天喜元年)
指定史跡市指定史跡
場所熊谷市上之545 地図


藤原鎌足の子孫、藤原道宗の子である助高が成田の地に館を構え成田氏を名乗りました。
成田氏は「関東八家」と称されるほど勢力を拡大し、
成田親泰が忍城城主になるまでの四百年間をこの館で過ごしました。



「のぼうの城」でおなじみの成田氏の館跡です。


標柱

道沿いに標柱。その奥には館跡の石碑があります。
でも、それだけです^^;


館跡碑

柵の中に石碑がある以外が何も無く、残念ながら遺構も見られません。



標柱にはその歴史が書かれています。


忍氏を滅ぼして忍城築城、その後成田氏館は廃されたようです。
近隣にある龍淵寺には成田氏歴代の墓があるそうです。
土地勘が無いのでそこまで足を延ばさずに帰路についてしまいました。残念…。



平成29年12月10日登城


映画「のぼうの城」【TBSオンデマンド】
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岩尾城(長野県)

2017年12月13日 | 百名城以外の城
岩尾城いわおじょう
別名琵琶島城・藤ガ城・藤ヶ城
構造平山城
築城者大井行俊
築城年代1479年(文明11年)
指定史跡県指定史跡
場所佐久市鳴瀬岩尾 地図


佐久郡大井庄の地頭大井氏の支族大井行俊によって築かれた平山城で
城主の平常の居館と戦時の軍事的防塞として使用されていた城です。


遠景

平地から一段上がった高台に岩尾城跡があります。


高岩寺再興予定地

ナビの案内で連れて来られたのはここでした。
本郭はこの上の段にあります。



先程の場所から上に登る道は車では路肩が崩れていて危険です。
車を痛めそうなので別のルートから廻り込みました。



ここが郭入口になるのですが、ここに到着するには普通車では難しいと思われます。
周囲には駐車場もありません。
畑のに居た方に声を掛け、路駐させてもらいました。


鳥居

この日は鳥居の下のくずかごに立ち入り禁止の紙が貼られていました。
倒木があるためのようですが、ご近所の方にお話しをして許可をいただき、
ゆっくり観ておいでとおっしゃってくださったのでお言葉に甘えて散策させていただきました。


標柱と案内看板

鳥居をくぐると左右両方に案内看板があります。


案内看板



丸馬出

ここに倒木があり、すでに運び出すだけの状態で片付けられていました。
歩くには問題ないようにまで手入れされています。


手水鉢



伊豆箱根三島神社

神社の境内が三の丸です。


二の丸

三の丸に二の丸跡とありますが、本殿の裏手(一段上がる)が二の丸と思われます。



本殿脇の石段を上がると二の丸です。
あまり高くない石垣がちらほら見えるのでわくわくします
※遺構か現代になってからのものかは未確認です。



二の丸は眺めも良く、あづまやや石碑、祠などが点在しています。



二の丸と本丸の間は低い石垣で区切られています。
頂点に本丸と思いきや、本丸の方が二の丸より何故か低い。


主郭

本丸はあまり手入れがされておらず、倒木もあります。
この奥に西の丸があり堀切もあるそうですが、藪に突入しそうなのでここで引き返しました。


虎口

三の丸に戻って来ました。
社務所裏に虎口があります。(遺構なのか現代になって造られたものかわかりません)


三日月堀跡

武田の城でよく見る三日月堀のような形は確認出来ず。
かつてはあったのかもしれませんが農地と化して遺構は消えてしまったのでしょうか…。


堀切

堀切に作られた道路。
左側が大手台曲輪です。
こちら側は畑もなっています。



岩尾城周囲には駐車場は無く、道もかなり狭いので軽自動車でないと難しいです。
私が最初に通って来た道は軽自動車でも両脇5cm程しか余裕の無い民家と石垣の間に進入してしまい
バックするにもつらいので前進するしかなく、危うく愛車に擦り傷を入れてしまうのではないかと
ハラハラしました。
地元の方にも擦らなかったかい?と何度も聞かれ、よく通ったねと言われるほど狭い道を
抜けて来てしまいました。
農作業をされていた地元の方に話を伺うと、駐車場が無いのでみなさん道に停めて
見学されていますとのことです。
この道を利用するのは畑に来る地元の方なので、その方に声を掛けて道に置かせてもらうしかありません。

びわ島方面からの入口なら狭いことには変わりないけど普通車でも通行可です。
帰りはこちらに抜けて帰りました。



平成29年11月25日登城


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西城(埼玉県)

2017年12月11日 | 百名城以外の城
西城にしじょう
別名長井城・西城城
構造平城
築城者藤原道宗
築城年代平安時代末期
指定史跡
場所熊谷市西城長安寺1142 地図


斎藤実遠が武功を上げたことで源頼朝から長井庄を与えられ、西城を築き長井斎藤氏の祖となりました。
1478年(文明10年)7月17日に太田道灌に鉢形城を攻略された鉢形城城主の長尾景春は、
鉢形城を捨てて敗走。
各地を転々とし、斎藤氏に受け入れられ長井城(西城)に一時避難しました。
その後、景春は秩父の熊倉城へ逃走し、「長尾春景の乱」では太田道灌との最後の決戦を迎えました。



田園の中に城跡碑が見えて来ました!


城跡碑

とても立派な城址碑がありますが…他には何もありません。



この段差、どう見ます?
ただの田んぼの段差でしかないのでしょうね…。



隣は畑…。


猿田彦大神

近くに神社らしきものがありました。
神社仏閣に詳しくないのでよくわからないのですが城跡にはよくあるので
とりあえずパチリとして来ました。



ただただ農地~遺構はありません。


後から分かったのですが、城跡碑の裏には由来が書いてあったのをうっかり見逃して来てしまいました。

近くに川もあり、田んぼと川には沢山の白鷺が群がっていました。
車で近寄ってもあまり逃げて行きません。
びっくりするほどの数です!
車もあまり通らない安全地帯なのでしょうね。
見所もないとも言えますが^^;


平成29年12月10日登城


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手振れ防止はもちろん、山城ではいろいろな使い方ができる!!

栗橋城(茨城県)

2017年12月08日 | 百名城以外の城
栗橋城くりはしじょう
別名古河旧城
構造平城
築城者野田右馬助
築城年代1457年~1460年(長禄年間)
指定史跡
場所下総国猿島郡五霞町元栗橋 地図


室町時代に鎌倉北条氏照氏がここ北関東の一帯を上杉謙信から守りぬくために
支城として築城させたものであるといわれています。
天正18年まで北条氏の拠点として機能し、小田原合戦の後に廃城となりました。


法宣寺

法宣寺の裏に虎口、「七曲がり」と呼ばれる巨大なクランク状の堀が見られので
本堂脇の墓地を通って裏手に行ってみました。


本堂

まずはこちらでお賽銭を入れて神様に御挨拶をしてから
裏手に廻り、城跡の遺構を見に行きました。


堀と土塁

この堀とは別に、七曲がりと称せられた堀が現存しています。



堀と土塁はとても良い状態で残っていますが個人所有のためか手入れはされていないのと、
私有地であることで進入することも出来ません。


虎口

人が入った様子もうかがえず、獣道すら見当たらずの状態で
わかりずらいのですが、形状や縄張図からするとこの辺りが法宣寺裏の虎口のようです。



法宣寺の表の通り沿いに案内看板と松本家への入口があります。
この道の奥に管理者の松本好司氏宅があり、栗橋城の郭があります。


案内看板

管理者の松本さんの御先祖さまは長野県の松本の出らしい。
その、信濃の松本より小笠原氏が一時的に入城しているので縁があったのかもしれない。



この道奥の右手が松本家で裏手に郭があります。


虎口

松本好司氏宅裏のここが虎口らしいが、個人敷地のため出入りした様子もなく
失礼があってはならないと思いここで引き返しました。





遠景



すぐ近くには権現堂川が流れており、かつてはこの川の対岸も城域だったようで、
元和7年頃の改修工事によって城域は権現堂川により分断されてしまったとあります。

また、私有地のため城郭内は見ること叶わず。
ほとんど手入れされてないので、その分そのままの状態で遺構が残ってそうです。
郭内の様子は地権者の許可が無ければ見ることは出来ない場所なので
御迷惑にならない程度に外から眺めるしかないのかなと思われる城跡でした。


平成29年12月6日登城



栗橋城が載っています
改訂版 図説 茨城の城郭
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国書刊行会

定価:本体2800円+税

江田館(群馬県)

2017年12月06日 | 陣屋・館
江田館えだやかた
別名上江田城
構造平城
築城者江田頼有
築城年代1210年(承元4年)
指定史跡国指定史跡
場所太田市新田上江田町924 地図


鎌倉攻めに従軍した江田行義の館であったと伝えられ、
戦国時代には金山城主横瀬氏の家臣矢内四郎左衛門が館を拡張して
居館としたと伝えられています。
周囲には黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷と呼ばれる郭があり、反町館跡と同様に
戦国時代に城郭化されたと推定されています。
金山城の出城として重要な位置を占めていたことがうかがえます。


駐車場

国指定史跡とあって、3台分ほどですが駐車場があります。


案内看板

案内看板の隣にはパンフレットが入っていたであろう?ボックスがあります。
中を覗いてみましたが、中は空っぽでした。


江田館復元図

この図を見ると、とても単純そうな造りになっています。
そのままの形で遺構が残っているのがよくわかります。


標柱

虎口の土橋を挟んで両側には堀が巡っています。
向って右には標柱、左には案内看板が設置されています。




堀と土塁がそのままきれいに残っています。
堀の中の水溜りには大きな水鳥が居ました。(逃げちゃったけど^^;)


平虎口

南側の虎口に立ち、館跡内部(本郭)を見ています。
ここがメインの出入口になります。
この他に東側にも虎口があったようです。




ただの四角ではありません。



角々と折れ曲がっている様子がよく見えます。



かつては水堀であったであろう堀ですが、現在は雨水が残る程度で水はほとんど涸れています。


西郭

復元図を見ると西郭では馬が放牧されていたように見えます。


本郭

この中にいいくつかの屋敷(建物)が建てられて住まいとされていました。


石宮

北側の土塁には「義貞様(ぎていさま)」と呼ばれる祠があります。
今はどこでも見るようなコンクリート製の祠ですがもともとは藁製の祠だったようです。
なんと、金山城にある新田神社を創建にあたりこの祠から勧請しているとのことです。
それにしては随分と小さく目立たない祠で、私も背後から見ただけで通り過ぎて来てしまいました。


石宮

ちなみに義貞様と同じく北側の土塁の西の角上にも小祠あります。


黒沢屋敷跡

東堀を挟んで東側の宅地の裏手には黒沢屋敷と呼ばれる屋敷跡が並び、
本郭と同じ高さの土塁も有しています。




東側にも西側同様に折れがあります。
入隅部には堀中を通る土橋の名残があるようにも見えます。



遺構かどうかは分かりませんが、東南角の土塁には道?らしきものと堀に降りる階段らしきものがありました。
何のために造られたものなのか、現代の人が使っているものなのか…???





これだけの平地だと農地や宅地になってしまいそうな立地ですが
ほぼ原型を留めた状態で残されています。
「折」は東西両方ともきれいに見られて良い感じです(^^)
あまり物々しい感じのしない館跡で戦の匂いがしないようでいて、金山城の出城だったんですね。


平成29年12月3日登城



江田館が載っています
関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
クリエーター情報なし
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丸岡城(福井県)

2017年12月04日 |  百名城
丸岡城まるおかじょう
別名霞ヶ城
構造平山城
築城者柴田勝豊
築城年代1576年(天正4年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所 坂井市丸岡町霞町1-59 地図
スタンプ設置場所 丸岡歴史民俗資料館
御城印券売所
攻城団チラシ一筆啓上茶屋・東尋坊観光交流センター・JR芦原温泉駅観光案内所・丸岡バスターミナル・JR丸岡駅・あわら湯のまち駅観光案内所・三国港駅・三国駅

丸岡城は、戦国時代の1576年(天正4年)一向一揆の備えとして織田信長の命により
柴田勝家が甥の勝豊に築かせた、現存天守閣では最古の建築様式を持つといわれる平山城です。
外観は二層、内部は三層の望楼型天守で、石垣は野面積で排水がよく大雨で崩れる心配がない構造になっています。



この碑は昭和9年に国宝指定を受けたのを記念して建てられました。



最初に訪れた時は一筆啓上茶屋の前の駐車場に車を停めて丸岡城歴史民俗資料館側の石段を通って登城しました。
今回は小学校のグランドに駐車したので正面登城口から攻めてみました。


八幡神社

丸岡城内の鎮守社としてこの地にあった神社で、築城当時からこの地に祀られていたそうです。
現在の神社は福井地震後天守復興の際に同時に復興されたようです。


牛ヶ島石棺

丸岡市牛ヶ島の古墳で出土した刳抜式舟形石棺で、橋として転用されていたものを
この地に移したものです。


二の丸

本丸から二の丸を見下ろす。
この広い平地に二の丸御殿がありました。


券売所

ここには休憩所があります。
ここで入城料を支払って、いざ天守へ!


天守

石垣は野面積。隅石は算木積。(この写真は5年前撮影したものです)
石垣の高さは約6mで水はけも良く、大雨でも崩れない構造になっています。


石の鯱鉾

昭和23年の福井地震で天守屋根から落下した笏谷石の鯱鉾が展示されています。
現在は石製ではなく木製銅板張りの鯱鉾が載っています。



5年前訪れた時と変わらぬ佇まいです。
やはりいつ見ても美しい天守ですねえ。


腰庇

雪が多い地方なので雨水が入り込まないように斜めに板が張ってあります。


石落し

この床板を外し、石を落したり弓や鉄砲で射落したりしました。
福井地震で倒壊した際に、以前の材木をできるだけ使ったことで別の位置にあった材木を
ここで使用していることが柱に空いた穴で確認することが出来ます。
せひ覗いてみて下さい。(ガイドさんが教えてくれました)


出格子

内部から見たベランダのように張り出した出格子。


パネル

1階には年表や家系図などのパネルが展示されています。


パネル



模型

四方を土塁と水堀を巡らせた平城であったことがわかります。


廊下

壁には狭間が設置されています。


階段

とても急な階段です。
松本城もとても急な階段ですが子供の頃行った時より現在は登りやすい階段になっているので
丸岡城の階段の方が険しく感じました。


二階

この階段も狭くて急な階段です。
非常に利用しずらい。
戦う城なので便利に登りやすく出来ているわけがないのですが
こういう城には歳を取ってからでは登れなくなってしまうのだろう…。
ちなみに腿が筋肉痛になりました(^-^;  既にヤバイ!!


三階

最上階にやって来ました。
望楼型とあって小振りな天守ながら眺めも良いです。
この日は雨が降ったり止んだり晴れ間が出たりと天候がよく変わり、
沢山の虹が(二重の虹なども)見えました。



最上階天井を見上げてみましたが上棟札はみつかりませんでした。
木造天守や櫓を見るとついつい探してしまいます(^^;


廻縁

廻縁の床は内部より高く造られています。
格式を高く見せる装飾品で、外には出られません。



天守の屋根には石瓦が使用されているが、瓦が凍結して破損することを防ぐためである。


出格子

出格子を外から見てみました。


井戸

一揆のたびにこの井戸に大蛇が現れ、「かすみ」をかけて城の危機を救ったという。
別名「霞ヶ城」と呼ばれる由来はここから来ているようです。


お静慰霊碑

息子を武士にする約束と引き換えに人柱となったお静。
その約束が果たされず怨霊となった伝説があります。


発掘調査

御殿等の建物跡の発掘調査を5ヶ年計画で行って、作業をしていない日はブルーシートで覆われています。
ここからは柱穴や陶磁器などがみつかっています。


朝日両国親善萬歳碑と瓦石合屋文仲

福井大震災の復興の功労者である北朝鮮人が北朝鮮に 帰れたことを記念して建てられた碑。(右の石碑)
合屋文仲は伝染病の予防規則を作るなど、藩医として伝染病制度に貢献した。(左の石碑)





南保治平碑

室町の所にあった魚市場で競りを したことを記念して建てられた碑で、
南部治平という人物は競り太夫で天守を町に寄付した4人のうちの1人でもありました。


紅葉まつり

この日は紅葉まつりの日で、現存12天守 史城最大!?日本縦断ウルトラクイズに挑戦してきました!
午前中の予選を通過し、結果は残念ながら準決勝敗退でした。
まだまだ勉強が足りないことを痛感しました。(かなりマニアックな問題でしたが)
現存12天守全部登城しきってないのも敗因でした。
行ったことのある城と、この目でちゃんと見ていない城とではやはり違いますね。
また挑戦したいので来年も企画されるといいなあ。



帰りに高速道路上から見たライトアップされた丸岡城がとても綺麗でした。
一生懸命カメラを構えてみたのですが残念ながら車の中からはうまく撮れませんでした。
現存天守のある町に住んでいる人がホント羨ましいなあ。



平成24年5月3日登城
平成29年10月11日再登城



城めぐり手帖「現存天守編」 ~自分だけのトラベルノート
萩原 さちこ
技術評論社