むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

吉見城(千葉県)

2024年01月19日 | 百名城以外の城
吉見城よしみじょう
別名
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所千葉県佐倉市吉見 地図

吉見城は、1479年(文明9年)に太田道灌、1566年(永禄9年)に上杉謙信
によって攻められた臼井城の支城として築かれた城ではないかと推定されます。
吉見城のすぐ北側には臼井屋敷跡遺跡があり、同時に発掘調査が進められてきました。
城跡は、築城以前より人の生活の様子が見られ、廃城後も現在に至るまで
人々の生活に利用されて来ました。
土塁が残るものの、城としての詳細はまだまだ分かっていません。




土塁と平場だけは確認できたものの、縄張もわかりずらく
宅地になっているので改修もされていると思われ、
よくわからない。



柵列や溝状の遺構などで区画がされている様子が
発掘調査で確認されているようですが、建物跡は検出されていません。
白井屋敷跡と重なる部分があり、時代的にも両者との関係性が注目されるところです。


令和5年1月4日登城




穂積城(大阪府)

2024年01月16日 | 百名城以外の城
穂積城ほづみじょう
別名穂積砦
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府茨木市中穂積2丁目16−34 地図

穂積城は、山田十三城のひとつで現在は春日神社の境内となっています。
詳しいことはわかっていませんが、城域は山の麓におよび
「城の堀」という地名となってその名残があり、かつてこの地に城があったことを伺わせます。



春日神社

奈良時代から平安時代には、この周辺を穂積郷と呼ばれ
一部の地域は大和国西大寺領であったと伝わります。
この階段を登ると春日神社です。


境内

穂積は、穂摘みの義といわれ、耕作に従事した穂積氏が存在したと伝わり、
穂積郷の穂積氏がこの地を支配していたと推定することも出来ます。


春日神社

茨木市だけでもちょっと検索しただけでも春日神社は沢山あります。


案内看板

現在、中穂積の春日神社境内になっている小高い山は、茨木の町を一望できる格好の場所であり、
昔から何らかの要地として利用されたことが考えられます。
「大阪府全志」によると塁堡の址、春日村中穂積、塁堡の址は字地に「城の堀」を称するあり。
「摂津志」にその所ならんかと書かれており、城跡(砦)があったことが伺われます。
しかし、城(砦)があったとしても、その築城年や城主、興廃など詳しいことはわかっていません。
ただ城の堀という小字が今の済生会病院辺りで、その西側の小字「山の下」まで上り坂が続き、
そこから山上までの間に土塁状の平地があり、
ここに城としての何らかの施設があったとも考えられています。
さらに山上は広い平地となっており、これらの地形や地名などからみて、
何らかの塁堡(砦)が存在していたことが想定されています。



井戸

古くからあるものなのか・・・


太鼓石

陣を張った時にここで太鼓を鳴らしたのか、
はたまた時を告げる太鼓をここで鳴らしていたのか
謂れが不明なので勝手に想像するしかないのですが何かありそうな石です。


御神木




春日神社までは車で来ることが出来ます。
住宅地の脇の細い道を抜けてくるのですが、いつもながら楽して登城してしまいました。


令和5年7月16日登城




守口城(大阪府)

2023年12月28日 | 百名城以外の城
守口城もりぐちじょう
別名森口城
構造平城
築城者不明
築城年代室町時代
指定史跡
場所大阪府守口市竜田通1丁目5 地図

室町時代に築かれたと考えられている守口城は、誰が築城したのか
詳しいことは分かっていません。
応永の乱の際、大内義弘の家臣杉九郎が守備していたと伝わります。
石山合戦の際は、石山本願寺の出城として合戦の場となっていますが
織田信長に降伏しています。
現在、難宗寺が本丸と推定され、太鼓櫓が城址を思い浮かべるかのように建っています。



道標

東海道五十三次にある五十七番目にある宿場が守口宿です。
東海道の京都から大阪の間にある宿場は、54伏見・55淀・56枚方
そして57守口となります。





難宗寺

浄土真宗の僧蓮如上人が1477年に創立した守口御坊がはじまりと伝わります。
1611年(慶長16年)に本願寺掛所となり西御坊と呼ばれるようになりました。


守口宿本陣跡

守口宿本陣は、江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使・宮門跡等が宿泊した公認の宿舎です。
この場所が枚方・大坂への人馬継立や荷物の受け渡しをする所だったために、
標準とされる道幅とは大きく違い、広大な道幅となっていることで重要地であったことが伺えます。


大塩平八郎ゆかりの書院跡

白井家の隠居所で、江戸時代の陽明学者で大坂東町奉行所の与力大塩平八郎が、
守口近郷の農民に陽明学を講義したところです。
当主の白井孝右衛門は、大塩の私塾洗心洞の有力門人として経済的な支援を行い、
1837年2月19日(天保8年)に起きた、大塩平八郎の乱といわれる大坂騒動に参加しましたが、
わずか1日で鎮圧され、後に一家には処罰が下されました。


令和5年7月15日登城




増尾城(千葉県)

2023年12月13日 | 百名城以外の城
増尾城ますおじょう
別名
構造平山城
築城者相馬師胤
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所千葉県柏市増尾字稲荷下650 地図

増尾城は、小金城の城主高城氏の家臣、平川若狭守の居城であったと推定されています。
現在は増尾城址公園として整備されており、大津川とその支流によって形成された舌状台地上に占地し、
舌状台地全体が土塁と空堀を用いて二郭に区画されている郭や土塁、空堀など遺構を見ることが出来ます。



増尾城址公園

公園になっているので駐車場もあって見学もしやすいです。
ちなみに、こちら側の入り口には駐車場がないので、車で来た場合は
西側にある駐車場を利用して副郭の方からの登城になります。



遊歩道を登っていくとすぐに主郭にたどり着きます。


主郭

主郭は、周囲を土塁で囲まれています。


副郭

案内看板のある広い郭で、主郭よりも広く、周囲を土塁で囲って区切ってます。


城址碑と案内看板



増尾城現状測量図



虎口

南西にある虎口を出て櫓台の方へ行ってみたいと思います。


櫓台

櫓台を登ると、そこから土塁の上を歩くことが出来ます。


土塁

西側の土塁は櫓台と同じ高さで幅もあるしっかりした造りで
いかに西側の守りを強固にしていたかが伺えます。



西の土塁上から内側(副郭側)を見るとしっかり堀で防御しているのが見えます。
更に西側にも堀があったのですが、改変されているため名残がある状態です。




おそらく堀はもっと深かったと思われます。


駐車場

西南にある駐車場です。
公園の駐車場はこの他に北側にもありますが、城址の散策ならこちらの方が近いのでお勧めです。



令和3年12月30日登城




大和田城(大阪府)

2023年11月06日 | 百名城以外の城
大和田城おおわだじょう
別名
構造平城
築城者本願寺顕如
築城年代16世紀頃
指定史跡
場所大阪府大阪市西淀川区大和田4丁目6−4 地図

大和田城は、戦国時代にあった1万石の平城で
天正4年織田信長は荒木村重に命じて大和田城を改修させ、
家臣の安倍仁右衛門を城主にしました。
信長公記によると大和田城には天守があった可能性があるという。




大阪市立大和田小学校の校門に説明が掲げられています。



ここから城址碑が見えるのですが写真もとれそうにないので
張り紙に従って職員室に行ってみることにしました。


城址碑

この城址碑は、元々「城ンタ」と呼ばれる場所にあったものを
市営住宅建設のため、この地に移設されたものです。



学校関係者に事情を話し、短時間ではありますが
城址碑の撮影をさせてもらうことが出来ました。
※必ず許可を得て下さい。



明確な城の位置などは解っていません。
戦国時代に築いた砦を石山合戦の時に織田信長の命に本格的な城郭として
築かれたのではないかと伝わっています。



令和5年7月15日登城




沢良宜城(大阪府)

2023年10月30日 | 百名城以外の城
沢良宜城さわらぎじょう
別名
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府茨木市美沢町14−32 地図

室町幕府三代将軍足利義満は、子の義持に将軍職を譲って
6年目にあたる1399年(応永6年)、堺港へ進出してきた大内義弘を攻めました。
沢良宜城主藤井三位は義持将軍から「御馬廻り免状」をもらい、出陣しています。
当時の沢良宜勢は約三千坪の城を中心に相当な力を持っていたようです。
しかし、沢良宜城は応仁の乱の頃には廃城になったと伝わります。



美沢公園

美沢公園に沢良宜城の城址碑と案内看板が設置されています。



山田13城のひとつとされている城ですが、詳細は解っていません。


馬場

沢良宜城跡の東側に隣接する、細長く伸びた沢良宜神社の境内は、
かつて城の乗馬訓練に使用されたという馬場があったとされています。


船頭の樋

城の東側に天然の堀としていた茨木川の名残が見られます。
昭和に入って度々ある茨木川の氾濫に悩まされてきた住人と
その市町村が河川改修を訴え、昭和24年に廃川となり現在は元茨木川緑地となっています。
廃川となった場所にあった橋や樋の場所がこのように残されています。
時間に余裕があったらこちらも合わせて散策されるのもお勧めです。


令和5年7月16日登城




田口城(長野県)

2023年10月13日 | 百名城以外の城
田口城たぐちじょう
別名田ノ口城
構造山城
築城者田口氏
築城年代室町時代末期
指定史跡
場所長野県佐久市田口 地図

田口城は、龍岡城の北東にある山頂に築かれた山城で
北に平賀城、南西に稲荷山城が視野に入る立地で、
眼下には龍岡城の全容が見える場所に位置します。
また、城域に龍岡城を見下ろす展望台が設置されており、星形の五稜郭の見学スポットとなっています。



登城口

県道120号線(三分中込線)から行ける、田口城までの林道があるので
車で行く方はこちらからどうぞ。
但し、道は途中から舗装がなくなりますので、車高の低い車や大型車はあまりお勧めできません。



集落を離れ、山へ向かう道を進んでいると「五稜郭展望台」の看板があるので
看板に従ってすすみます。
これより先は道が荒れます。


駐車場

林道をどんどん登って行くと左手に駐車場が見えて来ます。
駐車場としての整備(白線を引くなど)はされておらず、すれ違いのスペースのように
見えてしまうので、つい通り過ぎてしまいますが終点まで行ってしまうと行止りに
なってしまうので、五稜郭展望台だけに行きたい方はこの場所を見逃さないように
注意して進んで下さい。(Pの看板あり)


登山道

駐車場と五稜郭展望台入口までの間に、麓の蕃松院に隣接する登山口から登って来る道と
合流する道があります。
龍岡城から徒歩で来た場合はこちらの道を使用することになります。


展望台入口

展望台入口の看板があるので見逃さないように、
そして看板の通りに進んで行くと辿り着きます。



途中看板があるので迷うことはないと思います。
そして周囲には幾重にもある郭が見えます。



小さな郭内で道が分かれていますが、看板通りに進めば迷うことはありません。


展望台

下方に展望台が見えて来ました。
展望台と言っても建物に登るというイメージとは違います。


眺望

眼下には星形の龍岡城が見えます。


龍岡城

本当にきれいな星形しているんですね。


稲荷山城

南西2km先にある稲荷山城もよく見えます。



展望台を後にして、更に林道を進みます。
展望台入口付近から既に城域に居るようなもので、沢山の小さな郭が
あちこちに見えています。


城山自然研究園

林道の終点には城山自然研究園という建物があります。
この建物の裏手が田口城の主郭になります。



まるで石畳のように敷かれた石を踏みしめ、更に道を登って行きます。


主郭

登り切ったところに平場があります。
ここが主郭になります。



不整六角形の主郭と、主郭の周囲をよく見ると石積の補強がされているのが
ここに登って来るまでぼ間にちらほらと見ることが出来ます。


大井氏神

そして、主郭には大井庄の氏神である石祠が祀られています。


二の郭

主郭から西に向かって二の郭、三の郭と沢山の郭が連なっていて
その数は…ちょっと数えられない…(^^;


腰郭

南西側は腰郭で構成されています。
こちらは斜面もキツイ立地になっているので細長い郭を幾つか築いて防御としています。


石積

林道側から見える主郭の外層にある石積です。



所々に見られる石積は平な石の組み合わせで重ねられています。




主郭の北側は堀や土塁で遮断しています。



林道の北側、道下にも北の郭が展開されており、
こちらにも多くの郭が構成されています。

田口城内にある龍岡五稜郭の展望台は一般の方まで見学に来られる場所で
林道も油断していると普通に人が歩いていたり、オフロードバイクなどに行き会うこともしばしば。
龍岡城でもこちらの展望台の案内がされていますので、星形の龍岡城全容を見たい方は
田口城も合わせて見学されるのも良いかと思われます。
また、山登るのはイヤよよいう方は、

こちらのドローンによる動画をお楽しみいただけたらと思います。
毎週金曜日に動画を配信しておりますので、良かったらチャンネル登録をしてご覧いただけたら幸いです(^-^)


令和3年9月12日登城
令和5年9月10日再登城


今回の参考本



水尾城(大阪府)

2023年10月09日 | 百名城以外の城
水尾城みずおじょう
別名
構造平城
築城者平尾孫左衛門
築城年代1480年(文明12年)
指定史跡
場所大阪府茨木市水尾3丁目3−9 地図

水尾城は、応仁の乱で全焼した紫雲山西方浄土寺の焼跡に造営された中世城郭です。
平尾孫左衛門は三好三人衆に属し、美濃の斎藤妙椿が没したあと主家斎藤家の内紛のため平尾孫左衛門は、
斎藤家と離れて西方浄土寺の焼跡の高瀬川に沿った一画に、新しく環濠の砦を築きました。
現在は水尾小学校の西、水尾図書館の北にある伯光神社の境内に石碑があるのみで遺構は残っていません。



伯光神社

この祠は伯光神社といい、伯光大明神が祀られています。
天保6年(1835年)の同社由来書によれば、当地の奥田家の長屋門新築の地鎮の儀に際し、
稲荷さげの巫女に楠の大樹に811年に及び伯光大明神が宿っているとのお告げをうけ、
奥田四郎左衛門ほか4名が講元となって祀ったといいます。
なお前年の天保5年夏の大旱害に村人達は藁でつくった竜をこの大樹に天に向かって這わせ雨乞いをし、
その恵みをうけ、その霊感をえたのでしょう。
その後幾度かにわたり旱害の折、祈りと願いが続けられてきました。
竜は藁束を縄で巻き、長さ5間程(約9メートル)の胴を作り、
鱗として琵琶の葉を一面に挿し、眼や歯は茄子、ヒゲや手足は竹で型どり、
大きく開けた口からは薄くはいだ青竹の皮で風でゆらぐようにつくられました。
頭部は辰巳の方向に延びた枝に置き、尻尾は水をたたえた酒樽に浸し、
立てた高張提灯の灯で照らし出し夜通し竜に水をかけて祈る。
このように7日間昼夜祈りつずけても、雨の降らない時は、その竜を高瀬川に流し、
もう一度新しい竜を作りなおして再び祈りつずけたといいます。
祈願の功あって雨に恵まれた時は、太鼓の合図で
「テントのおかげ、ヒヤクに米1斗5升」といって村人が神酒を酌み交わして、
神に感謝し、喜びを共にしました。
この地が灌漑用水に苦労する土地であった事が特異な雨乞い習俗を生んだ一因であろう。
この行事は、昭和22年(1947年)の大旱害を最後に、このような催しは途絶えました。
それは淀川を経て琵琶湖の水を利用する灌漑用設備が整ったためです。
現地看板より



楠木

この木は茨木市が保存樹として指定した木です。
稲荷さげの巫女に楠の大樹に811年に及び伯光大明神が宿っている
とのお告げをうけたという御神木のようです。



児童公園にもなっている伯光神社の境内。
こじんまりとした神社ではありますが、とても綺麗に管理されています。


城址碑

この城址碑、正面から撮影するの難しいです。
フェンスの隙間から撮れないものかと、屈んで狙って見たものの
石碑全体を写そうと思うとやはり無理があり、正面からはフェンスが入らない写真は撮れませんでした💧



フェンスと城址碑の間って、これしかないのです。
人ひとりしか通れない・・・

肝心なお城の縄張や詳細も分からず・・・でした。


令和5年7月16日登城





原田城(大阪府)

2023年10月04日 | 百名城以外の城
原田城はらだじょう
別名摂津原田城
構造平山城
築城者原田氏
築城年代鎌倉時代~
指定史跡市指定史跡
場所大阪府豊中市曽根西町4丁目4−14 地図

原田城は、原田村を中心に活躍していた土豪原田氏の居城で
「北城」と「南城」の2つの城から成り立っていました。
原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていました。
1579年(天正6年)荒木村重の謀反が勃発し、織田信長の軍が
有岡城攻めの際に陣として一時的に利用したと伝わります。
この時城は大改修されたことが発掘調査で判明しています。



旧羽室家住宅(原田しろあと館)

こちらが北城と呼ばれる場所に当ります。
現在は旧羽室家住宅として土曜・日曜を中心におよそ月8日間、
正午から午後4時に一般公開されています。
敷地の中には土塁が残り、見学も可能です。



西側に入口があるかのように見えますが、こちらから入ることは出来ないので
東側にある入口へ回ってください。
発掘調査により堀跡も発見されていますが見ることは出来ません。
主郭には本来土塁が巡り、堀が巡っていたのですが
信長が陣としての使用を終えた際に、土塁を崩しその土で堀を埋め、
城を破却しています。


この日は、旧羽室家住宅の公開時間に訪れていなかったため
残念ながら中へ入ることが出来ず土塁の見学等は出来ませんでした。
またの機会に見学出来ればと思います。


令和5年7月15日登城

今回の参考本



榎並城(大阪府)

2023年10月02日 | 百名城以外の城
榎並城えなみじょう
別名江波城・十七箇所城
構造平城
築城者三好政長
築城年代1532年~1555年(天文年間)
指定史跡
場所大阪府大阪市城東区野江4丁目1−39 地図

榎並城は、榎並壮にある淀川・旧大和川・池などに三方を囲まれた天然の外堀を持つであった。
水路の要衝に位置するだけに水害に悩まされる土地でもありました。
南北朝後期1368年(正平23年)には、楠木正成の子、正儀も在陣したことが伝えられています。
戦国時代には、細川氏の内紛で摂津各所で内乱が頻発し、細川氏に対立する三好長慶が
1549年(天文18年)の柴島城による細川晴賢・三好政長を攻めで榎並城へ敗走させています。
正勝が城内を守っていましたが、江口の里に出陣した政長は、十河一存らに攻められ、
政長は討死、正勝は榎並城を捨てて摂津瓦林城へと逃れました。



城址碑

榎並小学校の校門脇にある城址碑と案内看板です。
城址碑側面には説明も刻まれています。


案内板

猿楽発祥の地と榎並城址のことが描かれた看板が城址碑とともに設置されています。


野江水神社

榎並城を築城している最中にも水害に見舞われ、それを鎮めるために三好政長が守護神として
城内に社を建てたのが野江水神社の始まりと伝わります。
豊臣秀吉が大坂城を築城する際には、国家泰平を祈願したとの伝承が残っています。


令和5年7月15日登城

今回の参考本



小浜城(千葉県)

2023年09月29日 | 百名城以外の城
小浜城こばまじょう
別名
構造海城
築城者土岐頼定
築城年代1493年(明応2年)
指定史跡
場所千葉県いすみ市大原10439 地図

小浜城は、万木城主土岐頼定が伊南領を守るために万木城の支城として築きました。
天正16年、当時の城主鑓田勝定は、館山城主里見義頼の命により
相模国三浦の北条氏直と合戦、小浜城の留守をついて勝浦城主正木左近大夫が
150騎で押し寄せ落城しました。
翌年、鑓田勝定は忍者を使って城内に潜入し、火を掛けて城を奪還しましたが
本多忠勝に攻められ、敗走したた城は壊滅、廃城となりました。



鳥居

八幡神社の入口にある鳥居です。
現代では八幡神社への参道として使われています。
周囲に駐車場がありませんので駐車には十分注意してください。



登り始めてすぐに、トイレや四阿があります。





虎口

コンクリートで固められた土塁は、
コンクリートのおかげ?でこの高さを保っているようです。



「小浜八幡さま 紅いもんが好きだ 染めてあげましょ 花染めに」は、
はだか祭りの代表的な祭り唄として知られています。


帆万千館跡

城内で一番広い郭です。
その後、ここには「帆万千館」という宿があり、文化人が多く訪れたといわれています。
確かに良い眺めですもん。



太平洋戦争の時代には、この辺りには小浜基地が置かれていたようです。
確かに、最初にナビで案内された場所は城の北側で、格納壕や基地の跡がある側でした。
これは入口を間違えたと思い、八幡神社の入口を目指してここまでやって来ました。


歌碑

若山牧水の歌碑です。
ありがたや今日満つる月と知らざりしこの大き月海にのぼれり
そして、歌碑の隣に小浜城の案内看板があります。
歌碑の説明かと思ったら、小浜城の説明だったので素通りしないように。






大原漁港

大原漁港はイセエビ日本一の水揚げ高で有名です。
神奈川県小田原市の「港の朝市」や神奈川県三浦市「三崎朝市」などを参考にした
港の朝市も賑わっています。(買った魚やイセエビをその場でバーベキューなど)



西側の土塁がそのまま尾根状に南の方へ続いています。


堀切

よ~く見ると橋が架かっている場所があります。
堀切られています。


石祠

先端にある石祠です。
海を見守る神様でしょうか。



石段の前に城址碑があります。



一度外に出て社務所側から八幡神社へと行って見ようと思います。


社務所



記念碑

手前には境内の工事に寄付された方のお名前が書かれた記念碑と
その奥には小さな洞窟、そして正面奥に八幡神社の拝殿が見えます。


洞窟

洞窟を覗いてみると、そこには沢山のお稲荷様がいらっしゃいました。


八幡神社

八幡神社のある一番高い場所が主郭です。



八幡神社には長寿の絵馬、刀、槍、大型の錨などが納められているとのことですが
大型の錨とはこれのことなのでしょうか?
でも外に置くかなあ。
私にとって、錨なんてめったにお目にかかるものではないので注目してみました。



主郭の周りをぐるりと一周出来ます。


切通

左手は更に郭があるとのことですが入って行くことは出来ません。
この切通は堀切になっていたとも考えられるようなので、郭と郭の間に出来ています。



こちらは主郭(八幡神社)の背面の郭になります。
主郭から南(背面)の先端に向かって二つの小郭も城館跡と推定されています。


眺望

水軍の根拠地として、船の出入りの監視や
船溜り、軍船の繋ぎ場として利用されていたと考えられています。






これで1週して八幡神社まで戻って来ました。





駐車場が無かったので、主人を車に残して私だけ城さんぽに出かけたのですが
登ってすぐに主人とさんぽしたかったなあと思いました。
天気も良かったので尚更です。
今度はぜひお弁当を持って主人と来たいです。


令和5年1月4日登城




茨木城(大阪府)

2023年09月25日 | 百名城以外の城
茨木城いばらきじょう
別名
構造平城
築城者楠木正成
築城年代1334年~1336年(建武年間)
指定史跡
場所大阪府茨木市片桐町10−10 地図

茨木城は、茨木氏の城館で織豊期には中川清秀や豊臣氏の城として機能していました。
関ヶ原の戦いの翌年、1601年(慶長6年)に、片桐且元、貞隆兄弟が茨木城の城主となり、
江戸期になると「一国一城令」を発布により、摂津では高槻城のみが残り
茨木城は、茨木代官の間宮三郎、立会人の城忠兵衛のもとで取り壊しとなりました。



茨木小学校の校門

片桐氏が奈良県大和郡山市の慈光院に移築したという山門を模して
小学校の校門にしています。


案内板

この案内板によると、茨木小学校の北部に本丸があったとされています。



慈光院に移築した門の原寸大で復元されています。



茨木神社の西側の緑地は遊歩道が整備され石垣が目を引きます。
この緑地はかつて茨木川が流れていた場所で、城の天然の堀として
利用されていたものと思われます。
  

令和5年7月16日登城


今回の参考本



堀城(大阪府)

2023年09月20日 | 百名城以外の城
堀城ほりじょう
別名中嶋城
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所大阪府大阪市淀川区十三本町2丁目17−85 地図

堀城は別名中嶋城と呼ばれ、室町時代に築城された城です。
織田信長が三好勢を攻めた際には足利義昭を迎え入れています。
大物崩れの合戦時には既に存在が文献によって確認されていますが
城の詳細についてはいつ誰によって築城されたのか明かになっていません。
現在は武田薬品工業を含む付近一帯が城址であると推定されています。



武田薬品工業前

堀城は明治43年に廃川となった中津川のほとりに築城されていたと思われ、
近代の淀川改修事業で付け変わり、城の名残も完全に消滅したため推定地が明確ではありません。
そのため、推定地として武田薬品工業の門塀に案内看板が設置されています。


案内板

遺構も城址碑も無く、この案内板がだけが城址を示すものとなります。
別名、中嶋城と云われるものの、実際は堀城と中嶋城が同一の城であるかは
明治期には既に宅地化が進んでおり、明かになっていません。



細川澄元と細川高国の細川氏の内紛において、阿波、堺、京都の中間地点となっていたのが中嶋で、
防御する側としても、攻め込む側双方としても、重要な地点となっていたことが
推定地からの位置関係で推測することが出来ます。

堀城が大きく改変されたのが1566年(永禄9年)に細川藤賢によるもので
ここを堀城の起点として築城したと考えられています。
やはり川の近くに築かれた城は、後に川の改変によって変化が齎されるもので
詳細が不明になることが多いので、堀城もまた改変により位置が確定できず
今に至っていると思われます。


令和5年7月15日登城






三津屋城(大阪府)

2023年09月18日 | 百名城以外の城
三津屋城みつやじょう
別名中島城
構造平城
築城者楠木正行
築城年代1336年~1338年(延元年間)
指定史跡
場所大阪府大阪市淀川区三津屋中1丁目6 地図

三津屋城は、南北朝時代の城で楠木正行によって1336年~1338年(延元年間)に
築城されたと伝わります。
現在の光専寺一帯に城が存在したことを地名から読み取ることが出来ます。




路地を入ったところに山門が見えます。
子孫である末弘治郎左衛門が1453年(文明5年)に
本願寺8代法主蓮如上人に帰依し、開基したと伝わります。


山門

ここは光専寺であり、境内には保育園があります。
それだけにこれ以上中の写真は遠慮しておきました。


案内板

塀には三津屋城があったという伝承の案内板があります。


入り組んだ路地を入って行くこともあり、駐車場もなくカメラを持って歩くにも
人目が気になる場所だったので早々に退散しました。
遺構も残っていないので伝承地としての紹介となります。

令和5年7月15日登城





飛山城(栃木県)

2023年09月15日 | 百名城以外の城
飛山城とびやまじょう
別名
構造平山城
築城者芳賀高俊
築城年代1293年~1298年
指定史跡国指定史跡
場所栃木県宇都宮市竹下町 地図


現在の飛山城跡は約300年続いた時代の移り変わりの中で城域が最も広がった
戦国時代の輪郭を残し、史跡地内に古代から豊臣秀吉の命で破却されるまでの
中世を中心とした建物や堀・土塁など復元した史跡公園となっています。




飛山城史跡公園のパンフレットは木橋の前のボックスととびやま歴史体験館に置いてあります。
とびやま歴史体験館は無料で見学できるので、まずそこで情報を得てから散策されると良いですよ。


木橋

堀と土塁が立派です。
とびやま歴史体験館で見た模型を思い出し、この土塁の上から狙われるところを想像できます。


桝形

木橋を渡って来た敵に対しての防御の場とされていた。




土塁の上から門を支える穴が見つかっていることから、ここには塀重門があったと考えられています。


中世竪穴建物

地面を約1.5m掘り下げて、地面に直接屋根を葺いています。


ここが入口のようです。





古代竪穴建物

この地の発掘調査により「烽家」という文字が書かれた墨書土器が出土されたことから
のろしの番人の詰所であったと考えられます。


かまどの煙突



4号堀


中世掘立柱建物

城主を守る将兵の詰所として建てられたものと考えられています。


建物内部




建物内部も公開されているので各建物を覗いてみてください。


石積遺構

川原石を積み上げているのですがどういう役割をしていたのかは不明。



園内にトイレ完備。





飛山城跡看板



1号堀

城の北側を防御していたとされる。


木橋と2号堀

2号堀を渡るための橋で、堀は鉤の手になっておりこの先は中心部になっているため
真直ぐに入ってこられなよう工夫されています。


富士見ポイント

見晴らしが良い場所に城があったことから、城めぐりをしていると意外と多い富士見ポイント。



ご近所の方らしきご夫婦からビューポイントと時間を聞いて日の入りを待ちました。
そうしているうちに富士山の絶景を見ようと人が集まってきました。
日の入りの頃には公園が閉園になってしまうのですが、いろいろな隙間から入ることが出来ます。
むやみに立ち入るのはお勧めできませんが富士山を見に立ち入ることは公園管理者は大人の対応をして
くださるので秩序ある行動で富士見を楽しませていただきましょう。

ちなみに、とびやま歴史体験館は駐車場も午後5時で閉まってしまうのでお気をつけあれ。



この日は残念ながら雲がかかっていたため、
夕日はきれいだったのですが富士山は見ることができませんでした。


平成28年12月18日登城