むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

三方ヶ原古戦場(静岡県)

2020年12月31日 | 古戦場
三方ヶ原古戦場みかたがはらこせんじょう
別名味方ヶ原の戦い
構造古戦場
合戦者武田信玄VS徳川家康
合戦年代1572年(元亀3年)
指定史跡
場所静岡県浜松市北区根洗町 地図

三方原の戦いは1572年に武田信玄が3万の軍勢を動員し、青崩峠・兵越峠から遠江に侵攻し、
二俣城を降伏させたあとに発生した武田信玄と徳川家康との合戦です。
この戦いで徳川家康は大敗し、その後の家康の人生観に大きく影響した戦いとして知られています。
三方ヶ原戦いの後、家康が戒めとして「しかみ像」という
自画像を描かせた有名なエピソードが伝わります。



三方原墓園

国道257号線沿いにある三方原墓園に古戦場の碑があります。
ここには駐車場やトイレもあるので立ち寄りやすい場所です。



井伊谷城へ向って車を走らせていたらこの看板が目に飛び込んで来ました。
テレビで見た覚えのある光景だったので慌ててUターンをして見に来ました。


案内看板

織田の援軍とここで武田軍を迎え撃つはずでしたが、
この戦いで徳川軍は約2000人もの死者を出しています。


古戦場拡大図

武田軍は3つに分かれて進軍しているのですが、甲府を出発した武田信玄と
武節城長篠城を攻略した山県昌景と、高遠城を出発し岩村城を攻略した秋山虎繁の軍で
徳川家康の軍を追い詰めて、徳川軍は多くの戦死者を出して浜松城へ敗走しています。


三方原古戦場碑

ここが主戦場になったという特定はされていないのですが、ここ三ヶ方原での戦いがあったことを
後世にも伝えるために碑が建っています。
また、この辺りの地名には家康のいろいろな逸話がありそれを探るのも楽しいです。
ぜひ、地名に注目してみてみてください。


この日はものすごい蝉が発生していて、辺りは蝉の抜け殻だらけ。
車のエンジン音より大きい鳴き声でそれがとても印象に残る場所でした。
古戦場が墓地となっているのも、手を合わせるのにふさわしい場所になっているのが
多くの死者へのせめてもの弔いになるのかなと思う古戦場跡でした。

平成29年7月22日訪問





長久手古戦場(愛知県)

2020年09月30日 | 古戦場
長久手古戦場ながくてこせんじょう
別名
構造合戦場
合戦者羽柴秀吉vs徳川家康
合戦年代1584年(天正12年)
指定史跡
場所愛知県長久手市武蔵塚204  地図

本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、信長の後継者争いが起りました。
羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破ると、
脅威に思った信長の次男信雄は、同盟者の徳川家康に助けを求めました。
1584年(天正12年)3月、ついに羽柴軍と徳川軍が小牧で睨み合いとなりました。
4月9日、ついに長久手で激しい戦闘が起こりました。



古戦場公園

古戦場公園へやって来ました。


石碑

無形民俗文化財としてしていされている農民が棒や鎌などの得物を使って
一定の型を演じていたという伝統芸能の石碑です。


史跡案内図

周辺史跡の案内図です。
徒歩で来られた方も、こちらで自転車も借りられるので周辺史跡を巡ることも出来ます。


公園案内図

長久手公園の案内図です。


古戦場碑

1584年(天正12年)長久手の合戦がこの地で行われました。
三好秀次を総大将に、池田隊・森隊・堀隊ら総勢2万人の大軍を岡崎へ攻め込ませました。
家康は自ら1万3千人の軍を率いてこの地で秀吉軍と対戦し、家康が勝利しました。



この先は、古戦場縮景です。
長久手古戦場を縮小して再現されています。


色金山 床几石

「長久手の戦い」で徳川家康軍が陣を張り、軍議を開いたといわれる色金山にある
山頂の巨石を床机がわりに軍議を開いたといわれる巨石を模したものです。
現在現地は歴史公園として整備されています。


案内看板

長久手の戦いの縮景の案内看板です。


勝入塚・庄九郎塚・武蔵塚

周辺には勝入塚・庄九郎塚と公園を出て住宅街に武蔵塚があります。
池田之助(元助)の戦死地・池田勝入恒興の戦死地・森武蔵守長可の戦死地ということで
各地に塚(石碑)が建ってられいます。


御旗山

徳川家康が布陣した本陣です。
羽柴秀吉方の池田・森両隊の様子を伺いながら、
色金山に進軍した徳川家康は、この御旗山の頂上に金扇の馬標を立てました。


桧ヶ根

羽柴秀吉方の堀秀政の陣があった場所です。
山頂に立つと北から進軍してくる家康軍の様子が見えたという。
ここでは家康軍を打ち破っています。
こちらも、現在は桧ヶ根公園になっています。


仏ヶ根

ここ仏ヶ根に造られた公園が長久手古戦場公園です。
4ヶ所で起きた長久手の合戦で最も激戦地となった場所です。





レンタサイクル

長久手市史跡めぐり用の貸し出し自転車があります。
周辺に見所があり、駐車場の無いところもあるので車の人もここで
自転車に乗り換えて健康的に史跡めぐりをするのも良いかも。


長久手古戦場が縮小された庭園?のような公園になっていて、
ざっくり全体を学ぶと、それぞれの現場にも行ってみたくなりました。
周辺城跡を巡る時に、調整してそれぞれの陣地にも行ってみたいです。


令和2年7月19日訪問





上田古戦場(長野県)

2019年07月29日 | 古戦場
上田古戦場うえだこせんじょう
合戦名上田原合戦
合戦者村上義清vs武田信玄
合戦年代1548年(天文17年)
指定史跡
場所上田市上田原 地図

諏訪、佐久地方を平定した武田晴信(信玄)は、北信濃への進出を企てこの地にやって来ました。
上田、小県地方に勢力を延ばしていた村上義晴がこれに応戦、1548年(天文17年)ついに
上田原合戦へと突入しました。
この合戦で武田方は板垣信方などの有力な武将を失い、晴信(信玄)自身も手傷を負い
撤退を余儀なくされ、数少ない晴信(信玄)の負け戦となりました。



上田古戦場公園

この案内看板がある場所は上田古戦場公園の多目的グラウンド側入口にあります。
古戦場公園には駐車場があるので周辺散策にはここを利用すると良いです。



武田信玄が負け戦となった戦いが、上田では二度ありました。
1548年(天文17年)の上田原合戦と、
1550年(天文19年)の砥石城の戦い(砥石くずれ)です。


上田原合戦戦没将士菩堤寺入口

「上田原合戦の地」の碑があります。


荒砥城から岡城へと行く途中、上田道と川の駅に寄った時に上田原合戦場と知り
その場でちょっと調べて、せっかくなので寄り道してみました。
そもそも予定していなかったことで時間もあまりなかったので中途半端な内容となりました。
でも、上田を訪れた際に時間に余裕がある方はこちらも散策されてみても良いのかと
思います。
私も今後通りすがったらもう少し散策してみようかなと思います。


令和元年7月20日訪問


信濃上田城 (シリーズ・城郭研究の新展開5)
和根崎 剛
戎光祥出版

赤坂古戦場跡(新潟県)

2019年06月17日 | 古戦場
赤坂古戦場あかさかこせんじょう
合戦者幕府軍vs新政府軍
合戦年代1868年(慶応4年)
指定史跡
場所三条市駒込 地図

慶応4年6月1日、幕府軍と新政府軍が戦った激戦地がこの辺りでした。
大砲の打ち合いがはじまり、地元の人は弾の届かない駒込と
太平の沢の二手に分かれて避難しました。
観音堂陣地から見通しが悪いと言って15軒の家が焼かれ、銃声は響き、
村松藩の人が両軍の戦死者を方付けに来た時には、あまりの死体の多さに
地元の人々も駆り出されたとされます。


案内看板

大政奉還をめぐる新政府軍と、同盟軍が戦った北越戊辰戦争の下田郷における
最大の激戦地跡です。



長岡城落城により、両軍の戦線は県内各地に広がって行きました。



村松藩の一部には勢いに勝る新政府軍に味方する者が現れ同じ藩同士が
憎しみ合って残虐な殺し合いとなりました。
戦死した者たちの死体は堀の中などに折り重なるように捨てられていました。


金子喜平衛の墓石

村松藩の戦没者である金子喜平衛の墓がここにあります。



足元に遺体が転がっていたのかな?と想像するとゾッとしますが、
実際の激戦地となった場所はここより背後の松が植生する峰にあり、
この峠道は後に切開かれた新たな道だそうで、戦没者の魂を踏んでいなくてホッ。



村松城から栃尾城を目指して車を走らせていたら、この地を通りかかり
今何か看板が見えたけど?と戻ってみたら古戦場跡でした。
新潟市や長岡市を巡っていると北越戊辰戦争の話を避けられないほど
話を聞くことになるのですが、ここでも激戦地を知ることとなり
また残酷な亡くなり方を語られているのを目の当たりにすると胸が締め付けられる
思いになります。
それは戦国時代でも同じですが、たった150年ほど前の話…。
こういうことが語り継がれることで平和が続いて行くことを願わずはいられませんね。


令和元年5月12日訪問



維新の墓標 昔々 北越戊辰戦争で
渡辺れい
新潟日報事業社

設楽原決戦場(愛知県)

2017年10月20日 | 古戦場
設楽原古戦場したらがはらこせんじょう
別名長篠の戦い
対戦者武田軍 対 織田・徳川軍
合戦年代1575年(天正3年)
場所新城市竹広 大宮清水1−9 地図

天正3年5月21日、三河国長篠城をめぐって、
織田信長・徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千との間で行われた戦いです。
長篠・設楽原の戦いとも呼ばれ、織田軍が馬防柵で鉄砲三段撃ちを行ったことで知られています。



遠景

「設楽原をまもる会」が中心となって、馬防柵を再現しています。
概ね5年に一度、柵木を造り直しているそうです。


馬防柵

「馬防柵」は武田の騎馬軍団に対抗するために信長が考えだした作戦とされています。



馬防柵の丸太は、戦国時代の設楽原一帯には大きな木々は少なく
信長が岐阜から設楽原へ兵士に一本ずつ持ち運ばせたとされています。


いろはカルタ

長篠・設楽原の合戦を48句のカルタで詠み表したのが 「設楽原古戦場いろはかるた」です。


案内看板



名和式「鉄砲構え」

乾堀・馬防柵・土塁の三段構えによる防御設備が築かれていた様子が再現されています。



上から見た三段構え。
馬と言えば現在のサラブレッドなどの競争馬など想像しがちですが
当時武田軍が乗っていた馬は信州木曽馬で脚の短い小ぶりな馬で乗り降りが
容易で使い勝手が良いことで、馬防柵もこのくらいの高さで十分防御になるということですね。^^;





土屋昌次戦死之地

武田重臣・土屋昌次が柵に取りつきながら大絶叫を上げて討死したと伝わる場所です。


長篠・設楽原合戦屏風絵

馬防柵再現地入口に犬山城の成瀬家所蔵の合戦屏風絵図の看板が新設されました。



新東名高速道路の長篠設楽原パーキングエリアには上り線は武田軍、下り線は織田徳川軍をコンセプトに設計されています。
また下りPAからは信長戦地本陣跡行ける遊歩道が整備され、徒歩三分で行くことが出来ます。


周囲には武田軍として戦った重臣や家臣の果てた地や墓が点在します。
我地元群馬や長野からも戦いに行って戦死している城主さまたちの墓もあり、
手を合わせて来なかったのが心残りです。


平成24年6月24日訪問
平成29年9月10日再訪問



川中島の戦い~妻女山~(長野県)

2016年08月08日 | 古戦場
1561年(永禄4年)
第四次川中島の戦いで、上杉謙信は海津城の南西約2kmの位置にある妻女山に本陣を構えた。



上杉謙信鎗尻の泉

妻女山への道を案内看板通りに進み、高速道路脇を通過して間もなくすると石碑が見えてくる。

湧水

妻女山に伝わる民話
川中島の合戦の時妻女山に陣を置いた上杉謙信は、戦いの勝利を神仏に祈願するため、時折麓の会津比売神社や岩野村にあった聖観音菩薩像に赴いていた。
ある日のこと、帰途についた謙信は、あまりにのどが渇いたので、馬から降り家来の直江山城守に、「槍をかせ!」と命じ「妻女におわすよろずの神よ、我に清き水を与え給え!」と地に伏し一心に祈り、そしておもむろに立ち上がって空高く槍を構え、「えい!やっ!」と地面に槍の石突きで強く突いたところ、そこから勢いよくきれいな水が湧き出したのである。

という言い伝えのある湧水がありました。


さらに山道を進む。。。


右手に展望台と神社、トイレ、駐車場が見えて来る。



松代妻女山招魂社

戊辰戦争の際、松代真田藩の藩士として従軍し、戦死した御霊と日清、日露、満州、日中、そして太平洋戦争終結までの尊い命を祖国日本のために捧げた郷土の戦没者の御霊を祀る慰霊施設である。

平和を願い二度と悲惨な戦争を起こさぬよう、毎年9月の第2日曜日を「慰霊の日」と定め、追善供養を行っているそうです。



妻女山展望台

ここから川中島平は一望できて海津城の動きを伺い知ることができた。
ここで謙信は武田方の戦の準備を察して山を下り信玄の本陣を目指し、武田軍の別働隊が妻女山に夜襲をかけた時にはすでに上杉軍は八幡原に布陣していた。
武田信玄の軍師山本勘助の作戦「啄木鳥戦法」は失敗に終わった。



この展望台は、信州のサンセットポイント100選のいとつで夕日鑑賞をしたり、夜景が鑑賞できるスポットでもある。




平成28年7月10日 訪問


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マイスタージャパン
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関ヶ原古戦場(岐阜県)

2015年10月25日 | 古戦場
関ヶ原古戦場せきがはらこせんじょう
別名関ケ原合戦場跡
対戦者徳川家康(東軍) 対 石田三成(西軍)
合戦年代1600年(慶長5年)
場所不破郡関ケ原町関ケ原 地図


石田三成陣地



合戦図



案内看板




関ヶ原ウォーランド




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川中島古戦場跡(長野県)

2011年09月12日 | 古戦場
川中島古戦場跡かわなかじまこせんじょうあと
別名
対戦者武田軍 対 上杉軍
合戦時代
場所長野市小島田町 地図


銅像

第4次川中島の戦いの名シーンを再現した銅像。


執念の石

信玄と謙信の一騎打ちの際、謙信を取り逃がした武田方の原大隅が
悔しさのあまりこの石を槍で突き通したと伝えられています。


胴合橋

敵の作戦を見損じたことを悔いて、越後勢の中に突入して行った山本勘助は
家臣もろとも首を取られてしまいました。
勘助の家来たちが勘助の首と胴を合わせたのがこの場所だったという。




平成22年10月24日訪問


1557年第3回川中島の合戦の際、別働隊の仁科衆が上杉軍に寝返る恐れがあると指摘し、「城の防備を強化し、昼夜を問わず油断しないように」と命じている内容の武田信玄直筆の書状が韮崎市の民家で発見された。

韮崎市内でみつかった書状は5通で、そのうち2通が信玄のもの。
2通のうち1通が信玄直筆の書状であることがわかった。
信玄直筆の書状はほとんど残されておらず、とてもめずらしい。
書状は8月10日付けで重臣「曾禰掃部助(そねかもんのすけ)」に宛てられたもので、第3次川中島の合戦で、7月に奪い取ったばかりの小谷城の守りについて書かれたと推測し、糸魚川方面の上杉軍の動きを警戒するよう命じた書状のようです。
筆に墨をつけるタイミングや字の形から武田信玄の直筆の書状であると確認されたそうです。



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古戦場跡

2008年01月01日 | 古戦場
北海道・東北地方

北海道  
折戸浜古戦場

青森県  
善知鳥崎古戦場 
法師岡古戦場

岩手県  
石浜古戦場

宮城県  
旗巻古戦場 
根無藤古戦場 
玉ノ木原古戦場

秋田県  
後三年合戦古戦場 
耳取合戦古戦場 
境・上淀川古戦場 
小種古戦場 
長濵古戦場 
新沢権現堂古戦場 
黒沢古戦場

山形県  
広河原古戦場 
漆川の古戦場

福島県  
稲荷山古戦場 
二ツ沼古戦場

関東甲信越

茨城県  
高天原古戦場 
山王堂古戦場 
月居古戦場

栃木県  
小原沢古戦場

群馬県  
神流川古戦場 
下仁田古戦場

埼玉県  
神流川古戦場 
女影ヶ原古戦場 
小手指ヶ原古戦場 
苦林野古戦場

千葉県  
日の子坂古戦場

東京都  
江古田古戦場 
久米川古戦場 
分倍河原古戦場

神奈川県  
洲崎古戦場 
石橋山古戦場

山梨県  
小荒間古戦場 
勝沼古戦場 
四郎作古戦場 
矢坪坂の古戦場

長野県  
川中島古戦場 
上田原古戦場

新潟県  
赤坂古戦場 
朝日山古戦場

北陸・東海地方

富山県  
倶利伽羅古戦場 
尻垂坂古戦場

石川県  
浅井畷古戦場 
篠原古戦場 

福井県  
金ヶ崎古戦場

岐阜県  
関ヶ原古戦場

静岡県  
三方原古戦場 
竹之下古戦場 
犀ヶ崖古戦場

愛知県  
小豆坂古戦場 
浮野合戦場 
設楽原古戦場 
長久手古戦場

三重県  
壬申の乱古戦場

近畿地方

滋賀県  
姉川古戦場 
賤ヶ岳古戦場

京都府  
山崎合戦古戦場 
伽和羅古戦場

大阪府  
鴫野古戦場

兵庫県  
青山古戦場

奈良県  
天誅組鳥ヶ峰古戦場 
後南朝最後の古戦場

和歌山県  
秋葉山古戦場

中国・四国地方

鳥取県  
不動ヶ嶽古戦場

島根県  
八ツ畦古戦場

岡山県  
柳畑古戦場

広島県  
厳島合戦古戦場 
芸州口古戦場 
苦の坂古戦場 
清水山古戦場

山口県  
壇ノ浦古戦場

徳島県  
阿波狸合戦古戦場 
鑓場古戦場 
栂橋古戦場 
槍場の古戦場

香川県  
白峰合戦古戦場 
源平屋島古戦場 
三十六古戦場

愛媛県  
星ノ岡古戦場 
野々市ヶ原古戦場 
山の神古戦場

高知県  
戸ノ本古戦場 
吉野朝廷時代古戦場 
矢流古戦場

九州・沖縄地方

福岡県  
大原古戦場 
多々良浜古戦場 
祖原元寇古戦場 
麁原元寇古戦場 
長者原古戦場 
福童原古戦場

佐賀県  
今山古戦場 
八ツ溝古戦場

長崎県  
沖田畷古戦場

熊本県  
響ケ原古戦場

大分県  
戸次川古戦場

宮崎県  
木崎原古戦場 
粥餅田古戦場 
根白坂古戦場

鹿児島県  
牛掛灘の古戦場 
陣の尾古戦場 
陣之岡古戦場

沖縄県