気ままなピークハンターズの山旅

日本百名山の頂と風景や国内旅行を中心とした絶景を掲載致します

妻の実家名栗でお家キャンプ薪ストーブ火入れ式

2022-12-30 10:51:30 | 日記
こんにちは!
12月26日(月曜)妻の実家で最近購入した薪ストーブの火入れを行いました
ソロキャンプで使用する手頃な薪ストーブをネットショップで探していたところ、
楽天市場で折りたたみ薪ストーブが見つかり購入してみました
薪ストーブテストのため、周辺のキャンプ場を検索してみましたが
予約満席でした 冬キャンプも最近人気があるようです
妻の実家飯能市名栗に相談したところ、お家キャンプOK!サインが出ました
食材、キャンプグッズを準備し名栗へ出かけてみました

薪ストーブに火が入りました
耐熱ガラス越しに薪の炎がゆらぎます 鹿のエンブレムも
気に入りました

薪ストーブ両脇にウイング状のフック付きます

薪ストーブに1.7メートル程の煙突が延びています

薪ストーブ火入れ式が完了して、料理を作り始めます

義理の兄さんがサイトの準備していてくれました

薪ストーブ高温の天板を利用して帆立バター焼き
スキレットにクッキングシートを数枚重ねて料理すると
スキレット焦げ付きが出ません クッキングシートを取り替えて
洗わずに何度でも使用可能

続いてサーロインステーキバター焼きブロッコリー添え

豚のロースホイル包み焼き ゆっくりとロースト

料理に夢中で味噌もつ鍋の画像を撮り忘れてしまいました
妻実家の義兄夫妻が料理を楽しんでいるようです

薪ストーブに1.7メートル程の煙突が延びています
煙突上部から薄っすらと煙が昇っています





薪ストーブ キャンピングケトルで湯を沸かす
豚のロースホイル包み焼きも出来上がり

飯能市清流名栗川のせせらぎ

自宅に戻り薪ストーブの点検
高熱による歪み等は見つかりませんでした

ステンレス製の薪ストーブ いい色に焼き色がついています
耐熱ガラスにも亀裂等は見つかりませんでした
これから冬キャンプ相棒として使用していきたいと思います



最後まで御覧頂きありがとうございます
2022年度ブログ投稿 掲載記事をご覧頂きありがとうございます
2023年度も新たなネタ探しの旅に出かけて今まで掲載したことのない
絶景、心のふるさとの景色、山野草の花々、バラガーデニング、etcに
取り組んで参りたいと思っております
来年もよろしくお願い申し上げます
よいお年をお迎えください
次の投稿までご機嫌よう


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近世五街道の中山道笠取峠

2022-12-27 12:29:00 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県北佐久郡立科町と長野県小県郡長和町との境にある
旧中山道の笠取峠を掲載してみたいと思います

笠取峠 (長野県)(かさどりとうげ) 記念碑
笠取峠 (長野県)は
長野県北佐久郡立科町と長野県小県郡長和町との境にある、
旧中山道および国道142号の峠  標高は900m
芦田宿と長久保宿の間にあり、旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、
皆いつの間にか笠を取っていることから笠取峠と呼ばれるように
なったと伝えられる 松並木が残り往時の面影を留めている

笠取峠手前にある道標

信州長和町周辺の案内図

笠取峠 峠の茶屋が見える

信州立科町側に設置されている笠取峠記念碑
この峠道は、近世五街道の1つ中山道の笠取峠である
徳川政権は、関が原の戦い後の慶長6年(1601年)
東海道に伝馬制を実施し、翌7年には中山道にも着手した

信州立科町側より眺める笠取峠長和町方面

笠取峠より眺める信州立科町方面

笠取峠から立科町方面1.3キロメートル下った所にある
国道142号沿いの笠取峠マツ並木案内板

笠取峠マツ並木は
徳川秀忠は、慶長九年(1604)諸街道の改修、一里塚の設置とともに
街道に樹木を植えさせて並木をつくらせた
この幕府の植樹政策によって街道の並木は全国的な広がりをみせ、
松・杉のほかに樫・榎・漆などが植えられた
特に箱根や日光の並木は、「昼尚暗き」杉の並木として広く知られている
笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ
中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から笠取峠にかけて
約2キロメートルにわたっている
言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、
近隣の村へ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、
幕末まで手入れ・補植等管理されていた
現在、松の総本数はおよそ150本で、その内、
約60本の松の樹齢は150~300年以上経たものである
その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである

笠取峠マツ並木にある道標

笠取峠松並木の由来が書かれている案内板

笠取峠マツ並木
この峠道は、近世五街道の1つ中山道の笠取峠である
徳川政権は、関が原の戦い後の慶長6年(1601年)
東海道に伝馬制を実施し、翌7年には中山道にも着手した



旧中山道の風情を感じることができる閑静なマツ並木



歌川広重の「木曽街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である

往時の中山道をしのばせてくれるみごとな松並木です



最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史ある中山道の要衝和田峠(わだとうげ)

2022-12-23 10:28:42 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある
和田峠(わだとうげ)を掲載してみたいと思います

旧道の和田峠トンネル(和田宿側坑口)
和田峠(わだとうげ)は、中山道(中仙道)の峠で、
長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある 最大標高1,531m
中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、
平均すると2里程度の間隔で宿場町が置かれていたが、
この和田峠は険しい山の中にあり、
峠の江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い
冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた
このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や
茶屋が設けられていたほどである
これらの茶屋は「西餅屋(下諏訪宿側)」
「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、
いまでも地名にその名を残している

樋橋(とよはし)茶屋跡
樋橋村は江戸時代(寛永十一年)に誕生しました
中山道 和田峠の登り口に立場茶屋として栄え、
茶屋本陣があり大名、公家、幕府役人や一般の旅人が休んでいきました
文久元年(1861)十一月六日皇女和宮 様が
御降嫁の時茶屋本陣でおやすみになられました
茶屋本陣の(御殿)を修築しお休みいただきましたが、
その折ご心境を詠まれた和歌を本陣に残されたと伝えられています
この時のお通りは四万人ともいわれます
茶屋本陣跡は昭和四十五年に下諏訪町文化財に指定されました

下諏訪宿から和田峠にかかり6キロメートルばかり登ったところに
樋橋という本陣茶屋のある立場があった
家は10軒ばかりで、茶屋が数軒あったという

樋橋(とよはし)茶屋について語られた案内板

樋橋(とよはし)茶屋本陣跡記念碑

元治元年(1864)十一月二十日、
水戸藩の尊攘派で天狗党と呼ばれた千余人の一行が上京の途次通行し、
幕命でこれを阻止するために高島藩・松本藩連合軍とが戦った(和田山領合戦)、
樋橋戦争 とも呼ばれた戦いがありました

旧道和田峠への道標

水戸天狗勢こと水戸浪士たちの塚

中山道一里塚 江戸より53里

和田峠への新道下に設置されている一里塚

一里塚跡の説明書き

旧道の和田峠トンネル(和田宿側坑口)
トンネル通行に際して信号青で車通行が出来る

中山道 和田峠標識

中山道旧道 江戸時代、人馬が行き交った風情が残っています
皇女和宮 様が四万人ものお供を引き連れてお通りになったと
言われている中山道 街道跡

中山道 江戸方 京方への道標

中山道 旧道和田峠から和田宿へ下ってくると
接待茶屋跡があります

接待茶屋跡前にある湧水

中山道の碑

ここはかつての接待茶屋(和田峠施行所、永代人馬施行所ともいう) 跡で、
茅葺屋根の建物が復元されている
文政11年(1828年)江戸呉服町の豪商・かせや与兵衛(中村有隣)から
幕府へ多大な寄付金があり、これを元に和田宿へ50両が下附され、
和田峠を越える旅人のためにこの施行所が設けられた
冬期には旅人に粥や焚火を提供し、牛馬には年中小桶一杯の煮麦が与えられた

接待茶屋跡を登り詰めると中山道 旧道和田峠があります
茅葺屋根の建物が見えるが、ここは「接待茶屋跡」



最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晩秋の長野県伊那市と茅野市との境 杖突峠

2022-12-20 16:40:23 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県伊那市と茅野市との境にある日本百名峠
杖突峠を掲載してみたいと思います

長野県伊那市と茅野市との境 杖突峠(つえつきとうげ)
杖突峠は、長野県伊那市と茅野市との境にある峠
標高1,247メートル
古くは東山道、杖突街道、国道256号が通り
現在は国道152号が通っている 日本百名峠

杖突峠は
伊那市高遠町藤澤と茅野市宮川との境に位置する
赤石山脈(南アルプス)の北端にあたり、峠一帯を「晴ヶ峰」という
伊那側は藤沢川が流れる谷に沿った道で、比較的傾斜が緩い
一方、茅野側は糸魚川静岡構造線が通過している関係で断層崖となっており、
急坂である
峠から西南西の方角には諏訪大社の神体とされる守屋山がそびえる

むかし、人々がこの急坂を杖を突きながら登ったことが
「杖突峠」の名の起こりとされ、
頂上で捨てられた杖を燃やして供養するという行事が
大正末期まで行われていた
異説として、儀式によって地上に降臨した神が杖を突く
場所であったからとも言われている

杖突峠から茅野市方面を眺める

杖突峠には守屋山、入笠山への登山口があり
駐車場も完備されている

杖突峠より伊那市方面を眺める
江戸時代になると峠道が「杖突街道」もしくは「藤沢街道」と呼ばれるようになり、
中馬の往来が盛んに行われた
塩や魚、茶といった甲州(現・山梨県)方面からの物資が
この街道を通じて伊那へと運ばれた
八ヶ岳の裾野に用水路を開いた坂本養川は、
人々に提灯を持たせて各所に配置し、
杖突峠からその明かりを目印に測量を行ったとの伝説がある

杖突峠より少し茅野市側へ下った茶屋付近より眺める
諏訪湖周辺の街並みと八ヶ岳の山並

杖突峠より少し茅野市側へ下った茶屋付近より眺める
蓼科山

杖突峠より少し茅野市側へ下った茶屋付近より眺める
諏訪湖周辺の街並みと八ヶ岳の山並
上記3枚の画像は曇り空で3週間後に杖突峠に再度訪れた時の景観です



最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初冬の武州と信州を結ぶ十文字峠

2022-12-17 13:14:10 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は古い歴史を持つ武州と信州を結ぶ交通の要衝
十文字峠(じゅうもんじとうげ)を掲載してみたいと思います

濃霧の登山道を十文字峠へと進む

零下の気温の十文字峠に到着

十文字峠に建つ十文字小屋

十文字峠(じゅうもんじとうげ)
十文字峠は、長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の境、
奥秩父にある峠 標高1,962m
江戸時代以前より武蔵国と信濃国を結ぶ街道として往来があり、
交易や善光寺・三峰神社への参拝に使われた
中央分水嶺でもあり、埼玉県側は荒川、
長野県側は千曲川の流域である
埼玉県側斜面に、十文字小屋がある 
登山道であり、自動車の通行は不可能
長野県側の梓山の毛木平から登ると、
2時間余りで辿り着く コメツガ、シラベの樹林がある
5月末から6月にはシャクナゲが咲く

十文字小屋

気温は零下まで下がりあまりの寒さで
長居はできませんでした サーモスに入れたホットコーヒー飲み
撤収です シャクナゲが咲く頃に何時か来てみたいと思います

登山口 毛木平に下山していきます

登山道脇に佇む五里観音菩薩
武州と信州を結ぶ十文字峠は、碓氷・箱根の中間道として
主要な役割を果たしていた この里程観音(リテイカンノン)は、
元治元年(1864)に武州栃本と信州梓山・居倉などの
有志により建てられ、武州地内に4基、信州地内に1基、
一里(約3.9km)ごとに配置されている
三峰参詣者や善光寺参りに行き交う
人々の旅の安全を見守るとともに、目安となっていた

十文字峠の里程観音(リテイカンノン)

苔むした毛木平付近の景観 青空が広がってきたようです

千曲川源流にかかる峡霧橋

信濃川上(信州)毛木平登山口付近にある石仏
三峯山大権現の石仏

江戸時代以前より武蔵国と信濃国を結ぶ街道として往来があり、
交易や善光寺・三峰神社への参拝に使われた
長野県と埼玉県を分ける十文字峠は交通の要衝として古い歴史を持っている
人々が峠を越えたのは石器時代からと言われ、
八ヶ岳山麓で採れた打製石器の材料である黒曜石は、
この十文字峠を経て関東全域へと広がっていったとされる。
その後、十文字峠越えは交易の道として発展していった
埼玉側・武州大滝の栃本の人々は蚕を飼い、繭に育てて、
それを背に峠を越えて信州で売り、米に変えて再び峠を越えた
また信州野辺山から仔馬を仕入れ、
峠を越えて栃本から秩父西部の各地に運ばれ、
そこで三歳馬程度まで育てられて、成馬として再び峠を越えて
野辺山の馬市場で売られていたという

三峰神社への参拝への道しるべとなった歴史を感じる石仏

元治元年1864年十文字嶺道標権現碑

古の頃より往来する人々の目印となってきた道標
行き交う人々の旅の安全を見守るとともに、
目安となっていたのでしょうか!



最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする