チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

ゆず七味唐辛子

2016年06月30日 06時40分36秒 | 日々のこと

小雨、28度、85%

 七味唐辛子が好きです。あまりに何度も七味唐辛子のことを書くので、皆さん次々に送ってくださいます。おかげさまで、日本の小さなメーカーの七味唐辛子を食べることが出来ました。七味唐辛子の東西対決、いえ、何処の七味も名だたる所のものは夫々特徴があって美味しいと思うようになりました。この1、2年で七味の持つ意味が私の中で変わって来ました。七味唐辛子、インパクトを付ける、辛みを付けるためのものとばかり思っていましたが、最近では辛みプラスその香りまでも頂く物だと気付きました。

 七味唐辛子の香りは京都の七味に代表される山椒の香りが強いタイプ、やげんぼりや善光寺の唐辛子自体が持つ香りが強いものがあります。その時の食べ物や気温に合わせて使い分けると実に七味唐辛子といえども奥が深いと感じます。唐辛子を乾燥させたものの香りは甘くすら感じるから不思議です。深みのある香りです。香りを頂く七味唐辛子。

 先日、善光寺のゆず七味を頂きました。善光寺の七味唐辛子は、すっきりと冴え渡るような辛みと香りを持っています。香りが深い唐辛子を使っているのでしょう。そこにゆずを加えてゆず七味。ゆずの香りと七味の香りのバランスが大切です。どちらが勝ちすぎてもゆず七味にはなりません。この善光寺のゆず七味は絶妙なバランスで、しかもどちらも強いインパクトを持っています。確かに美味しい。この数週間、このゆず七味を楽しませた貰いました。昨日、いくら振っても出て来ません。この時の私の落胆ぶり、ゆず七味が無くなっただけで身が細るような寂しさを覚えます。

 そこで、台所のストッカーをかき回して出して来ました。普通の善光寺の七味唐辛子とゆずの粉です。 ゆずの粉は栃木のもの、そうです、この二つを混ぜてゆず七味を作ろうと思います。七味の中に少しずつゆずの粉を混ぜて行きます。その度、熱湯に落として香りを確かめます。なかなか思うような香りに結びつきません。このゆずの粉、非常にデリケートな香りです。どちらかというとレモンに近い品の良さ、日本のゆずの持つ野暮ったさが無いゆずの粉です。いくら入れても善光寺の七味の香りに対抗出来る代物ではありません。気づくと七味唐辛し随分黄色に染まっています。

 ゆずはjapanese citrusといわれるように、レモンやライムとは違った日本っぽいずんぐりとした香りが特徴です。高知の馬路村が村興しで作り始めたゆずポン酢、福岡には昔から柚子胡椒がありました。ゆずの香りは私には郷愁に繋がります。柑橘類の香りは土に大きく左右されると聞いたことがあります。栃木のゆずの粉、品のいい土で栽培されているゆずの木かしらと思います。マイブレンドのゆず七味、まるでレモン七味のようですがしばらくこれを愉しんでみます。

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母達の時代

2016年06月29日 06時08分07秒 | 母のこと

雨、27度、95%

 義母と母はほぼ同じ年です。昭和の初めに生まれ、女学生として戦時下を過ごし、日本の高度成長とともに時代を生きて来た人たちです。母は3年前に亡くなりました。義母は来年には90に手が届きます。主人は長男ですが、私は義母とは同居をしたことがありません。母だからと言うのではなく、生い立ちからどういう生活をしてきたかということをよく知っている女性は、私にとって義母と母しかありません。

 昭和の初期の日本は想像以上に後進国だったように思います。母は、四国の高知に産まれました。高知から山をひとつ越えた土佐市です。母はよく小さい頃の話をしてくれました。その上、私が小学のうちは殆ど年に2回この土佐の家に帰りました。土佐市の市役所の真ん前、黒い板塀の家です。平屋の母屋に農作業に使う道具等が入れてある二階家の納屋がL字型に繋がり、厠は外にありました。座敷の縁側から見ると中庭を挟んで正面にお蔵があります。そしてお蔵の向こうは、用水のある所まで畑でした。伯母は畑仕事をしていましたが、祖父母の頃は他所の人に畑を作ってもらっていたと聞きます。私が小さい時は、夏になるとお蔵のすぐ裏にはトウモロコシが続き、その向こうのビニールハウスにはトマトとキュウリ。売り物ではなく家で消費する野菜達です。ここまでが伯母の仕事範囲、ここから先の用水までの畑はやはり近所の方が手を入れてくれていました。

 母は6人兄弟の末っ子、一番上の姉(私にとって伯母)とは20も歳が違います。非常に甘やかされて育ったようです。周り一帯同じ姓です。従兄弟再従兄弟、要するに分家をした家がみんな寄り添うように近くに住んでいます。母の実家から2軒程先にはガソリンスタンドがありました。母の従兄弟がやっていました。この従兄弟のおじさんは母と同じ年です。母が「若い頃はクラークゲーブルみたいで。」と言うそのおじさん、私の目には田舎の日焼けした普通のおじさんにしか見えませんでした。

 私は福岡の町中の生まれです。この母の里に行くと夏には日差しの強さで疲れます。ちょっと外に出ただけでげんなりしてしまいました。近所に同じくらいの子供もいません。従兄弟達はみんな成人しています。縁側に座っては、畑を遠くから眺めていました。そしてなんといっても嫌だったのがトイレです。夜中でも外のトイレに行かなければなりません。その厠に行く手前には、ニワトリの小屋があります。その前を通るのがこれまた怖かった。お風呂は薪で炊く五右衛門風呂、中板にうまく乗れないのでこれも難儀でした。

 そんな家で育った母は、戦後、洗礼を受けてクリスチャンになりました。そのご縁で土佐の家を出て、名古屋の大学に入りました。

 亡くなった母、90に近い義母の生きて来た時代を振り返って書き残しておきたいと思います。この二人を振り返ることは取りも直さず私自身を振り返ることでもあります。私が60の誕生日を迎えるまでに、少しずつ書き進めます。

 左が母、右端は高知の私の従兄弟です。従兄弟が福岡の家を訪ねて来た時に撮った写真です。

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スターフェリーに乗るつもりじゃなかったのに

2016年06月28日 06時28分21秒 | 香港

雨、雷、26度、96%

 昨日、香港島セントラルのフェリー乗り場にある海事博物館に行きました。見て置きたいものがひとつあったからです。海事博物館を出ると、ビクトリア湾からの風を感じます。ここ数日、香港は晴天真夏日です。この天気この暑さこそが香港らしさを物語っています。 海事博物館の外に停泊している帆船を見ていると、九龍サイドからカラフルなスターフェリーがやって来ました。急にそのカラフルなスターフェリーに乗りたくなりました。九龍サイドに用事はありません。たかだか片道8分、片道日本円で40円の船の旅です。

 香港島と九龍サイドの間のビクトリア湾、亡くなった作家の邱永漢がこの湾のことを書いています。冬の寒い中、ビクトリア湾に潜って海老採りをする男の話が記憶に残っています。香港に住むなんて思ってもいなかった頃読んだ本です。しばらく香港に住んだ邱永漢、風景描写に生まれの台湾ではなく香港を多く使っていると気付きます。

 このスターフェリーは観光用ではなく庶民の足です。トンネルが出来る前、もちろん地下鉄も出来る前、スターフェリーは唯一の香港島と九龍サイドを結ぶ交通手段でした。今では、観光客の方が多く乗っています。ビクトリア湾の中央にさしかかると、 西を望めばマカオに向かうターボジェットや漁船が波頭の向こうに小さく見えます。幾度西を目指してフェリーに乗ったことやら、香港を取り巻く島々が多く点在するのもこの先です。  東を望めば、海の先に一連の白いマンション群に見えるのですが、右側は古くからの香港島のマンション、左は山を切り開いて新たに作られた九龍サイドのマンションです。この東の眺めは、私がいるこの30年で大きく変わりました。海の上で振り返れば、 やっぱりきれいな香港島です。この暑いのに観覧車に乗る人の行列ができていました。九龍サイドには、 イタリア船籍のコスタビクトリアが停泊中です。アジアコースのクルーズでしょう。日本に向かうのかもしれません。

 今日は打って変わって、朝から雨模様。このスターフェリーは台風等で運行が取り止めになります。一度台風警報が出たすぐ後、運行停止前の最後のフェリーに飛び乗りました。波は荒く、雨風がありますが波除のビニールシートも外されています。シートで抵抗を大きくすると転覆する可能性があるからです。船に乗っているのに、波は上がって来ます。風も吹き荒んでいます。雨も降り込んで来ます。乗客は、船の中央に一列に立っていて、皆、傘をさしていました。もちろん私もその一人です。思い出してもワクワクするような経験でした。

 今日のようなしっとりした雨の日にスターフェリーの乗れば、雨に煙る靄の中を心静かに短い船旅を楽しむことが出来ます。

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靴磨き

2016年06月27日 06時36分33秒 | 日々のこと

晴れ、28度、86%

 仕事をしていた頃は日曜日になると主人の靴も含めて全部の靴を磨きました。靴だけではありません、革のバックもベルトも磨きます。夏になると専らサンダルしか履かなくなるのに夏こそ靴磨きです。ここ香港、高温と日本以上の湿度です。革製品はうっすらと白いカビが付いてしまいます。

 小学の低学年まで通った小学校は革の黒い靴を履いて通学でした。その頃から既に靴磨きが好きでした。父の大きな靴は磨き甲斐がありました。靴の甲に顔が写るくらいに磨きます。雨の翌日、自分の黒の靴の先が汚れているのが嫌で磨きます。シューキーパーなんて知りません。そんな私を見て父が新聞紙を丸めて靴に入れて置くように教えてくれました。まだ、そんなに日本が豊かでなかった昭和30年代の話です。

 若くてお金が無かった頃は靴の数も少なくて、よく目が行き届きます。ところが、40代の頃この私、ゆうに50足以上の靴を持っていました。これはサンダルを除いた数です。つまりシューキーパーを50数対持っていました。ヒールの付いたもの、紐靴、ローファー、色も黒、茶、紺。50を過ぎた頃バッサリと整理しました。手元にある靴は20足程、日本の家にも数足置いています。少なくなると手入れも充分に出来ます。ヒールの靴は3足のみになりました。しかも滅多に履きません。ローファーとバレーシューズは主流です。なめし革もスウェードもハラコもみんなそれぞれの方法で磨きます。

 数年前、主人がシューキーパーは要らないと言います。シューキーパーで靴が傷むというのです。シューキーパーも強さがありますから、今では主人の靴はキーパーなし、おかげで甲の部分のしわが深くなる一方です。私のキーパーは香港に来た当初ずらっと買い揃えたイギリスのものです。柔らかいバレーシューズには張りの弱いもの、かっちりした紐靴には張りの強いものと使い分けています。

 磨き終わるとずらりと並べて、お顔見せ。 こうして手入れをして来たおかげで、私のローファーは一番古い物で25年履いています。ここ数年新しい靴を買っていません。よく足に馴染んだ、好きな靴を履き続けるためにキュッキュと磨きます。

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bookshop 香港

2016年06月26日 05時12分45秒 | 香港

晴れ、29度、84%

 先日の帰国の時、飛行機の中で読む本を持たないで家を出ました。飛行場のbookshopは米英の新刊が一番先に出ます。香港の空港もほかの都市空港のように、ビックブランドがお店を拡張しています。香港の繁華街と同じブランドばかりです。飛行機の待ち時間はbookshopを覗きます。通関を過ぎて、さてお目当てのbookshopを目指します。お店がありません。広い空港ですから、なん軒かbookshopがあります。くまなく廻りました。今までの米英の本を主体に売っていた本屋は全てありませんでした。中国語の本と英米の本が半々の「中華書店」という新しい店がまるでスナックでも扱っているような狭いスペースで本を扱っています。この前空港に来たのはほんの2ヶ月前、あっという間の変化でした。

 香港の町中にある世界的なチェーン店のbookshopも店を締めました。理由は家賃の高騰です。もちろん活字離れもひとつの理由かもしれません。そして残っているbookshopは私が香港に来た時からある香港の老舗ばかりとなりました。香港の本屋は、英米の本を扱う店と中国のものを扱う店に分かれます。英米の本を扱う店の雰囲気は、昔からアメリカのそれではなくイギリスの本屋の匂いです。カフェなんて付いていません。子供の遊び場もありません。静かな空間です。

 昔はハシゴが置いてあり、天井まで本がびっしりとありました。bookshopの匂いもややカビ臭く、そこがまた私の好きな所でした。あの当時は、本の在庫を調べるのもPCではなく問い合わせのレターだったと記憶しています。

 香港島セントラルのアイスハウスストリートにあったこのbookshopは20年程前に金鐘のショッピングセンターに入りました。もう長い付き合いのbookshopです。ちょっと奥まった所に引っ越ししましたが、充分なスペースがあり本のディスプレーも随所に心配りが感じられます。先日行ったら料理の本のコーナーにはアクリルで作られた大きな書見台が置かれていました。美術書の所には木製の書見台です。重い本をめくるのに片手では持てません。本を大事にする気持ちが伝わります。日本の本屋のように本を並べるのではなく、ディスプレーする、より良く見せようとしています。 この訪れた日には、コーナーでアメリカの経済学者が小さな講演をしていました。そんな時はお店のドアは閉まっていて、お店の人が顔を見ては開けてくれます。

 ドルチェアンドガッパーナ、マックスマーラにはさまれたbookshopです。お店で働く人も皆さんかなりのお歳です。ここのドアを入る度にここはbookstoreではなくbookshopだと思います。

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ツタ

2016年06月25日 06時47分03秒 | 日々のこと

晴れ、28度、84%

 ランナーを伸ばしてどんどん延びるツタ科の植物の話です。ツタの植物と聞けば、細い蔓を伸ばす朝顔やキュウリなどを思いますが、木化した手強い藤などのツタもあります。日本の家の庭の草達は、昨年の草達と種類が違っていました。昨年は私の背より高い一本立ちの草でしたが、今年はツタが地面を被っていました。このツタは、以前我が家の庭にはなかった種類のものです。 この実がなっているツタは、昔からあるものです。このツタが家を取り巻く塀にびっしりと絡まっていました。その塀はすっかり取り壊され今では裏の石垣にだけこのツタが残っています。石垣と書いて思い出したのですが、このツタのおかげで我が家の裏に石垣があるとは誰も思いません。ツタが被っているので石垣など何処にも見えない状態です。

 ツタは手強い、強靭だと今回の庭の草を取りながらつくづく感じました。例えば一本の2メートルばかりのツタは少なくとも5カ所に根が付いています。一本の雑草には根はひとつ、つまりツタを抜くには約5倍の力を必要とします。今回の草抜きはこのツタとの綱引きから始まりました。綱引きをやっていたのでは、私は到底敵いません。そこでハサミで至る所ジョキジョキと切っては、引っこ抜くを繰り返します。このツタですが我が家の庭に5種類もありました。以前なかったツタは、庭土を入れ替えた時に付いて来たものに違いありません。

 庭の草を取る前に座敷の雨戸を開けようと思いました。ところが雨戸が開きません。ウンとばかりに力を入れると、雨戸に長いツタが付いています。 滅多に開けない雨戸にもツタが伸び始めています。写真中央のツタの絡まったこんもりした所は縁側から庭に降りるための靴脱ぎの石です。人が降り立たないのでこの状態。

 苔が生して欲しいと願っている蹲いの石にも、苔ではなくツタが絡まっていました。日本の家に帰ったのは夕方前、暗くなると庭には自動的にライトが付きます。裏庭だけで6カ所ライトがあるのですが、最初の晩は見えるライトは2つだけ。 ツタをとってやっとライトが見えました。一番大きなライトはツタを抜く時に一緒に引っ張ってしまい修復するのに大変な思いをしました。ツタの力とその繁殖力に心底驚きます。反面、困ったことばかりではありませんでした。座敷の縁側の雨戸を全部開けると、木を切ってしまったので、下の道を通る人から家の中が丸見えになっていました。それがこのツタのおかげでいい具合に目隠しブラインドになっています。朝顔やヘチマを直射日光を遮るために縁側の外に竹の柵を作って育てたことを思い出します。人が住むようになればツタ達もこんなに鷹揚に蔓延ることは出来ません。うまくツタと付き合って行けそうな気がします。いつか「ツタのおかげね。」と言えるような家にしたいと思います。

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リンゴ印のお兄さんありがとう

2016年06月24日 06時36分54秒 | 走ること

晴れ、28度、82%

 日本に帰る前日の朝でした。いつものように起きて、隣の部屋で充電済みのはずのiPhoneをとりに行きました。スイッチを入れても画面は真っ暗。???もう一度、真っ暗。固まっています。そこでスリープボタンと電源ボタンを長押し、15秒。でもダメ。頭の中で明日からの予定がぐるぐる回っています。iPhoneがなければ困ります。

 そこで初期化しようとPCに繋ぎました。iPhoneのパスコードでロックされていて初期化も出来そうにありません。朝といっても早朝です。PCとiPhoneと格闘して2時間程、諦めました。真っ暗なままです。リンゴ印のお店に持って行く事にしました。修理に出すとなると、日本に着いてレンタルの携帯を借りるしかないと諦めていました。

 リンゴ印のお店は、歩いて20分のところにあります。IFCビルの海側を3フロアー占める広さです。リンゴ印のお店に共通の清潔感と空間の豊かさがあります。10時に開店ですが気の早い私は15分前には、3階の修理のフロアーのシャッターの前にいました。2番目です。真っ暗な使えないiPhoneなんて持っていても何にも役立たず。そのiPhoneを握りしめて待っています。まあ、iPhoneが朝目覚めて固まっている人なんて世界中に100人いるだろうね、と心の中ではうそぶきます。開店前になるとやはりぞくぞく人がやって来ます。います、います中国本土の方、並びもせずに半分上がったシャッターの下からお店に入りました。これが一人二人ではありません。応対のリンゴ印のお兄さんの数はこのフロアーだけでもざっと30人程います。直に一人のお兄さんが私のiPhoneの状態を確かめてくれました。「初期化しますがいいですか?」「はいはい、やって頂戴。」私の電話番号を入れるとアカウントに繋がりすぐさま初期化が始まりました。待つこと15分、初期の設定だけしてもらいお店を出ました。

 香港のリンゴ印のお兄さんお姉さんは最低3カ国語話せることが条件だそうです。もちろん日本語は含まれていません。広東語、北京語、英語です。どんなに人が多い時でも気持ちよく応対してくれます。以前に福岡の家でもこのiPhoneが固まったことがありました。明るいうちでした。福岡の家からリンゴ印のお店まで、バスで20分の距離です。この時もリンゴ印のお店に直行しました。お店に入って一人のお兄さんに声をかけると、あっという間に治してくれましたが、「修理にはネットで予約してから来て下さい。そして並んで待ってください。」と壁際を指差します。iPhoneしか持たない人が壊れたらどうやってネットで予約するのかなと不思議に思いました。お礼を言ってお店を出ましたが、福岡のリンゴ印のお兄さんはいい感じではありませんでした。私が横柄な態度だったのかも知れません。ともあれ、リンゴ印が20分圏内にあるというだけで、安心している私です。

 さて、初期化されたiPhoneを家に持って帰り、PCに繋げばそれだけで元のiPhoneに復元出来ます。やれやれ、7時間程の不便で済みました。ところが開けるといつものようにLINEだけが復元されません。セキュリティーが強くかかっています。お友達の半分以上が消えたまま、消えて一番困る息子夫婦だけはすぐに、IDを教えます。まだ全員復活していません。LINEで「知り合いかも?」のところに私の名前が出てきたらクリックしてください。今回のアイコンは、モモさんがブルーの手ぬぐいを被っています。お手数をかけます。

 MacBookも7年目に入りました。まだ大丈夫と思っていても、ある日プツンと消えてしまうこうした機械達です。リンゴ印のお店が近いのは、なんとも心丈夫です。リンゴのお兄さん、いつもお世話になります。

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ぎっくり腰

2016年06月23日 06時36分31秒 | 日々のこと

晴れ,27度、84%

 初めてぎっくり腰になったのは、20代の初め。息子が半年になろうとしていた元旦でした。朝起きようとすると立ち上がれません。背中から腰にかけて鈍いながら重たい痛みがあります。立てないので匍匐前進です。午後には熱も出て来ました。風邪かと思います。お正月ですから主人が休みなので息子の世話を頼んで一日横になっていました。痛みが引きません。いよいよ、休日指定病院に行ったのは暗くなってからのことです。先生は見るなり、「ぎっくり腰ですよ。」と一言。「お尻に注射をします。」とおっしゃいます。背中が痛いのより、お尻に注射をされる方が尻込みします。このお尻の注射は、筋肉の弛緩剤のようです。背中の痛みは痛みとともに周りの筋肉がそれを助けようとばんばんに張っていました。「ぎっくり腰は癖になるので気を付けてください。」と帰り際に言われます。

 ぎっくり腰なんて、おじいさん、おばあさんの病気かと思っていました。お注射のおかげで随分楽になりました。考えてみれば、重たくなり始めた息子を腰骨に乗せて、買い物、大掃除と年末の仕事を片付けました。きちんと抱けばいいものを、中途半端に左の腰骨にひょいとのせて動きます。随分無理な姿勢です。以来、重たいものを持ち上げる時は注意します。それでも、先生の言葉通りある時、ミシンをかけていて立ち上がろうとした途端にやって来ました。冬の寒い時でした。さて何が原因かな、若い中型犬2匹を朝に晩に散歩させていて無理がきたのかもしれません。お尻に注射されるのが嫌で、病院に行きたくなかったので整体の先生に行きました。痛みが取れたわけではありませんが、背骨の位置でぎっくり腰の最中でも痛みが薄らぐことを知りました。

 3回目は、20年程前に急にやって来ました。でも、あらぎっくり腰かなという前触れがありました。起き上がるのは痛みをこらえてヨイショ。ところが、背骨の位置を気にしながらならそのまま一日過ごせます。お注射より何よりも時間が治してくれます。数日でやり過ごしました。

 40代に入った時から走り始めました。仕事上風邪を引かない身体にしたかったからです。そろそろ20年走っていることになります。ある時ふと気付きました。ぎっくり腰がやって来なくなったのです。少しは丈夫になったのかもしれません。

 先日、日本の家で庭の草の引っこ抜きをしました。蔦だらけでしたから、まるで綱引きでした。大きな草の山を目の前に、次の日の朝起きたとき、もしかしたらぎっくり腰がやって来るかもしれないと思いました。その晩はお風呂を長く使って休みました。朝は、腰のことを忘れていつものようにピョンと起きました。ぎっくり腰さん、やって来ませんでした。

 母も義母も70代に入ってぎっくり腰を患いました。私は2人よりぎっくり腰の大先輩です。そこで、微に入り細に入り二人に痛くない歩き方、寝方を指導しました。お尻の注射だけは勘弁してもらいたい、どうかぎっくり腰さんこのまま退散してください。

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欄間

2016年06月22日 06時39分09秒 | 家の改築

晴れ,27度、86%

 「欄間」と言っても分かる人が少なくなったと思います。長押の下に格子や彫を施したもの組み木などの素通しの窓のことです。実家の座敷はL字型の廻り縁でした。縁側と座敷の間の長押の下には格子の欄間があります。廻り縁は半分潰しました。縁側と座敷の境もなくし今は板張りです。昔の座敷ですから、床の間があります。床の間の横は書院造りになっており書院窓の上に鶴と松の彫の欄間があります。

 玄関を開けると、玄関の間がありその向こうが座敷です。この床の間、廻り縁、畳の間のまま残したかったのが私の希望でした。廻り縁は半分、板張りになりましたが、床の間とこの書院窓は残りました。玄関の間と座敷の間の障子を開けておくと、玄関を開けるなり目に飛び込んで来るのが鶴と松の欄間です。千本格子の黒塗りの書院窓の上にあるこの欄間は、小さい頃から私がこの家の中で好きなところのひとつです。

 彫の欄間は随分高価なものもあると聞きますが、ごく一般的な鶴と松の我が家の欄間は普通の物です。ただ、私よりずっとお年が上のはず。何の材で作られているかも知りませんが、この欄間を見ると家に帰って来たと思います。

 母が3年前に逝きました。ちょうどお盆過ぎでした。母が亡くなって間もなく、玄関前の松の大木が枯れてしまいました。昔は手入れがされて姿のいい松でしたが、枯れる前は大木になっていました。今は大きな切り株です。あの松の木が亡くなったことも私の心には大きな穴が空きました。でも、こうして欄間として松の木が残ってくれています。

 先日帰国した時には縁側の5枚の雨戸を全部開けて、座敷に陽を入れました。しっかりと絞ったお雑巾で部屋中を拭き清めます。欄間を拭いていてはたと気づきます。鶴の下に2羽の鶴の小鳥がいます。 私かれこれ60年、この欄間を見て来ました。この2羽に気付いたのは初めてでした。欄間を拭くことも小さい頃から何度もして来たことなのに、初めてこの2羽の鶴の小鳥に気付きました。香港に戻って主人に欄間の鶴の話をしたら、主人は小鳥のことを知っていたと言います。一体、私の目はどうしていたのでしょう。こんなこともあります。

 60年近くたって初めて気付いた欄間の中の小鳥、やっぱり残して置いてよかったとつくづく思いました。

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システムキッチン

2016年06月21日 06時38分09秒 | 家の改築

晴れ、28度、81%

 私の実家の古い日本家屋を改築して、終の住処にしようと言ってくれたのは主人です。私は家は潰して土地も売るつもりでいました。主人の実家の家も私たちの物です。そんなに土地や家は要りません。さて、改築が始まると、どういう間取りにするか、何処を残すかなど一切私の意見は聞き入れられませんでした。おかげで出来上がった家には押し入れがありません。そんな中たった一つ台所のシステムキッチンだけは私に選ばせてくれました。

 実家の改築は予定以上に長引きました。おかげで福岡市の殆どのシステムキッチンのショールームに幾度も足を運ぶことが出来ました。分厚いパンフレットを抱えて帰って来ては考えました。採光が暗いという以外は、広さは充分スペースがある台所です。どんなシステムキッチンでも入ります。初めて持つ自分のキッチンです。そしておそらく最後のキッチンです。 一列型のリクシルのものを入れました。リクシルにした理由は幾つかあります。背の低い私には調理台の高さが問題です。パンを捏ねるためと言った方が早いかもしれません。高さが低い調理台があるのは、リクシルとタカラでした。機能的には何処もさして変わらなかったと記憶しています。それなのにリクシルを選んだのは、説明をしてくれた女性の一言でした。シンクの素材が最近の流行は人造大理石の白だそうです。冷たい感じがなくて、清潔に見えます。カウンタートップと合わせると統一感もあります。係の女性が「白のシンクがいいわ。」といっている私に一言、「紅茶や赤ワインが時折染みになります。」この一言で、シンクはステンレスになりました。お分かり頂けると思います、私は紅茶好き、しかも殆どティーバックではありません。夏の暑いひと時期を除けば、夜は赤ワインです。これは即決でした。そして、自社の商品の欠点を真っ直ぐに言ってくれたこの係の人の言葉で、リクシルにしました。

  大きめ深めのひとつシンクです。今の香港の家は16年住んでいますが、当時憧れていたダブルシンクです。あの頃はダブルシンクが使いたかった。確かに、使い勝手がいいのですが、思い切って広さのあるひとつシンクにしました。まだ、大した料理は作りません。お魚を焼いたり、卵を炒めたり。ほんとに使い手が分かるのはこれからです。

 このシンクの上に2段の収納棚が付いています。ところが天井が高いので、一番上の棚には脚立が必要です。それに調理部分が狭く感じます。今回、このシンクに向き合うようにアイランド型の調理台を頼んできました。収納専用、トップは天然木板でパンを捏ねます。

 システムキッチンとこのアイランドだけが私がこの家の改築でものが言えた唯一のところです。香港の家の台所をご存知の方が、「真奈さん、また黄色。」そうですが、黄色を選んだのも主人です。私は白にするつもりでした。少しずつ出来上がって行く私の台所を時々お見せします。

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