チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

ポピーと母の思い出

2024年05月07日 05時22分52秒 | 母のこと

晴、18度、87%

 「ポピー」が咲きました。毎年種を蒔くのに咲かせることができなかった「ポピー」です。植物にも相性があるらしく咲かせることができないかと思っていました。それでも毎年種を蒔きます。「ポピー」の花はか細い茎の先にふわっと薄衣を重ねた様な姿で咲きます。「ポピー」が広い土地に陽を受けて咲く姿は夢の様です。雨が上がり、蕾が膨れ切って開いた「ポピー」を庭に見つけました。 空が晴れた様に私の気持ちもスッと晴れて来ました。

 裏地が「ポピー」の花模様のスーツを持っていました。母がまだこの家に住んでいた頃、その服で戻ると、「真奈さん、いい服ね。ポピーの花が好きなの。」と母が言いました。会うとすぐに私の服の話をします。「そういう安っぽいものはやめなさい。」と言われることもあれば「いいものは一目でわかるわ。」と褒めてもらえることもありました。間違いない審美眼だったと今は思います。庭に咲いた「ポピー」を見ながらそんな母のことを思い出していました。

 私が高校の頃ですから昭和40年代の後半です。母は「マリメッコ」の布をどこからか求めて来ました。今の様に「マリメッコ」の店などなかった時代です。そしてその奇抜な布でジャケットを仕立ててもらいました。一重の春秋向きのジャケットでした。柄は「ウニッコ」と呼ばれるマリメッコで一番有名な柄です。今のものとはデザインも色合いも違いました。「ウニッコ」が北欧の言葉で「ポピー」だと知ったのは随分後のことです。母がそのジャケットを着て歩く姿が記憶をよぎります。似合っていました。私も欲しいと思いました。今思うと母はあの当時から「ウニッコ」が「ポピー」だと知っていたのでしょう。その小さな布切れを今も私は持っています。

 「ポピー」の花の様な母ではありませんでした。花を庭で育てる人でものありませんでした。でも花の名前や花のことをたくさん教えてくれました。好きな花が「ポピー」だったと「ポピー」を見るたび思い出すことでしょう。

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母の命日

2022年08月16日 04時53分30秒 | 母のこと

曇、30度、76%

 母が逝って9年が過ぎました。香港にいた私に16日深夜知らせをくれたのは息子です。急な知らせでした。施設から救急車で運ばれた病院で死亡が確認されたそうです。「低血糖」が直接の死因だと医師から電話で説明を受けました。15日から16日に日付が変わった時間帯、私は病院、日本の警察、葬儀の手配、自分の飛行機の予約とあの晩ずっと起きて電話していました。

 いつかこの日が来ることはわかっていました。いつ来てもいいように予め頭の中で行動を考えていました。その時のための電話番号の控えも作ってありました。お盆休みの時期なのに運よく飛行機も取れました。それでも福岡に入れるのは夕方、一足先に東京の息子が福岡に入ります。役所の届け出だけで済むかと思えば警察の調査もありました。施設での示唆殺人、親子関係の良し悪し、なぜこんな事を尋ねるのかと訝しく思いました。息子が私が福岡に着く前にほとんどの公の手配を完了してくれました。おかげで翌日荼毘にふすことができました。長い一日でした。暑い一日でした。

 涙は出ません。「やっといなくなった。」これが私の気持ちでした。まだ熱い骨壷を菩提寺に預けて、この家に来ました。改装中で屋根と柱しかないこの家を見て虚しさを感じました。体は疲れてないのに頭のどこかがぼーっとしていました。

 9年、時間は優しいと感じます。母を疎む気持ちは昔ほどではなくなりました。「ありがとう」と心で言う日が増えています。それでも時折、声に出して罵るほど怒りがこみ上げることもあります。いつもはお寺でお経を挙げていただきます。今日は義母の薬を病院に取りに行くので墓参りだけにします。

 あと9年、今の倍の時間が経てば母に対する気持ちはもっと優しくなれるだろうと、自分の心の醜さを省みています。

 

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「粗雑」「横着」母が私に遺した言葉

2022年01月28日 03時54分06秒 | 母のこと

曇、6度、80%

 小さい頃から母に私は「横着」だとか「粗雑」な人間だと言われました。いつも言われるので意味も考えずに「うるさいなあ。」「また言ってる。」と思い続けていました。それがこの数年、確かに私は「粗雑」で「横着」だと思うようになりました。何かをした行為で「横着」「粗雑」というのではなく性格の中にあるものです。母が言うくらいですから、他人もそういう私が見えていたと思います。でも他人事ですから口にはしません。65歳になろうという今も変わらない自分を恥ずかしく思います。もっと早くに母の言葉を受け止めていたら、違った自分があったはずです。そう思うと、無駄にしたものがたくさんあっただろうと悔やまれます。

 先日、私をよく知る友人と話をしていて、「真奈さん、お母様への気持ちに変化があったわね。」と言われました。母が逝って十年が経とうとしています。その間、長年住んだ香港から父母が残してくれたこの家に戻ってきました。母はこの家で父が亡き後40年近く一人で暮らし、最期を老人施設で迎えました。母がこの家で過ごした40年の四季を私も辿っています。働くわけでもなく、家の掃除や家事をするでもなく母は一体何をして過ごしていたのか?立ち働く母の姿が記憶にありません。友人の言うように母への気持ちは幾分緩みました。まず、家を遺してくれたことへの感謝です。もう一つは老人施設に入れてしまったことへの申し訳なさです。毎朝、父母に感謝の気持ちで手を合わせます。母が最後を過ごした施設のある南の山を眺めると、「ごめんね」と心が呟きます。ところが依然、母を好きではありません。感謝、申し訳ないと毎日思いつつ好きではないと自覚します。もし母に似た方がいたら、私はお近付きにならないように避けると思います。

 「横着」「粗雑」、娘は60歳を過ぎてから母の言葉に自分を省みています。省みながらその言葉を言った時の母の顔が蘇ります。いかにも汚いものを見るような目付きでした。言ってくれた言葉をありがたく感じながらも、母を好きになれない私がいます。

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母達の時代

2016年06月29日 06時08分07秒 | 母のこと

雨、27度、95%

 義母と母はほぼ同じ年です。昭和の初めに生まれ、女学生として戦時下を過ごし、日本の高度成長とともに時代を生きて来た人たちです。母は3年前に亡くなりました。義母は来年には90に手が届きます。主人は長男ですが、私は義母とは同居をしたことがありません。母だからと言うのではなく、生い立ちからどういう生活をしてきたかということをよく知っている女性は、私にとって義母と母しかありません。

 昭和の初期の日本は想像以上に後進国だったように思います。母は、四国の高知に産まれました。高知から山をひとつ越えた土佐市です。母はよく小さい頃の話をしてくれました。その上、私が小学のうちは殆ど年に2回この土佐の家に帰りました。土佐市の市役所の真ん前、黒い板塀の家です。平屋の母屋に農作業に使う道具等が入れてある二階家の納屋がL字型に繋がり、厠は外にありました。座敷の縁側から見ると中庭を挟んで正面にお蔵があります。そしてお蔵の向こうは、用水のある所まで畑でした。伯母は畑仕事をしていましたが、祖父母の頃は他所の人に畑を作ってもらっていたと聞きます。私が小さい時は、夏になるとお蔵のすぐ裏にはトウモロコシが続き、その向こうのビニールハウスにはトマトとキュウリ。売り物ではなく家で消費する野菜達です。ここまでが伯母の仕事範囲、ここから先の用水までの畑はやはり近所の方が手を入れてくれていました。

 母は6人兄弟の末っ子、一番上の姉(私にとって伯母)とは20も歳が違います。非常に甘やかされて育ったようです。周り一帯同じ姓です。従兄弟再従兄弟、要するに分家をした家がみんな寄り添うように近くに住んでいます。母の実家から2軒程先にはガソリンスタンドがありました。母の従兄弟がやっていました。この従兄弟のおじさんは母と同じ年です。母が「若い頃はクラークゲーブルみたいで。」と言うそのおじさん、私の目には田舎の日焼けした普通のおじさんにしか見えませんでした。

 私は福岡の町中の生まれです。この母の里に行くと夏には日差しの強さで疲れます。ちょっと外に出ただけでげんなりしてしまいました。近所に同じくらいの子供もいません。従兄弟達はみんな成人しています。縁側に座っては、畑を遠くから眺めていました。そしてなんといっても嫌だったのがトイレです。夜中でも外のトイレに行かなければなりません。その厠に行く手前には、ニワトリの小屋があります。その前を通るのがこれまた怖かった。お風呂は薪で炊く五右衛門風呂、中板にうまく乗れないのでこれも難儀でした。

 そんな家で育った母は、戦後、洗礼を受けてクリスチャンになりました。そのご縁で土佐の家を出て、名古屋の大学に入りました。

 亡くなった母、90に近い義母の生きて来た時代を振り返って書き残しておきたいと思います。この二人を振り返ることは取りも直さず私自身を振り返ることでもあります。私が60の誕生日を迎えるまでに、少しずつ書き進めます。

 左が母、右端は高知の私の従兄弟です。従兄弟が福岡の家を訪ねて来た時に撮った写真です。

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三枚のスカーフと母

2016年01月06日 04時22分24秒 | 母のこと

曇り,19度、97%

 母が逝って2年半が経ちました。いい事も悪いことも,お恥ずかしい事も人様には言い辛いことも,少しずつ書けるようになったと思います。これも時間のおかげです。

 母の足が不自由になって,最終的には一日3交代、毎日ヘルパーさんにお世話になりました。その頃から,お金の出し入れ、ヘルパーさんたちへの挨拶のためなどで2月に一度福岡に帰るようになりました。その後、母を施設に預かってもらうことになりました。

 香港から福岡の直行便は,午後三時頃福岡に着きます。その足で,母の元に向かいます。荷物には母の大好きな私が作ったあんこものが入っています。空港からの道すがら和菓子屋さんがないので作り始めた私の和菓子です。和菓子が大好きでした。施設にいると思うように和菓子が食べれません。手作りの和菓子というと親孝行のようですが、実は義務的な気持ちでした。

 施設に着くと,すぐに母に和菓子を食べてもらいます。一段落着くと,必ず,私の服装の話をします。「今日のそのストールは,色が凄くいいわね。」「そのカーディガンの襟は洒落てるわね。」「人様の目があるから,そんなズボンを履いて来ないでね。」

 褒めてくれることばかりではありません。「人様」つまり施設の職員の方や同じフロアーの入居者の人のことです。私などは人目を気にしませんが,人からどう見られるか,遠く飛行機に乗って帰って来た娘というより、見舞いに来た身内がみすぼらしい恰好をしているのが嫌だった人です。

 といっても,私はただでさえ旅の荷物を少なくと思います。女ですから旅先で下着やソックスを一晩で乾かすこつぐらいは心得ています。母の施設を訪れること,実家の荷物の整理が私の大きな目的だった当時の帰国です。毎日服を取り替えて行くこともしませんでした。

 ある冬事でした。荷物を重くしたくないと思い、メインの服は一通り、それに三枚のスカーフを持って帰りました。スカーフは最近使う人も少なくなっていますが。軽い上に,大判のシルクスカーフを拡げてコートの下に羽織れば、とても暖かです。三枚のスカーフは,黒いセーターの襟に小さく巻きます。母の元に行く時,毎日違うスカーフをして行きました。3日目、母が「毎日違うスカーフっていうのも,なかなかいいわね。」と言います。

 母が目を付ける私の服装は、私自身がここと思っているところです。いい物をきちんといい物と分かる人でした。そんな服装と言われたクロプトパンツは,香港のローカルの品、別の時に同じクロプトパンツですがいい物を着て帰った時には絶賛です。そして,いい物のときは,必ず,「どこの?」と聞くのも母でした。

 もうこんなこと,いい事も悪い事も言ってくれる人がいなくなったなあ,とやっと最近気付きます。着る物も,その好みも全く違う母でした。時折、母が褒めてくれた物を出して来ては手に取ります。

 

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お仏壇 お墓

2015年08月17日 06時39分11秒 | 母のこと

曇り,28度、90%

 昨日は母の三回忌でした。送り盆と重なります。私は日本には帰らず、こちらで父母の事を思って過ごしました。主人は義父の初盆で帰国しました。私たち年代になると,こうして仏事が重なるようになります。

 母を施設に預けた頃からでしょうか,恥ずかしい事にその頃からやっと自分たちの今後を考えるようになりました。老後を含めた今後です。その頃は,まだ実家の改築も決めていませんでした。終の住処となるべき所も決めていませんでした。主人は長男,私は一人っ子です。結婚した時から明々白々、親から譲り受ける物が両方の家からあるという事です。その中で,頓にこの所、私が気がかりな物がお仏壇とお墓です。

 日本の新聞の書籍広告欄にも,同じ題名の本が出ていました、「墓と仏壇」。小さい頃から墓参り、仏壇掃除とお墓もお仏壇も身近な物として育ちました。主人の家にはお仏壇もお墓もありませんでした。そのこともあって,お墓もお仏壇もそんなに重荷に感じないで来たのですが,義父が亡くなって,主人の実家にもお仏壇を購入しました。お墓は数年前に義父母が用意していました。義母に付き添って仏壇用品を揃えに行きます。あれもこれもという義母は、仏壇屋にとっては恰好のお客です。義父のために仏壇を調えるのには何の心掛かりもありません。2つのお仏壇,2つのお墓を守るのは勤めです。と,私まではいいのですが,考えると我が家は一人息子です。

 2つのお墓に2つのお仏壇を息子夫婦に托す事は出来ません。少しそういう懸念が出始めた頃,実家のお墓の整理を考えました。納骨堂に移そうと思ったのです。菩提寺の納骨堂,5年ほど待てば空きが出ますと仰るので,申し込みました。でも,いざ母の納骨の段になり墓を開けると、お墓を手放す事に心が陰ります。

 実家の改築で倉庫に家具を預けました。その時ろくに掃除もされていないお仏壇がとてもみすぼらしく見えました。小さい手頃なお仏壇に買い替えようと,何度か仏具屋に足を運びました。家の改築も終わり,古い仏壇をもとの場所にすえました。母が手入れを怠っていましたから,汚れがひどく小さな引き戸までガタピシでした。それを何度も何度も拭き上げ,ロウをひき引き戸もスムーズに開け閉めできるようにしました。すると,見違えるほど昔のお仏壇に戻りました。これも手放せません。

  主人の家のお仏壇には義母と私で調えた仏具が収められています。主人の実家のお墓と私の実家の墓は共に市内ですが、車で2時間位離れています。

 私のような悩みを抱えた方はたくさんいらっしゃるはずです。まだ,私たち夫婦が元気なうちに,この2つのお仏壇と2つのお墓の行方を決めなくてはなりません。

 母が逝って2年が過ぎました。介護の事,老人施設の事、仏事の事,少しずつ書き始めようと思っています。

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私の父と母です。

2015年08月13日 07時23分49秒 | 母のこと

雨,28度、87%

 今日はお盆の入り,父は40数回目のお盆、母は2回目のお盆です。

 昨年は母の初盆でした。初盆、一周忌共に家の改築が大幅に遅れてしまい,家に迎える事が出来ませんでした。私の実家,今は私の家ですが、改築を決めたのは2年前の年明け,家に残す家具や焼き物などを倉庫に運びました。お仏壇も倉庫に入れましたが,流石にお位牌と仏像だけは倉庫に入れる事が出来ません。そこで,施設に預かって頂いている母の部屋に持って行きました。個室です。入居者の中には,小さなお仏壇を部屋においていらっしゃる人もあるそうです。母にはお位牌を持って来た事を告げました。有り合わせの木箱に布を巻いていれただけです。身の回りお世話をして下さる方にも位牌ですからと告げました。2年前の5月の事です。

 2月に一度は,母の様子を見るために帰国します。7月に帰った時もいつもと変わらぬ様子です。空港から真っ直ぐ母の施設に向かいます。帰る時も母を見舞って空港に向かいます。いつもは私が出て行く時は起きている母でしたが,この最後に母を見舞った時は,寝ていました。そおっと,重い引き戸を閉めて母のいる部屋を後にしました。母が逝ったのは、その8月の16日の未明です。

 葬式を済ませ,母の部屋の後片付けに施設に出向きました。後片付けといっても衣服などいりません。幾つか持ち込んだ家具も施設において行くつもりです。ただ,お位牌と仏像だけは一刻でも早くと思います。2年前のお盆の入り,つまり2年前の今日,今年は母の部屋に父は帰って行くのねと、とてもおおらかな気持ちになっていました。母が施設に入って以来、誰もいない家でお盆を父は過ごしていたはずです。そう思うと,施設の母の部屋の方が余程好ましい。

 その8月15日から16日に日付が変わろうとする頃,息子から電話が入りました。母の様子がおかしく、病院に搬送中だと言います。息子からの次の電話があるまで、暗い部屋でベットに横になり思いました。お盆で帰って来た父が母を連れて行ってくれたんだなあ。母は父に連れられて旅立ちました。お位牌を持ち込んで僅か3ヶ月あとのことでした。

 昨年は初盆も一周忌も家で迎えてやる事が出来ませんでした。やっと仏壇も元の場所に納まりました。お位牌もいつもの場所に入りました。今日は,父と母が初めて一緒にお盆で帰って来てくれる日です。きれいになった家を喜んでくれるでしょうか。

 父母の写る写真を急に見たくなったのは2日前。大きな写真箱から出してきました。この写真一時期は母が持ち回っていましたから,私も度々目にしていた写真です。父と母,そして大口を開けて笑っている私と猫のペペ。この写真の裏には、 母の手で住所や電話番号が書かれています。落とした時のためでしょう。黒の字以外に青の字で志奈、一郎,ペペ、2歳2ヶ月まなと書かれています。もう何度も目にして来たこの裏書きです。ただ漫然と見ていました。ところが、青い字で書かれた「まな」の「ま」の字が、あら,母の「ま」の字ではありません。裏の青い字は,父が書いたのだと初めて気付きました。この写真の表も裏も父と母が一緒です。

 どうか、今日は無事に家に辿り着いて下さい。お仏壇の戸は全開にしてありますよ。

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マリーローランサン エッチング

2015年08月10日 06時18分34秒 | 母のこと

雨、25度、93%

 我が家のどの部屋の壁にも,私がチクチクと刺したデンマークのクロスステッチの額が飾られています。僅かに大きな地図の額が2枚と絵画展のポスターの額が2枚、そして,小さなマリーローランサンのエッチングが2点が刺繍以外の額です。

 マリーローランサンが一躍日本でブームになったのは,息子が生まれてからの事,1970年代の終わりから1980年初めにかけての事だったと記憶しています。ローランサン独特の女性を水彩で淡く描いた絵など目にしない日は無いほど,広告などにも使われて,マリーローランサンの美術館までオープンしました。

 マリーローランサンにいたく傾倒したのは,私の母でした。その頃、私たち家族は東京に住んでいました。孫に会うために月に一度は福岡から上京して来る母です。きちんとジパンシーのスーツを着て来ることもあれば、フィラの輸入物のスポーツウェアーに身を包んで来る事もありました。犬たちを置いて来ていますから,そんなに長い滞在ではありません。幼稚園前の息子を連れて,多摩川の土手をどこまでも散歩したり、時には,東京から一足伸ばして,信州,新潟まで行く事もありました。

 そんな折,やって来るなり「マリーローランサンの絵を買って帰りたい。」と言ったことがありました。言うにはそれなりの心算があるあらしく,銀座のどこそこの画廊に行くといいます。1980年頃の銀座の画廊,今の様な銀座ではありません。まだ古い小さなビルが建ち並ぶ銀座の裏通りです。2階にあるというその画廊には,狭い階段を上りました。暑い夏でした。階段を先に上がる母のヨシノヤの靴ばかりがなぜか記憶に残っています。

 上り切った空間もやはり昔ながらの画廊です。先客を相手する画廊のご主人は、何やら癖のありそうな人に感じました。水彩、油絵が少々、エッチング,小さな彫刻。母は最初から淡い水彩が欲しかったと思います。付き添った私ですが,さほど,ローランサンに興味はありません。ただエッチングが昔から好きです。水彩いを1枚買いたいという母に,エッチングを2枚と勧めたのは,私だったように思います。もちろん母の予算内の事です。カードで支払いなんてまだまだ先の時代の事,確かお札をしっかりと持って行きました。

 30数年経っても色褪せない,金の額に入ったエッチング2枚は、母が大事に抱いて福岡に持ち帰りました。宅配便なんてまだなかった頃です。福岡に帰れば小さなエッチングを眺めます。よく書く事ですが,母はものの手入れをしない人でした。掃除もしない人でした。帰る度に,薄汚れて行くこの2枚のエッチングを見るのは辛いものがりました。ある時見ると,エッチングの周りの布の額装部分に滲みが入っています。どんなにがっかりした事か。でも,私のものではありません。

 香港に来て10年が過ぎた頃、思い切って,この額を頂戴と言ってみました。いくら一人娘でも,ものを頂く時には気を使います。2枚一度にもらったわけではありません。一枚一枚,それこそ大事に私が持って香港に帰りました。

 初めの一枚、   次が、 

 金縁の額は何度拭いても薄く雑巾が汚れるほどでした。ガラスは,すぐにピカピカに,でも,未だに額装の布の滲みは取れません。

 我が家の玄関のドアを開けると、まず目の前に品よく見えるのがこの2枚です。もう我が家にやって来てそろそろ20年。母の家にいた時間より長くなりました。私のものです。

 母が逝って,母の持ち物で残したものは,焼き物と家具、一枚だけジパンシーの黒のスーツ。着物、洋服は全て捨てました。食器も殆ど,本も捨てました。母の手になる字の書かれたものも一枚も残しませんでした。

 この2枚のエッチングを見ていると、ちょうど今の私と同じ年の頃の母の後ろ姿を思い出します。ジパンシーの服がよく似あっていました。派手な色合いの服もよく着こなしていました。残したものは殆どありません。この2枚の額の額装をいつか替えるつもりでいました。最近になって思います、この滲みもまた母のものだと。滲みのまま持つつもりです。やはり,この2枚のローランサン、母のものです。

 

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母のブローチ

2014年06月05日 05時41分19秒 | 母のこと

晴れ、29度、87%

 実家の荷物の整理をはじめたのは、4年ほど前、母を施設に預かっていただいた時から始まりました。私は香港にいますから、母の見舞いにふた月に一度帰た時、3、4日するのがせいぜいでした。最初の一年は、実は途方にくれて何処から手を付けたら良いかも分からぬほどの乱雑ぶり。掃除もしない人でしたので、積年の埃との戦いでした。以前書いたことがありますが、身につけるもの、服や靴や帽子にはお金をかけた母です。時計はしない、高価な貴金属はありませんでした。服はどんなに高価でも私とは全く違う好みのものばかり、結局、母の身につけていたもので私が持ち帰ったのは、一着のスーツとブローチだけでした。

 香港島のセントラルから少し上がるとハリウッドロードがあります。この道筋は、ほんの十年ほど前までは、ペルシャ絨毯と中国の骨董を扱うお店ばかり並んでいました。今では、洒落たレストランの町になってしまいました。それでも、数軒の骨董屋が残っています。何分にも我が家から近いので、市場の帰りにふらりと覗くこと屢々です。今年のまだ春早い頃、一軒の店に桐の和ダンスがショーウィンドーに出ています。ここのオーナーは、すでに他界していますが、この店を開く50年ほど前には日本にもいたことがあるアメリカ人です。店にいた時は日本に居た時のことをよく話してくれました。今は、息子さんが店を継いでいます。桐のタンスの値段があまりにも安いので、ちょっと気持ちが動いて話をします。桐の和ダンスを香港で買うなんて変な話です。帰り際、小さなガラスのケースの中に、私が持ち帰った母のブローチとそっくりなブローチを見つけました。ブローチの謂れを聞くと、中央の翡翠は、昔の高官の冠の飾りだというのです。確かに翡翠には細かい彫りが施されています。翡翠は古い物で、それをアレンジしたものだと言います。家に帰り、出して来て手に取りました。私は、母がいつ何処でこれを手に入れたか知りません。母の持ち物に興味がなかったからですが、母がこのブローチを好きでよくしていたのは覚えています。そして、よく似合っていました。

 2日ほど前、セントラルのビルの中にある骨董屋の前を通りました。ここは、小物を得意とする店です。ごちゃごちゃとディスプレイされているショーウィンドーの隅に又しても、同じようなブローチを見つけました。この店とはあまり親しくありませんが、店の人にブローチの謂れを尋ねました。やはり、翡翠は随分古い物で、周りに半奇石をあしらったものだということです。この翡翠は、一時期、ヨーローッパにたくさん流出したのだともおっしゃいます。家に帰り、今一度このブローチを手に取りました。裏にはシルバ−と英語で書かれている以外、何のシグニチャーもありません。この母のブローチは、骨董屋で見たふたつよりやや大きく、周りのシルバ−の細工が凝っています。骨董屋のおじさんの言葉に甘えて、今度母のブローチを見てもらいに行きます。

 いろんな服に合わせますが、私にはどうも似合いません。きっと、母がたまには手に取ってみて欲しいと言っているようです。

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帽子

2012年10月21日 06時10分50秒 | 母のこと

晴れ、21度、81%

 実家で、一人の生活が出来なくなった母を施設に預かってもらったのは昨年の一月の事でした。以来、一人っ子の私は2月に一度、福岡に行きます。母の顔を見、実家の荷物の整理をするためです。実家の整理と言っても、途方もない量の片付けが必要でした。実家を離れて35年、どこに何があるかも解りません。片付け、掃除をしない母です。どこから手を付けていいのやら、それすら、解らない有様でした。

 今年の6月に帰った時の事です。外から見れば何が入っているか一目瞭然、帽子箱がワードローブの上にありました。何が入ってるか解っているので、ずっと手付かずでしたが、普通の帽子箱より大きいので下ろしてみました。この箱、直径が60センチほどです。下の四角い箱は1メーター四方。

中には、    こんな帽子が入っていました。そういえば、20年ほど前、帽子デザイナーの平田暁夫さんの元で永く勤めた方に、帽子を作ってもらっていると聞いた覚えがあります。母の服など興味の無い私は、聞き流しただけでした。この箱の下のワードローブを開けると、どの服に合わせて作った帽子か解ります。これを見た時、私の胸の中、怒りと恥ずかしさで一杯でした。何のためにこんな帽子を誂えたのか、金銭感覚に対する怒りです。こんな帽子を作った人の娘である事の恥ずかしさです。当然、処分するつもりでした。

 先日の帰国の折は、東京から息子と彼女も手伝いに来てくれました。笑い話にでもと思い、彼女にこの帽子を見せました。色の白い、細面のお嬢さんです。そうだわ、良かったら、好きな帽子持って行って、と私。鏡の前で帽子をかぶる彼女を見ていました。ところが、どの帽子も小さくてかぶる事が出来ません。頭の小さな母に誂えたものだというのを、忘れていました。ふと、いままで手にとる事も無かった帽子をひとつ、私がかぶってみました。何のためらいも無く頭に納まります。この瞬間、この4ヶ月私の胸の内にあった、怒りや恥ずかしさが、切ない気持ちに変わりました。

 この、頭周りの小さな帽子をかぶる事が出来る人は、少ないはずです。今は、その切ない気持ちを抑えて、やはり私の趣味でないこの帽子たちを始末するつもりでいます。

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